のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2019年10月13日 献堂式説教

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説教題 「教会の戸を叩く主」
聖書箇所 黙示録3章14節~22節

 

3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 

序論
 私ども日本メノナイト白石キリスト教会は、1966年に前身のメノナイト札幌キリスト教会から白石教会となってスタートしました。私が生まれたのが1966年ですので、私と白石教会は同い年ということになります。白石教会は、その1966年に最初の会堂を建てて発足したと記録に残っております。そして、1978年にこれまでの会堂に建替えました。そして、この度、2019年にこの新しい礼拝堂を建てることになったということです。
 そう見ると、この53年の間に3つの会堂建築があったということになります。私も53年前の私と現在の私では様子が違うように、会堂もその都度、成長に伴って建物が変わってきたのかもしれません。しかし、いくら成長に伴って外見が変わっても、変わってはならないものがあります。それは、キリスト教会であるということです。もし白石教会がこの53年の間に、キリスト教会ではなくなっていたら、それは笑い事ではなくなります。
 でも聖書を見るときに、世の終わりが近くなると、教会が教会でなくなることが起こってくるとはっきり預言されているのです。
 今日、お読みしたヨハネの黙示録3章20節は、イエス・キリストを信じることを誰かに勧めるときに、よく開かれるみことばだと思います。イエス様はあなたの心の戸をノックしていますよ。だから、素直に、あなたの心を開いてイエス様をお迎えしましょうと。しかし、この文脈を見るならば、ここの場面は、教会の外にイエス・キリストがおられて、教会の戸をノックしている様子であることがわかってきます。
 どうして、キリストが教会の中におられずに外にいて、しかもその教会の扉を叩いているのでしょうか。これはどういう状況なのでしょうか。
 
1.熱いか冷たいか
 この14節から22節までは、ラオデキヤというキリスト教会に向けて書かれた手紙であると言われています。場所は現在のトルコに実在した町の教会です。ここで言われている「アーメンである方」とはイエス・キリストのことです。アーメンとは、キリスト教徒が良く使う言葉ですが、「真理です」とか「本当に」という意味です。イエス・キリストはご自分のことを「道であり、真理であり、いのちです」と仰いました。イエス・キリストこそ王の王、主の主であり、真の神であり、真の救い主です。そのキリストが当時のラオデキヤの教会に対して警告を与えて言われるのです。大きく二つのことをキリストは注意しています。
 一つは、あなたは生ぬるいということです。これは何のことを言っているのでしょうか。それは言い換えて「冷たいか、熱いかであってほしい」とも言われています。それは、この世にキリスト教会として置かれていながら、この世の組織や集団と何も変わらない状態であると言う事ができます。
 この世の中に埋没して、本当にキリスト教会なのか分からないような生き方をしている状態ということになります。
 それはキリストを隠している生き方ではないでしょうか。そのようにするには、理由があると思います。その一つは、大多数の人が神もキリストも信じていないこの日本の中で、ぽつんとキリストを信じていると、浮いた存在になるのではないか。また、聖書の規準はこの世の規準に合わないからと思っているかもしれません。これは、言い方を変えると「地の塩、世の光」として役目を故意的に果たしていないということでしょう。
 私も昔、イエス様を信じて間もなく、仕事をするようになったときに、段々と会社の中で、自分がクリスチャンだということを言い続けることが面倒臭くなったことがあります。日曜日に礼拝に行きたいけど、日曜日に仕事が入ると、日曜日の仕事は休みたいですと、いちいち会社に説明するのが面倒に思えてくるのです。すると、この世の規準に合わせている方が楽だと思えてくるのです。そうしているうちに、段々とその生活にきよさが失われていくのです。
 そして、こう言うようになるのです。「きれいごとだけでは、この世を渡っていけない。」でも、それは聖書のことばでしょうか。いいえ。それはこの世の価値観です。それは、この世の価値観の方に重きを置いて、キリストの言葉を恥じているということではないでしょうか。
 しかし、キリストはこう言われます。「だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます」と。だから、ここでも16節でキリストは「あなたを吐き出そう」と言われています。
 このとき、キリストはその教会にはいません。キリスト教会が聖書を後回しにして、この世の規準で動くことは、いくら看板にキリスト教会と書かれていても、そこにキリストはおられません。
 
