のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年3月8日 白石教会礼拝

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説教題 「悪霊を追い出すイエス
聖書箇所 マタイの福音書8章28~34節
 
序論

 新型コロナウィルス騒動で、すっかり生活のリズムが崩れていないでしょうか。トイレットペーパーなどが品切れで、困った方もおられると思います。デマだとわかっていても並んでいるという人をニュースで見ましたが、それが私たち人間のそのままの姿なのだと思いました。電車の中で、咳をしたら危険だから隣の車両へ行けと言われている映像も見ました。外国で、日本人がばい菌みたいに扱われている映像も見ました。なんだか、コロナウィルスそのものよりも恐ろしいなと思って見ていました。でも、それが人間なんだなと思います。
 私たち人間は、エデンの園で最初の罪を犯しました。それは神の言葉よりも自分の思いを優先させるというところが根っこでした。それによって、私たちは神との関係を壊し、人間同士の関係も崩れました。信頼しあっていた関係ではなく、疑いを持ち合う関係に落ちていったのです。お互いに自分を隠すようになり、表と裏の顔で生きるようになりました。
 アダムとエバの、そこから生まれた子供の間に、世界で初めての殺人が起こり、自分中心の基準で、相手の価値を決める社会が生まれて来たのです。そういう人間中心の社会には、もちろん神様は不在です。それは本当はおられるのに、無視して人間の方で自分に都合の良い神々を造るようになったのです。人間の欲だけ神々が存在すると言われるほど、世界中には様ざまな神が祭られ、様々な宗教が生まれていきました。
 そして、現代は個人主義が謳われています。つまり自分が神であるという社会に、私たちは置かれているのです。今は「自分を信じて」とよく言われます。まさに自分教の教祖様。それが、現代人一人ひとりであると言えるのです。
 そのような人間がどんどん神から離れていく歴史の中で、大きな役割を果たしているのが悪魔です。エデンの園では蛇の姿で登場して、エバを惑わしました。以来、悪魔は私たちと神を引き離そうとすることを仕事にして、最終的には自分に従って来る人間と共に地獄に落とされることを待っている。それが聖書に書かれている悪魔の情報です。悪魔はサタンという名前で、その手下に多くの悪霊がいます。もともとは、天使だったものが、あるときに神のようになろうとして、神の使いとしての役目を捨てて、神のかたちに造られた人間を誘惑し、神の栄光を貶めようとするようになったと言われています。
 今日の聖書箇所には悪霊に憑かれた人が登場します。イエス様が悪霊を追い出したという情報は、このマタイの福音書ではすでに4:24や8:16で言われていました。でも、具体的なエピソードには触れられていませんでした。今日は、その悪霊を追い出したイエス様について見ていきます。
 
