のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●出エジプト記31章:「聖別する」

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"「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。"
出エジプト記 31章2~3節

 

神はご自分の力ある業を行うために、人を選び用いられます。それは、神ご自身の素晴らしさ、その栄光が現されるためです。神の栄光現すことが人間の使命だからです。

ときに、何も特別な能力に長けていなかったとしても、むしろ、そのような者を用いられるのです。それは人が誇らず、かえって神の御力に栄光を帰すことになるからです。

 

神は取るに足らない者を選んだのは、誰をも誇らせないためだとパウロも言っています。

 

コリント人への手紙第一1章27節〜29節

"しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。"

何れにしても、神の業に選ばれた者は、その栄光を自分のものとしてはなりません。もともと持っていた能力によって神に仕えたとしても、もともと持ち合わせていなかったにしても、その業を成し遂げさせてくださるのは神だからです。しかも、生まれつき、特別な能力を持っていたにしても、その能力自体が神からの賜物であることを認めなければなりません。

 

それで、この箇所においては幕屋を造るために、フルの子ウリの子ベツァルエルを選ばれました。その仕事について、こう言われています。

"それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、
はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。"
出エジプト記 31章4~5節

神はベツァルエルの手の技を祝福して、それをご自分の栄光のために用いるのです。それは、神のことばの小さなことをも大切にする人であったからということがわかります。

私たちも神のことばのどんな小さなことをも大切にするものでありたいと思います。

 

また神は、ご自分の業を行うために、ベツァルエルだけでなく、もう一人、ともに主の業、礼拝のための器具造りを行う仲間を与えてくださいました。

"見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。"
出エジプト記 31章6節

神はともにご自分の業を行う者として、ダン部族のオホリアブを選びました。ここに、主の業のため、特に幕屋という礼拝に関わる業のために、複数の人に行わせることに注目させられます。そこには、神の知恵が与えられ、神の聖なる業における協力を学び、それこそが神の国の構成を予め示すものであることがわかります。

 

初代教会時代に、アンティオキア教会を牧する際、エルサレム教会から遣わされたバルナバは、わざわざタルソまで足を運びサウロ(パウロ)をその同労者として連れて来ました。その後、アンティオキア教会は更に目まぐるしく成長し、海外宣教のための拠点となっていくのです。

 

このように、神はご自分の業を特定の人に独り占めにさせることなく、必ず同労者を選び、仲間として協力させてご自分の聖なる御国を建設されるのです。

 

また、この二人の働きを見るときに、礼拝で使われる物を聖別する大切さも学ぶことができます。神の聖なる業には、この世の物を使わざるを得ませんが、それは単に汚い物を綺麗にして使うと言うよりも、この世の物であった物を、特別に神様専用にすると言うことです。聖なるものとするとは、この世の物と神の物と分離して使うことを意味しています。

神の物は神の物として、はっきりする。これがこのところでも教えられるのです。

"すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『宥めの蓋』、天幕のすべての備品、
机とその備品、きよい燭台とそのすべての器具、香の祭壇、
全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台、
式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、その子らが祭司として仕えるための装束、
注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」"
出エジプト記 31章7~11節

ですから、私たちの生活の中でも、日常のことに使う物と主のために用いるものとは区別することが必要でしょう。あなたは礼拝のためにどんな聖別をしているでしょうか。まず小さなことから始めても良いかも知れません。礼拝のために着る衣服を聖別するとか、礼拝には新しい下着をつけるとか、形式的にならないように注意しながら、そのような小さな取り組みから、私たち自身としての献身、聖別が求められているのではないでしょうか。

 

それは、この聖なる業にあなたも招かれているということです。今日、その事実を神は聖書を通して教えてくださいました。その業はもちろん献身者としての歩みですから、そのために自分自身を聖別して主に献げなければなりません。その生活全て、時間も力も主のものです。しかし、だからと言って働き通しでもありません。

 

必ず安息日を守らせて、しかもそれを守らなければ「殺す」とまで厳しく命じられました。ここに、主の前に休むことの大切さも教えられます。

 