2.自分は富んでいる
 でも、いやいや、私は大丈夫。きちんとしたキリスト教会です。ちゃんと社会活動、政府批判、原発反対運動やってます。礼拝も毎週欠かさずやっているから間違っていません。きちんと地の塩、世の光として正しくやっています。そう言うかもしれません。
 しかし、17節でイエス様は仰っています。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
 これが、キリストが示す二つ目の注意です。それは、人のことはあれこれ気がついて批判し、さばくくせに、本当の自分が見えていないじゃないか。
 いくら目に見える大きな活動をしても、自分自身の足りなさ、貧しさ、弱さ、罪深さに気がついていないで、何がキリスト教会か。キリスト教会は聖人君子の集まりではありません。そもそも、罪人の集まりです。人のことを指差す前に、自分は大丈夫なのか吟味する必要があります。
 イエス・キリストはこう言われました。
「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』とどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」
 だからキリストは、18節の後半でこのように言っておられます。
「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
 目に梁が入っていたため、かなり目が痛んでいますから、もの凄い効力のある目薬を買う必要があるかも知れません。
 私たちは、他人のことはとやかく言えても自分のことは見えていません。人のことを批判する前に、自分がどれほどのものかを知る必要があります。つまり、私たちがキリスト教会とされているのは、もともと神から離れ、罪の中にいたどうしようもない者であったという事実。そのゆえに神は、どうしようもなく滅びに向かっていた私たちの身代わりとして、御子キリストを十字架につけてくださった事実。そこに、神の愛が示されたという事実。そこに、神の救いの恵みが現された。その事実を、もう一度、はっきりと信仰の目をもって見るために、目薬を買ってでもしっかりと目を開けなければならないのです。
 大事なことは、19節。信仰の目が開かれて、まず、自分の足りなさ、弱さ、罪深さ、愚かさを認めて、悔い改めること。そして20節。
 
3.声を聞いて戸を開ける
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
 この言葉はどれだけ多くの人を慰め、キリストに導いたことでしょう。イエス・キリストは、追い出されてしまった教会、または、ご自身で吐き出してしまった教会の外に立っておられます。そして、来る日も来る日も、待ち続けておられます。ここで、私たちは戸を開けなければなりません。でも、それはどうやって、何を手がかりに戸を開けるのでしょうか。イエス様がノックするその音でしょうか。強く叩き続けるその振動によってでしょうか。
 そうではありませんね。こう書いてあります。
「だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら」
 大事なことは、「わたしの声」。つまりキリストの声、その神のことば、聖書のみことばに聞きながらキリストをお迎えするということです。
 大切なことは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり三日目に復活された主の声に聞き続けること。これが、キリスト教会がキリスト教会として、絶えず続けていかなければならないことです。聖書は、その神のことば、キリストご自身です。この聖書に絶えず聞き続けることによって、生ぬるくない、人を恐れない、この世の価値観に迎合しない、ただまっすぐにキリストをこの世に現す者へと変えられます。また同時に、聖書を通して、自らの至らなさ、貧しさを知らされ、だからこそへりくだって、聖霊の力に委ねていくのです。
 
結論
 白石教会は新しい会堂を与えられました。非常に嬉しい出来事です。だからこそ、いつも「わたしの声を聴いて」と主が仰ったように、聖書に聞き続ける群れでありたいのです。主の声を聞き分ける群れでありたいのです。そのためにも、このように近隣の主にある教会の皆さんとの交わりは本当に主の恵みです。ですから、益々、諸教会の皆さんとともに主の声を聞きつつ、委ねられている福音宣教の使命を果たしていきたいと思います。


祈り

恵み深い父なる神様。本日、あなたの深い御旨により、ここに献堂のときを設けていただき、またこのように多くの方々を招いてくださり、ともにその喜びを分かち合える恵みを感謝いたします。どうか、この白石キリスト教会が、常に主のことばに聞き続け、キリストご自身がご支配し、キリストご自身の御身にまで達することを願い、その栄光を現す群れとして顧みてください。みことばに感謝し、救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

説教は、川﨑牧師が行いました。
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用意した席がいっぱいになりました。
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今回、お世話になった株式会社AI建築の江崎様へ感謝状をお贈りしました。
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祝辞は、地区牧師会でお世話になっている厚別キリスト教会の小林悦治牧師がしてくださいました。
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◎礼拝説教: 「主を信じて義とされたアブラム」 聖書箇所 創世記15章1節~6節

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15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。

15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」

15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。


序論
 私たちは、イエス様を自分の救い主と信じて救われます。この救いには一切人間の知恵や人間の努力は入っていません。すべて、神様からの一方的な恵みです。それを信じているでしょうか。そのことを本当に恵みだと感謝して受け取っているでしょうか。
 恵みというのは、それを受けるに値しない者が与えられることです。その恵みがどれほど偉大で、どれほど深い愛ときよさに満ちているか。そのことを通して、どれほど神様が私たちを愛しているという事実を受け止め応答するか。ここに信仰があります。
 今日の箇所で、「彼は主を信じた」と書いてありました。信仰の父と呼ばれているアブラムのその「信じる」とはどういうものだったのか、そして、そのアブラムに対して、主はどうお答えになったのか。そのところから、私たちの信仰のあり方を学んでいきたいと思います。
 
