のりさん牧師のブログ

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「御心が行われるように」マルコの福音書14章26〜42節

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マルコの福音書 14章26~42節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1. みな、つまずきます

"26そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。
27イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。
28しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
29すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
30イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
31ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。

 

  イエスと弟子たちは、賛美をもって最後の晩餐を終えてオリーブ山へでかけました。ルカは「いつものように」(ルカ22:39)と言っているくらい、この場所はある意味、イエスの弟子たちにとって特別な場所だったのかも知れません。

  しかし、そこでイエスが語られたのは、27節。

「あなたがたはみな、つまずきます。」

  このことばにまず反応したのはペテロでした。その言い草は、自分だけは最後まで主について行きますという自信に満ちた答えでした。それを31節では更に強く「死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と宣言しました。それに続いて、他の弟子たちも同じことを口にしたと聖書は証言しています。

  信仰生活は私たちの気力や気合いで続けるものではありません。誰一人として、「わたしは大丈夫」とは言えません。それは、信仰生活の主導権は私たちにはないからです。そこを履き違えると、信仰生活は続きません。常に神の主権を認めて、私たちの弱さにこそ主が働かれることを信じるなら、その信仰生活は祝福されます。ペテロも他の弟子たちも、まだそのことは理解できていませんでした。だからイエスはこの状況の中で、神の教会が始まる前に弟子たちにつまずきを経験させて、主イエスなしには何もできない者であることを教えたのです

 

2.  ゲツセマネの園

32さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
33そして、ペテロ、ヤコブヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
37イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
38誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
39イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」"

  ゲツセマネというところに来てからは、弟子三名を連れて祈りに入られました。ところが、連れて来た三人に対しては、「ここで座っていなさい」でした。特に一緒に祈るわけでもなく、イエスご自身は祈るが、弟子たちには、少し離れたところで「座っていなさい」とは、いったいどういうことでしょう。

  これもまたイエスの弟子たちに対する教育だったのではないかと推察できます。つまり、師であるイエスが神のさばきを目の前にして、どう祈るのか。いのちの危険だけではない、何よりも天のお父様から断絶されることの悲しみです。そのことをイエスはこう仰せられます。

 

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」

 

 これが、天地創造の初めから一緒のおられた父なる神と子なる神、また唯一絶対の神と完全な人としての義人イエスにおける、あり得ない出来事に対する悲しみです。

  本来ならば三位一体の神の中で、そこから御子がちぎられて陰府に落とされる。それは、もはや御子だけの痛みではない、父なる神も聖霊も痛みを覚えるのです。そこにイエスは深い悲しみを覚え、悶え苦しむのです。そして、こう祈ります。

 

「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 

  父なる神の全能性に訴えて、「あなたは何でもおできになります」と告白し、そうであるなら、これから起こる苦しみの出来事を中止にしてくださいと祈ります。しかし、大切なことは、あの山上の教えでイエスご自身が仰ったように、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることです。

  自分の考え、自分の計画、自分の予定ではなく、神の御心、神の計画、神の予定なのです。

 

「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 

  私たちは、神の御心は絶対に良いことばかりに決まっていると思っていないでしょうか?

  ところが、イエスに下された十字架刑は、神の御心ではありましたが、決して嬉しいことではありませんでした。それは、避けたいことの一つです。

  これは、イエスだけのことではなく、イエスを信じる私たちについても言えることではないでしょうか。それは、この地上にあって、御心がそのまま全て嬉しいことや幸せなことばかりではないということです。

  しかし、御心がなるようにという祈りは続けていくのです。それは、その先にある神の栄光がどれほど美しく、どれほど価値のあることかを体験するためだからです。

 

  一時的な痛みや苦しみは、ある意味通らなければなりません。しかし、神の御心にあっては、その悲しみや苦しみがそれで終わらないことも忘れてはいけません。 

  主イエスは、ご自分の究極の祈りの中で、御心を求めることを実践して、弟子たちに見せようとしたのでした。ところが、弟子たちは眠りこけてしまい、その様子をきちんと見ているものはいませんでした。