"主はモーセに告げられた。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるしである。わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。
あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。
六日間は仕事をする。しかし、七日目は主の聖なる全き安息である。安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」
こうして主は、シナイ山モーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。"
出エジプト記 31章12~18節

一見厳しそうに見えるこの戒めは、神の私たちに対する愛の表現です。神があなたを愛しているのだから、あなたも命がけで愛してほしい。これが神の私たちに対する愛の御心なのです。今日も主は、そのくらい熱心でとてつもなく強い愛であなたを包み守ろうとしておられます。その愛にあなたはどう答えるでしょうか。

 

神に仕える人も、神のために用いられる道具も共通することは、神専用になること、神専用にすることです。

 

"私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」"
イザヤ書 6章8節

私たちの今日の歩みが神を愛し神専用になることを願い、お祈りいたしましょう。

 

 

 

 

 

◎ ラヂオの時間

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昨日は初めてラジオ番組の収録がありました。北海道でキリスト教の福音放送番組は二つしかないのですが、そのうちの一つのホレンコという方です。

 

朝10:30の約束だったので、ラジオメッセージとテレフォンメッセージの両方の原稿を用意して車に乗り込みました。

私の教会から約20分ほどで北海道クリスチャンセンターに到着。

 

3階にあるホレンコの事務所へ向かいました。階段を上り3階に着くと、戸が開いたお部屋がホレンコでした。

「おはようございます」と大きな声で元気よく挨拶をしながら事務所に入ると、中から品のある優しい女性の声がして、ほっとさせられました。

 

私は緊張しつつ、名刺を渡し軽く自己紹介。応対してくださったホレンコのNさんも名刺をくださり、少しの間、世間話しをして収録へ。

 

収録と言っても、メッセージの部分だけの録音です。スタジオに入って椅子に座り、原稿をめくる音がしないように、予め並べて備えました。

 

ガラス越しにNさんがキューの合図。

私はまずテレフォンメッセージを語り、間を開けてラジオメッセージを語りました。

 

私はてっきり何度もNGを出してTake5〜6くらいはあるだろうと心していましたが、何と一回でOKでした。

 

あとは編集で何とかするとのこと。

お礼を言って、そそくさとその場を後にしました。

 

初めてのラジオメッセージ収録。とても緊張しました。でも楽しかったです。何よりも電波や電話を通して福音を伝えられるのは、伝道者冥利、いやクリスチャン冥利につきます。

 

福音が多くの人に届けられ、多くの人が教会に繋がり、救いを得ることができますように。そう願わされる一日でした。

 

先日の葬儀といい、今回のラジオ出演も、どちらも福音宣教にとっての大切な役割を経験させていただき、神様に感謝しています。

 

ますます福音を伝える使命感に満たされました。ありがとうございます😊

 

 

 

◎葬儀司式

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"あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。"
伝道者の書 12章1節

 

昨日、牧師になって初めて葬儀の司式をしました。今回の葬儀は、家族葬というかたちながら、しかしキリスト教式で、礼拝の中で故人を送りたい。そういう家族の思いの中で進められた葬儀でした。

 

前日の施主の方(故人の長女)をはじめご遺族との打ち合わせのときに、葬儀とすべきか、お別れ会とするべきか考えました。それは、今回の葬儀が、他に見られるような前夜式はなく、また告別式もなく、出棺式もなく、火葬前式もない、実にシンプルな葬儀だからです。

 

それで、次女の方の提案で、お別れ会ではなく、召天式が良いということになりました。そして、召天式次第のお名前も、敬称ではなく、クリスチャンらしく「〇〇姉妹」として、故人が暫く教会には通っていなかったけれども、ここに信仰者としての旅路の転換点があることを大切にしたのです。

 

そして、実際の昨日の召天式は、施主である長女の方の奏楽で、とても明るく希望に満ちた式が始まりました。喪主(故人の夫)も最前席に座っていましたが、認知症が進み、どこまで何をご存知なのかわかりませんでした。

しかし式が進み賛美歌を歌ったとき、何とご主人が賛美歌を自分なりに歌い出したのです。後で娘さんから伺いましたが、お父さんは今まで一度も賛美歌を歌ったことがなく、むしろお母さんの信仰をよく思っていなかったということでした。

 

