のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「幸福への道」 聖書箇所 マタイの福音書5章1~12節

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"1.その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
2.そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
3.「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
4.悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5.柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
6.義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
7.あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
8.心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
9.平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
10.義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
11.わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12.喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"
マタイの福音書 5章1~12節

 

序論
 まず初めに皆さんにお詫びをいたします。先週の説教で、私が本当はやりたくないのに、牧師をしていると言いました。それがこの教会の牧師をやりたくないというふうに聴こえたとしたなら、お詫びします。でも私はこの教会だけでなく、牧師という仕事に相応しいとは思っていないのは本当です。つまり人間的な感覚だけで言うならやりたくないです。このように人の前に立つことや、神様のお話をすることは、もともとの私の性格では絶対に無理です。苦手なことです。
しかし、それ以上に、イエス様の私に対する愛が素晴らしすぎて、それに感動して涙が出てしまって、先週、少し話を飛ばしました。もうこうなったら、皆さんの善意に甘えて、語りきれなかった部分を聖霊が補ってくださることを願っていました。その聖霊に励まされ、皆さんの祈りがあって、今日もまた、いつものように、ここに立たされているのです。その中で喜びが与えられて、やる気があるとかないという問題ではなく、ただ、このように神様の働きに使っていただいていることに感謝しています。
 神様はそういう私をいつも励ましてくださいます。聖書のことばを通して、このような尻込みしてしまう私を立たせてくださいます。モーセは40歳のときは、やる気満々でしたが、それは神のタイミングではありませんでした。神のタイミングは、モーセが80歳の老人になり、自信を失っていたときでした。ギデオンという人は敵を恐れて隠れて麦を打っているときに神様に呼ばれました。預言者エレミヤは若くて、経験が全くない、不安で一杯のときに、神様に召されました。
 皆さんはやる気満々でしょうか。それとも不安や恐れや、自分へのがっかり感でいっぱいでしょうか。
 神様は、不安でやる気のなかった人たちにみことばを与え、また神の力、神の霊、神の賜物を与えて用いられました。私も、そういう意味で、神様なしにはここに立つことはできません。今日も、ただ神様の御霊に助けられて、みことばを取り次いでいきたいと思います。
 前回までは、イエス様の宣教の開始のところで、名もなきガリラヤの漁師たちを弟子として選んだことを学びました。そして、イエス様は、教え、宣べ伝え、癒しによって宣教なさったことを見てきました。しかし今日の箇所からは、暫くイエス様の直接的な教えから学びます。特に今日の5章から7章までは「山上の教え」と呼ばれる有名な教えになります。その中でも、今日の箇所は有名です。「~は幸いです」という言葉の繰り返しで、詩篇のような歌のようでもあります。
 この教えは8つの幸せを告げています。この幸せとは何なのでしょう。イエス様が山の上で語る、この幸せは私たちにどう関係しているのでしょうか。

 

1. 幸いとは神の祝福
 1節を読みます。
「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。」
 まず、ここで、このイエス様の教えが誰に対して語られたのかが明らかにされます。この群衆とは、先週読んだ4:25にある群衆です。それは先週注目したガリラヤ地方だけでなく、パレスチナ各地から集まってきた大勢の群衆でした。その人たちは、イエス様が病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などを癒したことを聞いて集まって来たことがわかります。
 そういう彼らを見て、イエス様は山に登ったとあります。どこの山かは定かではありませんが、イエス様はそこに腰をおろされ、そこに弟子たちがみもとに来ました。そこで「イエスは口を開き」と書いてあります。
 ここに、この山上の教えが弟子を対象にした教えであることがわかります。もちろん周囲にいる群衆も聞いて良いのですが、この話の中心がイエス様の弟子に対してであることをまず受け止めていないと、このあとの教え全てが、なかなか理解することが難しくなります。
 それで、今日の箇所の整理を先にします。中心的な内容は3節から10節となります。それは、11節と12節は、10節の説明になるからです。そして、最初の3節と10節には、幸いな理由として、どちらも「天の御国はその人のものだから」と同じことを述べています。しかも、原語で読むと、3節と10節の理由が現在形で、それに挟まれている4節から9節までの理由が未来形だからです。
 ですから、4節から9節までの幸いな人にこれから起ることを、天の御国で挟む。つまり、ここで言いたいことは、今、天の御国に入っていることが、イエス様の弟子として本当の祝福だということです。あの世の死んだあとのお話ではなく、本当の幸せは、今から始まってずっと永遠に続いていく祝福だ。そう考えると、最後の「義のために迫害」されたとしても幸いだという意味が見えて来ます。12節の「喜びおどりなさい」という意味がわかってきます。最終的には、天国の喜びが、この地上にあるときから始まっている現実なんだという感謝に満たされるのです。
 それをこの8つの「幸い」にイエス様は集約して語られたのです。 
エス様はガリラヤ湖に吹き降ろす風を感じながら、口を開いて、こう言われました。3節。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
原文は「幸いだ」で始まっています。原語の意味を汲んで言うなら「何て祝福なんだ」という強い意味が込められているのです。しかもそれは最上級の幸せであり、うらやむべき立場にいる人を紹介するときに用いられることばです。うらやましいくらいに幸せだねということです。そのあとに「貧しい人」、「心の」と続きます。
 「何て祝福なんだ。うらやましい。心の貧しい人は」ということです。貧しい心がどうしてうらやましいのでしょうか。貧しい心って、どんな心でしょうか。
   私たちが日ごろ使っている貧しい心というのは、狭い心とか、小さな喜びも感謝できない、へそまがりのような嫉妬心が先立ってしまう人のことを指します。ではイエス様がおっしゃっている貧しい人とはどんな人のことでしょう。
パウロはイエス様についてこのように言っています。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」
 ここでパウロが言いたいことは皆さんもご存知でしょう。文字どおりイエス様がお金持ちだったのに貧乏になったということではなく、神様だったのに、人間の姿をとって低くなられたということです。
 つまり、ここでイエス様が言われている「心の貧しい者」というのは、へりくだっている者という意味を含んでいるということがわかります。ほかにも聖書のいたるところに、貧しいということを「弱い者」とか「苦しんでいる者」という意味でも用いています。
また新約聖書が書かれたギリシャ語には「貧しい」という言葉は二種類あります。そのうち、ここでイエス様が用いた「貧しい」プトーコスは、新約聖書に34回出てきます。もう一つの「貧しい」ペネースは2回しか使われていません。ペネースは一般的な貧乏のことです。働いても生活が大変くらいの意味です。しかし、ここで使われている「貧しい」プトーコスのもともとの意味は、「縮こまる、うずくまる」プトーソーということです。そこから身動きが取れなくなっているほど、単に生活が苦しいという域を超えているほどの貧しさだという意味です。貧しさの極みということです。バークレーという神学者によると、「餓死する危険が内在している情けない貧乏」だということです。
 そこに「心の」がつきますから、神に対する極限状態の飢え渇きがあるということ。神の言葉に対する求めが半端でない人だということです。それは同時に、自分には何も良いものがない。自分で自分を褒めることもできない。自分が誰かを幸せにすることもできない、もがくこともできない、うずくまるしかない信仰者のことを指していると言えます。それが自信を失ったあのモーセだったり、ギデオンだったりするわけです。そして、ここに召されたガリラヤ湖の漁師たちだったりするわけです。
しかし、そのように自分にがっかりしている人ほど祝福だとイエス様は言っているのです。
 そうすると、バプテスマのヨハネもイエス様も、「悔い改めなさい」と開口一番で語った意味が見えてきます。それは自分の罪に向き合わされ、どうしようもない状態にあることに気づかされる。そこが神様の祝福の入り口だということです。その天の御国に入っていることを喜び、この地上では寄留者でありながら、その天の御国を、その弟子としての存在を通して表していく。これが、幸いな者であるキリストの弟子に与えられている姿だということです。

 