1.主のことばが臨み

 まず1節のところから、アブラムの信仰の状態とそれに対する主の御心を見ていきましょう。

「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』」

「これらの出来事の後」にとは、前回までの出来事を振り返りなさいということです。それは、アブラムが住むカナンの5人の王様たちを、メソポタミアの4人の王様たちが襲ったことからはじまった事件がありました。アブラムは関わらないでいたのですが、甥のロトが捕まったと聞いて、その4人の王たちの軍隊を追跡し、その戦いに勝利してすべてを奪い返したのです。そのあとも、その勝利に胡坐をかいて威張ることなく、その栄光を主にお返ししたというところまでを前回読んできました。そこで出てきたのが祭司メルキゼデクでした。ですから、アブラムにとっては、自分の考えではなく、今度こそ主に従って、信仰の戦いを勝ち抜き、主に栄光をお返しして、平安に満たされる、心が高揚しても良い状況でした。
 ところが、この主からのアブラムに対するみことばを見ると、そうでなかったことがわかります。主は、アブラムに開口一番、「アブラムよ。恐れるな」と仰っています。ここは原語的には「恐れるな。アブラム」という順序です。ここは新共同訳の方が良いと思います。つまり、神様がアブラムに伝えたかった第一のこと。それは「恐れるな」という命令だったということです。
 この言葉で、このときのアブラムの気持ちが、その信仰状態がどのようであったのかがわかります。それは、神様が命じなければならないほどに恐れをもっていたということです。
 アブラムはいったい何を恐れていたのでしょうか。そして、どうして、このときに恐れていたのでしょうか。戦いには勝てたし、メルキゼデクのおかげで、その信仰の目も心も主に向けられ、主に栄光をお返ししました。ここで、何の不安があるというのでしょう。何が恐ろしいのでしょう。
 これは私たちも経験することではないでしょうか。大きな信仰の戦いがあったり、霊的な試練を何とか罪を犯さずに、主に従って乗り越えられた。でも、そのあとで、がっくりと落ち込むような、疲れ果てたような状態になったことはないでしょうか。確かに、すべてが守られて、うまくいった。もしくは、何とか通り抜けられた。でも、その中で感謝もあるけど、自分自身の何とも言えない無力感に襲われることがないでしょうか。あの預言者エリヤもそうでした。
 よく牧師にとって月曜日はブラックマンデーだと言われます。それは、肉体的にも霊的にも、日曜日の説教でエネルギーを使い果たすからだと言われます。それは私も経験します。説教が自分で良かったか悪かったかということを考えるというよりも、良くも悪くも、そこに命をかけて準備をしますので、その分、常に後悔もあります。それは、前の週の出来事によっては、準備にいつも同じ時間をかけられないからです。時間をかけたから良い説教ができるとは思いません。しかし、主に対して、どれだけ本当に時間を取り分けて備えたのか。つまり聖別して備えてきたのかが反省させられるからです。本当に命をかけていたのか。
 そこに、予想もできないくらいの怖さを覚えるときがあります。そして、次の日曜日が待っています。それが嫌なわけではありません。むしろ嬉しいご奉仕です。しかし、きちんと説明できないような恐れと、無力感が来るのです。
 みなさんはいかがでしょうか。今の新約の教会の時代は、万人祭司です。全員が主の弟子です。だから、喜んで主の日に礼拝をささげ、奉仕をして、力も時間も主にささげているはずです。だから、疲れて当たり前、疲れる方がある意味正常なクリスチャンです。しかし、そこに言いようもない不安や恐れがやってくる。聖書は実に正直です。
 信仰者が主に従って仕えていれば良いことしかないとは言いません。むしろ、言いようもない不安や恐れがあることを正直に書いています。
 では、信仰を持たない方が楽じゃないのかという人がおられるかも知れません。でも、その質問は、ある意味、その人が主の弟子かそれとも群集の一人かを知る目安にもなります。
 イエス様は「自分の十字架を負ってわたしについて来ないものは、わたしの弟子ではありません」と言われました。それは、主に従っていくときに起こる、様々な困難、試練、悩み、恐れ、痛みを経験することを避けているならば、それは主の弟子としてふさわしくないという意味です。
 そこを通らされることを主は望んでおられるのです。その状況に、このアブラムもおかれたのです。彼が信仰の父と呼ばれるまず第一の理由はここにあります。つまり、彼は主を信じたという「信仰」とは、信じているのにもかかわらず起こる苦しみを通るかどうかです。
 だから、逆にこの苦しみがわからないで、そのように弱さを経験している人をさばくことは主の弟子のすることではありません。
 この恐れを覚えているアブラムを前にあなたなら、何とことばをかけますか。しっかりしろ。ちゃんとやれ。族長らしくしっかりしろ。私は心が強いからお前ように弱弱しくはならないと罵るでしょうか。
 しかし、神はどうされたか。この1節から6節までで、アブラムに対する主のなさったことで大切なこと。それは、1節と4節にあるように。「主のことばが臨み」ということです。主のことばこそ、信仰者の力。いいえ、全人類、全被造物を励まし支える根源です。しかも、主のことばはアブラムを罵倒するどころか、励まします。
 確かに「恐れるな」という言葉は命令形で強い言葉です。しかし、そこまで強く言う理由は何でしょうか。それは「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは大きい」という励ましが確かだからです。神様が「わたしはあなたの盾だよ、敵がどんな矢を撃ってきても、わたしが盾になってその矢を受けるよ。」主は、その存在をかけて、主を信じるあなたを守ると言われるのです。何という励まし、何という恵みでしょう。わたしが盾を作って置くから大丈夫ではなく、主ご自身が盾になる。それは、あなたのために主がその矢を、相手の暴言を相手の冷たい行動を代わりに受けてくれるということです。これが信仰者に対する主の慰めです。そして、この主のみことばこそ、私たちの生きるエネルギーであり、いのちです。
 アブラムはその主のことばに励まされて、心のうちにある悩みを打ち明けます。それは、2節「神、主よ。私に何をお与えになるのですか」
 神様がいくら「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と仰っても、現実、アブラムには子供がいません。しかも、アブラムも妻のサライも高齢者で、人間的な常識で考えても、可能性はゼロです。これはもっともな不安でしょう。当たり前の悩みでしょう。だから、アブラムはそのときの常識で訴えます。神様、あなたがいくら、そう仰っても、あなたが子孫をくださらないならば、私の家の奴隷が跡取りになりますよ。
 それに対して主の答えは4節です。主のことばが彼に臨み言われました。「奴隷ではなく、あなたから生まれ出る者があなたの跡取りだよ」
 
