のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年3月15日 白石教会礼拝 

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説教題 「あなたの罪は赦された」
聖書箇所 マタイの福音書9章1~8節
 
序論

 今年から私は、H聖書学院で「キリスト教会史」の授業を担当することになりました。これは、私が行う奉仕ではありますが、白石教会から派遣されて行いますので、「白石キリスト教会」が神学生たちに歴史神学を教えるということでもあります。
 そういう意味で、私も緊張感をもって臨みたいと思っております。当初は来年度からと言われていたのですが、色々な都合で前倒しして今年度からになってしまいました。これもすべて神様の御手の内にあることとして準備をしているところです。
 この「キリスト教会史」というのは、キリスト教会2000年の歴史を振り返ることですが、その中心となってきたテーマは何かわかるでしょうか。キリスト教会が2000年間、いつも、このことをどう捉えてきたのか。その歴史であると言っても過言ではないのです。
 そのテーマとは、「イエスというお方がどういうお方か」ということです。それを大きく二つのことに分類すると、イエスは人間なのか神なのか。もちろん、この答えは100%神であり、100%人間であるということです。結局、それを何をもって判断するのか。それは、聖書を見るしかないのです。
 特に福音書を見ると、神としてのイエス様と人間としてのイエス様の両方が見えてきます。しかも4つありますから、大きく4つの角度からイエスというお方を知る方法を採っています。また、パウロの手紙など弟子たちの証言もあります。
 そうすると神か人かというところから、真の王であるイエス、僕であるイエスなどの姿も見えてきて、とてもとても私たち人間の頭では捉えきれない大きな存在であることが見えてきます。ヨハネ福音書には、このイエスというお方について述べるならば、この聖書だけでなく、この世界だって足りないと書いてあります。なぜならば、基本的に神様ですから、被造物の私たちには全部理解することは不可能なのです。
 でも私たちはその限界を認めた上でなお、こうやってまた聖書からイエスというお方を知ろうとしています。それはなぜか。一つ言えることは、私たちは、このイエスというお方を愛しているからだと思います。愛しているというには足りない者かも知れません。でも、愛しているからこそ、もっと知りたいと思わされているのではないでしょうか。
 今日も、愛する皆さんとこうやって聖書を通してイエスとはどんなお方かを思い巡らしながらみことばに聴けることを感謝いたします。
 今日の箇所は、前回のガダラ人が住んでいたデカポリス地方から、また舟で戻ったところから始まります。あらためて、もう一度、イエスとはどんなお方かをともに聖書に聞いてまいりましょう。
 