2.イエスの教えは心の中まで問われる
 ですから、この3節の「心の貧しい者」がこのあとの悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者に繋がっていることがわかってきます。
 罪を悔い改め、自分のぼろぼろさを知った人は福音を信じてイエス様に繋がっていきます。それが天の御国へ入ることであり、すでにその祝福に与っているということです。その歩みの中での実践で、与えられること。それがこのあとの7つの幸いです。しかも、どれも表面的にというよりは、やはり「心が」つまり内面が問われる内容です。つまり心の貧しい者という心において悲しみ、柔和、義への飢え渇き、他者への憐れみ、心のきよさ、平和つまり平安をまず自分のうちにつくること、それが真の義であるイエス様に従うことであり、そのために迫害を受けるという弟子の道だということです。
 悲しむことは、表面的にやればお芝居です。だから心が問われていることです。この悲しみは、イエス様を信じてともに歩むときに経験する悲しみです。信仰者だからと言っていつでも笑っているわけではありません。むしろ、イエス様が「悲しみの人で病を知っていた」お方ですから、その悲しみをともに味わうことこそ、弟子としての経験です。回りから理解されず、家族の中で孤立するかも知れません。ここで言っている悲しみは大事な人を亡くすとか、罪を悔いて悲しむよりもイエス様の弟子として、御国を受け継ぐ者として味わう悲しみです。しかし、慰めが与えられる幸せがあるというのです。それは、日々、みことばを通して、また教会の仲間を通して聖霊によっていただく慰めです。また新しい天と地が完成したときに、主にその涙をすっかり拭いとっていただけるという、主による直接的な慰めに繋がっていきます。
 柔和なものとは、ガラテヤ書の御霊の実の一つでもありますが、ここは別な訳では「へりくだる者」となっていました。それは「心の貧しい者」と同義語だということです。それで天の御国を受け継ぐのかと思えば、そうでなく違う角度で、「地を相続する」と言われています。これはイスラエル的な視点では、そのパレスチナの地ということになります。つまり約束の地を受け継ぐということです。それは、天の御国が将来的にこの地上に、新しい地として建てられることを意味していると思われます。
 義に飢え渇くとは何でしょう。義とは、神様の正しさやさばきなども含むことばです。それは普遍的な基準という意味も持ちます。この世は様々な価値観がいつも変化していて、その基準は常に移り変わります。しかし、主に従う者は、世に置かれていますが、世の基準で動かされたり、世の変化に翻弄されることなく、神の基準によって見て、聴いて、考えて生活します。この世が不安定であればあるほど、変わらない神の基準、神のことばに渇き、慕うようになります。それが弟子の姿です。だから、その渇きは、そのように生きるなら必ず満たされる。それが弟子としての祝福、幸いなのです。
 憐れみ深い者とはだれでしょうか。それは他ならぬイエス様ご自身です。今日のこの8つの幸いな者とは、実はイエス様ご自身のことであり、語られたイエス様ご自身が、そのご自分が語ったとおりにこれから歩まれることの宣言でもあります。
 この憐れむことも私たちの内面に語られていると思います。誰かを気遣うときに、本当にこの憐れみをもっているか。イエス様の憐みは、内臓をズタズタにするほどの心で、その人の身になって、その人の痛みや悲しみを共有する憐れみです。私は特に、だれかをかわいそうに思うときに、どれだけ心からかわいそうに思っているか疑わしいです。かなりの割合で上から目線的な「かわいそうに」という思いが多いのではないかと思うのです。あとは、相手の悲しみを共有していたら身が持たないという計算が働くかも知れません。だから、そう考えると私にはできないことだと思わされます。でも、すぐに人の心により沿い、自分もダメージを受けてボロボロになる人もいらっしゃると思います。もしそういう人を見たら、もっと力を抜けば良いのにとか思わないでください。なぜなら、それはイエス様の言われることを自然体で実践しているのですから。しかも、そのような誰かの心に寄り添える人は、私のような計算してしまう人が味わえない、神様の本当の憐れみを受けるとイエス様はおっしゃいます。ここも未来形が使われていて、天の御国を受け継ぐ者として、与えられる祝福です。それがうらやましいほどの憐れみを神様からいただくという祝福だというのです。
 心のきよい者とは誰でしょう。その人は神を見ると言われています。これも明らかに心の中が問われています。きよいという言葉は、二心がないという意味です。それは自分の心を尽くして神を愛することです。その神への一途な誠実さこそ、神ご自身を見るための弟子の姿です。これも将来的に、イエス様が再臨されたときに、主の御顔を拝するという、先ほどの慰めにも通じますが、神であるキリストをこの目で見る。そのときが待っている祝福です。
 平和をつくる者とは何でしょう。平和というと平和主義を思い浮かべますが、ここでは単に戦争がない状態のことを言っているわけではありません。本当の平和とは、まず弟子である私たちと神様との平和であり、私たち弟子の個々の心の平安がいつも問われているということです。神の子と呼ばれる者は、まず神との平和な関係をいつも保つことが大切です。そこにまず私たち自身の平安が生まれるからです。その平安な心、平安な霊を持つ者たちの集まりこそ、平和な世界であり神の国、天の御国です。そのことをこの世に証しするのが教会の役目です。もちろん、平和のための活動は大切でしょう。しかし、ここでイエス様が弟子に求めていることは、かなり崇高な天国の国民の姿なのです。
 イエス様は、今日の、この教えをモーセの律法のように、「こうしなければならない」と仰らずに、「幸いだ」といかにも律法主義ではなく、神との関係性にスポットを当てている律法であることにお気づきでしょう。しかし、ここを出発点として、弟子に求められるイエス様の教えは、モーセ十戒よりも厳しい内容です。確かに、イエス様のお言葉は励ましと、憐れみと、慰めと、喜びに満ちています。「祝福だ。こういう人は。こんな素晴らしいことが約束されているから」と。しかし、自分の心の中に光を当てられて、私は無理だと思わされました。みなさんは、いかがでしょうか。自分は大丈夫だと思ったでしょうか。天の御国に入るに相応しいと実感できたでしょうか。恐らく、心が貧しい者と言われて、へりくだれない自分に気がつき、どれかはできているか、どれかができていないかという思いになるのではないでしょうか。
 そのできているか、できていないかという基準で考えていること自体、天の御国にはほど遠いものになっていく現実をここで見るのです。
 本当はモーセ十戒も、その心を問題にしているのですが、イスラエルの民が、律法を表面的に守ることに価値を置くようになり、書いてあることを守ればよいのだという律法主義がはびこってしまいました。愛を置き去りにした夫婦関係のようです。これでは神様は喜ばれません。それで、神の子であるイエス様が来られて、神様が本当に求めていることを神の御子が伝えた。そういうことなのです。
 そして、最後には「義のために迫害されている者は幸いです」と言われました。その義のために迫害されるとは、11節の「わたし(イエス様)のために」ということです。これがうらやましいほどの幸せが待っている道だということです。 
その幸せをイエス様は12節で嬉しそうにお語りになります。
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」
 嬉しさの基準。喜びの基準がここでわかります。イエス様の弟子の幸せは、神のために生きることであり、神のために死ぬことだということです。それが、この地上において、私たちが置かれている意味であり、それがこの世での、人がうらやむほどの祝福だということです。

 

結論
 今日は、ざっと山上の教えを読んできました。一つ一つを丁寧に読むと更に色々な恵みがわかりますが、今日は、ここの全体を通して、私たちクリスチャンが歩むべき、人がうらやむほどに幸せな道を見てきました。その最後に迫害を喜びなさいというのが結論です。みなさんは、この結論に喜ぶことができるでしょうか。 
エス様はみもとに来た弟子たちに話をされました。もちろん群衆は聞いていてよかった。でも、イエス様のことを知らない人がいきなり聞いて納得できる内容でしょうか。弟子が聞いてもびっくりするくらい、この8つの幸いは革命的な教えでした。
 幸いですと言われるから、新約は旧約よりも優しく感じますが、ところがどっこい、イエス様は今までにないほどの厳しい教えを語られているのです。この教えは実践できそうですか。ここにいたイエス様の弟子たちは、師匠であるイエス様が逮捕されたとき、彼らは義のために迫害されることを喜んで受け入れましたか。いいえ。みんなイエス様を置いて逃げました。これが弟子の現実なのです。 
このあと、この山上の教えは「兄弟に向かって『ばか者』という人は地獄行きだ」とか、「情欲を抱いて女を見るものは姦淫を犯している」とか、言われていますが、それくらいイエス様の教えは基準が高いことがわかってきます。それは、私たちの心を、内面を、その霊性を問題にしているからです。
 ここでようやく、私には無理です。できません。降参ですという思いが湧いてこないでしょうか。それが、心が貧しくさせられるということなのです。もはや、できたとか。できなかったとか。そんな基準ではなく、ただ神様のために、そのようなものが生かされ、用いられる。そこに喜びが湧いてこないでしょうか。それは今の私たちには、十字架の恵みと聖霊の助けがあるのでそのように思えるのです。弟子たちが、あらためてイエス様の弟子として再スタートするのは、イエス様の十字架刑と復活を経て聖霊を受けてからでした。つまり、イエス様の十字架と聖霊の助けがなければ、ここで言われていることは実践できないということです。しかし、今、イエス様が十字架の贖いを信じる私たちに聖霊を与えてくださっているので、次はイエス様の御姿にならって喜び喜んで仕えさせていただく番です。私には無理です。しかし、主がさせてくださるなら喜んでできます。なぜなら、罪深く、地獄行きであった者のためにイエス様が死んでくださったからです。そんな私を愛して、十字架にかかって死なれたからです。それは私を、そしてあなたを弟子として生かし、天の御国を受け継がせるためでした。それがうらやむほどの幸いだと、イエス様は山の上で嬉しそうに語られたのです。
 今週、私たちも主の愛と聖霊の助けの中で、「幸いだ」と言われるイエス様の弟子として造り変えられたいと思います。