2.外に連れ出して
 そして、恐れと不安に満たされ、絶望していたアブラムに主はどうされたか。

それは、5節。

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 主は、恐れに満ちて、主のことばに信頼しきれていないアブラムを外に連れ出しました。こういうとき、どうすることが良いのか。主のことばを聴くことと合わせて、外に出ることです。しかも神様は、満点の星空をアブラムに見せて、あなたの子孫はこの星の数のように数え切れないほどになると言われました。このとき、アブラムはどういう心境だったでしょうか。星を眺めて、ああたくさんの子孫が与えられるのかと、ただその説明を聞いて納得して、信じたのでしょうか。
 みなさん。星を眺めたことはありますか。そのとき、どう思いますか。何も感じませんか。実は、ここの心境があって、6節のことばに繋がっていきます。すなわち、ここでの感動、驚き、偉大さを実感して、アブラムは、もう自分ではなく、主よあなただけです。あなただけが神です。あなたの前に私は無力ですというひれ伏す心が、彼は主を信じたということであるということです。
 イスラエルダビデ王は、詩篇でこう歌っています。詩篇8:3~4

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 神様が天の万象をアブラムに見せたのは、ただ単に子孫の数がこうなるというだけではありません。その主の御手の業をアブラムのその目に刻み、その心を主こそ全知全能の唯一の神であり、その主があなたの神だよ。あなたとともにいるよ。安心しなさい。そう言われているのです。
 これは、星空だけではありません。海を見たり、里山に行ったり、何でも良いでしょう。外に出て、主を感じる。ただ知識だけで主を知るのではなく、主を感じ、主を体験する。主に出会う。これが大事です。
 私も妻も休みの日にはなるべく海や山に出かけます。それは出かけざるをえないくらい、その空間に自分を置くことで、前日の日曜日のみことばを反復しながら、主が造られた自然の中で主と交わるのです。それが至福のときです。でも、いつも遠くばかり行っているとガソリンがかかるので、最近は北海道開拓の村がとりあえず、そういう場所になっています。一回入場800円ですが、年間パスポートは1500円なので、年間パスポートを夫婦で買って、何度も行きたいときに行って、荒れた心を癒します。
 皆さんも、みなさんにとって、主を覚える、主を感じる、その時間と場所が必要です。これは私が思いついた元気になる方法ではなく、神様の方法です。5節に、「そして、彼を外に連れ出して仰せられた」とあります。外に出て、主が造られた自然界を味わい、同時にみことばを聴く。これこそ、癒しの第一歩。信仰者が何度も立ち向かうために必要な方法です。
 
