のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

みことばは道の光、主が先に進まれる

 先日は久しぶりにホワイトアウトを体験しました。一般道でしたので、高速で走る車もなく、ゆっくり運転でも大丈夫でした。
 以前の仕事をしていたときは外仕事が多かったので、このようなホワイトアウトはよく経験しました。雪で真っ白な状態になり、視界ゼロ。それは恐怖の白い世界です。
 でも、そんなときでも前方を走っている車のテールランプが見えると、とても安心します。そのテールランプを頼りに走ることができるからです。
 私たちの人生でもホワイトアウトのような、どこを見渡しても助けのない、不安な状況に置かれる時があります。でも、実はそこで、前を走る車のテールランプのような生きる手がかりが、私たちの人生にもあるのです。
 聖書にこのような言葉があります。

"あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です。" 詩篇 119篇105節

 そうです。神様のみことばこそ、私たちの生きるためのともしび、歩む道を照らす光なのです。そして、神様があなたの前を進まれます。

"主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」"  申命記 31章8節

 主のみことばこそ、どんな人生の悪路をも安全に導くともしびです。そのみことばを語り、事実、みわざによってあなたを支え守るお方こそ、神なる主です。そのお方があなたの先に進み、ときにはしんがりとなられて、前からも後ろからもあなたを義の道へと導くのです。

 

"去れ、去れ。そこから出て行け。汚れたものに触れてはならない。その中から出て行き、身を清めよ。主の器を運ぶ者たちよ。
あなたがたは慌てて出なくてもよい。逃げるように去らなくてもよい。主があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるからだ。"
イザヤ書 52章11~12節


 ぜひ、あなたも、その神様のことばに耳を傾け、神様に礼拝をおささげしてみませんか。

 

 日曜日は、ぜひお近くのキリスト教会へお出かけください。

 

ラッパを吹き鳴らせ

"主はモーセにこう告げられた。
「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。
これらが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入り口の、あなたのところに集まる。
もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。
また、短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。
二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するためには、短く吹き鳴らさなければならない。
集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く大きく吹き鳴らしてはならない。
祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の掟である。
また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。
また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、自分たちの全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすなら、あなたがたは自分たちの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。」"
民数記 10章1~10節

旧約聖書には吹き鳴らすものが二つあります。それは角笛とラッパです。どちらも唇を震わせて音を鳴らせる楽器であり、古来戦争等の合図に使われました。

現在ではトランペットとホルンとして音楽で使用されていますが、元々は集団の中で合図のために使われる道具でした。

 

イスラエル人たちはエジプトを脱出した100万人以上の人たちを一まとめに、一緒に行動する必要がありました。現代では無線がありますので、ほぼ同じタイミングで動くことが可能ですが、昔は伝令担当者や、このようなラッパを使って意思の伝達を行ったのです。

 

このラッパは、現代の教会の時代では使っているのは救世軍くらいでしょうか。でも、今もなお、ラッパそのものは使われないにしても、その役割を果たしているものがあると思います。それは、神に立てられた説教者であり、牧者ではないでしょうか。

 

ラッパは闇雲に鳴らせば良いものではありません。神様のタイミングで、神様の御心を行うために行動を共にするために合図し、神の家族として苦楽をともに味わうのです。それが教会の姿だからです。

 

私も説教者として、そのことを意識して語るべきだと思います。私の意志ではなく神の意思によって吹き鳴らせるのです。そのためには、ラッパを吹き鳴らす者は訓練も大切ですし、ラッパの手入れも大切です。

 

無線などの通信機器が存在する現代でも軍隊ではラッパを合図に使用しています。それは、ラッパの合図が電気やデジタル技術を用いなくても、どんな環境でも使用できるメリットがあるからです。それこそ、神の言葉を語る説教者なとってなくてはならない特色でしょう。

 

どんなときも、時が良くても悪くても、みことばをしっかり語るのです。このことは、この世においては、クリスチャンであれば皆がその役割をいただいているとも言えます。

 

今日もみことばをいただいて、神のラッパとして、どんな環境にあっても神の合図を吹き鳴らしてまいろうではありませんか。

 

"みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。"
テモテへの手紙 第二 4章2節

 

レビ人のための贖い

"レビ人は、雄牛の頭に手を置く。そこであなたは一頭を罪のきよめのささげ物として、また一頭を全焼のささげ物として主に献げ、レビ人のために宥めを行う。"民数記 8章12節

 レビ人はイスラエル民族の中から取り分けられて、主のために仕えるものとされた。それは、長子を主にささげることが主への献身を表すからである。

 しかし、取り分けられたレビ人が他の部族よりも優れていたから、またきよいから選ばれていたのではない。そこには主の主権がある。あくまで主の選びのうちに、そのみことばの通りに行うことが求められている。