 

祈り 天の父なる神様。あなたを愛してあなたの求めに答えて生きようとする者をあなたの祝福で満たしてくださることを感謝いたします。しかし、私たちはそれを自分の力で行うことはできません。あなたが示してくださったイエス様を十字架にかけて死なせるほどの完全な愛を受け取り、あなたが与えてくださる聖霊の助けによらなければ、あなたを愛する生き方に進めないことを知らされます。どうか、いつもあなたがどれほどの痛みをもって御子をささげてくださったか。そこに示された愛を私たちが受け取り、聖霊の助けの中であなたを愛する歩みに進めるように導いてください。単に行いとしてできるとかできないという基準でなく、ただあなたを愛するがゆえに、あなたを愛する歩みを喜ぶものとさせてください。今日、ともに礼拝できなかった、愛する方々の上にも、私たちと同じ祝福をお与えください。主の御名によって。

 

● 「イエス、宣教を開始する」 聖書箇所 マタイの福音書4章12~25節

序論
 全ての道はローマに通ずると言いますが、福音宣教は、確かにローマは経由するけども、その出発点はローマではありません。ガリラヤという聞き慣れない地域です。それは誰も見向きもしない、落ちぶれた、また蔑まれた地域からでした。
 前々回バプテスマのヨハネの箇所で、「荒野」というキーワードがありました。そのときも、なぜヨハネの宣教する場所が「荒野」なのかということを考えました。良い知らせを多くの人に伝えたいなら、まず都会の方がいいんじゃないでしょうか。しかし、神様の方法はそうではない。そのことを確認してきました。それと同じように、ガリラヤでもあらためて行われるのです。
結果的に、人間の感覚では考えられない場所から、世界中に福音が広められ、この極東と言われる日本まで宣教されています。そして、世界中の人たちがイエス様を信じて、今、この主の日を覚えて多くの人が礼拝をささげているのです。そこに私は感動を覚えます。
 私たちも今日のみことばを通して、イエス様が実際になさった宣教から教えられたいと思います。ガリラヤから始まった宣教が今、このように日本に来て、私たちがその務めに与っています。だから、もう一度、宣教の原点であるイエス様に立ち返って、そこから私たちの宣教を問い直したいと思うのです。
 それで、今日は3つのポイントでお話します。第一に、宣教とは「暗闇に光」であるということをお話します。第二には、イエス様による宣教の実例。最後に、そのために弟子たちを選ぶことについてお話します。

 

1. 暗闇に光
今日最初に触れるのがイエス様の宣教とは「暗闇に光」を照らすことだということです。
12~17節をお読みします。
ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」
エス様は、ガリラヤへ立ち退かれたとあります。イエス様がガリラヤへ行くことが、光が闇に照らされることに重なっていきます。それはかつて旧約聖書で預言されていたことでした。
 これはガリラヤに住んでいる人たちの様子、状態を表しています。
この「すわっていた」というギリシャ語は、「住んでいた」とも「留まる」とも訳せます。ここでは身動きが取れない状態、生活できていない状態のことを言いたいのだと、私は解釈しています。それは、その状態が5章の山上の教えに繋がっていると考えられるからです。来週の5章の予告篇ですが、「心の貧しい者」と繋がっているということです。
ガリラヤ地方がそのような状態の象徴であり、現実そうだったのです。ガリラヤ地方は、紀元前8世紀に北イスラエル王国アッシリアに侵略されたことがありました。そのとき、このイスラエルの地には外国人が入ってきて、残っていたイスラエル人とも混ざってしまいました。だから、中央のユダヤ地方の人から見たら、純粋なイスラエル人ではないし、偶像礼拝を持ち込んだ人たちという目で見られ、蔑まれていたのです。サマリヤと同じ理由です。でも、そういう人たちにまずイエス様の福音宣教の光が照らされました。その人たちの中に立って、イエス様はこう言われて宣教を始めました。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
これは、バプテスマのヨハネと同じ宣教のことばです。マタイはバプテスマのヨハネと同じことばとして記録しています。12節によるとヨハネは逮捕されたと書いています。それで、ヨハネの宣教自体はストップしましたが、しかしイエス様によって進められていることを強調していると私は思います。それは、ヨハネが整えた道をイエス様が歩いているということでもあります。宣教と言うものは、伝える人間がたとえ変わっても引き継がれていきます。宣教者はいつか必ずその役目を終える時が来ます。しかし、宣教そのものは次の新しい人によって受け継がれていく。そのことをここでも知ることができます。また、宣教の順序と目的もまた変わっていません。まず罪の悔い改めが必要であること。そして、その先に指差すのは天の御国です。イエス様もヨハネも、その宣教の先にあるものは天の御国です。その建設こそ宣教の目的であります。
 私たちもそうです。教会を開拓して宣教した人がいなくなっても、こうして、その働きを受け継いで、この地で更に宣教が続いています。そのバトンタッチがこれからもあることを期待したいと思います。また先輩たちが伝えてきたことを同じように伝え続けていきたいと思うのです。その目的は、神の国の建設です。天の御国が近づいている。そのために、この地上では教会というかたちで、神の国を展開しています。この白石教会も神の国の出張所なのです。それは死んだあとの話しではなく、この世からもう始まっている現実の神の業なのです。

 

2.イエスの宣教の実例
 では次にイエス様ご自身は、その人たちに具体的にどのように宣教したのか。その実例について考えてみましょう。それで先に23節から25節を読みます。
「イエスガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」
 イエス様は、そのガリラヤ全土を巡ってとあります。これは暗闇に座っていた人たちをくまなく巡って、いのちの光を照らしたということです。では、実際にどういうことが光を照らすということなのでしょうか。
 それが23節のところにあることです。
「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
 ここにこれまで歴史的に教会が担ってきた3つの業が示されています。「会堂で教え」いうのは、ユダヤ教シナゴーグと呼ばれる会堂での教育のことです。シナゴーグでは通常、聖書の朗読と学びが行われていました。そこには子ども用のカリキュラムもあって、学校でもあったのです。そこでイエス様も教えていました。また「御国の福音を宣べ伝え」というのは、これこそ福音を伝える働き。伝道のことです。ここでは「御国の福音」ですから、さっき宣教開始で言われた、今、近づいている神の国に入るための良い知らせを伝える働きです。そして3つ目が「直された」という癒しの働きです。その内容は24節の中で言われています。
「イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。」
 この癒しの中に悪霊につかれた人もいたようですが、マタイはここでは「いやされた」と記録しています。オカルト的な状態ではなく、悪霊の働きを起因としている病気ということかも知れません。
 以上、この3つがイエス様の宣教の実例です。簡単に言うと「教育、伝道、医療」です。これが、イエス様がなさった宣教の3要素です。そして、キリスト教会はこの働きを歴史的にも続けてきました。
 身近な例で日本での宣教を見るとわかりやすいです。日本にプロテスタントの宣教が始まったのが明治維新後です。そのとき、宣教師たちが行った宣教とはどういうものか覚えているでしょうか。
 やはり、まず学校を建てることに力を注ぎました。ちょうど明治維新で、学校制度を取り入れ始めた時期だったこともあって、キリスト教教育を含めた学校が多く建てられました。青山学院とか明治学院関西学院同志社など、札幌では北星学園がそうです。酪農学園とわの森三愛高校もそうです。カトリックの藤学園や光星高校もあります。このように皆さんもよく知っているキリスト教を背景にした学校が多くあります。
札幌農学校は公立学校でありながら、そこでクリスチャンとなった内村鑑三新渡戸稲造らが輩出されたのは、まさに教育と伝道を担った当時の宣教の成果だと思います。また昨年アメフト部の反則タックル問題で騒がれた被害者側の学生は関西学院大で、そのアメフト部がニュースに出ていましたが、練習のときや試合のときにみんなでお祈りをしているそうです。そういうところからフェアプレー精神が養われていると言われています。
また病院も多く建てられました。ヘボン訳聖書やヘボン式ローマ字で有名なヘボンは医者であり宣教師でした。ヴォーリーズ記念病院をご存知でしょうか。この病院はメンタームで有名な近江兄弟社を創設したアメリカ人のクリスチャン建築家ヴォーリーズによって創設された病院です。聖路加国際病院聖公会が1901年に創設しました。淀川キリスト教病院は1953年に長老教会系の団体によって創設されました。この病院の現理事長の精神科医柏木哲夫さんはメノナイト・ブラザレン石橋教会の教会員です。私の身近では札幌希望の丘教会員の野村内科医院とか月寒グロリアクリニックは医療活動の中に、福音伝道も取り入れています。
  このように、日本だけ見ても、多くの教育機関医療機関が宣教の一端を担っていることがわかります。
 どうしても宣教というと、福音伝道だけが強調されますが、そういう社会的な活動も、もともとはイエス様の宣教から始まっていることを覚えたいと思います。そして、その宣教の中心は、やはり教育と医療の真ん中にある福音伝道であることもしっかりと確認したいと思います。教育も医療も、その他様々な社会的な活動も、その中心に福音伝道がなければ意味がありません。それは神の国には罪の赦しをいただいて神様との和解が大切だからです。だから教会は何をするにしても、宣教の中心が何かを絶えず意識付けすることが必要です。