結論
6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 アブラムは主を信じました。それは、主を完璧に理解したという意味ではありません。逆にすべてが理解できなくても、その圧倒的な神の偉大さに打たれ、だからこそ自分の無力さの中から、信じるしかない状況におかれたということです。神様の大きく、完全で、力強いその存在の前に、自分の弱さ、罪深さを思い知らされ、だからこそ、このお方に頼るしかないという渇き。これこそ主が求めておられる信仰なのです。「彼は主を信じた」という「信じた」のもとの意味は「アーメン」です。それは、真です。真実です。真理です。という意味です。自分ではなく、主だけが真実であるということがわかって、そのお方に答えていこう。これが信仰です。だから、その信仰が、そのアーメンがアブラムの義と認められたのです。それは、彼の信心深さではなく、あくまで、受けるに値しないものに主が目を留めてくださり、祝福を用意されているという希望を素直に受け入れたということです。
 
 あなたは、主を信じているでしょうか。主を信じるとは、強い心をもって人を裁くことではありません。むしろ、自分の弱さや無力さを認めて、主により頼む人のことです。その弱さを経験した人は、同じ弱さをもって、恐れたり悩んでいる人の友になれます。それは、すなわち、あの恐ろしい十字架の道を歩まれた主イエス・キリストの友でもあるということです。
 ぜひ、今日、もう一度、信仰を吟味しましょう。本当に主を信じているのか。主を信じるとはどういうことか。今週のみことばはまさに、私たちがどのような信仰を持ち続けるべきかが表されています。このみことばを読み、心に刻んでお祈りしましょう。
「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
 これがアブラムの信仰です。
 

●今日のみことば「苦しみによって従順を学んだ主」

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ヘブル人への手紙
5章
1,大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。
2,大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
3,また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。
4,また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。
5,同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。
6,別の箇所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。
7,キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
8,キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
9,完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
10,メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。
11,このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。
12,あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
13,乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14,固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

 

 今日のみことばから、注目したいことは「従順」です。

 それを主ご自身の「従順」から学ぶというところに、今日の中心的なテーマがあります。

 私たちは神の御子と聞くと、神なのだから何でもできて当たり前だと思いがちではないでしょうか。また、神なのだから、何でも知っていて当たり前だと思います。しかし聖書は、大祭司となる栄誉も主が自分で得たのではないと言います。それは、父なる神が、御子の従順を見て与えられたのだと証言しているのです。

 主は御子であるのに、ご自身に与えられた大祭司としての歩みの中で従順を学んだということは、驚くべき事実です。私などは、主は神の御子なのに、まだ学ぶべきことがあったのかと驚くのですが、それはどういうことなのでしょうか。

 それは、主は御子であると同時に、完全な人間でもあるということです。私たちは罪のゆえに歪んでしまって、不完全な人間でしかありません。言い換えれば、神のかたちを損なっているのですが、御子は、そのような私たちに、完全な人間として、そのお姿を、また生き様を指し示す役目もお持ちであるということです。

 その役目こそ、信仰者としての歩み、生き方、姿勢であり、私たちが目指すべき信仰者の姿なのです。そこで、私たちも、そのように生きることを願い求める。それが、私たちがこの地上で信仰をもって歩むときの基準となります。

 主はキリスト(救い主)として、神の子羊として贖いを成し遂げると同時に、その贖いによって神のものとされた私たちが、どのように歩み、何を目指すのかを指し示してくださったお方だからです。

 ですから、完全な人間であるという部分では、神ではないというお立場において不完全であり、そこには、肉体を通らなければ経験できない(もしくは経験しなければ知り得ないとお決めになって)、私たち人類すべての悩みを体験を持って通ることで共有されたということです。だから、赤ちゃんとして生まれ出る必要があったし、ヨセフの子として労働も学ぶことを通られたのです。

 同様に、信仰者として神を愛し、隣人を自分と同じように愛する生き方を学ぶこともそのミッションの内にあったのです。

 そこで、御子であるお方があえて人間として従順を学ばれ、そのゆえに神に受け入れられるという確かさを私たちに示されたのです。それは、正しく歩めない私たちが、その事実を受け入れつつ、しかし、キリストを信じて与えられた聖霊の助けによって、神のかたちに回復できるために、キリストが模範者となられたことを意味しています。

 だからこそ、私たちもできない自分で終わることなく、へりくだって、主から従順を学び、聖霊によって従順な主のお姿になることができるよう祈らなければなりません。また、聖霊によるのであれば、この私も主と同じ姿になることができるのだと確信をもって力強く歩むことができるのです。