それは妻の亡骸を前に、妻が大切にしていた信仰を、ご主人が受け入れた姿だったのです。私たちは勝手に、もう無理だと諦めることが多いものですが、神様の前に不可能はありません。認知症があっても神様にとってそれは何の障壁にならず、かえって同席した私たちに天国への希望を与えるものとなったのです。

 

式が終わり、施主である長女と次女が一緒に私の控え室に来られたとき、お二人から伺ったのは、そういう事実でした。私も心から神を崇めました。主の奇蹟、主の御手のうちにあるものは、すべて神によって支配され、神の恵みの中に取り込まれるのです。

 

「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」今、故人は神の懐で私たちにそう語っている。そして認知症が進んでいるご主人にも、そして、集まった親族でまだイエス様を信じていない人に、「あなたの創造者を覚えよ」と言っておられると思うのです。

 

私はその素晴らしい神様の業を思い巡らしながら、車を運転して家路につきました。

 

今回、初めて葬儀の司式をさせていただきましたが、別れという淋しさはありつつも、この幸いな席に置いてくださった主に心から感謝しています。

 

 

 

●「主に身を避ける」詩篇57篇

詩篇 57篇
1,私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。
2,私はいと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。
3,神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ神は恵みとまことを送ってくださいます。
4,私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。
5,神よあなたが天であなたの栄光が全世界であがめられますように。
6,彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ
7,神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。
8,私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。
9,主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。
10,あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。
11,神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。

 

あなたは毎日安心して暮らしているでしょうか。何も不安もなく、穏やかに生活しているでしょうか。生活とは、素晴らしい言葉です。生きて活きると書きます。生き生きすること。生き生きと活きること。その言葉にはいのちが溢れ、希望が溢れています。

今、あなたはそのいのちと希望に満たされて歩んでいるでしょうか。

私は牧師になる前は、皆さんと同じように普通の仕事をしていました。その生活は、今振り返ると、本当に生き生きとしていたか、生き生きと活きていたか甚だ疑問です。

毎日の仕事に追われた約30年だったと記憶しています。いつも時間に追われて、割り当てられた1日分以上のお客様の家をまわるためには、朝早くに起きて、子どもたちの顔も見ずに出かけ、帰りも遅くに帰って来て、子どもたちだけでなく妻との会話もほぼない、そんな歩みでした。

その時の時間に追われていた苦しい時の夢を今も見て魘されるほど、それは私にとって辛い毎日だったのです。それは決して生きているとは言えませんでした。神様を信じて居ながら、まったく喜びも希望も見失っていた日々であったと思います。

 

今日の詩篇で、この歌を歌ったダビデは、サウル王に追われて逃げまわっていました。その歩みは決して生き生きとしたものではありませんでした。それで、ダビデは素直に神に叫ぶのです。

「私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。」

 生き生きと生きれない状態。それはまさに神の憐れみなしには生きれないということです。その状態であるのに、もし放っておいたら益々事は悪化し、更に生き生きできない状態に陥るでしょう。

しかし、ダビデは神様に祈り、神様に対して「私を憐れんでください」と素直にいうのです。それは、神のもとに身を避けるものを神は決して見捨てない。いやかえって力強い助けがあることを知っているからです。

そうです。神を信じて歩んでいても、気がついたら生き生き活きていない自分がいるのです。しかし、そんなときでも、神に憐れみを願い、その全能の御手に全てをお任せするとき、神はそんな私を。そして、あなたを神ご自身の御翼の陰に隠してあなたを匿い、あなたを恐れさせている全ての禍からあなたを守られるのです。

その助けは、単に状況を変えることだけで済まされるのではありません。むしろ状況がまだ変わっていなくても、その状況が変わる前から、まずあなたの心に神の平安と喜びが溢れるのです。

そのとき、どんなに苦しい中にあったとしても、何とその苦しみに耐える力が備えられ、その辛さを乗り越える勇気さえも備えられていくのです。

 

この地上は、まだ完全な神の国とは言い難いです。しかし、あなたがただ神に信頼して神にあわれんでくださいと祈るなら、おなたは間違いなく神のその完全な要塞、完全ないのちの源、その御翼の陰に匿われるのです。その中にあるなら、どんな逆境も怖くはありません。