 

3.弟子たちを選ぶ
 そこで、イエス様は、その宣教の業を託すべく弟子たちをスカウトします。18節~22節を読みます。
「イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」
 イエス様は、世間からは見下されている地域を巡って、その人たちに教え、伝え、癒しを与えていました。でもイエス様がそこを歩いている目的はまだありました。それは、その暗闇と言われた地域からご自分の弟子を選ぶことでした。
 イエス様は、漁をしていたペテロとアンデレに声をおかけになります。
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 なんてユーモアたっぷりの言葉でしょう。聖書は淡々と記していますが、この場面はきっと笑って良い場所だと思います。ペテロもアンデレもイエス様のことは既に知っていました。イエス様も彼らを知っていました。だから、「こんにちは」とか、「魚獲れるかい」とか、そういう会話が出ると思いきや、いきなり「わたしについて来なさい」そして、「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
 今、目の前で、漁をしている漁師に、漁師にしてあげようという洒落をおっしゃって、しかも「人間をとる漁師」です。そして、もう二人の漁師たちにも声がかけられたと書いてあります。ゼベダイの子ヤコブヨハネにです。
 まずは、この合計4人の弟子をスカウトしました。ここで、今日、最後に注目したいのは、第一に彼らの行動です。両方とも「すぐに」と書いてあります。そしてどちらもただついて行ったのでなく「網を捨て」「舟と父を残し」と、自分が握り締めていたものを手放しています。彼らは身支度とか、魚臭い手を洗うこともなく、着替えることもなく、しかも、大事にしているものを手放して、ついて行きました。 
ここに弟子としてイエス様に召されている者の大切な姿勢を学ぶことができます。それは、イエス様に招かれたら、よくわからなくてもまずは、すぐについて行くということです。これはイエス様にだけ適用できることです。一般的にはよくわからないのについて行ってはいけません。
 私は高校3年生のときに洗礼を受けました。そのとき、いったいイエス様の何がわかって、何を理解して洗礼を受けたのでしょうか。確かにぼくのために十字架にかかって死なれた。三日目に復活された。それは信じました。でも理解していたのかと言えば、全然そうではありませんでした。聖書も殆ど読んでいませんでした。でも当時は何もわからないのに、すぐに日曜学校の先生の奉仕をするのが当たり前でした。だから毎週大変でした。わからないから聖書を読まざるを得ません。その延長線上で牧師になっています。みなさんはいかがでしょうか。洗礼受けたときって、何もかもわかって洗礼受けましたか?
 でも、その「すぐに」が、かえって良かったと今は思います。「すぐに」だったからこそ、よく聖書を読むことになりました。いつも子どもたちに語るみことばを頭に置きながら仕事をしたりしていると、話は下手くそでも、不思議と神様のことばを伝えることの嬉しさが湧いて来るのです。だから、牧師という役目も、得意だからしているのではありません。苦手で、ホントはやりたくないけど、不思議な喜びが根っこにあるから続けられると思います。
 またイエス様の弟子は、イエス様に従うときに手放すものがあることも教えています。それがペテロとアンデレは漁師のいのちである網でした。ヤコブヨハネは舟と父親でした。いずれも、それぞれの兄弟にとって大切なものです。ここにイエス様への献身があります。
 ここまで来ると、自分には無理だと思う方がおられるかも知れません。でも、大丈夫です。イエス様は弟子にはとても手厚いお方です。なんと言っても、見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいると約束してくださるお方です。しかも、今日の18節と21節を見てください。イエス様は、彼らを呼ばれるときに、必ずどうされているか。それは「ご覧に」なったということです。これが最後の注目点の二つ目です。イエス様は、いつも共におられるお方。そしていつも見ていてくださるお方です。それは今召し出すあなたのことをしっかり支えているよという、イエス様の光としての役目です。
 イザヤ書の預言最後に、「光が上った」とあります。これは、遠くにある光ではなく、あなたの真上に上った、あなたの上にいつも輝いているということです。イエス様が、そのように、あなたの上にいつも輝く明けの明星だということなのです。このご覧になっている主の目は、あなたへの祝福と支配と守りであるということです。

 

結論
 イエス様の宣教。それは闇の中にある者に光を与えること。それがイエス様の宣教でした。夕があり朝があったと創世記から続く、光に向かうこと。それが宣教です。そして、その目的は神の国の建設でした。そのために、この地上に教会を置き、そこに弟子として私たちを招いています。
 その弟子に必要なのは何か。資格でしょうか。能力でしょうか。学歴があることでしょうか。何かができることでしょうか。健康であることでしょうか。お金を持っていることでしょうか。心が強いことでしょうか。
 そうではありません。愚か者であること、弱いこと、貧しいこと、病にあることをそのまま認め受け入れて、「すぐに」、しかも、今握っているものを「捨てて」手放してイエス様について行くことです。この世の価値観、富み、誉は神の国では必要ありません。むしろ神の国を遠ざけます。大切なのはへりくだった生き方です。
 イエス様は私たちがそうできるように、その模範となり貧しくなられ、「ナザレのイエス」と馬鹿にされ、蔑まれて、神の身分を捨てて、十字架の道を歩んでくださいました。そして、模範だけで終わらず、私たちの罪も汚れも、弱さも、醜さも、病も背負って十字架の上で死なれたのです。それはどんなに暗い闇の中にいる人も、どんな寂しい人生を歩む人をも神の国に招くためでした。そのお方の目は今日、あなたをご覧になっています。わたしについて来なさい。その言葉に今週もすぐに、何もかも捨てて従ってまいりましょう。

 

祈り 愛する天のお父様。イエス様が私たちがいる暗闇に希望の光として来てくださったことを感謝します。そして、今、その宣教の業を担うために弟子として招いてくださり感謝します。あなたは弟子たちがどうするか、私たちが、すぐに従うのか、ぐずぐずするのか見ておられます。どうか、信仰をもって、勇気をもって、あなたに従う新しい一歩を踏み出せるように導いてください。今日、来られなかった方々にも、あなたの守りと祝福がありますように。主の御名によって。

 

◎ 「キリストの名」

Ιησούς Χριστός

序:

  私たちにとって名前とは、大勢の中にある個を指定する、または判別する役割がある。また、名前はその個の存在や働きを表わす場合にも有効である。特に人間における名前は、その個々人の固有名詞としての名ばかりか、称号であったり階級であったりする場合もある。そのような一般論としての「名前」を念頭に「キリストの名」を考え、聖書と言う眼鏡を通してキリストご自身の輪郭、実体に近づきたいと思う。

 

I. この世におけるキリストの名とは
  この世界において、キリストという名前は多くの人々に知られている。もともとは、ヘブル語で「油注がれた者」を指すמָשִׁיחַメシアのギリシャ語訳Χριστὸςクリストスという一般名詞である。しかし、今や「キリスト」という名は、世界的な規模でナザレのイエスの称号であり、ほぼ固有名詞として用いられる。
  日本においては、1549年にポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教ローマ・カトリック)が伝えられた。その際、ラテン語聖書のDeusデウスを「大日」と訳し、その後「大日」では密教における大日如来と混同されてしまうため、ラテン語の音読みのデウスと変更したが、「イエス」についてはザビエルが属する托鉢修道会イエズス会の名にもなっている「イエズス」が神の御子の名として使われるようになった。そのキリスト教集団は日本人から切支丹と呼ばれ、九州から東北まで広まったが、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出され、その後の徳川幕府においても切支丹禁止令によって、その名は邪宗門の代名詞のように扱われるようになった。
  近代日本において、キリストという名はキリスト教の開祖として知られるのが一般的であり、釈迦やマホメットと並んで世界三大宗教の一つとして教育されている。多くの日本人はキリストと言う名を聞いても、そのような理解の域を出ない。しかし、この世での名前の用い方においても共通している名前の権威にまず注目したい。権威は他を従わせることのできる力であり、その権威によって治められるものがあることを示している。

