のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 詩篇 46篇:「わが砦なる万軍の主」

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写真はマサダの要塞跡


1,神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
2,それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3,たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ

 

4,川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5,神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
6,国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7,万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ


8,来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9,主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
10,「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
11,万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ

 

 

私たちの人生は、いつも死と隣り合わせであり、幸せと不幸もまた、いつも表裏一体のように、私たちの人生を取り巻いています。それは、信仰者であっても、信仰者でなくても変わりありません。なぜなら、私たちはみな、この世という、人間の罪ゆえに呪われてしまった、滅びに向かっている世界に住んでいるからです。

 

ですから、この世にあっては艱難があるのです。主イエスは言われました。

"これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」"
ヨハネ福音書 16章33節

主イエスも信仰者には苦難があると言っています。それなら、信仰を持つ意味や価値はどこにあるのでしょうか。

その答えがこの詩篇に言い表されているのです。

 

私たち人間にとって最も大きな安心は神がともにおられるということです。それは、この呪われた世にあっては神の存在が私たちの砦だからです。それで詩人は宣言するのです。

1~3節

"神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ"  

神の臨在は、たとえ自然災害が起ころうとも、天地がひっくり返り、世界の終わりが来ようとも、神という絶対的な存在が私たちの神である以上、そのお方のものとされた私たちにとっては何よりの支えであり保証だということです。

 

なぜなら、神がおられるところが神の国だからです。神の国とは神の支配があることを意味しています。だから一見そこが地獄に見えても神がともにいるなら、そこは天国だと言えるのです。

 

私たちは主の祈りの中で、「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈りますが、この祈り自体が神の臨在を求め、神の支配が天だけではなく、この地にも及び、この地にあっても天国の安心を与えてくださいという願いなのです。その主がおられるという安心に満たされるとき、状況がまだ変わっていないにも関わらず、まず私たちの心に平安が訪れます。その事実をこの詩人は歌います。

 

4~7節

"川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶け
る。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ"


では、その願いは単なる願いで終わるのでしょうか。この祈りは気休めなのでしょうか。そうではありません。生ける神は、私たちの万軍の主とも言われています。それは世界のどんな軍隊よりも、どんな世の力を結集しても敵わないお方が私たちの主であるという意味だからです。

 

8~11節

"来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ"

 

神は人間の中にある、神に頼らない力をねじ伏せることのできるお方です。全ての戦さを終わらせて、真の平和を建てあげることができるお方です。その希望であり現実に起こることとして詩人は確信をもって歌います。その平和は単なる戦争が終わった。戦争が止まっただけのものではありません。

国々の間で主こそ神であるとあがめられるためだと、主は言われるのです。

 

全ての国の人たちが戦いをやめ、またこの呪われた地が終わりを告げ、神の完全な支配によって治められるとき、そこに真の神である主を聖とし、その御名を崇める礼拝が始まります。

 

この礼拝に私たちは招かれているのです。この世では苦難はあります。それは避けられません。しかし、そのような時代にあっても、そのような国にあっても私たちは希望を失いません。なぜならば、既に救い主がこの地に来られて、私たちの罪を贖い、信じる者と共にいてくださっているからです。

 

それが聖霊の内住です。

詩人は言います。

「いと高き方のおられるその聖なる所を。神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。」

 

この歌はまさに現代に生きる私たちクリスチャン一人ひとりのことでもあるのです。私たちは今、神の「聖なる所」とされ、神なる霊が私たちのただ中におられるからです。その私たちが神の都と呼ばれていることは、何という祝福でしょう。その都は揺るがず、しかも、朝明まで助けてくださるとは、明けの明星である主イエスがもう一度来られるときまで、いつも共にいて私たちの人生の後ろ盾となり、いついかなる時も神の都として助けてくださるということです。

 

今日も神の聖なる所、また神の都とされた恵みを覚えていきたいと思います。それは神の都とされたあなたから、神の生ける川が流れ出て、あなたを通してまだ神を知らない、またこの世の中で救いを知らずに苦しんでいる人たちに、あなたから流れ出る神のいのちの水を与えることができるからです。

それが我が砦なる万軍の主がともにいる幸いなのです。

 

「川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。」4節

"「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」"
ヨハネ福音書 7章37~38節

"御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。"
ヨハネの黙示録 22章1~2節