 

 しかし、今日も主は私たちが、御心を求めるように働き、そう祈るよう私たちに教えています。たとえそれが、どんなに辛くてもです。そこには、神に約束された栄光の義の冠が待っているからです。だから、日々主を愛し、聖霊によって日々新しく造り替えられて、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えていただこうではありませんか。

 

"神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、
一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、
神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。
神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。"
テサロニケ人への手紙 第一 4章3~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

  

 

「新しい契約」マルコの福音書14章12〜25節

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マルコの福音書 14章12~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

  レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は有名な作品の一つです。しかし、新約聖書の時代はこのようなテーブル席に、それぞれが椅子に座るスタイルではありませんでした。

18節に「彼らが席に着いて食事をしているとき」という翻訳が、おそらくそのような誤解を招いているとも言えます。ここは、原語的には「横たわって食事をしているとき」と言う意味だからです。当時ユダヤでは椅子席ではなく、寝そべって食事をするのが普通でした。

 

1.過越の食事の準備

"12種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
13イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。
14そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。
15すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
16弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。

 

  弟子たちは全員ユダヤ人ですから、過越の食事をする習慣がありました。ですから、弟子たちの方から、どこでその食事をすべきか提案がありました。しかし、イエスは既にイエスの方でセッティングしてあるということを話されました。あのエルサレム入城で使うロバの時のように、そこに不思議な神の備えがあったのです。

  この晩餐は、のちにパン裂き(聖餐)として、キリスト教会における聖礼典となりましたが、この晩餐、つまりパン裂きの主催者がどなたかということがここで表されていると考えられます。聖餐式を主の食卓とも呼びますが、それは主が開かれる、主の権威における、主の食卓なのです。そこに、罪人が招かれることに、この新しい契約の意味があります。

  私たちも、この主の食卓に招かれていることを再度確認しなければなりません。また、初代教会においては、礼拝の中心がパン裂きであったことを考えると、それは、礼拝そのものもそうです。私が礼拝に来ているのではない。主が招いてくださっているから、礼拝することができるのです。この聖なる招きがあって私たちが主の御許に来ることが許されていることをまず覚えたいものです。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」ヨハネ福音書 15章16節

 2. まさか、私ではないでしょう

17夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。
18そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
19弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」
20イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。
21人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

 

  ここで、裏切りがあることが予告されます。そのイエスのことばに、弟子たち皆んなが、口々に「まさか、私ではないでしょう」と言いました。それは、誰も自分が裏切るとは思っていなかったからです。その中に既にイエスを裏切っていた者はいました。その裏切り者はもちろん、銀貨30枚でイエスを祭司長たちに売ったユダです。しかし、イエスがこの席でこの予告をなさった理由がいくつか考えられますが、その第一の理由は、この場でユダが裏切りの罪を悔い改め、このイエスの弟子仲間に留まることだったと言えます。イエスは良い羊飼いです。羊飼いは羊のために命を捨てようとしているのに、羊の方から群れを去ることは、羊飼いにとって苦痛以外のなにものでもありません。

  「まさか、私ではないでしょう」この言葉を語った中にユダがいたことを、主イエスは悲しまれたでしょう。ですから、イエスの鉢にパンを浸して食べる者、イエスと同じ釜の飯を食べているあなたが、今帰って来ることを待っている主の姿がそこにあるのです。その悲しみは、21節の言葉に表されています。

 

「21人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

 

  人が生まれることは、神の領域であると言えます。しかし、イエスはあえて、裏切ることを選び続けてしまうなら、命が神に与えられて母の胎に置かれ、そこから生まれ出ることすら、初めからなかった方が良かったと言われる。それはユダにいのちを与えた神の嘆きではないでしょうか。このイエスの心の痛みが、益々、過越の子羊としてのご自身を、十字架に向かわせたのではないでしょうか。

 

3. 多くの人のために流される

22さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
23また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
24イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
25まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」"

  

  そのユダの裏切りによって、更にイエスの贖いへの使命は悲しみのうちに高まったと言えます。それは、なおも悔い改めを待つ意味でも、この新しい契約の意味を弟子たちに教える必要があったからです。