 今日も、このキリストを信じているのなら、あなたは確実に聖霊をいただいており、既にあなたは聖霊の宮として、主の栄光を放っているのです。そうであるならば、そのいただいた聖霊の力に委ねて、今日もキリストが経験された従順を我がものとして実践してまいりましょう。

 

 

"こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。"
ピリピ人への手紙 2章12~14節

●今日のみことば ヘブル人への手紙 4章9~16節

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「神の安息に入る」

"したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。
神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。
ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"

  私たちは、自分のためのわざが多すぎて、なかなか神の安息を得ることができません。神は六日働いたら一日休むことを私たちに教えるために、ご自身も天地創造の際、そのようにされました。

"こうして天と地とその万象が完成した。
神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。"創世記 2章1~3節


 ですから、私たち人間は自分ためのわざをするなと言われているのではなく、それを終えて安息を得よと言われているのです。

 神の安息とは、神とともにあり、神の平安に満たされた真の休息です。その休息は、魂の安らぎであり、神と人間との究極的な姿、あり方も意味しています。

 多くの人は、この安息を知らずに、ただ自分の生きたいように、自分のやりたいように、自分のわざだけの世界で汗を流し、心もからだも疲れ果てます。

 それは、神の安息を知らずに生きようとするからです。しかし、本来の、神に造られた人間とは、造ってくださった神に帰らなければ、真の安らぎを得ることができないのです。

 ですから、私たちはまず、この神の安息に入るために、自分のわざをやめる必要があります。それは、自分で自分を生かす生き方から、神によって生かされる生き方へ、シフトチェンジして、神専用の器へとつくり変えられることも意味しています。

 そのシフトチェンジをできるように、道備えをしてくださったのが、神の御子イエス・キリストです。神の怒りの下にあった私たちを、ご自分の安息の中に入れるために、その神の怒りをご自分に向けてくださったのです。

ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。

と、この聖書記者は言います。

 せっかく、御子がいのちを捨ててまで、与えてくださった、神の安息へ至る道を簡単に諦めたり、やめたりするなと勧めているのです。

 そうならないために、私たちには神の言葉が注がれており、その神のことばにいつも聴き、神のことばによって、この世を生きることが大切です。なぜならば、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができる」からです。

 この神のことばとは聖書のことです。私たちは力ある聖書のことばによって、この世を生きるときの霊的な識別力をいただき、また養う必要があります。それによって、まだこの世にいるうちから、天の御国にいて神とともにある安息と同じ安息を味わうことができるのです。

「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」

 その生き方によって、私たちは最後の審判のときに、どのように申し開きをするか違ってきます。そこで、どんなに自己弁護しようと、全てが裸です。神は私たちの全ての歩みをご存知だからです。

 だから、どんな言い訳も通用しません。しかし、この世にいるうちから、イエス・キリストを信じて、その安息に入り続けているならば、罪深い私たちのために、父なる神の前でとりなしてくださるイエス・キリストが大祭司として立っていてくださるのです。

 しかも、私たちの大祭司キリストは、ご自分で私たちの世界に来てくださって、人間の歩みがどんなに悲惨であり、この罪の世に置かれていることが、どれほど理不尽なことの繰り返しか身をもって味わってくださいました。それにより、私たちの弱さに深い同情をもって理解し、父なる神の前で、完璧な弁護をしてくださるのです。この大祭司キリストがおられるのですから、私たちは安心して、すべてを委ねて、この世にあっても、自分のわざをやめて、神の安息に入ることを選び取ることができるのです。

 

 今日、もう一度、あなたのために十字架にかかり罪の贖いをしてくださった神の子羊キリストを信じて、今、神の右において大祭司として執り成すキリストを覚えて、この神の安息の日を喜ぼうではありませんか。この安息は、永遠の安息、本当の慰めと癒しの時だからです。


「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

◎「今、御声を聴くなら」ヘブル人への手紙 3章13~15節

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"「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。
私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。
「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。"

 聖書では、いつも「今」が大切です。過去も未来も当然大切なのですが、もし過去に過ちを犯したとしても、今、または今日、罪を悔い改め神に立ち返るならば、その人生は新しくされる。

 そして、このヘブル人への手紙の著者は、こう言っている。

 

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。

 今日と言われている間というタイミングを大切にしなさいということです。その間に、罪に惑わされて頑なになるのではなく、素直にキリストを信じて、そのキリストの救いに預かっていることを保つのです。

 もし、この今日という時間をキリストに預かる者として、保つならば、その積み重ねが、保ち続けるということになるのです。

 いつも、今日、今、罪から離れ、キリストに留まり、神の家に留まるなら、明日になって、昨日は神に繋がって良かったと感謝できるはずです。

 もし、一年間キリストに留まり続けるなら、未来において、その一年間のキリストとの交わり、神の愛と恵みを味わい、神のきよさのうちにある祝福に、心から感謝ができるのではないでしょうか。