 だから、レビ人も主に仕えるためには、その罪の贖いが必要なのである。それで雄牛の頭に手を置いて、自らの罪を負わせなければならなかったのである。それを焼き尽くすことで、レビ人の罪は雄牛の贖いによって焼き尽くされ、神への宥めとされたのである。

 ここに、全人類の罪を贖うキリストを指し示す予表がある。聖書は必ず、この血による贖いを罪のための宥めの方法として貫く。

 今日、あなたはあなたを贖ってくださったお方に目を留めているだろうか。そして、神が御子を遣わして、そのいのちをささげられたように、その御子のいのちを受けたあなたが、神のため、御子のためにあなた自身をささげているだろうか。

 ぜひ、今日もこのキリストの贖いがどれほど大切なのかを思い巡らしてみましょう。そこに、あなたの主イエスに対する愛を確認し、益々、神に仕える歩みをささげてまいりましょう。

 

自分を誇るな。主を知っていることを誇れ。

"──主はこう言われる──知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──主のことば。』」"
エレミヤ書 9章23~24節

"しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。"
コリント人への手紙 第一 1章27~31節

"ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。"
ペテロの手紙 第一 5章6節

 

 

 

 

 

『婚と葬における牧会伝道の意義』

           
 
序)
 人間の営みの中で、結婚することと葬ることは、絶対に欠くことができない儀式である。古来、人間は、民族、文化、宗教を超えて、この二つの儀式を行なってきた。それは、そこに生命の誕生と終わりがあるからである。
 結婚は、すべての人がするものではないが、結婚がなければ子孫は生まれず、国家も成り立たなくなるほど国の根幹に関わってくる問題である。近年、絶滅が危ぶまれる動物が多数種存在するが、人間も結婚を疎かにしていると絶滅する可能性はゼロではない。一方、葬式はすべての人間が避けて通れない儀式である。それは、だれもが死に向かって生きている一人ひとりだからである。
 いずれにしても、婚と葬はそのような意味で、人間だれもが向き合わなければならない必須儀式である。特にこの二つの儀式と宗教が大きく関係していることは、「婚と葬における牧会伝道の意義」を考察する上で、重要な着目点である。
 
1. 結婚とキリスト教
 昨今、日本においても結婚式をキリスト教式で行なう人が増えてきた。この状況にキリスト教会はどのように対応すべきだろうか。ある教会はクリスチャン同士でなければ挙式、また司式しない牧師もいるし、ブライダルミニストリーのように結婚するカップルがどうであれ、どんどん司式してキリスト教式の結婚式を積極的に行なっている教会、牧師もいる。
 私がこの度、学びを通して考えさせられたことは、闇雲に結婚式を司式することはやめたほうが良いが、結婚する二人の事情、状況によって、結婚前の聖書の学びに応じ、教会の役員会等での承認が得られるのであれば、未信者同士であっても司式はしても良いと考える。なぜなら、もし教会が断れば他宗教の中での挙式となり偶像崇拝をさせてしまうことにも繋がるからである。そうであるなら、前述の条件を満たすならば、教会の意思に反しない範囲での司式は認めるべきだろう。その他ケースバイケースではあるが、その都度よく祈り、主はどうされるかを考えていくべきであると思う。
 
2. 葬式とキリスト教
 葬るとは、古くから人間だけが行う礼拝行為である。その際、人が死ぬことは、そのあとのいのちがどうなるのか。そのあとの霊魂がどうなるのかということが、葬ることと深く関係している。
 そこでキリスト教会も、魂を扱うという意味で、立てられている地域における葬儀には無関係でいられない。ただし、信仰による救いを明らかにしているキリスト教会は、未信者で亡くなられた方の葬儀をどのように行なうかが問われる。
 教会員であるなら、まず日ごろからの関わりが大切である。授業を通して学んだことは、普段の牧会が葬式に表れるということである。結婚式はある程度準備があり、結婚までの備えに余裕があるが、葬儀ともなれば、ほとんどが急であろう。しかし、日ごろの関係が確立しているならば急な中にも失礼にならないような備えができるだろうと思う。
 キリスト教葬儀自体の日本における印象は、明るくて比較的良いと評価される。葬儀を明るい伝道の場とするのはクリスチャンの葬儀で多々あることだが、一般の方には配慮は必要である。いくら天国に行く希望に満たされているとは言え、一人の人が死ぬということは大変重い出来事である。その厳粛さは大切にすべきであると言える。
 
3. まとめ
 婚と葬。どちらも人間にとって切っても切れない出来事における儀式である。だからこそ、教会はそれに寄り添い、そこに向かう人々をキリストへと導かなければならないと思う。主イエスがカナの婚礼を祝福されたように、私たちもまた人々の主の御前における結婚を祝福したい。また、主がラザロの死に際し、憤られて涙を流され、しかし、みことばをもってラザロを生き返らせたように、死に対する厳粛さを共有しつつ復活の主の希望を伝えたい。
 現代日本に遣わされている私たちはどのように福音を展開できるか。祈りつつ、学びつつ進むものでありたい。