1.罪の赦しと病の癒し

 イエス様は、舟に乗り、湖を渡って、自分の町に帰られたと1節に書かれています。自分の町というのは、実家のあるナザレではありません。カペナウムのことです。弟子ペテロの家がある町です。そこをイエス様は最初の宣教の拠点にしていました。そのカペナウムからユダヤ人に対する宣教が始まります。2節を読みましょう。
「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた。」
 このときイエス様がカペナウムのどこにいたのかはわかりません。このマタイの福音書だけの情報だと屋外での出来事に見えます。しかし、他のマルコやルカの福音書を見ると、家の中であることがわかります。それで、たくさんの人でごった返していて近づけないので、中風になった人のお友達が、イエス様がおられる部屋の天井を壊して、そこからつり下ろすという大胆な手段に出るわけです。ここでマタイは人々が運んできたとしか書いていませんが、マルコの福音書には四人の男であったことが記されています。
 しかしマタイは、その運んできた人の人数や、この中風の人についての情報をできるだけ減らしてまでも、伝えたいことがありました。それは何でしょう。
 それは、イエス様の権威です。これは前回もそうでした。余計な情報を減らして、このイエスこそ神の権威を持つお方。神の国の王であるメシアであるということを強調しているのです。
 おそらくマルコやルカの福音書は、この中風の人を運んで来た人たちの信仰深さを伝えたかったと思うのです。だから、他人の家の屋根を壊してまでもイエス様のところに連れてくるほどの信仰からくる行為に注目させるわけです。でもマタイは、信仰の部分はかなりあっさりと書きます。
 それは、どうしてでしょう。それは信じるだけで救われることができるのは、決して人の信仰深さではなく、まず神様の側の主権によって、その権威によってであることを伝えているからではないでしょうか。
 私たちが救われたのは、私たちが誰よりも信仰深かったからではありません。誰よりも偉大な信仰があったから、罪が赦されたのではありません。本来、滅ぶべきものを、信じるだけで救おうとされた神様の大判振る舞いを受けたおかげであります。だから、ここに、神様の権威、主権があることをまず認めなければなりません。信仰とはそのすでに用意された救いというプレゼントを受け取ることです。すでに差し出されている救いへの応答のことです。
 だから、この中風の人の癒しのエピソードでは、イエス様が誰の信仰を見てこの罪の赦しの宣言をなさったのかは、はっきり書いていません。2節の「彼ら」の中に中風の人も含んでいるのかいないのか。
 それはここでの大切なメッセージは、罪の赦しの主権者は人間ではなく神であり、このイエスこそ、その権威を持ちなのだということなのです。
 だからイエス様は、ここで「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と宣言し、何と、病気の癒しではなく罪の赦しの宣言をなさったのでした。
 イエス様が人間に子よと呼びかけることは、そんなに多くはありません。おそらく神としての思いが込み上げて、全身中風の痛みで襲われている人を深く憐れんで、そのように呼びかけられたのでしょう。そして、「起きて歩け」ではなく、あなたの罪は赦されたと言われたのです。
 ここでイエス様はこの罪を複数形で仰っています。つまり、彼がこれまで犯してきたすべての罪罪のことでしょう。しかも、「赦されました」とは原語では現在形ですので、直訳すると「赦されています」とか「赦され続けている」ということです。これが神としてのイエス様の姿であります。しかも、「わたしが赦した」ではなく、「赦されている」と受け身で言われたのは、父なる神の赦しが与えられたという、まさにエデンの園の回復、神と人間の断絶からの解放を思わせるようなニュアンスがあります。
 しかし、このイエス様の様子を見ていた人々の中に、この状況を疑って見ている人たちがいました。3節を読みます。
「すると、律法学者たちは、心の中で、『この人は神をけがしている。』と言った。」
律法学者たちは、イエスという人間が神にしかできない罪の赦しを宣言している。これは神への冒涜ではないのかと思ったのです。その心の声がイエス様にはわかったのです。
 4節を読みます。
「イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」
どうしてこの律法学者たちは声に出さなかったのでしょうか。それは、この罪の赦しの証明である、病の癒しまで見る必要があったからだと言う事ができます。当時のユダヤでは病は罪の結果であると思われていたからです。その人に罪があるから病気になる。または、その親族に罪があるから苦しみに遭うと考えられていたのです。
 だから、罪の赦しの宣言をしたのであれば、そのしるしとして病気が癒される必要があったのです。それで律法学者たちは心の中でつぶやきながら様子を見ていたら、イエス様に「あなたこそ、目の前にいる神の権威を信じないで悪いことを考えているのではないか」と見破られたのです。
 人はうわべを見るが、主は心を見るお方であるということです。私たちの、今の、この礼拝における心も、日常にある心も、主は関心をもって見ておられるということです。主はその動機をご覧になっているのです。
 私は牧師として、ことばを扱う役目ですので、いつも反省させられます。そのことばの動機がどうなのか。イエス様が「彼らの思いを知って」とありますが、直訳すると「思いを見て」ということです。主はあなたの心をいつもご覧になっておられるのです。
 
2.困難を極める罪の赦しにある現実
 そしてイエス様が続けて仰います。5節。
「 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」
 ここで言われている「どちらがやさしいか」というのは、どちらが容易にできるかという意味です。どっちが簡単にできると思うかです。
 もし、私がペテン師であれば、「起きて歩け」と言っても、実際に病気が治らなかったら困るので、とりあえず「罪は赦された」の方が簡単に言えそうです。皆さんはどうでしょう。
 実際は、どちらも簡単ではありません。しかし、病気の癒しはある意味、医者でも言えるかも知れません。それは治療をした上ですが、病の癒しだけならば、人によってはできるかも知れません。でも、罪の赦しはどうでしょう。しかも、ここで取り上げている罪とは、イエス様に対する個人的な罪というよりは、罪罪です。それは、これまで彼が犯してきた一切の罪の赦しです。それは個々の罪には、それぞれ誰かに対する個人的な罪もあったかも知れません。でもここで言っている罪は、全部ひっくるめての罪罪ですから、そのすべての罪を一度で赦すことができるのは、神様だけです。それは、私たちが日々犯す罪の根源は、神に対する私たちの反抗、拒絶、無視にあるからです。つまり、罪罪を生むおおもとの罪のことです。そのおおもとの罪を古来キリスト教会は「原罪」と呼んでいます。作家三浦綾子さんが書いた「氷点」という小説はまさに私たち人間の持って生まれた「原罪」がテーマになっています。
 だから、それだけに人の罪を赦すためには、その罪罪を含むおおもとの罪「原罪」の償いが必要になります。それを考えると人の罪を赦すということがどれほど難しいかが見えてきます。
 神様が愛の神だけならば、赦しの宣言だけで良かったでしょう。しかし、真の神様は聖なるお方、義なる神です。罪は絶対に赦しません。というか相いれない方です。神様のきよさは比較級のきよさではなく、最上級のきよさです。汚れた者とは共存できないのです。聖であるということは汚れがないというだけでなく、そういうものから分離しているという意味があります。太陽の前には、コップの水どころかコップすら焼き尽くされるように、神のきよさの前に罪ある人間は焼き尽くされるのです。
でも神様は、そんな私たちのことを愛しているので、何とか取り戻したい。だから、その罪を赦すためには、その罪を代わりに負わせて滅びなければならない生贄が必要なのです。旧約聖書の動物の犠牲はそういうことを表しています。これが「罪を赦す」ことが決して生易しいことではない理由です。
 結果的に、中風の人は、イエス様からこう言われて家に帰ることができました。6~7節。
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。」
 彼は、ここで中風が癒されただけでなく、罪の赦しの宣言もいただいて、身も心も軽くされて家に帰りました。それは、イエスこそ100%神であり、その権威において病を癒し、罪さえも赦した証しとなったということです。
 