1.悪霊に憑かれた人のために来られたイエス

 ガリラヤ湖をカペナウムから舟で出かけたことは先週読みました。地図を見ると、ガリラヤ湖の北端にカペナウムという町があります。そこから南東の方に行くとゲラサとかゲルゲサという町がありますが、今日の事件はこの辺で起こったことです。この悪霊の追い出しの事件は共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカのすべての福音書に記されている有名な事件です。
 今日は、あえて資料を作ってみましたので、参考にしてください。全部照らし合わせる時間はありませんので、ぜひこの機会に家で読み比べてみてください。それぞれの福音書の特徴が見えてきて面白いです。
 私がざっと読んで気が付いた違いとして、まずルカは、マルコとほとんど同じ情報で、情報量も同じくらいなのは、皆さんもお気づきかと思います。その中で、ルカしか言っていないこと。それは、この悪霊に憑かれた人は服を着ていなかったということです。つまり裸で暴れていたのです。ではマルコの特徴は何でしょうか。マルコだけが記録していること。それは、死んだ豚の数です。他の福音書には豚がたくさんいたことは書いてありますが、何匹かまでは記録していません。でもマルコは二千匹ほどがいたことをきちんと書き残しています。
ではマタイはどうでしょうか。すぐわかるのは、一番、この事件の情報が少ないということです。資料を見ても一目瞭然です。でも、マタイにしか書かれていない情報があります。それは何でしょうか。
 それは、この悪霊に憑かれていた人の人数です。マルコとルカには一人であるように読み取れますが、実は二人いたということをマタイは強調しているのです。面白いですね。それでは、聖書本文を見てみましょう。
 イエス様と弟子たちを乗せた船はガダラ人の地に着きました。これはゲラサ人とかゲルゲサ人とも呼ばれている外国人です。このガリラヤ湖の南東部というのはデカポリス地方と呼ばれていて、外国なのです。しかも、当時のローマ帝国が支配する以前に支配していたギリシア帝国のヘレニズム文化の影響で、アルテミス神殿など外国の宗教施設があった地域です。ゲラサという言葉はギリシアから来ているとも言われています。だから、ガダラ人、ゲラサ人の先祖はギリシア人だということです。
 私達日本人にすれば、特に外国人というだけでどうってことはないのですが、ユダヤ人にとって外国人は真の神様を信じていない、偶像を拝んでいる人たちという事で、汚れている存在でした。だから、前回、百人隊長がしもべを癒してもらうために言葉だけくださいと言ったのは、ユダヤ人であるイエス様に汚れてほしくなかった。または、ユダヤ人が気にしていることを尊重して気を使っていたともいえるからです。ユダヤ人は外国人と食事をすることも汚れると教えられていたからです。
 だから弟子たちも、イエス様が向こう岸へ渡ろうと言われたとき、それがチャレンジだったわけです。誰もが行きたがらない場所。その人たちとどう関わるのかは不明だけども、そこに行くという事がどれほどユダヤ人にとって苦痛を伴うものか。
 そこに、何と出迎えたのが悪霊に憑かれた二人の人だったのです。28節と29節を読みます。
「それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
 ひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであったとあります。他の福音書では裸だった。エピソードとして足かせや鎖も壊したり切ったりして、どうしようもない状態だったことが書かれています。
 これは、なかなか、私たちの周りで頻繁には見ません。昔エクソシストという映画を見ましたが、本当にこういうことは起こるのか。そういうふうに思う方もおられると思います。あるのです。ここをすべて現代の病気に当てはめて、精神的な病だと決めつけるのは間違いです。何でも自分たちの理解できる範囲に聖書を読みかえることは正しい読み方ではないからです。
 今でもカトリックではそれこそエクソシストと呼ばれる悪魔祓いの祈祷師がいて、そのようなことで苦しんでいる人たちのために労しています。私の神学校の先輩でA先生という宣教師はT国の宣教を何年も続けていますが、時々、一般的な知識では説明できないような人、またそういう出来事に会うそうです。
 私は、ここでオカルトの話をして皆さんに恐怖を与えるつもりはありません。今日のお話はむしろ、どんな場合でも、イエス様を信じているならば大丈夫というのが着地点ですので、安心してください。言いたいことは、悪霊の働きにはそういうものもありますということです。
 実は悪霊の働きは、このようなオカルトだけではないことを、今日、まず覚えておきたいと思います。今日のガダラ人の二人の人はどうしてこのような状態になったのかはわかりません。ただ言えることは、悪霊は、私たちの一番弱いところに働いてくるということです。
 悪霊と聞くと幽霊や、不思議な現象を伴う霊体験をイメージしてしまうものですが、実はもっと身近にあります。
 たとえば、金銭欲の強い人には、その欲に働いて、ずるくお金を貯めて罪を犯しているのに麻痺させて、どんどん抜けられなくさせるように誘惑します。薬物依存のように、様々なことに依存症があるのは、そこに悪霊の働きがあると私は思います。性的なことに弱い人には、性的な誘惑があり、そこに依存して正常な生活をできなくさせます。
 つまり、自分で何とか改善したいと思っているのに、なぜかまた同じことを繰り返して、それが罪に繋がっていることならば、きっと悪霊が働いて誘惑している。またはこのガダラ人のように、支配されてしまって、自分の言葉すら発せないような束縛に会っているかも知れません。マルコの福音書では、石で自分を打ちたたいていたとあります。結果的に、人にも愛想をつかされ、自分でも自分を傷つける。これが悪霊に支配された私たちの現実の姿なのです。
 
