のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●黙想「気前がいい神」マタイの福音書 20章1~16節

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"天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」"

  神様の気前の良さは半端ではありません。このぶどう園の主人のように、労働者の働きに応じた報酬ではなく、どの人も同じ賃金で雇い、日没間近に雇い入れた者にもきちんと同じだけの賃金を支払うというのです。

  このたとえ話の、主人に不平を言う労働者の気持ちはよくわかります。最初に雇われた自分と遅くに雇われた人の賃金が同じだと知ると、なんだか損した思いに満たされるものです。

  しかし、主人は言います。

『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』

  主人は契約通りの支払いをしただけだと言います。何も不正をしておらず、全ての人に1日分の労賃を払うという、もともとの主人のコンセプトはぶれていないのです。むしろ、労働者の方がぶれているのです。それは、自分がもらう分で感謝できずに他の人との比較をしてしまったからでした。

  しかし、そもそも、この人たちは何もしないで立っていた人たちです。他の仕事をしていたところから引き抜かれたのではありません。何もしないで、仕事もせずにいたところを主人に声をかけられて、このぶどう園で働かせてもらい稼ぐことができたのです。それは報酬というよりもギフトです。

  確かに働きはしました。それは1デナリ貰えるという契約があって、1デナリ貰えるという恵みに与って、その感謝のゆえに働いたはずなのです。しかし、その恵みよりも、自分の働きに立った途端に、感謝がなくなり妬みが起こる。

  これが私たちの姿です。私たちは自分の業に立ってしまいやすいものです。自分のがんばりで救いを手に入れるような自惚れが起きてくるのです。特に他のクリスチャンと比較して、頑張った者の方が祝福されるのは当たり前だと思います。

  ところがイエス様は言われます。「あなたが救われたのは、あなたの頑張りではない。わたしの気前の良さだけだ」と。それは日没間近に雇い入れた者だけでなく、「あなたに対しても気前がいいはずなのにわからないのですか」とです。

  主は気前の良い方なので、私を選び救ってくださった。私に声をかけてぶどう園で働かせてくださっている。それはやがて訪れる天の御国への永住権を約束された恵みの契約が先にあっての話です。しかも大切なのは、本来、神様に声をかけられるはずのない者がその恵みに与っている事実に感謝することです。その恵みを忘れずに喜んでぶどう園のために働くことです。

  そして、主人の気前の良さにより、同じぶどう園で働く仲間が与えられていることを大きな恵みとして、さらに感謝すべきではないでしょうか。

  それが教会であり、天の御国の前味だからです。今与えられている恵みに感謝できない人は、後に来る天の御国においても感謝できないのではないでしょうか。

  今日、あなたを選んでくださった神の気前のよさに感謝しようではありませんか。神の国というぶどう園で働かせていただける恵みに喜んで参加していこうではありませんか。

"まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。"詩篇 84篇10節

  

●黙想「どんな良いことをすれば」マタイの福音書 19章16~22節

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"すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
エスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
エスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。"

  ある金持ちの青年がやって来てイエス様に問いかけました。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」

  それに対してイエス様はこう答えます。

「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」

   このやり取りがあったのは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」"(マタイの福音書 19章14節)と語られたあとでした。

  つまり永遠のいのちを得ることができるのは、子どものようにならなければならないということです。しかし、この青年は、どんな良いことをすれば、それを手に入れることができるのかと、これまでのイエス様のお話をひっくり返すようなことを言ったということです。

  子どものようになるとは、子どものように無力であることを認めなければならなかったからです。

  しかし青年は自分の力で良いことができると思っていたのです。その言葉に対してイエス様のことばも厳しくなりました。それは「良いことができる」という青年の土俵にイエス様も立って仰っているからです。

  人間はそもそも、非常に良い状態で神様に創造されました。だから、そのときの状態に戻れるのなら当然永遠のいのちに与れるのです。それは神の律法をことごとく行うことと等しいのです。ところが人間は罪を犯してから、エデンの園を追い出されて、そこにケルビムを置かれて罪のままでは聖なるところへは近づけなくすらなってしまったのです。

