のりさん牧師のブログ

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「良いことをしてくれたのです」マルコの福音書14章1〜11節

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◎マルコの福音書 14章1~11節

"1過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。
2彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。
3さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
6すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
7貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
8彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
9まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
10さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。
11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。"

 

  今日の記事は、マタイ、マルコ、ヨハネに記されています。ルカは一切触れておらず、過越の祭を控えて、いきなりユダの裏切りの話しになります。ヨハネでは、この「ある女の人」がベタニヤのマリヤであることを明らかにしています。しかも、今日の5節の言葉をイスカリオテ・ユダが言ったこととして記録しています。

  他の福音書からの情報も大切ですが、マルコは何を伝えようとしているのか。その視点で神様がマルコに働いて書き残したところから、みことばに聞いていきたいと思います。

 

1.二人の人

  祭司長や律法学者たちは、イエスを逮捕して殺そうという思いで一致していました。それは、すなわちイエスの十字架刑が近づいたということです。何も罪を犯していないお方が、殺されなければならない。祭司長たちは、イエスへの妬みや憎しみによって殺そうとしていましたが、神の計画はその彼らの思惑を逆手にとって、その呪いの出来事を救いの恵みの業とすることでした。

 ですから、この1〜11節には、そのイエスの十字架を控えて、イエスに対する二人の人にスポットが当てられています。

 その一人は「ある女の人」です。このイエスのために高価なナルドの香油を一気に献げました。もう一人は、イスカリオテ・ユダです。彼はこのイエスを祭司長たちに売り渡すために行動を起こします。

 この二人の姿は、私たちの姿でもあるのかも知れません。

 

  クリスチャンは、イエスの弟子であり、神の子どもとされた神の家族とも言えます。それはイエスを愛し、そのイエスを通して神を知り神を愛します。 ですから、時間も力もお金も、全てをイエスのために、すなわち神のために献げます。日曜日は、朝早く起きて礼拝に備えて、電車に乗ったり車を使って、また歩いて教会に集まり、そこで1〜2時間礼拝をささげ、午後からも教会の奉仕に関わるかも知れません。週日も、祈り会などに出席するかも知れません。

  その生き方は、まさにここに登場する「ある女の人」と同じです。それは、ある人から見たら、そこに使う時間やお金がもったいないとか、労力が無駄になるとか言われるからです。

  しかし、臆することはありません。この女性を主イエスは賞賛されたからです。この現場にいた人たちの価値観は、イエスに高価な香油を使うことに「無駄にした」と言ったことに表されています。それは、イエスに使う時間もお金も力も無駄だと言っているのと同じです。

  イエスの弟子がそんな価値観ではいけません。神のためにささげる、どんな小さなことも神は喜んでくださいます。それは、前回学んだレプタ2枚をささげたやもめにも通じます。

 しかし、一方ユダのような生き方もあるかもしれません。一見、イエスに従い忠実なように見せかけて、内実はイエスを裏切る者です。いつも自分自身を吟味していく必要を覚えます。

  

  私たちも神の中に飛び込むことこそ、本来の神に造られたもの、特にイエスの贖いによって救われた者の大切な生き方です。そのことをイエスは「わたしのために、良いことをしてくれたのです」と仰せられました。

 

2.貧しい人に

 この一連の出来事の中で、高価な香油がささげられたことに腹を立てた人たちは、そのお金があったら「貧しい人たちに施しができたのに」といかにも正論だと言わんばかりに、それを理由に憤慨しました。

  しかし、イエスは「貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。」と仰せられました。それは、これから十字架に向かい救いの業を行おうとしている神の子羊を前にして、何を優先するのかという、キリストの弟子としての価値観に問うているのです。

  確かに貧しい人々に施すことは、大切でありそれは「良いこと」です。でも、ここでイエスが言いたいことは、イエスと貧しい人々を両天秤にかけることではなく、本当に貧しい人々はまず自分であることに気づかなければならないということです。

  だから貧しい人々である私たちは、当然いつも一緒にいます。自分自身ですから。しかし、その貧しい者のために十字架にかかり、天の御国を開いてくださるために、今、まさに十字架に向かっている目の前の主を愛するなら、ここで金の計算をして、さも信仰深そうに、また善人ぶっても、それは表面的なことであって、内実はイエスのことを何も知らないということになるのです。

  イエスの弟子はまず自分自身が貧しい者である現実を知らなければなりません。お金の有る無し、お金を土台にした価値観はまさに貧しい者の価値観だからです。

  結局、この憤慨した中にいたイスカリオテ・ユダは、イエスを売り渡すために祭司長たちに会いに行きました。そして、イエスを三百デナリどころか、たった銀貨30枚で売るのです。貧しい者はお金に執着し、神への愛も希望も見失います。

  しかし、そういう自分を認め、イエスに告白して明け渡すなら、そこから解放されて自由にされます。お金では買えない。真の自由、真の信仰、真の献身がそこにあるからです。

 

"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"
マタイの福音書 5章3節

  イエスの価値観は一貫しています。私たちもこのイエスの価値観を身に付けたいと思います。まず貧しい自分に気づき、認め、イエスに告白しましょう。その上で、イエスの贖いのゆえに罪が赦され、聖霊を受けてイエスのようにされるからです。そのとき、イエスがそうだったように、心においても、また生活においても貧しい人たちの助けができるようになります。

  つまり、自分の貧しさに気づかされ、イエスに対する「ある女の人」の計算のない(下心がない)献身こそ、彼らが言う「貧しい人たち」への施しに必要なキリストの弟子の姿であったのです。それが主イエスに対する「良いこと」(6節)であり、同時に貧しい人々に対する「良いこと」(7節)になるのです。