"彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。"
ローマ人への手紙 13章4節
聖書において、行政府が剣を帯びていることについて一定の同意があると考えられます。この剣とは、文字通りの刀などの刃物の武器にとどまらず、現代における警察官の拳銃をも含む武器というふうに適用できるでしょう。
この武器も含めて必要悪として、行政府には神様によって特別にその権威が与えられていると言えるでしょう。
"人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。"
ローマ人への手紙 13章1節
だから行政府は神によって与えられた権威を正しく用いて、この世に悪が蔓延らないようにしなければなりません。
では、他国もしくは、それに相当する大きな勢力が軍事侵攻してきた場合、その剣たる武力をもって相手を打ちまかせても良いのでしょうか。というのも、現在、この世界において地球規模の一体性のある政府はなく、多くの国々がそれぞれの利権の中でそれぞれの軍事力という剣をもち、それぞれの理由で使用するからです。
つまり、神様が権威を与えている行政府が乱立している中で、誰が他国による軍事侵攻を悪とみなし、それに対して正義の剣を行使できるでしょうか。それぞれの利権がからみ、いつも、常に正しい判断ができるとは考えられないからです。そして、国家間は基本的に並列であり、上級組織が存在しないからです。国際連合はある程度のとりまとめはできても、国際紛争をさばくことは常任理事国が今のままでは難しいでしょう。
日本も、おそらく最大限の努力をしながら自衛隊を運用していると考えられます。しかし、その防衛力の増強をどこまで善として、どこから悪になるのか、その見極めは非常に難しいと言わざるを得ません。
かつて自衛隊の存在は、警察官の拳銃のように腰にぶら下げているだけで良いようなものでした。警察官の拳銃とは、日本の警察官の拳銃という意味ですが、その日本の警察官の拳銃はかつて、携行はしても使用することは、その警察官の将来を失うほど、実は使用してはならないほど、形だけの抑止力オンリーの装備でした。
自衛隊も同様で、防衛装備を整えつつもその運用については、法整備もされておらず、まさに所持しているだけの、抑止力としてのお飾りのようなものでした。しかし、昨今、それでは意味がないことが実感できるほどに、外国からの脅威が現実味を帯びて来ています。
それは、中国の東南アジアへの進出やロシアのウクライナ侵攻が対岸の火事では済まされず、その飛び火がいつ飛んでくるかわからない情勢となっているからです。そこから実際に交戦状態になることを前提とした備えとしての軍事力を持つことへと考え方が変わってきているということです。
そのため自衛隊も年々、変化しつつあります。ここに掲載した新聞の切り抜きはその一例です。自衛隊は実際に戦う組織として、変貌を遂げてきています。台湾有事等を前提にした島嶼防衛は、以前のソ連の脅威に対していた時代よりも切実な問題として意識されており、陸上自衛隊の水陸機動部隊(海兵部隊)の創設は、その顕著な例です。
同様に警察もまたその拳銃取り扱いが徐々に変えられて、現在は腰にぶら下げているだけのものではなく、正しく使用されてなんぼの剣としての用をなしていると言えます。
最近のニュースでも警察官が発砲したという記事があっても、適正に使用されていれば、それによって警察官が処分されてしまうことはありません。つまり使うための武器として用いられているということです。
では、そのことを自衛隊にも適用していく。それが今日までの防衛力増強であり自衛隊の変貌と言えるでしょう。
では、その軍事力を私たちはどのように聖書的観点から見ていくべきでしょうか。それが、益々難しくなっている時代へと突入しているなと感じる今日この頃です。