それは、あなたを愛しあなたのために御子さえ惜しまずに死に渡された方が、あなたのことを愛おしいと、目の前のものに怯えてうずくまっているあなたを包んでくださるからなのです。

 

ダビデは、そのサウルに追われて逃げ込んでいた洞穴の中で、状況が全く変わっていないにもかかわらず、神の恵みと祝福に満たされて、神をほめたたえるのです。


10,あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。
11,神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。

 

この神への賛美は私たちの賛美でもあるのです。いつでも神と繋がり神から生かされている歩み。それは、どんな逆境に直面しても必ず希望に溢れ生かされるいのちの道なのです。

 

今日、あなたの前に横たわっている大きな課題、問題があるかも知れません。しかし、大切なことは、その状況から問題にとらわれることなく、ただ神である主に憐れんでくださいと素直に祈ることです。その祈りの中で、神はたしかにその祈りを聞かれて、あなたの口に神をほめたたえる言葉を授けるでしょう。

それが、これからのあなたの新しい歩みが始まるということなのです。どうか、このダビデのように、私たちも神の憐れみに甘えていこうではありませんか。

 

 

 

◎聖書研究:カナン人の女:Matt. 15:21~28

1. 序言
 この箇所は、23~27節の冒頭にὁ δὲまたはἡ δὲが置かれ、一節一節の意外性のある描写が豊かである。短い箇所であるが、カナンの女性とイエスとのユニークなことばのキャッチボールに読み手が引き込まれていく。
   
2. 分析
①ツロとシドン地方へ
v.21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

①-1 場面設定がイスラエルから異邦人の地へ移される。そのことをマタイは「立ち退いた」と表現する。その理由として、並行箇所マルコ7:24にある「だれにも知られたくない」思いでイスラエルの地から異邦人の地であるツロとシドンの地方へ立ち去ったことがわかる。しかもこの出来事は道端ではなく、ある「家」でのことである。
②-2 新改訳で「立ちのかれた」と訳されているἀναχωρέω(NT. 14例、内10例はマタイ)は、「退く・去る・立ち去る・帰る・ひきこもる」と訳せる1。新共同訳や口語訳では「行った」という表現にとどまる。新改訳でもマタイ2:12においては同様に「帰って行った」と訳している。KJVにおいては「departed」(出かける、去る)が用いられ、NIV、ESVにおいては「withdrew 」(撤退、引き下がる)と、より「退く」意味合いの強い表現となっている。

カナン人の女の懇願
v.22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

②-1 カナン人の女は、マルコ7:26では「この女はギリシャ人で、スロ・フェニキアの生まれであった」と紹介されている。
②-2 この場面は異邦人の地方での出来事である。ピラト相手の対話でもそうだったように、明らかにイエスは通訳なしでその地方の住民たちと会話をすることができた2。
②-3 この女性は、イエスに呼びかけた。「主よ。ダビデの子よ。」
彼女の最初の願いのことばは考え抜かれたものだった。「ダビデの子」を付け加えることでκύριεが先生以上のことを意味するようになる。異邦人の女性がユダヤ教の遍歴伝道者に対してこの二重の称号を使うことは、きわめて思いがけないことだからであるとベイリーは言う3。
②-4 当時の常識の上では、この段階で、カナン人の女は異邦人であることと、女性であるという意味において二重のハードルを越える覚悟が必要であった。
②-5 彼女の要求は、「娘が、ひどく悪霊につかれている」ので、「私をあわれんでください。」という、娘の癒しではなく母親である自分へのあわれみを請うものであった。これは、見方によっては、母親は悪霊に憑かれた娘を持った大変な状況にある自分の辛さを訴えているとも捉えることができるが、一般論としても、母親の子を思う愛が、娘の苦しみを自分の身に負って、ともに苦境に立たされていると解釈する方が自然である。
②-6 彼女はイエスが町に来られたという噂を聞きつけ「すぐに」イエスがおられた家にやってきた。(マルコ7:25)