  イエスは、悲しみを覚えつつもパンをとって、神をほめたたえました。そして、これから十字架に釘付けにされるご自身のからだとパンを重ねて、弟子たちに取ってたべなさいと命じられ、イエスを信じて、イエスのいのちを自分のうちに受け入れることを願われたのです。

  ぶどう酒もまた同じように分けられ、十字架上で多くの人のために流される屠られた子羊としてのご自分の血を受けよと願われたのです。

   それは、ここにモーセのシナイ契約の成就があり、神を愛し人を愛するイエスと同じ姿に向かわせる永遠のいのちの歩みが、そこにあるからです。それは、神の国まで続く神の救いの恵みです。

 

  私たちはこの救いに招かれているのです。今日、神はあなたを、この祝福の食卓に、この恵みの御座に招いておられます。頑なな心を捨て、悔い改めて新しい契約への招き、主の御声に応えてまいりましょう。

 


1,主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2,主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
3,主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

詩篇23篇1〜3節

「良いことをしてくれたのです」マルコの福音書14章1〜11節

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◎マルコの福音書 14章1~11節

"1過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。
2彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。
3さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
6すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
7貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
8彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
9まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
10さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。
11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。"

 

  今日の記事は、マタイ、マルコ、ヨハネに記されています。ルカは一切触れておらず、過越の祭を控えて、いきなりユダの裏切りの話しになります。ヨハネでは、この「ある女の人」がベタニヤのマリヤであることを明らかにしています。しかも、今日の5節の言葉をイスカリオテ・ユダが言ったこととして記録しています。

  他の福音書からの情報も大切ですが、マルコは何を伝えようとしているのか。その視点で神様がマルコに働いて書き残したところから、みことばに聞いていきたいと思います。

 

1.二人の人

  祭司長や律法学者たちは、イエスを逮捕して殺そうという思いで一致していました。それは、すなわちイエスの十字架刑が近づいたということです。何も罪を犯していないお方が、殺されなければならない。祭司長たちは、イエスへの妬みや憎しみによって殺そうとしていましたが、神の計画はその彼らの思惑を逆手にとって、その呪いの出来事を救いの恵みの業とすることでした。

 ですから、この1〜11節には、そのイエスの十字架を控えて、イエスに対する二人の人にスポットが当てられています。

 その一人は「ある女の人」です。このイエスのために高価なナルドの香油を一気に献げました。もう一人は、イスカリオテ・ユダです。彼はこのイエスを祭司長たちに売り渡すために行動を起こします。

 この二人の姿は、私たちの姿でもあるのかも知れません。

 

  クリスチャンは、イエスの弟子であり、神の子どもとされた神の家族とも言えます。それはイエスを愛し、そのイエスを通して神を知り神を愛します。 ですから、時間も力もお金も、全てをイエスのために、すなわち神のために献げます。日曜日は、朝早く起きて礼拝に備えて、電車に乗ったり車を使って、また歩いて教会に集まり、そこで1〜2時間礼拝をささげ、午後からも教会の奉仕に関わるかも知れません。週日も、祈り会などに出席するかも知れません。

  その生き方は、まさにここに登場する「ある女の人」と同じです。それは、ある人から見たら、そこに使う時間やお金がもったいないとか、労力が無駄になるとか言われるからです。

  しかし、臆することはありません。この女性を主イエスは賞賛されたからです。この現場にいた人たちの価値観は、イエスに高価な香油を使うことに「無駄にした」と言ったことに表されています。それは、イエスに使う時間もお金も力も無駄だと言っているのと同じです。

  イエスの弟子がそんな価値観ではいけません。神のためにささげる、どんな小さなことも神は喜んでくださいます。それは、前回学んだレプタ2枚をささげたやもめにも通じます。

 しかし、一方ユダのような生き方もあるかもしれません。一見、イエスに従い忠実なように見せかけて、内実はイエスを裏切る者です。いつも自分自身を吟味していく必要を覚えます。

  