 今日もし、この神のことば、この神の御声を聴くならば、心を頑なにしてはいけません。キリストがあなたのために、そのいのちを捨ててくださった大きな愛と恵みによって救われた確信に立ち続ける価値を捨ててはならないのです。

 それは、キリストがあなたをご自分の弟子とするために、ご自身をささげてくださったからです。ここに神の愛が示されました。その愛を今日、今、感謝して受け取りましょう。

 それが、今日あなたに与えられた御霊の声です。ぜひ、心を柔らかくして神のことばを聴いていこうではありませんか。必ずあなたに神の平安が訪れ、どんな境遇にあっても、立ち向える信仰と勇気が与えられるからです。

 

"神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。"
コリント人への手紙 第二 6章2節

●「高慢は正しくない」イザヤ書16章6節

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"われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりと不遜さ、その自慢話は正しくない。
それゆえ、モアブはモアブ自身のために泣き叫び、すべての者が泣き叫ぶ。ただ打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。"
イザヤ書 16章6~7節

平家物語」の冒頭には、こう書かれています。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者もついにはほろびぬ、
ひとえに風の前の塵に同じ。

 

聖書に限らず、誰でも高慢は嫌いだ。それが他人でもそうだし、自分自身なら一層恥ずかしいものです。

驕れる者久しからず。

高ぶるものの治世は長続きはしない。必ず滅ぶと平家物語の著者も証言します。

 

主イエスはこう言われています。

"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"
マタイの福音書 5章3節

この「心の貧しい」とは、自分の霊が富んでいない。神と交わることができるような、良い心、ふさわしい思いを持ち合わせていないと自覚し、だからこそ、へりくだって神に憐みを求める人のことです。

この思いを、あのエデンの園においてアダムとエバが持っていたら、その後の神の赦しは変わっていたでしょう。彼らが素直に罪を犯したことを認めて、自分がどれほど罪深く、神の憐みなしには存在しえないことを告白できたら、きっと神は赦してくださったと思います。

 

しかし、私たち人間は、自分は悪くない。悪いのはあいつだと人のせいにするのです。自分は悪くない。まさに、それが高慢であり、神にとって最も嫌う悪臭なのです。

箴言にはこう書かれています。

"高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。
へりくだって、貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともに分捕り物を分け合うのにまさる。"
箴言 16章18~19節


私たちが高ぶるとき、そこにまた御子のへりくだりがあり、御子の十字架の苦しみがあることを覚えたいのです。

"キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。"
ピリピ人への手紙 2章6~11節

またペテロもこう言います。

"このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。"
ペテロの手紙 第一 2章21~25節


まず主イエスが、御子であるのに仕える者の姿で来られ、真のへりくだりを示され、十字架にまで従われました。それは、私たちがその歩みを模範として生きるためでした。そういう者となるために、主イエスは、私たちと神との和解を成立させるべく、その十字架において磔にされ、贖いとなってくださったのです。

 

今日も、あなたのために犠牲となられ、十字架の道を歩まれたキリストを見上げてまいりましょう。キリストを仰ぎ見るとき、私たちの高慢は打ち砕かれます。

 

 

"私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」"
イザヤ書 53章1~12節

●葬儀説教 「あなたの創造者を覚えよ」伝道者の書12章1〜14節

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12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。

12:2 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。

12:3 その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。

12:4 通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。

12:5 彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。

12:6 こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。

12:7 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

12:8 空の空。伝道者は言う。すべては空。

12:9 伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探求し、多くの箴言をまとめた。

12:10 伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。

12:11 知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。

12:12 わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。

12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

12:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

 

序論              

 今朝は、神のもとに帰られたH兄を偲びつつ、そのいのちの造り主なる神を礼拝する式であります。ご遺族の皆様に置かれましては深い悲しみの中にあることと存じますが、今一度、いのちの主である神の言葉、聖書に聴いてまいりたいと思います。

  聖書は、神が土地の塵から人をかたち造り、神がいのちの息を鼻から吹き入れて、人は生き物となったと言います。
  

1.ちりは地に帰る
 今日お読みした聖書の言葉。伝道者の書という書は、伝統的に古代イスラエル王国のダビデ王の子のソロモンが書いたと言われています。確かではありませんが、絶対にソロモンではないとも言い切れないので、本日はソロモンが書いたという前提でお話いたします。