③イエスと弟子たち
v.23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
③-1 ベイリーは、イエスがこのカナン人の女性との会話をしながら弟子教育にも従事していたと述べる。それは旧約聖書Ⅰ列王記17:8~24の出来事をイエスは弟子たちの教育のために再演していると言う4。弟子たちは女性に対するイエスの振る舞いを見て、先祖由来の異邦人と女性に対する蔑視の思想を後押ししているものと錯覚して「あの女を帰してやってください…」と言った。この弟子たちの言葉は「釈放する、赦免する、離婚する、解散する」などと他の箇所では訳されており、上位の立場の人間が目下の人に対して使用する言葉であることがわかる。弟子たちも、この女性を蔑んで「去らせよ」と言ったのである。
③-2 イエスが憐れみを請う女性に対して沈黙されたことは、少なからず読者に衝撃を与える。このあとのお言葉に対しても、一見冷淡さを覚える。あのサマリヤの女(ヨハネ4章)の出来事との明らかな違いがわかる。だからこそ、この箇所でのイエスのみことばの深さを味わわなければならない。
③-3 この節からὁ δὲ(ἡ δὲ)が文頭に置かれ、この箇所のイエスと女性の会話のユニークさが際立つ。δὲは「しかし」、「すると」、「そして」とも訳せるが訳出しない場合も多い。反意的に用いる場合や連繋的にも用いられるが、イエスの言葉と態度の意外性とともに、カナン人の女性の返答の意外性にも読者は注目させられる。

v.24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところに
は遣わされていません。」と言われた。
③-4 これまで沈黙していたイエスは、弟子たちのカナン人の女性への冷淡な言葉を受けて発言された。ここで新改訳は「しかし」と訳し、新共同訳は訳出していない。確かに23節から24節の会話の流れに果たして「しかし」は不要に思われる。それは、24節のイエスの言葉の内容があくまでカナン人の女性に取り合わないという姿勢だからである。この場合、口語訳のように「すると」が適切かもしれない。
③-5 イエスが言われた「イスラエルの家の滅びた羊」は、マタイ10:6でも使われており、十二使徒を任命し遣わす際、どこへ行くべきかをイエスご自身が語られたときにも使われた表現である。ここでイエスが語られたのも、決してカナン人の女性に対する思惑があってのことだけではなく、事実、イスラエル民族が異邦人に先立って福音が語られる必要を言っているのである5。神の国の特権はまず契約の子らである選民に提供される6。
③-6 カナン人の女性にとって、異邦人で女性という二つのハードルだけでなく、イエスはさらにハードルを上げた。それは第一に、訴えに対する「沈黙」であった。しかしイエスはなおもこの女性に対して冷ややかな態度で臨む。その第二とはイスラエル民族以外の人とは関わらないという言葉であった。この四つ目のハードルが女性の前に立ちはだかる。

カナン人の女の信仰
v.25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
④-1 ここでの「しかし」はインパクトがある。この女性の前に立ちはだかる四つ目のハードルは、主のことばによる拒否とも受け取ることができるものであったが、この女性がとった行動は、あきらめずに主の御許にひれ伏すことであった。この「ひれ伏した(προσεκύνει)」は、「礼拝した」とも訳せるが、真の神を信ずるユダヤ人ではなく異邦人であるなら神以外にもひれ伏すことは珍しいことではない。特にこの箇所では未完了形であるため、礼拝というよりは嘆願の意味合いが強いと考えられる7。」
④-2 ここでも彼女は「私をお助けください」と言った。彼女の悲痛な願いは当然幼い娘の癒しであるが同時にそれは彼女自身をも救うことにも通じていた。マルコ9:24の口をきけなくする霊につかれた少年の父親のように、イエスの前に自分自身の罪と弱さに気づかされた者の告白ではないだろうか。
v.26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
④-3 しかしイエスは益々、彼女に対してチャレンジを与える。彼女にとっては第五のハードルである。それは「犬」と呼ばれることによる侮辱への応答であった。ここで使われている言葉が「小型犬」を指すからと言って侮辱の度合いが低いとは考えにくい。彼女につきつけられたこのハードルには、彼女の願いや娘への愛を越えて、イエスという存在に対する本当の信頼(信仰)が試される。
④-4 ベイリーはイエスによるこの侮辱を意味する言葉の使用の第一義的理由は弟子教育のためだったと言う8。ベイリーはイエスの真意をこのように読む。「あなたがたが異邦人を犬畜生並みの人間だと思い、先生も彼らを犬並みに扱って欲しいものだと望んでいることを、わたしは知っている。しかし、注意せよ。それはあなたがたの偏見の結果だ。こうした場面を見聞きして居心地は良いか。」弟子たちは、イエスのこの態度に同調し、差別的思想を益々加速させるか、それとも主の真意を悟り、自らの異邦人女性に対する愛のない冷淡な姿勢を恥じるか。