  私たちも神の中に飛び込むことこそ、本来の神に造られたもの、特にイエスの贖いによって救われた者の大切な生き方です。そのことをイエスは「わたしのために、良いことをしてくれたのです」と仰せられました。

 

2.貧しい人に

 この一連の出来事の中で、高価な香油がささげられたことに腹を立てた人たちは、そのお金があったら「貧しい人たちに施しができたのに」といかにも正論だと言わんばかりに、それを理由に憤慨しました。

  しかし、イエスは「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。」と仰せられました。それは、これから十字架に向かい救いの業を行おうとしている神の子羊を前にして、何を優先するのかという、キリストの弟子としての価値観に問うているのです。

  確かに貧しい人々に施すことは、大切でありそれは「良いこと」です。でも、ここでイエスが言いたいことは、イエスと貧しい人々を両天秤にかけることではなく、本当に貧しい人々はまず自分であることに気づかなければならないということです。

  だから貧しい人々である私たちは、当然いつも一緒にいます。自分自身ですから。しかし、その貧しい者のために十字架にかかり、天の御国を開いてくださるために、今、まさに十字架に向かっている目の前の主を愛するなら、ここで金の計算をして、さも信仰深そうに、また善人ぶっても、それは表面的なことであって、内実はイエスのことを何も知らないということになるのです。

  イエスの弟子はまず自分自身が貧しい者である現実を知らなければなりません。お金の有る無し、お金を土台にした価値観はまさに貧しい者の価値観だからです。

  結局、この憤慨した中にいたイスカリオテ・ユダは、イエスを売り渡すために祭司長たちに会いに行きました。そして、イエスを三百デナリどころか、たった銀貨30枚で売るのです。貧しい者はお金に執着し、神への愛も希望も見失います。

  しかし、そういう自分を認め、イエスに告白して明け渡すなら、そこから解放されて自由にされます。お金では買えない。真の自由、真の信仰、真の献身がそこにあるからです。

 

"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"
マタイの福音書 5章3節

  イエスの価値観は一貫しています。私たちもこのイエスの価値観を身に付けたいと思います。まず貧しい自分に気づき、認め、イエスに告白しましょう。その上で、イエスの贖いのゆえに罪が赦され、聖霊を受けてイエスのようにされるからです。そのとき、イエスがそうだったように、心においても、また生活においても貧しい人たちの助けができるようになります。

  つまり、自分の貧しさに気づかされ、イエスに対する「ある女の人」の計算のない(下心がない)献身こそ、彼らが言う「貧しい人たち」への施しに必要なキリストの弟子の姿であったのです。それが主イエスに対する「良いこと」(6節)であり、同時に貧しい人々に対する「良いこと」(7節)になるのです。

  

 

 

 

「イエスは…見ておられた」マルコの福音書12章38〜44節

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"38イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
39会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
40また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
41それから、イエス献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
42そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
44皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」"
マルコの福音書 12章38~44節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1.献金は献身

  献身者という言葉があります。現代のキリスト教会では、一般的に狭義においては、カトリックだと司祭や修道士など、プロテスタント教会では牧師や宣教師などの神と教会に仕える専任者である教師のことを指すと思います。

  イエス在世の当時では、やはり「律法学者たち」(38)などの宗教指導者がそうだったと言えます。神の律法を教える教師であり学者ですから、みんなから「先生(ラビ)」と呼ばれ、ユダヤ社会においては一目も二目も置かれていました。

  今日のイエスのお話は、二種類の人たちの献身の違い、つまり一見献身者と言われる律法学者よりも、みんなから見下され、実際にも貧しく乏しい、(当時の常識ではむしろ祝福されていない)やもめの方が神に喜ばれる理由は何かということです。

  いくら祈りが上手で、服装もそれらしく整え、教師らしく振舞っても、そこに神への献身がないなら、その振る舞いは自分に対する称賛や栄誉を求めているだけであり、それを神は喜ばれないということをイエスは語られているのです。

  それよりも、むしろ貧しく、無力で、社会的にも価値がないと思われている人でも、生活費の全てを神にささげるような、献身を神は喜ばれるということです。

  エスは、やもめがささげるところを献金箱の前に座って見ておられました。(41)