  だから、この青年の言葉には大きな高慢があったことがわかってきます。このあとの青年の話を見るとそのことがはっきりします。

  それは、自分は金持ちだし、神の律法も守っている。だから神の祝福を受けるに相応しい。非の打ち所がない。イエス様もきっとそう仰るに違いない。そう認めてもらってお墨付きをいただけるに違いない。その期待をもって青年はイエス様に質問していたのです。

  結局、彼は悲しんでイエス様のもとから去っていきます。それは、金持ちを捨てよという、厳しい言葉が返ってきたからでした。

  イエス様は「良い方はおひとり」だと言われました。それは天の父です。この言葉の意味は、神様以外に良い方はいないということです。人間に良いものはいないということです。それでも、良いことをすれば永遠のいのちを得られると思っているのなら、その土俵にわたしもたって答えようではないか。それがイエス様のスタンスです。

 そのイエス様に対して、彼は自分のどこに欠けたところがあるのかと愚かな質問によって、自分自身を追い込みました。

 

  今日の結論は、やはり子どものようにならなければ天の御国に入れないということです。素直に罪深い自分を知り、だからこそ神様により頼むのです。赦してくださいと無力な自分を認めて、神が送ってくださった救い主を信じることが私たちに求められていることなのです。

  青年は去る必要はありませんでした。その場で愚かな自分を認めてイエス様の前で悔い改めれば良かったのです。

  しかし救いは終わっていません。最後の「悲しみながら」という言葉に、青年における永遠のいのちへの希望を見ることができます。彼はイエス様の言葉に憤慨して立ち去ったのではなく、悲しんだことは救いへの第一歩です。それは、真の慰めを得ることになるからです。

  イエス様は言われました。

"悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。"
マタイの福音書 5章4節


  この慰めとは、心の貧しい者が得る天の御国、つまり永遠のいのちであると言えるでしょう。

  私たちも、今日、神の前に良いことができないことを悲しむ者でありたいと思います。無力な者であることを悲しむ者でありたいと思います。そして、主の前に戻ってその憐れみにすがり、真の慰めの道を歩みたいと思います。永遠のいのちはそこから始まるからです。

  

◎OMF(国際福音宣教会)祈りのチーム来訪。

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OMFは様々な国から福音宣教のために集められた宣教師たちで構成されている超教派の宣教団体です。

 

今日は、特別に7名の宣教師、神学生、短期宣教師、牧師等の立場の人たちが来られました。

全員、既に日本のために働いている人、またこれから働こうとしている人たちです。

 

それぞれの自己紹介をして、みんなで祈りあい、また食事の交わりを通して、ともに同じ主を信じて、同じ福音を伝えるチームであることを確認することができました。

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日本人の救いのために来てくださってありがとうございました。

これからの皆さんの働きが祝され用いられるように祈り続けます。

 

●黙想:「異邦人の地で」マタイの福音書 15章21~28節

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"21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
25  しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。"

  イエス様と弟子たちは、同胞であるユダヤ人指導者から受け入れられず、地中海沿岸の異邦人の住む地域に移動しました。そこは、ツロとシドンの地と呼ばれていました。またはスロ・フェニキアとも他の福音書では言われています。

 なぜ、イエス様がこの異邦人の地に来られたのでしょうか。

 

  一つ考えられることは、ユダヤ人たちがイエス様をメシアだと受け入れないため、救いが異邦人にもたらされることになったからだということです。このことは、もともとアブラハムへの契約から言われていたことではありました。しかし、それはアブラハムの子孫であるイスラエル民族を通して真の神が証され、メシアが示されて救いが及ぶことが目標でした。

  しかし、ユダヤ人たちはイエス様をメシアとして示すどころか受け入れなかった。それでも神様の計画は遂行されて、受け入れないユダヤ人たちによって、結果的には異邦人のために救いが及んだと言えます。

  そんな番狂わせ的なことにより、イエス様のメシアとしての役目は更にイエスを必要としている人たちに広がったということです。つまり、医者を必要としている病人として自覚していた人たちに医者である主が来てくださったのです。