v.27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
④-5 「しかし」彼女はイエスの侮辱的発言に憤慨するどころか、とても謙遜に、そして嫌味なく軽快に言葉のキャッチボールをしたのである。しかも「パン屑」で十分であると、主の祝福のほんの切れ端であったとしても、何によりもまさる価値を見出していたことは、主の彼女に対する賞賛の言葉からでもあきらかである。
④-6 最期の「しかし」に読者も驚かされる。特に、カナン人をよく知っているユダヤ人にとっては、この出来事は大きなチャレンジであり、イエスの「心の貧しい者は幸いである」という革命的なメッセージの真髄を見たのではないだろうか。ツロ、シドンとはイスラエルからすれば、祝福の論外である。しかし、イエスは、イスラエル民族を超えて「すべて疲れた人、重荷を負っている人」の主であり、心貧しき者、悲しむ者に幸いを与えてくださるお方なのである。

⑤その願いどおりになるように
v.28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
⑤-1 主に賞賛される信仰とは何か。それはとことん自らを低く、へりくだることではないだろうか。人は信仰すら神に与えていただかなければならない。自分には何もないことを認めて初めて神との交わりが始まる。しかし、信仰をも私たちは自分の力のように勘違いし、犬扱いされるような侮辱に耐えられずに、憤慨し、侮辱した相手に報復を願い、呪うことさえ正当化しようとする。しかし、主は心をご覧になる。それは、カナン人の女性に対してもそうであるが、先に弟子とされた者にも絶えずチャレンジを与えておられる。
⑤-2 多くのハードルをクリアした女性の主への絶対的信頼に対しイエスは、「その願いどおりになるように」と言われた。多くの場合、たとい相手がクリスチャンだとしても、その願いどおりになれと言うことは簡単には言えない言葉である。それは、私たちの願うことがすべて主の御心に適うとは限らないからである。しかし、主は彼女の信仰に曇りがないことをあえてチャレンジをお与えになることで確認し、その願いどおりになるようにと仰せられたのである。
  
3. ペリコーペ分析
 並行箇所:マルコ7:24~30
①マルコによると、「家に入られたとき」と記されているように、この出来事の場所が道ばたではないことがわかる。24節
②マルコによると、イエスのツロの地方へ退かれた理由が「だれにも知られたくない」ということであったことがわかる。24節
③マルコでは、カナンの女はイエスのことを聞きつけて「すぐに」やって来たことが記されている。25節
④マタイでは単なる「カナン人の女」と記されているが、マルコでは、彼女は「ギリシャ人」で、スロ・フェニキアの生れだったことがわかる。26節
⑤マタイでは、イエスにひれ伏すまでのやりとりを詳しく記しているが、マルコでは後半の彼女の娘の癒しが詳しく記されている。
⑥マルコでは弟子たちの様子が省略されている。

4. パースと私訳…別紙

5. 神学的分析
 弟子たちの中に、異邦人を差別する罪があった。それは、先祖から受け継いだ常識であったため、主は特別なミッションを通して教育された。人間とは、常に勘違いという罪を犯している。自分を他人よりも上位に置く癖がついている。しかし、その癖が砕かれなければ、神を知ることはできないし、人にみことばを伝えることもできない。いつも主の近くに置かれている弟子ではなく、異邦人の女性が主に賞賛された。その事実に、もし私が弟子としてその場にいたら、嫉妬していたかも知れない。

 