  たとえば、建設工事等で申請すると許可が出る「道路使用許可」等は、その道路を所轄する警察署長名で許可される。それは、一介の巡査の肩書では用を成さないからである。また競馬で目にする天皇賞も、その名に権威があるからこそ価値がある。ここで共通しているのは、何れの場合もそれぞれ本名を用いずに、その肩書や称号、役職名が先行している点である。それは、個人の名は個人が退任するか、死亡することにより、その権威はその個人から継承した個人に移行するからである。
  キリストの名には前述したように「油注がれた者」という、イスラエルの王を示す意味がある。それは預言書によれば、後に来る世界を治める支配者メシアとしての権威をも表わす。新約聖書においては、悪霊を従わせる力、病を癒す力、罪を赦す力があることがわかる。主イエスの弟子たちはほとんどがガリラヤの漁師であったが、キリストの名によって上記の業を行った。それは弟子たちに、癒しの業や悪霊追い出しのスキルがあったからではなく、あくまでキリストの名にある権威である。マタイの福音書における大宣教命令(マタイ28:18~20)において、主イエスは「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と仰せられた。そしてあらゆる国の人々を弟子として「父、子、聖霊の名によって」バプテスマを授けなさいと命ぜられた。まさにキリストの名における神の権威がそこにある。
  ゆえに、いまやキリストの名にある権威は、イエスというお方にのみ使用される称号であり、他の者に移行することのない神の御名である。


II. ἐγώ εἰμι
 聖書に見る「キリスト」の名は直接的な意味としては、福音書記者が記しているようにイエスの職制、権威、資格である。ルカの福音書4:16~30に記されている主イエスイザヤ書61章を朗読し、そこに預言されている「油注がれた」者がご自分であることを宣言された。
  その「油注がれた」お方のお言葉から、「キリストの名」にある豊かさを見ることができる。その言葉はἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)である。ἐγώ εἰμιはイエスの神性を表わす語としてよく知られているように、かつてシナイ山にてモーセが聞いた神の聖名「わたしはある」(出エジプト3:14)のことであるが、ここでは特にヨハネ福音書におけるいくつかのἐγώ εἰμιに注目する。
①「わたしがいのちのパンです」(6:35)
②「わたし世の光です」(8:12、9:5)
③「わたしは羊の門です」(10:7)
④「わたしは良い牧者です」(10:11)
⑤「わたしは、よみがえりです。いのちです」(11:25)
⑥「わたしは、道でり真理でありいのちです。」(14:6)
⑦「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)
●「わたしがそれ(キリストと呼ばれるメシア)です」(4:25~26、18:5)
  上記8つのキリストの名には、イエス・キリストがどのようなお方かを表す意味が含まれている。このすべてが私たち人間のだれもが必要とするかけがえのないものである。つまり、今やナザレのイエスの称号として固有名詞化したキリストの御名には、私たちの人生においての大切な答えが集結していることがわかる。
  これは、何れも他に例を見ないキリストの卓越性に気付かせられる。

  「真理」を例に挙げると、他の宗教者であるならそのほとんどが、それぞれの開祖が探究し発見した「真理」を指し示すものではないだろうか。しかし、キリストは「ご自身」と「真理」をイコールとされたのである。それは「道・いのち」においても「羊の門」においても「いのちのパン」「世の光」「まことのぶどうの木」「よみがえり」そして「メシア」においても同様である。それは、それぞれがキリストご自身であるということである。だから、キリストがこの地上に来られたということは、「真理」が受肉したということであり、また「道」が、「いのち」が人の姿をとって来られたということである。
  これはかつてシナイ山において「わたしはある」と言われたお方の具体的なお姿であり、私たち人間との関わりの中で、私たちにとってなくてはならないお方であることを表わしている。主はその存在を福音書においてもはっきりと示し、私たちがそのキリストを通して父なる神を体験的に知るように顕わされたのである。
  主イエスヨハネ17章のいわゆる「大祭司の祈り」の中でこう祈っている。
「わたしは、あなたが世から取り出してわたしにくださった人々に、あなたの御名を明らかにしました。・・・わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。・・・そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
 主イエスは、父の御名を私たちに明らかにし、父が御子に与えられた御名の中に私たちを保ち、知らせ、またこれからも知らせ続けるのは、父の御子に対する愛が私たちの中にあり、御子ご自身が私たちの中にいるためだと言われている。

 

Ⅲ.わたしもその中にいる
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイ18:20
 それが、キリストの名によって集まるところにキリストご自身が臨在されるということである。これもまた、他に例を見ない事実である。私たちの名前を考えた場合、名前が語られたからと言って、そこに私たちの存在があるとは言えない。その名前における権威は人間でもあり得る使われ方であるが、名前とともに実体の臨在を一致させることはできない。しかし、キリストはその名によって集まるところにともにいると約束された。それは信じる者すべてに与えられた主の御霊において日々体験し、その臨在を覚えることができるということである。
 そのインマヌエルの主は、こうも言われた。
「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:14)
 私たちは、キリストの名によって祈る。それは、第一にキリストがそこに臨在されることを求めるからである。私たちともともにいてくださる主を私たちは慕い求める。この混沌とした世界にあって、キリストの臨在の中集まる我らに主の知恵、主の愛、主のきよさを私たちは必要としている。
  第二には、私たちの祈りを天の父に届けるためである。それは、御子が、神と私たちを執成す唯一の大祭司であり、仲介者だからである。私たちはキリストの血による贖いのゆえに救われた。その血潮は今もなお、私たちのこの地上を歩む上で汚れてしまう足を洗いきよめ続ける。

 

結論:

「キリストの名」・・・それは、神の御子、メシア、王、預言者、大祭司、犠牲の小羊、しもべ、完全な人間としての使命を帯びている。そして天においても地においても、あらゆる被造物を従わせることができる権威が、この「キリストの名」にある。そして、「わたしはある」という名をモーセに示されたお方は様々なἐγώ εἰμιのお姿で私たちの「道・真理・いのち、門、いのちのパン、よみがえり、メシア」として、信じる者とともにある。それは「キリストの名」が、私たち人間にとってなくてはならない、かけがえのない存在であることを表わしている。それが、キリストの名によって祈ることの必要をも教えてくれる。それは、その名を呼び求め、その名で集まり、その名で語りあうそのとき、キリストの権威・キリストの卓越した神性に触れることができるからである。それは、私たちの想像力や思い込みでキリストをイメージしているのではなく、まさしく今も生きて働かれているキリストご自身の臨在がそこにあり、まさに「わたしを見たものは父を見たのです。(ヨハネ14:9)」 とあるように、キリストの名によって集められた私たちは、キリストの臨在を通して、天まします我らの父を知ることができるのである。それは、キリストに連なる我々キリスト者は「父、子、聖霊の御名によって」、キリストとバプテストされたという聖霊の恵みの中に取り込まれているからである。

◎新約聖書における 「貧しい」 poorとは?

 「貧しい」 poor
1. 【新約聖書】でのpoor
① πτωχός [34] 形容詞 「貧しい」        ●語源《πτωσσω うずくまる、ちぢこまる》
(共観福音書20回、ヨハネ4回、パウロ書簡4回、ヤコブ4回、黙示録2回。)
 ※πτωχεύω[1]動詞   πτωχεία[2]名詞  

② πένης[1]形容詞 (Ⅱコリント9:9)名詞的用法「貧しい人、貧乏人」 LXX.詩篇112:9引用。
πενιχρός[1] 形容詞(ルカ21:2)「貧しい…やもめ」 ●語源《πόνος 労働、苦痛、苦しみ》