  ソロモン王と言うのは古代イスラエル王国の中で最も栄えた王様です。イエス・キリストも「栄華を極めたソロモン」と言っているほどに、ソロモンの繁栄振りは半端ではありませんでした。
 その贅沢三昧を尽くしたソロモンが晩年に、この伝道者の書を書いたとすると、神無き人生はすべて空しいという言葉には説得力があります。でも、それはソロモンに限らず、結局はどんな人も、どんなに長生きをしたとしても、また財産を沢山蓄えても、体力は衰え、やがて死ぬのです。人間の死亡率は100%です。今日の聖書のことばは、その人間のからだが弱り果てていく様を見事に言い表しています。銀のひもは切れ・・・というところは、心臓が止まって体が朽ちていく様子が描かれています。いくら金の器のように見えるように健康で立派だったとしても、いつかは必ず、壊れ砕かれるときが来るという喩えです。
だから、今のうちに好きなことを何でもやって悔いのないように生きようという人もいます。ソロモン王もその一人でした。
 しかし、その最後は,なんの喜びもないという日が訪れるんだと聖書はいうのです。誰も死に勝てる人はいません。みんな塵になってしまうのです。

 

2.霊は神に帰る
  しかし、このソロモンは一つ気がついたことがあります。それはこの言葉です。
「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
 確かにからだは土に戻るけれど、霊は神に帰る。それは、今生きているうちから備えておくべきことがあるということです。これはとても大切な視点です。人間の終わりは死ではありません。神の前に出て申し開きをしなければならないのです。だからこそ、伝道者は1節のことばをもって、この伝道者の書の結論として宣言します。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」
 若い日というのは、なるべく早くということです。それは明日ではなく今日という意味です。つまりすぐにでも、あなたを造られた神様を覚えよう。信じよう。神様の存在、その大きさ、素晴らしさに気づこうということです。あなたを形づくり、あなたにいのちの息を吹き入れて生きる者とされたお方に信頼し、このお方の愛の中で生かされるとき、今、まだ、この地上にあるうちから天国の喜びに満たされる歩みがあるからです。
 ですから、この地上での命があるうちに、神に立ち返ること、この神様を信じて歩むことこそ、私たちにとって何よりも心強い、どんな苦難にあってもたとえ死んでも神がともにある、天国が保障された人生なのです。
 そのためにキリストは、目に見える人間の姿でこの地上に来てくださり、私たちの罪、そして人生の重荷をすべて引き受けて十字架で死んでくださったのです。このキリストこそ私たちを神のもとに引き上げてくださる救い主です。このキリストを信じるとき、どんな境遇の中にある人も神の子どもにしていただけるのです。死んだ後に神の前に出るとき、神の子どもとして迎えられるのです。それは祝福のときです。それは本当の安らぎのときです。
  H兄は、そのキリストを23歳のときに信じ洗礼を受け、神の子どもとされました。だから、そのからだは倒れても、H兄ご自身は天に凱旋されたのです。それは一時の別れと言う寂しさはありますが、もう一度H兄に会える希望があることも同時に覚えたいと思います。そのとき、きっとまた手を取り合って、互いに主の前で涙を拭っていただきながら、悲しみの涙が喜びの涙に変わることを現実のこととして味わうことができるのです。

 

結論
 ですから、今日、お読みしたこの1節のみことばはHさんからのメッセージでもあると思うのです。今、恵み深い天の父なる神の前で、Hさんは安らぎつつ、81年の人生を振り返り、「あなたの若い日にあなたの創造者をおぼえなさい」と仰っているのではないでしょうか。そして、また天国で会って、お話しましょう。歌を歌いましょう。いっしょに神の国で礼拝しましょうと待っておられると思うのです。
 この葬儀式は、Hさんとの別れを確認する場ではありません。Hさんと再び会うための約束の場であります。神様がそのように備えてくださったと信じます。私たちもHさんのように「あなたの若い日に」神を覚え、イエス・キリストを信じて神の子どもとなって、今度は神様の前でHさんと再会しようではありませんか。

 

祈り

 恵み深い父なる神様。今御前にH兄が、この世の旅路を終えて、あなたのみもとに召されました。私たちは、あなたのご支配と摂理とを信じ、ただ、深い御旨をかしこむ者です。H兄は、今、御前で主の栄光に仕え、御名をほめたたえておられることを信じます。願わくは、愛する者と相分かれて悲しみと痛みをもつご遺族の上に、あなたの豊かな慰めを与えてください。また、人には一度死ななければならない定めのあることを厳かな事実として受け止め、救い主イエス・キリストを信じて、主の恵みの中を歩む者としてください。私たちもこの世を去ったとき、永遠の御国において、聖徒たちの交わりに連なるものとしてください。ご慈愛に富んでおられるあなたの御名をあがめ、救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。