6. 結論
 私たちの思いの奥底を主はご覧になる。時に誤った考え、洞察であるのに気づかずに、状況が好転している中で、自らの主張や思いを主が応援しているような勘違いをすることはないだろうか。みことばに聞かずに、自分の常識や状況で判断して御心だと思い違いすることはないだろうか。しかし、主は常に私たちがどれほど自分自身が足りない者であることを自覚し、へりくだっているかご覧になっておられる。状況が悪化しないうちに自らの誤りに気がつき、悔い改めて歩むものとされたい。主は、心の貧しい者を祝福される。

 

7. 参考文献表 
荒井献, H.J.マルクスギリシャ語 新約聖書釈義事典』 教文館, 2015.
ケネス.E.ベイリー『中東文化の目で見たイエス,』教文館, 2010.
山口昇『新聖書講解マタイの福音書いのちのことば社, 1997.
増田誉雄『新聖書注解新約1マタイの福音書いのちのことば社, 1980.
岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店,1996.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●「宮の中で」: 詩篇 48篇9~10節

"9.神よ私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。
10.神よあなたの御名と同じくあなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。"

  私がまだ高校生の頃、まだ洗礼を受けていないとき、バイブルキャンプに誘われて行ったことがありました。

  そのキャンプのある朝、私は朝靄の中、キャンプ場の広場のベンチに座っていました。すると、クリスチャンの方が隣に来て、こう言いました。

「ぼくは、こういう場所にいると神様を感じるんだ。」

  高校生の私は心の中でこう思いました。「こんなこと本気で口に出して言うんだ」と。でも、その方は心からそう感じて私に話してくれたのです。

  しかし、私もイエス様を信じて洗礼を受けてから、その方の言ったことが、本当にそのとおりだとわかったのです。自然の中で、あの朝靄の中で神様を感じる。神様の創造の素晴らしさ、その恵みの大きさに圧倒されるのです。

  でも、クリスチャンが神様を感じるのは、そのような自然界の中にいるときばかりではありません。

  今日の聖書のことばは、詩篇48篇ですが、その9節にはこう書いてありました。

"48.神よ私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。"

  詩人は神の宮、つまり神殿の中にいるときに神様の恵みを思ったと言っています。それは、神殿における礼拝を献げている中で、そう感じたということです。

  それは、私たちも同じです。現在、神殿という建物は存在しませんが、今は教会があちこちにあり、教会で献げられる礼拝こそ、その神の「宮の中で」と同じことが味わえる場所であり、空間です。

  もちろん自然の中においても礼拝できるし、教会の中でも神様を礼拝できます。神様は、信じるあなたといつも一緒にいてくださいますから、場所がどこであれ、あなたが神様を覚え、礼拝するなら、つまり祈るなら、神様はあなたの思いの中にもご臨在され、あなたが神の恵みに感謝が溢れて、神様に感謝をささげずにはいられなくなるように働いてくださるのです。

  それは、あなたが神を覚え、祈る所が常に神の宮に変わるからなのです。神様を礼拝する場所は、昔はエルサレムだと言われていました。しかし、イエス・キリストが来られた今、神様を礼拝する場所は限定されません。

  イエス様は、こう言われました。

"イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」"
ヨハネ福音書 4章21~24節

  御霊と真理によって礼拝するなら、神の宮はそこにあるのだとイエス様は言われたのです。そして、今がそのときであると。また、こうも言われました。

"パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。"
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」"
ルカの福音書 17章20〜21節

  神の国、神の支配は、限定されるものではありません。地の果てにまで、どこにでも、そのご支配はあり、全地において、その名を聖とされるお方なのです。また、同時に信じるあなたの只中にあって、あなたの思いをご支配して、あなたがどんなに悲しいときでも、どんなに苦しいときにも、神様はあなたの外からも内側からも励まし、慰め、逆境に打ち勝つ力さえも与えてくださるのです。

  今日も、そのお方の確かな義の右の手により頼み、どこにおいても神の素晴らしさ、その救いの奇しさを崇めたいと思います。その恵みは、あなたを覆い、全地の王である神の偉大さに、益々圧倒されるでしょう。

"主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山私たちの神の都で。
高嶺の麗しさは全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
神はその都の宮殿でご自分を砦として示された。"
詩篇 48篇1~3節


"この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。"
詩篇 48篇14節