  ただし、そのためには弟子たちは訓練が必要だったことも事実です。弟子たちはみんなユダヤ人ですから、異邦人の地に入ることも、異邦人と関わることも避けたいところです。彼らの常識では、ユダヤ人指導者たちが言うように、異邦人の汚れが感染ることを心配するはずだからです。

  この独善的選民意識はイエスの弟子としては改革が必要でした。それで、このツロとシドンの地が用いられたとも言えるのです。

 

  ここに、異邦人の女性が登場します。彼女はイエス様の評判を知っていました。だから、自分の娘のために、嫌われている存在であることを承知で、イエス様に話しかけてきました。ユダヤ人から蔑まれても仕方がない。それよりも娘のいのちが大切だという母親としての愛が、様々な障壁をも乗り越えさせています。

  この場面を見ると、私の母を思い出します。私がまだ3〜4歳の頃、家の近くを流れる川の向こう岸で遊んでいました。私の姉と従兄弟も一緒でした。ところが当時はまだ野良犬がいる時代です。白い大きめの犬がやってきたのです。私たちは怖くて一目散に逃げたのですが、一番小さかった私が逃げ遅れて、川に繋がる汚いドブ川に足を滑らせて落ちてしまったのです。

  私の記憶では、ドブに落ちて一度沈み、浮いたところで見えたのは、上から私を見下ろす白い犬の顔でした。

 結果的に私はたまたまそこを通りかかった女性に助けられたのですが、先に逃げた姉から緊急連絡を受けた母の姿を今でも私は忘れません。

  家からは50メートル以上離れていたと思いますが、母は裸足で慌てて走って来たのです。私は汚い黒いドブ川の水で汚れて泣いていましたが、母は必死に走って来たのです。そうです。母の愛は必死なのです。子どものためにはなりふり構わず、ただ助けたい。その思いだけで、蔑まれることや痛めつけられることなどはどうでも良いのです。

  この異邦人の女性も、自分の娘のためにはなりふり構っていられません。

 

  嫌われていることを覚悟でイエス様に話しかけます。

 

22 「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

 

  ところが、イエス様はいつものイエス様と違って、とても冷たい態度をとります。これはどうしたことか。今こそ彼女の声に聞くときではないでしょうか。しかし、イエス様は彼女を無視されます。

  どうしてでしょう。どうしてイエス様はこのような態度を取られたのでしょうか。それは、彼女の熱心さを試すためだったのでしょうか。やはり、イエス様の言われるように、先にイスラエル人のために来られたからという理由からでしょうか。

  しかし、それは実は表面的なことでしかありませんでした。

 

  イエス様にとって、彼女の信仰はよくご存知のことだったでしょう。イエス様はそのことを既に悟られていたと思われます。というのも、イエス様と彼女との言葉のキャッチボールは非常に息のあった掛け合いになっているからです。

   

  この出来事で、一番心を騒がせていたのは、実は弟子たちでした。彼らにとって異邦人は近づきたくない人たちです。その中でも女性であることは、付き合う以前の問題。会話をするなんて論外だったはずです。だから、最初のイエス様の行動は、彼らにとっては当たり前であり、むしろイエス様の行動を喜んだでしょう。

  しかし、イエス様はその彼らの冷たい姿勢、困っている人に対する冷ややかな態度を改めさせるために、この女性の信仰を用いて、異邦人の信仰を絶賛することで彼らに恥をかかせ、その思い違いを訓練されたのでした。

  イエス様は、弟子たちを訓練されます。それは、どんな人にも寄り添い、神の国の到来を告げ知らせ、イエスこそメシアであることを受け入れさせるためでした。それなのに、高いところに立って、人を見下し、自分たちはきよいのだと、困っている人を蔑む弟子たち。その態度は神の国に相応しくないのです。

  イエス様はそのことをよくご存知で、彼らの差別的態度の間違いを教えるために、彼らが蔑む異邦人の女性の素晴らしい信仰を絶賛することで、良い意味での嫉妬を起こさせ、自らの間違いに気づくことを求められたのでした。

 