2.真の主権者イエス

 悪霊はその人の声を借りて言います。
「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめにきたのですか。」
 悪霊は、すでにその行き場所が決まっていました。悪霊は自分たちの最期を知っていました。でもあきらめないで、人間を誘惑し、自分たちと一緒に燃える地獄の火に投げ込まれる道連を作ろうと必死なのです。でも、その審判のときではないはずだ。だから、彼らは、その人たちから出ていくので、大目に見てほしい。そうだ。そこにいる豚に入ることを許可してほしい。
 すると悪霊は豚に乗り移って、豚は湖に駆け下りてみんなおぼれ死んだとあります。これで悪霊が消滅したかどうかはわかりませんが、わかったことは、悪霊たちはイエス様にかなわないということです。つまり、イエス・キリストというお方がどんなお方なのか。それは、先週の自然界を支配する神であると同時に、悪霊さえも従えることのできる真の支配者であるということです。
 人間の敵は悪魔であり、その手下の悪霊ですが、神の敵は悪魔でも悪霊でもありません。神は全能者ですから、敵などいないのです。だから、人間はこの神の側につくのか、それとも悪魔の側につくのかで、人生がまったく変わるのです。もし、悪魔の側につくならば、それは同時に神に逆らう道を選ぶということになり、この世で味わう災いは災いのまま降りかかります。しかし、神の側につくならば、悪魔は敵ではなくなります。悪魔が誘って来る多くの罪も災いも、神の子どもとされたものには、それが信仰の試練として用いられ、むしろ神の子どもとしてきよくされるために用いられるのです。先週学んだ、水で溢れた舟すら、主イエスとはどんなお方なのかを考え、告白するために用いられるのです。
 だから、今、まだ世界を騒がせている新型コロナウィルスも、神を信じ、神の守りの中にあるものにとっては、災いで終わらず、必ず神の祝福に取り込まれて、益とされていくのです。つまり、どうってことないということです。
 しかし、このガダラの人たちはどうだったでしょうか。マタイは二人の悪霊に憑かれた人のその後よりも、周囲の人たちがどうだったかにスポットを当てます。それはどうしてか。
 ここに、私たち、これを読む者へのチャレンジがあるからです。あなたはどうするか?
33節、34節を読みます。
「飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。」
 他の福音書を見ると、怖くなってイエス様にこの場を立ち去るように願ったことがわかりますが、マタイは、そのことだけでなく、もう少し深い理由があることを示すかのように、あえて立ち去ってもらう理由は書いていません。恐怖の他に、イエス様にいてもらっては困る理由ってなんでしょう。
 それは、想像するしかありませんが、私は経済的損失だと思います。豚二千頭あまりがいきなりおぼれ死んだ。これは、出て行ってくれとなるでしょう。金の計算をすれば、イエスというユダヤ人がいたら、とんでもないことになる。それで立ち去ってくださいと願ったのではないでしょうか。
 私たちも、それが儲かるか、損するかということはいつも考えています。前回もお話しましたが、私の前の仕事の上司のことば。牧師って儲かるのか。でも、今、この考え方って、どんなことにもあるのではないでしょうか。採算とれなかったらやめる。これはどんな企業でも常套手段です。常識です。JR北海道の不採算路線は廃止。これに誰も反論はないでしょう。そのうち函館線のみになりかねませんが。
 教会にも、この考え方が当たり前になっています。確かに、予算を立てて、利益の計算することは正しいことかも知れません。しかし、今日、この箇所から覚えたいのは、そのことでガダラ人たちは救い主イエス様を追い出したという事実です。色々と大事なものはあるかも知れない。でも主を追い出すほど、それを握りしめているとしたら、それは正しいことなのでしょうか。
 この悪霊に憑かれた人は、他の福音書では、いっしょについて行きたいと言いました。でも、イエス様は彼らを伝道者としてこの町に残したわけですが、他の人たちは、墓場で暴れていた彼らに手を焼いていて、その大変な問題が解決したにも関わらず、そのことよりも自分たちの生活、自分たちの価値観を譲らなかったのです。私は、ここに、今日の大きな問題点を見ます。それは、墓場で暴れていた彼ら以上に、普段、普通に生活していた周囲の人たちの方が、この救い主を受け入れるチャンスをみすみす逃しているということです。彼らにもそういう意味で悪霊の支配があったと見ることもできます。しかし、聖書は、救い主を追い出す責任を悪霊にではなく、彼らに求めているのです。つまり、その決断、その選択の自由意志は私たちにあるということです。
 
結論
 あなたはどうですか。神の側にいるでしょうか。それとも悪霊の側にいるでしょうか。イエス様がわざわざ、向こう岸から舟でやってきたのはなぜでしょう。嵐に会い、夕方から休みなしで、約10キロの距離をやってきたのはどうしてでしょう。それは、裸で狂って暴れて苦しんでいた彼らを救うためです。彼らを憐れんで、イエス様はここまでやってきて、御自身の神の栄光を現わされたのです。
 主は、今日も私たちをここに集めてくださいました。それぞれの家でも礼拝を守っている人もいると思います。それは、この主にお会いできる間に、主のみことばを聞くことができるという恵みを第一に味わうためです。今日という、この主の日。この機会にもう一度主に従う。主について行くという決断をするためであります。今日、もう一度、私たちにとって何が大切なことか。
 目先の安心か、永遠のいのちか。どうか主よ。ともに歩ませてくださいとともに祈りましょう。
 
祈り