のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「ヨシュアの告別説教②〜今日選ぶがよい」ヨシュア記 24章

"1,ヨシュアイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、
2,ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。
3,わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。
4,そして、わたしはイサクにヤコブエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えてそれを所有させた。一方、ヤコブと彼の子たちはエジプトに下った。
5,わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがそのただ中で行ったとおりである。その後、わたしはあなたがたを導き出した。
6,わたしはあなたがたの父祖たちをエジプトから導き出した。あなたがたが海まで来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵であなたがたの父祖たちを葦の海まで追いつめた。
7,彼らは主に叫び求め、主はあなたがたとエジプト人の間に暗闇を置き、海に彼らを襲わせ、彼らをおおわせた。あなたがたの目は、わたしがエジプトで行ったことを見た。そして、あなたがたは長い間、荒野に住んだ。
8,わたしは、ヨルダンの川向こうに住んでいたアモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、あなたがたは彼らの地を占領した。わたしはあなたがたの前から彼らを一掃した。
9,モアブの王、ツィポルの子バラクは立ってイスラエルと戦い、あなたがたを呪うために、人を遣わしてベオルの子バラムを呼び寄せた。
10,しかし、わたしはバラムに耳を傾けようとしなかった。彼はかえって、あなたがたを祝福し、こうして、わたしはあなたがたをバラクの手から救い出した。
11,あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、
12,あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。
13,わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』
14,今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。
15,主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」
16,民は答えた。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。
17,私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。
18,主はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」
19,ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。
20,あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
21,民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」
22,ヨシュアは民に言った。「主を選んで主に仕えることの証人はあなたがた自身です。」彼らは「私たちが証人です」と言った。
23,「今、あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」
24,民はヨシュアに言った。「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」
25,ヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置いた。
26,ヨシュアはこれらのことばを神のみおしえの書に記し、大きな石を取り、主の聖所にある樫の木の下に立てた。
27,ヨシュアは民全体に言った。「見よ、この石は私たちに対して証しとなる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、これはあなたがたに対して証しとなる。」
28,ヨシュアは民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。
29,これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
30,人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・セラフに葬った。
31,ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは主に仕えた。
32,イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。
33,アロンの子エルアザルは死んだ。彼は、自分の子ピネハスに与えられた、エフライムの山地にあるギブアに葬られた。"

 

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1.「主」はこう告げられる

  ヨシュアは最後にイスラエル全部族に向かって、まず主のことばとしてイスラエルの歴史を振り返ります。

  この「主」のことばで、「主」が強調していることは、イスラエルの民を今の今まで、導き、支え、助け、救ってきたのは「わたし」であるということです。

  「主」は繰り返し「わたしは」連れて来て、歩かせ、増し、与えた(3節)と、13節に至る歴史の振り返りの中で、イスラエルの民に対し、自分たちの力だと誇らないように警告したのです。

  現実、今イスラエルの民が住み、また食べているものは、「あなたが労したのではない地」、「あなたがたが建てたのではない町々」であり、「(あなたがたが)自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑」ではないか(13節)と確認しているのです。

   私たちの信仰の歩みも、長くなればなるほど、その歴史を誇りたくなるものです。聖書をよく知っていることや、様々な経験も自分の手柄のように、武勇伝のように語ってしまうことが起こってきます。しかし、「主」は言われます。それは「わたし」であると。私たちはまず、そういう自分に気づかされ悔い改める必要があるのではないでしょうか。

 

2.私と私の家とは共に主に仕える

「主」  のことばを取り次いだヨシュア

次に指導者として、イスラエルの民に迫ります。それは、死を目の前にして、残されるイスラエル民が右にも左にも逸れることなく、ただ主に頼り主だけを拝み、主にだけ仕えるようになることが、ヨシュアの指導者としての願いだったからです。

  こんな最後の最後だと言うのに、あまりにもヨシュアの語る言葉が厳しすぎるようにも見えます。恐らく、このときには、イスラエルの民の現状は見た目的には、特に偶像を拝んでいるとか、主を信じていないということはなかったと思われますが、しかし、ヨシュアほあえてそう語らざるを得ない思いだったということでしょう。 それは、これまでのイスラエルの歴史自体がそれを証明しているからです。

  かつて、イスラエルの叫びを聞いてエジプトから主が救い出してくださったとき、イスラエルの民は、決して主だけを信じて歩んでいたわけではありませんでした。エジプトの偶像拝んで、主によって滅ぼされそうになっていたことも事実です。そうであるにも関わらず、主はイスラエルを顧み、エジプトから救い出し、約束の地まで導いてくださったのです。

  ですから、約束の地に入って安堵した今こそ、また罪の誘惑が起きやすい状態でもあります。罪は戸口で待ち伏せをしているものです。だからこそ、厳しく言い聞かせ、彼らの心に楔を打ち込むことが必要だったのです。

  私たちは、平安を求め、いつも安堵した環境で生活したいと願います。しかし、その安心感の中に常に誘惑があり、そういうときだからこそ、心を引き締めていくことが必要なのです。ヨシュアが宣言したように、どんな逆境でも順境でも、「私と私の家とは共に主に仕える」者でありたいものです。

 

3.主の御声に聞き従います。

  イスラエルの民は、最初に「主」のことばとして語られた、主が連れて来て、歩かせ、増し、与えたことに呼応して、まさに「主」がそのようにしてくださったことを告白しました

(16〜17節)が、ヨシュアは更に厳しく彼らに迫ります。

「19,ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。」

  しかし、これもまたヨシュアの指導者としての大切な役目でした。それは、結婚式にも似ています。かたちや程度の差はあっても、その意味するところは同じです。

  司式者はこう誓約のことばを新郎新婦に尋ねます。「あなたの健やかなるときも病める時も堅く節操を守り、命の日の限り、この妻を(夫を)愛することを約束しますか」と。

  それは、ある意味そんなことは当たり前なのに、あえてその場で確認することに意味があるということです。それは、その証人が彼ら自身だと言っているように、結婚式においても形式的な証人は立てたとしても、実際の証人は本人同士であり、またそこに集った会衆全てであるということです。

   ヨシュアは、その誓約を取り付けるために、あえてこの厳しい言葉を投げかけて、彼らが絶対にそんなことはありませんと心から願うことを期待したのでしょう。

  この日、ヨシュアイスラエルの民と契約を結び、ヨシュアはその掟と定めを書き記して、主の聖所の樫の木の下に立てました。それが結婚指輪であり、その約束を忘れずに果たし続けられるために設けられた証しです。(27節)

 

ヨシュアはこのあと死を迎え、その役目を終えました。

 

  今日、私たちもあらためて主との約束を思い出しましょう。それは、まず洗礼を受けた時、私たちは神と教会の前に約束をしたはずです。また、そのあとも、それぞれの信仰の歩みの中で、神と向き合い、神のことばを聴きつつ、それぞれに与えられた持ち場の中で、それぞれの約束があるかも知れません。 その中で自分自身がまずその証人であることを覚えましょう。それは、その与えられた使命に、まずあなたの責任があるからです。

 それと同時に、真の証人が「主」ご自身であることを覚えましょう。それは、あなたの全て人生において、あなたを連れて来て、歩かせ、増し、与えたのは他でもない「主」だからです。あなたの人生全てにおいて、あなたの人生の歩みの主語はあなたではなく、「わたしは」と言われた主なる神だからです。

  イスラエルの民は約束しました。

24,民はヨシュアに言った。「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

 私たちも、私たちの全ての歩みの証人であるお方の御声に聞き従うものとさせていただきましょう。

 

"彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。"
イザヤ書 63章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会