  このやもめは「持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れ」ました。それは、つまり自分のいのちを神に預けたということです。そのお金が明日の命を繋ぐ食べ物を買うためには必須だったはずです。しかし、彼女は命を繋ぐのはお金ではなく神であることを、この献金という行為を通して告白したということです。

 

2.献身には痛みが伴う〜イエスの眼差し

  そこには、大きな心の痛みがあったでしょう。献身とは何の痛みもなくささげることだと言うのを時々聞きますが、それは間違っていると言わざるを得ません。本当の献身には必ず痛みが伴うものです。アブラハムがイサクをささげるときに心に痛みを覚えたように、またイエスご自身も十字架にかかる前に、苦しみ悶えて父なる神に祈ったように、献身者にはいつもささげる痛みがあるのです。

  しかし「律法学者たち」には、そんな痛みを覚えることとは程遠く、ただ人から誉められたい、いい人だと思われたい。立派な先生だと尊敬されたい思いで、神に全てをささげている振りをしているとイエスは指摘しているのです。

  イエスは、やもめに対してだけ見ておられるのではありません。この律法学者たち、パリサイ派の人たち、ヘロデ党の人たち、サドカイ派の人たちをも、そして、現代の牧師たち、またクリスチャンである私たちをも、いつも、どんな信仰か、その献身はどんなものかをご覧になっているのです。

  それは監視の目ではありません。ひとりひとりを憐れむ目です。イエスは、いつも群衆をご覧なっては「かわいそうに」思われたと福音書に記されています。それは、上から目線の「かわいそうに」ではなく、内臓が揺さぶられるほどに心が痛んでいることを表現しているのです。

  シモン・ペテロがイエスのことを三度、知らないと言った時、そのペテロを捉えていたのは、逮捕されつつも、失敗してしまったペテロを憐れむ主の眼差しでした。


"主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。"ルカの福音書 22章61節

 

3.へりくだって主のもとへ

  今日、主イエスはあなたのことも、その眼差しでご覧になっておられます。あなたは神に何を差し出そうとしているでしょうか。それは、自分にとって痛くもかゆくもないものを封筒に入れて、献金と書くような献身でしょうか。それとも、自分の身を削る思いで、あなたにとっての最善を尽くした献身でしょうか。

  大切なのは、格好つけず、まず神の前に裸の自分を認め、そのままで自分自身が献金箱に入る信仰です。本来なら、私たち自身をささげなければならないのです。それをお金や奉仕で表すことが信仰生活であり礼拝生活です。

  やもめが投げ入れたのはお金ではありません。やもめ自身だったのです。

  今日、あなた自身を神に投じましょう。人にではなくイエス様に、そのままの自分を明け渡して、その献身がかたちだけではなく、また人に見せるものでもなく、ただイエス様の眼差しがあることを覚えていこうではありませんか。

  イエスが求めておられる献身者は、心の貧しい者だからです。

 

"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"
マタイの福音書 5章3節

 

"キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。"
ピリピ人への手紙 2章6~8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

「あなたの神、主を愛しなさい」マルコの福音書12章28〜37節

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"28律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」
29イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
30あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
31第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
32律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。
33そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」
34イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
35イエスは宮で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、キリストをダビデの子だと言うのですか。
36ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』
37ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いていた。"
マルコの福音書 12章28~37節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1.大切な戒めとは

  昨日までのやりとりは、神の民と自負しながらも、神の御心から離れ、イエスを陥れることを企む者たちとの話でしたが、今日の箇所は、むしろ「神の国から遠くない」人について記されています。

  イエスパリサイ派、ヘロデ党、サドカイ派の人たちの難問に鮮やかにお答えになったことを見た一人の律法学者が、イエスに近づいて来て尋ねました。

 

「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」

  イエスは答えられました。

 

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
30あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
31第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

 

  このみことばは、旧約聖書申命記6:4〜5とレビ記19:18からの引用でしたが、聖書にあるすべての律法の要約でもありました。神の御子であるイエスが、その真実を明言したことは、私たちにとって大変意義深いことです。