2.πτωχόςが使用されている箇所から「貧しい」を考える。
① 福音書における「貧しい」
   福音書においては、山上の説教のマタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。」から始まる。しかし、時系列的に見るならば、ルカ4:18「ナザレの会堂」における主イエスによるイザヤ書の朗読が最初に来ると考えられる。つまり「貧しい人々に福音を伝える」メシアであるご自身をまず旧約聖書から明らかにし、宣言されたということができる。
   ここで使われている「貧しい」は、第一義的には文字通りの生活困窮者であると言える。特にルカ6:20「平地の説教」においては「山上の説教」にある「心の」が使われず、直接的に生活困窮者のことを指していると思われる。しかし、ギリシャ語で「貧しい」を表わす単語が二つある中で、πτωχόςが使用されているのはなぜだろうか。
   πτωχόςの語源は、うずくまる、ちぢこまる(πτωσσω)である(1)。一方、πένηςにおいてはⅡコリント9:9でしか使われておらず、πενιχρόςもルカ21:2(貧しいやもめ)にしか使用されていない。ただし、πένηςもπενιχρόςも語源がπόνος(労働・苦痛)であることにより、「うずくまる、ちぢこまる」が「労働・苦痛」の結果もたらされる状態を表わしていることから、πτωχόςの方が「貧しさ」のレベルが重いことがわかる。バークレーによると、「πένηςは、豊かに暮らしている人の反対側の人々を単純に指している。…πτωχόςは、本当に餓死する危険が内在している情けない貧乏を言う」と解説されている(2)。
   野上綾男師が釜ヶ崎の生活困窮者について、貧しさの極限状態にある人たちにとって、お金は問題解決の手段にならないと語られたことを思い出す。単なる経済的困窮者であれば、お金があれば生活を軌道に乗せて、生活の安定につなげていけるかも知れないが、そこに社会的、民族的な傷が加われば、その傷は簡単には癒せないということだろう。
   そのような貧困の現実を鑑みれば、ここで言う第一義的な「貧しい」とは、手の施しようもなく落ちぶれた状態。その困窮ぶりが生命に関わるほどの窮まった、お金では解決できない状態であると言うことができる。そういう意味で、ルカの福音書に見られる「平地での説教」での「貧しい者」に語られた主イエスの言葉は、非常に強い慰めと励ましに満ちた革命的なメッセージが込められていることがわかる。
さらに、ここに「心の(πνεύματι)」が入ると更にその意味が変ってくる。直訳すれば「霊的に」という意味であるから、ここでの「心の貧しい者」とは経済的、社会的貧困ではなく、霊において苦しみ、うずくまっている状態ということになる。それは、言うなれば神から遠ざかって苦しみ、行き場を失っている人すべてということはないだろうか。それが神との断絶まで含んでいるとしたら、それはもう人間の力ではどうすることもできない。
だからこそ、そこに神の御子が立っておられる。だからこそ、キリストがその貧しさを自ら負い、十字架にかかって死んでくださった。その贖いの業が「心の貧しき者」を天の御国に近づけたのである。あとは、その救いを用意された神の前に、そのままの自分を認めて、その救いを受け取るだけである。それが福音である。
この箇所の解釈は新聖書注解では、「富の多少ではなく、自分の心の破産状態を知って神により頼む者」という意味があると言われている(3)。W・バークレーも「絶望的なほどの窮乏を自覚し、神においてのみ、その窮乏が満たされることを心から確信している人は幸いである」と言っている(2)。
  ⇒ヤコブ2:5「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」
 
 ② キリストのへりくだりを表わす「貧しい」…Ⅱコリント8:9
  「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
   ここでも、主イエスが実際に金持ちだったか貧乏だったかという話ではなく、ピリピ2:6~8にあるように、主は神としての栄光のお立ち場を捨てて、仕える者の姿をとって来られたという意味であると言える。つまり、へりくだられたということである。

 ③ 「貧しい」と訳されていない唯一の箇所…ガラテヤ4:9
  「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」NIV「weak and miserable…」(弱くて惨めな)、新共同訳「無力で頼りにならない」⇒役に立たない、どうしようもない最低な状態を意味していると思われる。
 
④ 黙示録で解き明かされる「貧しい」の意味の深さ
 Rev.3:17「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
 ⇒ただ貧乏だというよりも、みじめ、哀れ、盲目、裸といっしょに使うことにより、価値のない者を強調している。これまで見て来た新約聖書の「貧しい」πτωχός=poorの使用状況から、ここで使用されている「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」とは、すべて「貧しい」に置き換えることができる言葉であると言うことができる。
 
 ⑤ マタイの福音書における「貧しい」で繋がるエピソードの連続性
  Matt5:3~Matt11:5~Matt19:21~Matt26:9~Matt26:11
  前述したように、主イエスのメッセージは革命的であった。それは「貧しい者」が天の御国に入る
 という、当時の常識を根底から覆すことであったからである。バプテスマのヨハネはヘロデに捕えら
れたとき、イエスが本当にメシアなのか、弟子を通してその真意をイエスに尋ねた。答えは「貧しい
者たちに福音が伝えられている」ことがその証拠であった。それでは、その貧しい者とはだれなのか。
そこに現れた金持ちの青年は、自らを完璧だと思いつつも確信がないため、永遠のいのちを得てい
 ると主イエスからのお墨付きを期待した。しかし、彼はイエスよりも高い場所に自分を置いていることに気がつかず、全財産を手放すチャレンジに悲しみながら去ってしまった。そのあと、ナルドの香油の事件があり、ベタニヤのマリアの行為に憤慨する弟子たち。しかし主は、彼女の行為を喜ばれた。それは主への油注ぎであり、そのために聖別して、主への愛を具体的に表わしたからである。「貧しい人たちに施しができたのに」という弟子たちの言葉は、そのまま自らに返って来る。その言葉には貧しい人たちに対する愛はなく、また主に捧げようとするマリアのような主への愛もなかったが、主にいのちをかけているという自信があった。しかし、十字架を目の当たりにして、その自身は打ち砕かれた。ペテロは復活の主に三度も「わたしを愛するか。」(ヨハネ21:15)と問われ心を痛める。
彼らは体験をもって自分の貧しさを知った。そこで真の油である聖霊の注ぎを受けることになる。

 

Πτωχός  poor  「貧しい」>πτωσσω うずくまる、ちぢこまる

Matt. 5:3 ¶ Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι· ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」
「心の貧しい者は幸い。天の御国はその人のものだから。」
Matt. 11:5 τυφλοὶ ἀναβλέπουσι, καὶ χωλοὶ περιπατοῦσι, λεπροὶ καθαρίζονται, καὶ κωφοὶ ἀκούουσιν, νεκροὶ ἐγείρονται, καὶ πτωχοὶ εὐαγγελίζονται·
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。」
Matt. 19:21 ἔφη αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· Εἰ θέλεις τέλειος εἶναι, ὕπαγε πώλησόν σου τὰ ὑπάρχοντα καὶ δὸς πτωχοῖς, καὶ ἕξεις θησαυρὸν ἐν οὐρανῷ· καὶ δεῦρο, ἀκολούθει μοι.
「 イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」
「イエスは、彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」
Matt. 26:9 ἠδύνατο γὰρ τοῦτο τὸ μύρον πραθῆναι πολλοῦ, καὶ δοθῆναι πτωχοῖς.
「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
「この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
Matt. 26:11 πάντοτε γὰρ τοὺς πτωχοὺς ἔχετε μεθ᾿ ἑαυτῶν, ἐμὲ δὲ οὐ πάντοτε ἔχετε.
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」
Mark 10:21 ὁ δὲ Ἰησοῦς ἐμβλέψας αὐτῷ ἠγάπησεν αὐτόν, καὶ εἶπεν αὐτῷ, Ἕν σοι ὑστερεῖ·
ὕπαγε, ὅσα ἔχεις πώλησον, καὶ δὸς τοῖς πτωχοῖς, καὶ ἕξεις θησαυρὸν ἐν οὐρανῷ· καὶ δεῦρο, ἀκολούθει μοι, ἄρας τὸν σταυρόν.
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」
「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」

