のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

決してそんなことはない

 

ローマ人への手紙 3章1~8節

"それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。
あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。


では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。


決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。


では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。


決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。


では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。


「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。"

 

神の恵みを侮ってはなりません。罪は神の恵みによって赦されているのだから、罪を犯そうとか、神は愛の方なのだから、罪を犯すことでビクビクしなくて良いのだとか、受けている恵みを軽んじてはならないのです。

 

神様は私たちを罪に対して鈍感になるために救いを与えているのではなく、むしろ、全ての罪を赦してくださった神の恵みに感謝して生きる者となることを望んでおられるのです。

 

それは、神の真実は人間の不真実によって影響を受けるものではなく、神ご自身の卓越したきよい臨在性が圧倒しているからです。

 

だから、きよい神に赦され神に近づくことを許されているならば、益々、そのきよさに預かる者として、きよい歩みを求めなければならないのです。

 

そこに大切なのは、きよい神の前に自分はただ赦されているに過ぎない存在だということです。つまり罪に対しては無力であり、どんな良い行いも罪の赦しには役に立たないものであることをわきまえることです。

 

本来、怒りをもって罪をさばく神のきよさがあるからこそ、私たちが滅びるべき者であるのに、その滅びを与えて平気ではいられない神の愛が、私たちの救いの原動力となっている、神のきよさと愛を知るべきです。

 

この二つのものが同時に表されたのが主イエスの十字架です。神の義と愛の会えるところ。

 

今日もこの十字架があっての私たちの救いであることをあらためて覚えて、神に感謝と賛美をささげてまいりましょう。