  それは、神である主がイスラエルの歴史の中で絶えず思い、望んでいた真の信仰の心であるからです。神を愛するからこそ、このお方が唯一であるし、愛しているからこそ偶像を造らず拝みません。神を愛しているからこそ、そのお名前をみだりに唱えず、神を愛しているからこそ、安息日を守り神と交わることを第一とし、神の御前に真の安らぎを得るのです。

 同様に、神を愛する者は隣人をも愛するようになりますから、十戒で言うあとの6つの戒めを、自ずと守ることになるのです。

  これが、律法の正しい解釈であり、適用です。

  律法学者は、このイエスのお答えが自分が思っていたことと一致したので、感動して告白しました。

 

32律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。
33そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」

 

2.神を愛し隣人を愛する

  この答えに、イエスは喜ばれ、律法学者に言いました。

 

「あなたは神の国から遠くない。」

 

  大変、微妙な言い方に聞こえますが、決して彼の告白にケチをつけているわけではありません。むしろ、彼が賢く答えたことへのイエスの御心が込められた発言でした。

  それは、先ほどまでイエスを陥れようとしていた三派の人たちとは違い、この律法学者はそのようなイエスを妬むことをせず、神を愛することが何よりも先に来なければならないことを明らかにしたからです。

  これまで、形式的な礼拝を正当化してきたユダヤ人宗教者にとって、どんな全焼のいけにえよりも神を愛し隣人を愛することが優っていると断言した律法学者の発言は問題であったでしょう。

 

  しかし、神を愛し隣人を愛することこそ、私たちが救われた目的であり、理由です。律法はあくまで、神を愛するからこそ、そうせざるを得ない、神を愛するからこそ、神だけを礼拝し、神だけに仕えるための恵みの標です。

  あなたは、神を愛しているでしょうか。神はあなたとの交わりを楽しみにしておられます。形だけの信仰ではなく、愛によって交わる信仰こそ、神が求めておられる礼拝者の姿です。

  今日、神とあなたとの関係はどのようなものかチェックしてみましょう。愛によって結ばれているか点検してみましょう。

  もし惰性的な信仰生活になっているなら、もう一度、神があなたを命をかけて愛している事実に触れてみましょう。それは、愛する御子を十字架につけて殺して、そこまでして、永遠のいのちを与えようとする、その愛です。

  私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、宥めのささげものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

  私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられるからです。

 

  この完全な愛に触れるとき、私たちは、私たちのために死なれたイエスを愛し、このイエスを遣わされた父なる神を愛し、この父なる神から発しイエスによって遣わされた御霊を愛することができるのです。

   あなたの救いは、今どこに向かっているでしょうか。ぜひ、神を愛し隣人を愛するところにピントを合わせて、信仰の馳場をただ真っ直ぐに走り抜こうではありませんか。

 

"私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。"
ヤコブの手紙 2章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

「神のものは神に〜生きている者の神」マルコの福音書12章13〜27節

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"13さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。
14その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」
15イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」
16彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。
17するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。
18また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
19「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
20さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。
21次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。
22こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。
23復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」
24イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
25死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
26死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
27神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」"
マルコの福音書 12章13~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 昔「一休さん」というアニメがありました。実在した禅僧、一休宗純をほぼフィクションで描いた番組でした。とんち小僧の一休に挑む人は「そもさん」と言い、それを受ける一休さんは「せっぱ」と言って難問に答えるということが毎回ありました。そして、そのとんちが効いた答えに皆んなが驚くわけです。

  この二つのイエスに対する質問も、まさにイエスにギャフンと言わせようとする、ユダヤ人たちの作戦でした。しかし、結果的に何れもイエスの鮮やかな答えに、「そもさん側」であるユダヤ人指導者たちがギャフンと言わされたというお話になっています。

 

1.誰の肖像か(13〜17節)

  普段、仲が悪くても、同じ目的のためには手を組んだパリサイ人とヘロデ党の面々。税金を納める事が良いのか悪いのかという、イエスがどっちを選んだとしても、揚げ足をとることができる問題を投げかけました。