  私たちも先に救われた憐れみを履き違えて、特権意識のみで立っているなら、この弟子たちと変わりません。神の恵みを、自分たちの功績と勘違いしてるなら、この弟子たちと同じです。また、毎週礼拝していることや、奉仕していることに感謝を忘れ、そうできていない人をさばき、蔑むなら、この弟子たちと同じです。自分の方が先輩だとか、自分が信仰歴が長いなどと自惚れているなら、この弟子たちと同じです。

 そのような信仰の態度のあるところに、医者を必要としている病人が来ることはできません。真の医者であるイエス様のところに連れてくるはずの私たちが、手を引いてあげるべき人たちよりも偉そうにしていたら、だれも安心しません。だれも一緒いたいと思いません。

  イエス様の弟子たちって偉そうで近づけないと、神の国を目の前にして、尻込みする人たちが増えるでしょう。そのとき、私たちは、イエス様の救いのために用いられるのではなく、逆に妨害しているのです。

  今日、イエス様はそのことを、このカナン人の女性とのやり取りの中から示してくださいました。イエス様が喜ばれるのは、自惚れて人を蔑む弟子ではなく、イエス様を心から喜び、へりくだって救いを得ようとする純粋な愛と信仰なのです。

 

  今日も、私たちを憐れんでくださり、いのちを捨てられた主があなたを招いておられます。子犬でも落ちたパン屑をいただきますと告白しましょう。パン屑で十分幸せですと答えてまいりましょう。

天の御国の門の門口に立たせてくださいと願いましょう。

  あの十字架上の強盗の一人のように、ただ思い出してくださいと、それだけで十分幸せですと告白してまいりましょう。

 

詩篇 84篇
1,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
2,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
3,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。
4,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ


5,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
6,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
7,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。
8,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ


9,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
10,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。
11,まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。
12,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。

  

 

  

  

●黙想:「心から出るもの」マタイの福音書 15章16~20節

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"16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。
17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」"

  私たちの悪い思いはどこから出て来るのでしょうか。汚い話になりますが、嘔吐物は胃から出てきます。排泄物なら大腸から出てくるでしょう。では、悪い思いはどこにしまってあるのでしょう。どこに蓄えられてあるのでしょう。

 

  イエス様は言われました。

18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。

 

  心というのは目に見えないものです。そして悪い思いも目に見えないものです。しかし、目には見えませんが確かにあるものです。なぜなら、その悪い思いが心から出てきて口にのぼり、吐き出されて周囲に様々な影響を与えるからです。

 

  木の枝が揺れるのを見て風が吹いていることを悟るように、周囲の出来事から悪い思いが言葉となって、また行動となって外に表れることを知ることができるのです。パウロは言います。

 

"悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。"
エペソ人への手紙 4章29節

  このパウロの勧めは、心に蓄えられているものが悪い思いであるならば、そう簡単には実現できないことを気づかせます。悪い思い、罪が心を支配している以上、いつまでたっても、「人の成長に役立つことば」によって「聞く人に恵みを与える」ことなんてできません。

  ここに私たち罪人の現実を知らされます。イエス様は、パリサイ人たちが人の汚れについて外からやってくると思っていたので、そのことを分からせるためにこのことをお語りになっているのです。彼らがあまりにも、自分たちはきよくて、取税人や罪人、異邦人などは汚れていて、そういう人たちに近づいたり、交わったりすることで汚れが移ると考えていたからです。

 

  しかし、汚れというのは、外から来て伝染するのではなく、むしろ私たち自身の中から出てくる、どうしようもないものであることをイエス様は教えておられるのです。

  ですからイエス様はこう言われました。

"イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。"マタイの福音書 9章12節

  そうです。私たちは罪という病におかされている。そのことを自覚して医者に診てもらわなければならない存在だと言うことです。しかし、その自覚がないならば、その病によって滅びる。だから、そうならないために、イエス様が来られた。イエス様が、私たちの罪という病気をご自分で負って死ぬために来られたのです。

  だから、私たちは自分にはどうすることもできないことを認めて、真の医者であるイエス様に頼るなら、その病は癒されるのです。

  イエス様を信じて罪が赦された者には、心が悪い思いで満たされる人生ではなく、聖霊が住んでくださって、私たちの心にきよい思いを与える形づくってくださいます。その聖霊の働きを信じ、聖霊のご支配を願うならば、イエス様を信じた私たちは神のことばを心に蓄える努力が必要です。