Mark 12:42 καὶ ἐλθοῦσα μία χήρα πτωχὴ ἔβαλε λεπτὰ δύο, ὅ ἐστι κοδράντης.
「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」
「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」
Mark 12:43 καὶ προσκαλεσάμενος τοὺς μαθητὰς αὐτοῦ, λέγει αὐτοῖς, Ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι ἡ χήρα αὕτη ἡ πτωχὴ πλεῖον πάντων βέβληκε τῶν βαλόντων εἰς τὸ γαζοφυλάκιον·
「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。』」
「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。』」
Mark 14:5 ἠδύνατο γὰρ τοῦτο πραθῆναι ἐπάνω τριακοσίων δηναρίων, καὶ δοθῆναι τοῖς πτωχοῖς. καὶ ἐνεβριμῶντο αὐτῇ.
「『この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。」
「『この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。』そうして、その女をきびしく責めた。」
Mark 14:7 πάντοτε γὰρ τοὺς πτωχοὺς ἔχετε μεθ᾿ ἑαυτῶν, καὶ ὅταν θέλητε δύνασθε αὐτοὺς εὖ ποιῆσαι· ἐμὲ δὲ οὐ πάντοτε ἔχετε.
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。」
Luke 4:18 Πνεῦμα Κυρίου ἐπ᾿ ἐμέ, οὗ ἕνεκεν ἔχρισέ με εὐαγγελίζεσθαι πτωχοῖς· ἀπέσταλκέ με ἰάσασθαι τοὺς συντετριμμένους τὴν καρδίαν· κηρύξαι αἰχμαλώτοις ἄφεσιν, καὶ τυφλοῖς ἀνάβλεψιν, ἀποστεῖλαι τεθραυσμένους ἐν ἀφέσει,
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、」
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、」
Luke 6:20 ¶ Καὶ αὐτὸς ἐπάρας τοὺς ὀφθαλμοὺς αὐτοῦ εἰς τοὺς μαθητὰς αὐτοῦ ἔλεγε, Μακάριοι οἱ πτωχοί, ὅτι ὑμετέρα ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ.
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。』」
「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。』」
Luke 7:22 καὶ ἀποκριθεὶς ὁ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτοῖς, Πορευθέντες ἀπαγγείλατε Ἰωάννῃ ἃ εἴδετε καὶ ἠκούσατε· ὅτι τυφλοὶ ἀναβλέπουσι χωλοὶ περιπατοῦσι, λεπροὶ καθαρίζονται, κωφοὶ ἀκούουσι, νεκροὶ ἐγείρονται, πτωχοὶ εὐαγγελίζονται·
「それで、二人にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』」
「そして、答えてこう言われた。『あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。』」
Luke 14:13 ἀλλ᾿ ὅταν ποιῇς δοχήν, κάλει πτωχούς, ἀναπήρους, χωλούς, τυφλούς·
「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」
「祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。」
Luke 14:21 καὶ παραγενόμενος ὁ δοῦλος ἐκεῖνος ἀπήγγειλε τῷ Κυρίῳ αὐτοῦ ταῦτα. τότε ὀργισθεὶς ὁ οἰκοδεσπότης εἶπε τῷ δούλῳ αὐτοῦ, Ἔξελθε ταχέως εἰς τὰς πλατείας καὶ ῥύμας τῆς πόλεως, καὶ τοὺς πτωχοὺς καὶ ἀναπήρους καὶ χωλοὺς καὶ τυφλοὺς εἰσάγαγε ὧδε.
「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』」
「しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』」
Luke 16:20 πτωχὸς δέ τις ἦν ὀνόματι Λάζαρος, ὃς ἐβέβλητο πρὸς τὸν πυλῶνα αὐτοῦ ἡλκωμένος
「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、」
「ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、」
Luke 16:22 ἐγένετο δὲ ἀποθανεῖν τὸν πτωχόν, καὶ ἀπενεχθῆναι αὐτὸν ὑπὸ τῶν ἀγγέλων εἰς τὸν κόλπον τοῦ Ἀβραάμ· ἀπέθανε δὲ καὶ ὁ πλούσιος, καὶ ἐτάφη.
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」
「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」
Luke 18:22 ἀκούσας δὲ ταῦτα ὁ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῷ, Ἔτι ἕν σοι λείπει· πάντα ὅσα ἔχεις πώλησον, καὶ διάδος πτωχοῖς, καὶ ἕξεις θησαυρὸν ἐν οὐρανῷ· καὶ δεῦρο, ἀκολούθει μοι.
「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」
「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」
Luke 19:8 σταθεὶς δὲ Ζακχαῖος εἶπε πρὸς τὸν Κύριον, Ἰδού. τὰ ἡμίση τῶν ὑπαρχόντων μου, Κύριε, δίδωμι τοῖς πτωχοῖς· καὶ εἴ τινός τι ἐσυκοφάντησα, ἀποδίδωμι τετραπλοῦν.
「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」
「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」
Luke 21:3 καὶ εἶπεν, Ἀληθῶς λέγω ὑμῖν, ὅτι ἡ χήρα ἡ πτωχὴ αὕτη πλεῖον πάντων ἔβαλεν·
「言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。』」
「それでイエスは言われた。『わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。』」
John 12:5 Διατί τοῦτο τὸ μύρον οὐκ ἐπράθη τριακοσίων δηναρίων, καὶ ἐδόθη πτωχοῖς;
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
John 12:6 εἶπε δὲ τοῦτο, οὐχ ὅτι περὶ τῶν πτωχῶν ἔμελεν αὐτῷ, ἀλλὰ ὅτι κλέπτης ἦν, καὶ τὸ γλωσσόκομον εἶχε, καὶ τὰ βαλλόμενα ἐβάσταζεν.
「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」
「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」
John 12:8 τοὺς πτωχοὺς γὰρ πάντοτε ἔχετε μεθ᾿ ἑαυτῶν, ἐμὲ δὲ οὐ πάντοτε ἔχετε.
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
John 13:29 τινὲς γὰρ ἐδόκουν, ἐπεὶ τὸ γλωσσόκομον εἶχεν ὁ Ἰούδας, ὅτι λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, Ἀγόρασον ὧν χρείαν ἔχομεν εἰς τὴν ἑορτήν· ἢ τοῖς πτωχοῖς ἵνα τι δῷ.
「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」
「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、『祭りのために入用の物を買え。』と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。」
Rom. 15:26 εὐδόκησαν γὰρ Μακεδονία καὶ Ἀχαΐα κοινωνίαν τινὰ ποιήσασθαι εἰς τοὺς πτωχοὺς τῶν ἁγίων τῶν ἐν Ἱερουσαλήμ.
マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。」
「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。」
2Cor. 6:10 ὡς λυπούμενοι, ἀεὶ δὲ χαίροντες· ὡς πτωχοί, πολλοὺς δὲ πλουτίζοντες· ὡς μηδὲν ἔχοντες, καὶ πάντα κατέχοντες.
「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」
Gal. 2:10 μόνον τῶν πτωχῶν ἵνα μνημονεύωμεν, ὃ καὶ ἐσπούδασα αὐτὸ τοῦτο ποιῆσαι.
「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。」
「 ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。」
Gal. 4:9 νῦν δέ, γνόντες Θεόν, μᾶλλον δὲ γνωσθέντες ὑπὸ Θεοῦ, πῶς ἐπιστρέφετε πάλιν ἐπὶ τὰ ἀσθενῆ καὶ πτωχὰ στοιχεῖα, οἷς πάλιν ἄνωθεν δουλεύειν θέλετε;
「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」
「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」
James 2:2 ἐὰν γὰρ εἰσέλθῃ εἰς τὴν συναγωγὴν ὑμῶν ἀνὴρ χρυσοδακτύλιος ἐν ἐσθῆτι λαμπρᾷ, εἰσέλθῃ δὲ καὶ πτωχὸς ἐν ῥυπαρᾷ ἐσθῆτι,
「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。」
「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。」
James 2:3 καὶ ἐπιβλέψητε ἐπὶ τὸν φοροῦντα τὴν ἐσθῆτα τὴν λαμπράν, καὶ εἴπητε αὐτῷ, Σὺ κάθου ὧδε καλῶς, καὶ τῷ πτωχῷ εἴπητε, Σὺ στῆθι ἐκεῖ, ἢ κάθου ὧδε ὑπὸ τὸ ὑποπόδιόν μου·
「その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、」
「あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、」
James 2:5 ἀκούσατε, ἀδελφοί μου ἀγαπητοί. οὐχ ὁ Θεὸς ἐξελέξατο τοὺς πτωχοὺς τοῦ κόσμου τούτου, πλουσίους ἐν πίστει, καὶ κληρονόμους τῆς βασιλείας ἧς ἐπηγγείλατο τοῖς ἀγαπῶσιν αὐτόν;
「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」
「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」
James 2:6 ὑμεῖς δὲ ἠτιμάσατε τὸν πτωχόν. οὐχ οἱ πλούσιοι καταδυναστεύουσιν ὑμῶν, καὶ αὐτοὶ ἕλκουσιν ὑμᾶς εἰς κριτήρια;
「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。」
「それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。」
Rev. 3:17 ὅτι λέγεις ὅτι Πλούσιός εἰμι, καὶ πεπλούτηκα, καὶ οὐδενὸς χρείαν ἔχω, καὶ οὐκ οἶδας ὅτι σὺ εἶ ὁ ταλαίπωρος καὶ ἐλεεινὸς καὶ πτωχὸς καὶ τυφλὸς καὶ γυμνός·
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
Rev. 13:16 καὶ ποιεῖ πάντας, τοὺς μικροὺς καὶ τοὺς μεγάλους, καὶ τοὺς πλουσίους καὶ τοὺς πτωχούς, καὶ τοὺς ἐλευθέρους καὶ τοὺς δούλους, ἵνα δώσῃ αὐτοῖς χάραγμα ἐπὶ τῆς χειρὸς αὐτῶν τῆς δεξιᾶς, ἢ ἐπὶ τῶν μετώπων αὐτῶν,
「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」
「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。」