 納めるべきだと言えば、ローマに占領されているユダヤ人の民衆が黙っていません。つまりパリサイ人側の突っ込みどころだと言うことです。しかし、納めなくても良いと言えば、それはローマへの反逆となり、イエスローマ帝国に訴える口実になるという、ヘロデ党の思うツボです。

  しかしイエスは、デナリ銀貨を持って来させて、そのコインに刻まれているのがカエサル(皇帝)の像ならばカエサルに返しなさいと言われたのです。それには、誰も反論できませんでした。しかも、それだけではなく、神のものは神に返せとも言われたのです。

  それは更に誰も考えていなかった答えでした。税金に使う通貨に皇帝の像があるなら、それは皇帝のものなので返さねばならないでしょう。しかし、神の像のものは神に返せとは、いったいどういうことょうか?そんな神の像のコインは当時あったのでしょうか。

  そうではありません。神の像というのは、神に似せて造られたはずの私たち人間のことです。かつて神は人を創造したとき、ご自身のかたちに人を造ったと聖書に書いてあります。

 

"神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。"創世記 1章27節

  ですから、イエスは彼らの「そもさん」に答えただけでなく、彼らに対する神のメッセージ、神からの招きを語られていたのです。

  神の像(かたち=イメージ)のものは神に帰らなければならないとです。

 

  神は全ての人が帰ってくることを、放蕩息子のお父さんのように待っています。もし、神に帰るなら、つまり悔い改めてイエスを信じるなら、漏れなく聖霊が与えられて、栄光から栄光へと主の栄光を反映させながら、主と同じ姿に変えられていくと聖書は約束しています。それが神のかたちを取り戻すことになり、罪によって断絶していた神との関係が修復され、新しい神の国の国民となることができるのです。

 

2.復活はある(18〜27節)

  次に「そもさん」と言ったのはサドカイ人でした。彼らは祭司などのユダヤ社会での宗教的身分の高い人たちでしたが、重んじているのがモーセ五書だけであり、復活を信じていない人たちでした。

  彼らの復活を信じない理由として、昔からの慣習に則って兄が死にその兄の嫁を弟が受け継ぐこと(創世記38:8)を繰り返すことになれば、皆んな死んで、復活のときにその嫁が誰のものかがわからなくなり、そこに矛盾が起こるということでした。復活信仰は矛盾があり、混乱を招くと思っていたようです。

  しかし、イエスの答えは明快です。そもそも結婚自体がこの世における一時的な関係であり、神の国においては最早、その婚姻関係がなくなることを明らかにされました。そして、彼らが重んじているモーセ五書の一つである出エジプト記の燃える柴のところから、神が仰せられたことば自体が復活について名言していることを読み取るように指摘したのでした。それは、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と主が仰せられたのは、既に死んだはずの彼らが、実は神の御許で生きており、かの日にはよみがえる証しであると言われたのです。

 

  この二つの難問に対するイエスの答えには繋がりがあります。

  神の前に悔い改めて、イエスを受けいれ、神に立ち返るなら、つまりイエスが言われたように、神のかたちに造られた者として、神に帰るなら、たとえこの地上のからだが朽ちても、終わりの日には新しいからだが与えられて、復活に与るということです。

  

  あなたも、この救いに招かれているのです。イエスのこの問答は、単にイエスが賢いお方であることだけを記しているわけではないのです。また税金を納めるべきことだけでもありません。このユダヤ人たちとの姑息な質問に対する応答を通してもなお、イエスは彼らを、そして、あなたを救いに招いているのです。

  私たちが罪を悔い改め、神のかたちに造られたものとして、イエスを信じ神に帰るなら、その歪んだ神のかたちを聖霊が新たに造り変えてくださって、御子イエスと同じ姿に変えてくださり、更に終わりの日には、完全な新しいからだが与えられてよみがえり、主とともに永遠に新しい完成された神の国の国民とされるのです。

 

  今日、もう一度、イエスの招きに答え、神に立ち帰り、罪の赦しをいただいて、神のかたちを、その御子の似姿に回復させていただこうではありませんか。

 