結論
 彼がイエス様の権威によって罪が赦されたことは、大変喜ばしいことです。それは私たちのことでもあるからです。
だからこそ、ここでイエス様が語られた5節のみことば。
「どちらがやさしいか」ここに注目したいと思うのです。それは同時に「あなたの罪は赦された」という宣言の裏側にどんな難しさがあるかということでもあります。
 つまり、この言葉にある罪の赦しへのイエス様の厳しい覚悟がこの言葉に秘められているからです。全身、中風の痛みで苦しんでいた人は、同時に罪罪でも苦しんでいた。でも、友達に連れて来られて、イエス様を信じて、罪の赦しが与えられた。だから、人間の側としては、楽な道を通らされたわけです。やさしい方を通ることができたのです。
 しかし、その反面、厳しい方を、その苦しみをイエス様ご自身が通らなければならないという決断をなさったということです。この中風の人は信仰によってただで救いを得ました。しかし、本当はただではなく、イエス様が身代わりに神様のさばきを受ける必要があった。その道の厳しさをイエス様は覚悟されて、先取して彼に罪の赦しの宣言をされたということです。
 そして、この罪の赦しの宣言は、この中風の人にだけ与えられたものではありません。今日、ここに集う一人ひとり、そして、家で礼拝をささげている一人ひとりに対しても宣言されているのです。

 大事なことは、まずイエスを信じて、そのプレゼントを受け取ることです。これは、クリスチャンだと思っている人も確認が必要です。そして二つ目に、罪の赦しを受けているならば、本当に、イエス様の罪の赦しがわかっているのか。私たちは信じるだけで救われるけれども、イエス様がそのために、やさしくない道を通られた事実を、私たちはしっかりと心に刻んでいるか。
 今日の最後のみことばを読みます。8節。
「群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」
 群衆はこの出来事に立ち会って神への恐れを抱いたとあります。そして、こんな権威を人にお与えになった神をあがめたのです。
 ここに、ちょっと引っかかる言葉があります。それは、「こんな権威を人にお与えになった」というくだりです。これを書いたマタイは、ここまでイエス様の神としての権威に注目させながら、最後に、イエス様を人間として書き終えるのです。
 この表現は、マルコ、ルカにはありません。なぜ、マタイはここで神の権威を持ったイエスを神として書き終えなかったのか。なぜ、あえて「神が権威を与えた人」として記録しているのか。
 それは、そのやさしい道ではなく、厳しく、困難な十字架の苦しみを人間の肉体によって味わう100%人間イエスにも注目させるためではないでしょうか。イエス様は神でありながら人間の姿で私たちの痛み、苦しみを味わうことを選んでこの地上に来てくださいました。それは、私たちがただ、このイエスを救い主として信じて罪が赦されるためであります。だから私たちと同じ苦しみを味わう罪人の身代わりとして肉体を取り、100%人間として私たちの痛みを経験し、最後には、聖なる神様に完全に見捨てられてよみに下るのです。
 その道を通られた。それが「どちらがやさしいか」ということばにある、救い主イエス様の覚悟であります。
 今週も私の、そしてあなたの罪の赦しの背後にある、主の身代わりの苦しみ、その大きな犠牲が自分のためであったと共に覚えていきたいと思います。
 
祈り