 

●「みんな工事中」

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私たちはみんな工事中。

クリスチャンはイエス様を信じて救われ、模範であるイエス様に似た者となるために日々新たにされています。

 


しかし、まわりに迷惑をかけられることもあるし、逆に自分が迷惑をかけることもあるのも事実です。それは互いに工事中だからです。

 


未完成の建造物にはまだ足場が組んであり、足場が外されていても内装が終わっていない場合もあります。それでは、まだ家屋として人が暮らすことはできません。しかし、私たちが腕の良い棟梁であるキリストに留まり続ける限り確かに完成に向かっているのです。

 


ですから「ご迷惑をおかけします。ご協力をお願いします」とお互いにわきまえつつ、御霊の助けによりイエス様の似姿へと建てられていきたいものです。

 


"私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"

コリント人への手紙 第二 3章18節

(聖書 新改訳2017)

● 詩篇 46篇:「わが砦なる万軍の主」

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写真はマサダの要塞跡


1,神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
2,それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3,たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ

 

4,川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5,神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
6,国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7,万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ


8,来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9,主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
10,「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
11,万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ

 

 

私たちの人生は、いつも死と隣り合わせであり、幸せと不幸もまた、いつも表裏一体のように、私たちの人生を取り巻いています。それは、信仰者であっても、信仰者でなくても変わりありません。なぜなら、私たちはみな、この世という、人間の罪ゆえに呪われてしまった、滅びに向かっている世界に住んでいるからです。

 

ですから、この世にあっては艱難があるのです。主イエスは言われました。

"これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」"
ヨハネ福音書 16章33節

主イエスも信仰者には苦難があると言っています。それなら、信仰を持つ意味や価値はどこにあるのでしょうか。

その答えがこの詩篇に言い表されているのです。

 

私たち人間にとって最も大きな安心は神がともにおられるということです。それは、この呪われた世にあっては神の存在が私たちの砦だからです。それで詩人は宣言するのです。

1~3節

"神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ"  

神の臨在は、たとえ自然災害が起ころうとも、天地がひっくり返り、世界の終わりが来ようとも、神という絶対的な存在が私たちの神である以上、そのお方のものとされた私たちにとっては何よりの支えであり保証だということです。

 

なぜなら、神がおられるところが神の国だからです。神の国とは神の支配があることを意味しています。だから一見そこが地獄に見えても神がともにいるなら、そこは天国だと言えるのです。

 

私たちは主の祈りの中で、「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈りますが、この祈り自体が神の臨在を求め、神の支配が天だけではなく、この地にも及び、この地にあっても天国の安心を与えてくださいという願いなのです。その主がおられるという安心に満たされるとき、状況がまだ変わっていないにも関わらず、まず私たちの心に平安が訪れます。その事実をこの詩人は歌います。

 

4~7節

"川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶け
る。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ"


では、その願いは単なる願いで終わるのでしょうか。この祈りは気休めなのでしょうか。そうではありません。生ける神は、私たちの万軍の主とも言われています。それは世界のどんな軍隊よりも、どんな世の力を結集しても敵わないお方が私たちの主であるという意味だからです。

 

8~11節

"来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ"

 

神は人間の中にある、神に頼らない力をねじ伏せることのできるお方です。全ての戦さを終わらせて、真の平和を建てあげることができるお方です。その希望であり現実に起こることとして詩人は確信をもって歌います。その平和は単なる戦争が終わった。戦争が止まっただけのものではありません。

国々の間で主こそ神であるとあがめられるためだと、主は言われるのです。

 

全ての国の人たちが戦いをやめ、またこの呪われた地が終わりを告げ、神の完全な支配によって治められるとき、そこに真の神である主を聖とし、その御名を崇める礼拝が始まります。

 

この礼拝に私たちは招かれているのです。この世では苦難はあります。それは避けられません。しかし、そのような時代にあっても、そのような国にあっても私たちは希望を失いません。なぜならば、既に救い主がこの地に来られて、私たちの罪を贖い、信じる者と共にいてくださっているからです。

 

それが聖霊の内住です。

詩人は言います。

「いと高き方のおられるその聖なる所を。神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。」

 

この歌はまさに現代に生きる私たちクリスチャン一人ひとりのことでもあるのです。私たちは今、神の「聖なる所」とされ、神なる霊が私たちのただ中におられるからです。その私たちが神の都と呼ばれていることは、何という祝福でしょう。その都は揺るがず、しかも、朝明まで助けてくださるとは、明けの明星である主イエスがもう一度来られるときまで、いつも共にいて私たちの人生の後ろ盾となり、いついかなる時も神の都として助けてくださるということです。

 

今日も神の聖なる所、また神の都とされた恵みを覚えていきたいと思います。それは神の都とされたあなたから、神の生ける川が流れ出て、あなたを通してまだ神を知らない、またこの世の中で救いを知らずに苦しんでいる人たちに、あなたから流れ出る神のいのちの水を与えることができるからです。

それが我が砦なる万軍の主がともにいる幸いなのです。

 

「川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。」4節

"「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」"
ヨハネ福音書 7章37~38節

"御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。"
ヨハネの黙示録 22章1~2節

●詩篇 42篇 「わがたましいよ」

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1,鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2,私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
3,昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
4,私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
5,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
6,私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
7,あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
8,昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
9,私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」
10,私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。
11,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

 

  信仰者は世の人々からは「宗教をやっている人」、「信心している人」と言われています。とにかく、何かを信じている人だと言うことで、何かにつけて、信じてない人との比較がその言葉の裏にはあります。

  基本的には、信じていない方が楽だと言いたいのです。信じていない人と言っても、お盆には墓参りしたり、正月には初詣をするのですが、それは信心のうちに入っていないようです。

  つまりは、宗教にはまっているか、そこそこで済ましているかという基準なのです。

  確かに、神でないものを神であるとして拝み、そのために時間と労力を使っているならば、それは虚しいことです。それは、石や木に向かってお父さんとかお母さんと呼ぶようなものだからです。

  しかし、私たちを造り、いのちを与え、日々支えておられるお方がいるのに、それを無視することはできません。

  人は死んだらどこへ行くのか。そもそも、人はどこから来たのか。自然発生的に偶然に、この精密な身体を形づくって存在しているのか。その答えを持っていることが、どうしてそんなに、蔑まれたり、嘲笑われることなのでしょうか。

 

  この詩篇の詩人は、周囲の嘲笑う人たちの中で、なおも主を慕い求める思いを自分のたましいに言い聞かせ、自分のたましいを奮い立たせようとしています。


1,鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2,私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

3,昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
4,私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

5,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
6,私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
7,あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
8,昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
9,私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」

 

  鹿が谷川の流れを喘ぎ求めるほど慕うように、私も神である主を慕う詩人の悲しみの中にありながらも、なおも「わがたましいよ」と神への想いが絶望とならないように、むしろ神の助けが来ることを切に願っているのです。

  信仰者も悩み、心が折れ、悲しみも苦しみも、そして人との争いや、項垂れを経験することがあります。そのときは本当に辛く悲しいものです。目の前が真っ暗になることもあるのです。

  そういうときに、神を信じない人からは、宗教をやっててもそうなるんだったら、やらないほうがましとか、何も信じてないほうが楽だと言われたり、思われたりするのです。

 

10.私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。

   しかし、この詩人は繰り返すように、こう言います。


11,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

 

  信仰者もこの世にあって、また神の民の群れである教会にあっても、また項垂れ、思い乱れることが多々あります。しかし、目に見えるものが全てではなく、むしろ目には見えないが確かに生きておられる神の存在、その意思、力、全能の業、特に神の無限のきよい愛を私たちは既に体験し、知っているのではないでしょうか。

  この詩人も経験していないことを、現代の私たちは既に体験しているのです。それが、愛する、かけがえのない御子を遣わし、犠牲にしてまであなたを取り戻したいとされた、その愛です。

  私たちが主を慕う以前に、神はあなたを慕い、あなたのその存在を取り戻すために、御子イエスを十字架にかけ、私たちの罪の身代わりに処罰されました。

  ここに愛があるのです。神様は鹿が谷川の流れを慕い喘ぐが如く、あなたの存在を慕い喘ぎ、御子さえ惜しまずに差し出して、あなたのたましいを取り戻してくださったのです。

  この神様を今日も慕い求めていきたいと思います。どんな絶望の淵にあっても、神の救いと支配は既にあなたの上に、あなたのうちにあるのです。

  この詩人のように、今日もあなたのその置かれている只中で、私たちもこう宣言しましょう。

「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」