"御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。"
コロサイ人への手紙 1章15節

"私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"コリント人への手紙 第二 3章18節

"愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。"ヨハネの手紙 第一 3章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

「捨てた石が要石に」マルコの福音書12章1〜12節

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"1それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
2収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。
3ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。
4そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。
5また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
6しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
7すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』
8そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
9ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。
10あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
11これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」
12彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。"
マルコの福音書 12章1~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

"「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」"マルコの福音書 12章10~11節

これは、 イエス・キリスト旧約聖書詩篇118:22〜23から引用したものです。

 

"家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。"  詩篇 118篇22~23節

 

  家を建てる者たちとは、ユダヤ人のことで、神の国を建て上げるために神様によって選ばれ、期待されていた人たちのことです。そのユダヤ人たちは、古来、神様が遣わした預言者たちを侮辱し、迫害してきた歴史があります。

そのことを、このぶどう園の主人のたとえで語っているのです。

  このたとえの中で、「ある人」が神であり、「農夫」はユダヤ人たち、すなわち「家を建てる者たち」です。

  ある人が自分が経営するぶどう園にしもべを遣わして、収穫したものを受け取りに行かせました。しかし、農夫たちは「しもべの頭を叩き、辱めて」とあるように、ユダヤ人たちは、これまで神から立てられた預言者たちに侮辱を与えて迫害し、ときには殺しました。

  それでも神は、ご自身と瓜二つの第二位格の御子を遣わせば受け入れてもらえるだろうと思い、イエス・キリストを遣わしましたが、彼もまた殺されました。

 たとえの中では、これを語っているイエスはまだ殺されてはいませんでしたが、このたとえの特徴は、これから起こることの預言が含まれているということです。ですから、すでにこのあとの歴史を知っている私たちにとっては、わかりやすいたとえではないかと思います。

 しかし、このたとえを聞いたユダヤ人の指導者たちは、まさに農夫が自分たちのことであると理解して、益々、イエスを殺す気持ちになっていったと考えられます。12節

 

  ユダヤ人たちは、自分たちこそ神の収穫そのもの、神のぶどう園を支配していると自負していました。それは、神によって特別に選ばれていると、自分の功績のように誇っていたからです。

  しかし神の御心は、ぶどう園のぶどうの収穫を喜ぶことであり、それを農夫たちであるユダヤ人たちと共有することでした。そのために、このぶどう園の主人である神は、「垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た」のです。つまり、段取りを全て整えて、ぶどう園の管理をユダヤ人たちに任せたということです。

  だから、ユダヤ人たちは神の御心に相応しく、任された神の国建設に誠実に、へりくだって関わるべきでした。しかし、収穫のために遣わされた預言者たちを迫害したのです。それだけでなく、神と瓜二つの御子さえも殺して、神の主権を侵し、その罪の上塗りを続けてしまいました。

  ところが、この彼らの暴挙さえも、神はご自身の救いのご計画に取り込み、彼らによって殺された御子こそ、その彼らの罪の贖いの子羊とされたのです。

  彼らに捨てられた、彼らにとって価値がないとされたその石ころこそ、神によって神の国建設にとって欠かせない礎石とされたということです。ここに神の知恵があります。神の恵みの逆転があります。

  

"神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。"
コリント人への手紙 第一 1章21節

  今、私たちに与えられている救いは、神の知恵によるものです。人々が価値ないもの、すてるべきものとして、見向きもしないもの、または、毛嫌いするこのキリストこそ、私、そして、あなたにとってかけがえのないお方なのです。

  イエスご自身もこう言われました。

"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。"
マタイの福音書 7章13~14節

  この狭き門であるキリストこそ、あなたの救い主、神の国の礎石、いのちの門です。

今日、あなたを招き、あなたを生かす、そして、もう一度来られて、完成された神の国に招き入れてくださる、このイエス・キリストをどうか受け入れて、ともに神の国の収穫に預かろうではありませんか。

 

"聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。"
ペテロの手紙 第一 2章6~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会