 

"キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章16節

  主のことばを心に蓄えられるならば、聖霊がその主のことばを良い畑に落ちた種のように成長させ、豊かな実を結ぶようにしてくださいます。

 

 私たちの心は、本来ならば悪い思いで満たされるものです。しかし、その罪という病を負ってイエス様は十字架にかかり死なれました。そのイエス様をあなたの救い主と信じるなら、あなたの心にも聖霊が住んでくださり、きよい心に造り替えられるのです。

 

"キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。"
ペテロの手紙 第一 2章24節


 

 どうか、今日という日に、あなたの心にイエス様をお迎えしませんか。あなたの心を悪い思いではなく、主のことばで満たしてみませんか。そうするなら、あなたの内側から、悪いものではなく、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

 

"わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」"
ヨハネ福音書 7章38節

  

  

●黙想: 「主よ、助けてください」マタイの福音書 14章22~33節

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"それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
エスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
エスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
エスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
エスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。"

 私は毎日が「主よ、助けてください」の連続です。きっとイエス様も毎日「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃっているでしょう。しかし、その御手は、「すぐに」私をつかんでいてくださいます。

  

  信仰生活とは、主に救われて弟子とされた者が、この世のという湖の上を舟で進むことに似ています。

  イエス様はあえて私たちだけのような状況を許されます。

 

「イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、」

とあるようにです。

  そこで弟子たちは嵐に悩まされます。聖歌に「人生の海の嵐に」という歌があります。

 「人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により命拾いしぬ。」

  このことに弟子たちも、事実、湖の上で悩まされていました。しかし、それはこの世においては当たり前の現実です。この世というのは、天の御国ではありませんから、いのちの危険にいつも晒されているのです。

  罪を犯しエデンの園から追放された人間は、罪によって呪われてしまった土地で汗して糧を得て、苦しんで子を産み、虚無に服した被造物の中で、常にいのちの危険に晒されて生きなければならなくなったのです。

  しかし、神はイエス・キリストを、その罪の世界に送り、私たちを救ってくださいました。それは、滅びゆくこの地から救われて、天の御国の国民とされたということです。だから、私たちの進む先には必ず御国があるのです。その約束は変わりません。

  でも同時に、この世において、先に救われた者としてなすべき業があるのも事実です。先に救われた者は、キリストの弟子として、キリストが歩まれたように歩まなければなりません。そのことをキリストの世の光、地の塩として歩むとも言います。また、キリストの香りを放って歩むとも言います。

  

"しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。"
コリント人への手紙 第二 2章14~15節


  そのときに、歩むべき道は、道とは言えない険しいものです。今日の箇所においては、まさに湖の上を歩かなければならないようなことの連続です。この世の価値観の中で、みことばを第一として歩もうとするとき、お金は儲からなくてひもじい思いをするかも知れません。周囲の人から除け者にされるかも知れません。

  しかし、そのことは主が許されてその状況があることを忘れてはいけません。イエス様は、弟子たちだけで、あえて舟に乗り込ませることを許されるからです。しかし、必ず近くにおられるのです。

  そこで、さらに歩いてここまで来いとお命じになるお方。そこで、「主よ」と叫びながら、途中まではうまく歩けているかも知れませんが、そこで自分で歩いているという自惚れが出てきて、やはり沈みかけるのです。なぜなら、自惚れは主から目を逸らさせて、周囲の危険のみが現実となって襲って来ることに誘うからです。

  大切なことは、どんなときも主イエス様から目を離さないことです。主から目が離れるとき、そこにあるのは呪われた世界の現実があるのみです。怖いのは当たり前、恐れて沈むのは当然のことです。この世は神の子らを飲み込もうと、いつもそのいのちを狙っているからです。

 

"身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。"
ペテロの手紙 第一 5章8節

  でも主に祈り叫ぶなら、主の御手は、すぐに伸ばされてあなたを助け出します。そのとき、主は必ず言われます。

 

