のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●詩篇 42篇 「わがたましいよ」

f:id:kinokunizaka66:20190126073253j:image


1,鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2,私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
3,昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
4,私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
5,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
6,私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
7,あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
8,昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
9,私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」
10,私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。
11,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

 

  信仰者は世の人々からは「宗教をやっている人」、「信心している人」と言われています。とにかく、何かを信じている人だと言うことで、何かにつけて、信じてない人との比較がその言葉の裏にはあります。

  基本的には、信じていない方が楽だと言いたいのです。信じていない人と言っても、お盆には墓参りしたり、正月には初詣をするのですが、それは信心のうちに入っていないようです。

  つまりは、宗教にはまっているか、そこそこで済ましているかという基準なのです。

  確かに、神でないものを神であるとして拝み、そのために時間と労力を使っているならば、それは虚しいことです。それは、石や木に向かってお父さんとかお母さんと呼ぶようなものだからです。

  しかし、私たちを造り、いのちを与え、日々支えておられるお方がいるのに、それを無視することはできません。

  人は死んだらどこへ行くのか。そもそも、人はどこから来たのか。自然発生的に偶然に、この精密な身体を形づくって存在しているのか。その答えを持っていることが、どうしてそんなに、蔑まれたり、嘲笑われることなのでしょうか。

 

  この詩篇の詩人は、周囲の嘲笑う人たちの中で、なおも主を慕い求める思いを自分のたましいに言い聞かせ、自分のたましいを奮い立たせようとしています。


1,鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2,私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

3,昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
4,私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

5,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
6,私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
7,あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
8,昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
9,私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」

 

  鹿が谷川の流れを喘ぎ求めるほど慕うように、私も神である主を慕う詩人の悲しみの中にありながらも、なおも「わがたましいよ」と神への想いが絶望とならないように、むしろ神の助けが来ることを切に願っているのです。

  信仰者も悩み、心が折れ、悲しみも苦しみも、そして人との争いや、項垂れを経験することがあります。そのときは本当に辛く悲しいものです。目の前が真っ暗になることもあるのです。

  そういうときに、神を信じない人からは、宗教をやっててもそうなるんだったら、やらないほうがましとか、何も信じてないほうが楽だと言われたり、思われたりするのです。

 

10.私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。

   しかし、この詩人は繰り返すように、こう言います。


11,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

 

  信仰者もこの世にあって、また神の民の群れである教会にあっても、また項垂れ、思い乱れることが多々あります。しかし、目に見えるものが全てではなく、むしろ目には見えないが確かに生きておられる神の存在、その意思、力、全能の業、特に神の無限のきよい愛を私たちは既に体験し、知っているのではないでしょうか。

  この詩人も経験していないことを、現代の私たちは既に体験しているのです。それが、愛する、かけがえのない御子を遣わし、犠牲にしてまであなたを取り戻したいとされた、その愛です。

  私たちが主を慕う以前に、神はあなたを慕い、あなたのその存在を取り戻すために、御子イエスを十字架にかけ、私たちの罪の身代わりに処罰されました。

  ここに愛があるのです。神様は鹿が谷川の流れを慕い喘ぐが如く、あなたの存在を慕い喘ぎ、御子さえ惜しまずに差し出して、あなたのたましいを取り戻してくださったのです。

  この神様を今日も慕い求めていきたいと思います。どんな絶望の淵にあっても、神の救いと支配は既にあなたの上に、あなたのうちにあるのです。

  この詩人のように、今日もあなたのその置かれている只中で、私たちもこう宣言しましょう。

「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」