「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」

  その繰り返しの中で、私たちの信仰が練られていきます。だからこそ、主からのチャレンジに応えていきたいのです。それは、自分にはできるから踏み出すのではなく、自分には無理だからこそ、主から力をいただいて踏み出す一歩です。そこで経験する全てのことは、必ずあなたを成長させ、キリストが歩まれた道をあなたも歩めるようにされていくのです。

 

エスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
エスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

 

  今日もあなたの手をすぐにつかんでくださる主が共にあることを覚え、ただ主だけを見て歩ませていただこうではありませんか。

「いと静けき港に着き、我は今安ろう。救い主イエスの手にある身はいともやすし。」

 

"試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。"

ペテロの手紙 第一 1章7節

(引用聖句は全てペテロの手紙から)

 

 

  

●黙想:「天の御国の価値」: マタイの福音書 13章44~46節

"44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。"


  「天の御国は◯◯のようなものです」というフレーズを、主イエス様はよくお使いになります。今日のみことばもこれまでのたとえと同じように、天の御国について語られています。そして、今日のたとえのポイントは、天の御国の価値についてです。

  イエス様は、同じマタイの福音書の中で、私たちの価値観と私たちの心についてこのように言われました。

 

"あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。"
マタイの福音書 6章21節


  私たちの心というものは、私たちの宝。つまり価値を置いているものに向けられているものだという意味です。心を置いているというのは、心がその価値によって支配されているということです。

  私が子どもの頃、プラモデルが好きで、特に戦車のプラモデルを、いつもどのように作るかを色々と考えていました。色を塗ることや、ディオラマにする時の場面設定などをいつも思い巡らしていました。ただ、それをプラモデルを作るときだけなら良いのですが、学校の授業のときも先生のお話も上の空で、頭の中がそのことだけになっていたことを、昨日のことのように思い出します。

  きっと、皆さんも同じような経験があるのではないでしょうか。

  今日のたとえ話でも、宝を見つけた人は自分の全財産を費やしても、その宝を埋めてある畑を買うほどだというのです。つまり畑に埋めてある宝が大切なのですが、その宝の入れ物にも価値を置くほど、その宝への執着心を表していると思います。

  またイエス様は、天の御国は真珠を探している商人のようだとおっしゃいました。先ほどは「宝」だと言われたのに、今度は「真珠」かと思いきや、その真珠を探している商人のようだと言うのです。それはどういうことでしょう。

  それは、そのように真珠に価値を置いて、なりふり構わず手に入れようとする姿勢自体にこそ価値がある。それが天の御国だとイエス様は言われるのです。

  それは、その宝ものを入れる入れ物であるあなた自身が、本物の宝に対して、比較級の価値ではなく、最上級の価値であるなら、そのあなた自身が宝物の価値と等しくなるからです。

  パウロはこういっています。

 

"私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。"コリント人への手紙 第二 4章7節

  この宝とはイエス様のことです。そして、土の器とは、そのイエス様を信じて心に受け入れる私たちのことです。たとえ単なる土でできた器だとしても、その器に本物の宝を入れるなら、その宝の価値で、土の器さえも価値あるものにされるのです。

 

"大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。"
テモテへの手紙 第二 2章20~21節


  また、イエス様は、このように言われています。

 

"『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」"ルカの福音書 17章21節

  今日、イエス様はあなたの心の中に宝として臨んでおられます。そのイエス様をあなたの宝、あなたの救い主として受け入れるなら、その救い主こそ、なくてはならないお方であると求めるなら、そのあなた自身が天の御国です。神の支配です。神の王国、神の宮となるのです。

  なぜイエス様が私たちにとって、全てをささげても価値あるお方なのか。それはイエス様がらまず全てを捨ててまでも私たちを救うために、天の御国から降りてこられ、現にそのいのちを捨てて、私たちを愛してくださったからです。

 

"まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。"ヘブル人への手紙 9章14節

  全てを捨ててまでも手に入れようとする商人のように、私たちも真の真珠であるイエス様を探し、手に入れ、心の中にお迎えしたいと思います。

 

"あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。"
コリント人への手紙 第一 6章19~20節