のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●新しい人に造り変えられる


 聖書にこのような言葉があります。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」コリント人への手紙第二 5:17

 新しいと言う言葉は、とても前向きで積極的な印象を受けますね。
 人間にも、新しい人と古い人がいると、聖書は言っています。それは、原始人と新人類の話ではありません。新しいと言っても、更新ではなく刷新や斬新に近いと思います。それは、新しい創造を意味するからです。私たちも、出来るなら新しい人になりたいなあと思わないでしょうか。
 その思いには、今までの生き方、人生に迷いがあったり、失敗があったり、取り戻したい過去、または思い出したくない過去があるからではないでしょうか。
 聖書は、だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造り変えられたものだと言っています。
 キリストのうちにあるとは、救い主イエス・キリストに接木されるという意味を持っています。イエス・キリストという確かな樹木に、私という別な古い木から採ってきた枝を接(つ)ぎ合わせるとき、そこに新しい創造が起こるというのです。しかし、それは、もともと違う種類の木であった私たちが、キリストに接ぎ合わされることによって、キリストという木と一体化することなのです。
 今まで、こんな自分はだめだとか、自分は価値がないと思っていたとしても、もし、キリストに接ぎ合わされるなら、あなたは新しくキリストの実を結ぶべき枝として生まれ変わるのです。この真理を信じますか。
 神はキリストを十字架につけ、私たちの罪も弱さも、あの過去も、この過去もすべてを負わせて、新しい創造を始められました。そのキリストを私の救い主として信じるなら、あなた自身が、そしてあなたの人生は変えられるのです。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しく鮮やかに変えられるのです。

 どうか、あなたもこの神の愛を受け入れ、キリストに接ぎ合わされるものとして、新しい人生を歩んでみませんか。ぜひ、お近くのキリスト教会へお越しください。心からお勧めいたします。

 

●悪い言葉ではなく、恵みを語れ

聖書にはこのような言葉があります。
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えなさい。」エペソ人への手紙4章29節

 最近、新型コロナウィルス感染症が広まってから、益々、インターネット上で「悪いことば」が飛び交っています。それが匿名で行われるので、責任感のない一方的なヤジのようにも聞こえます。でも聖書は「聞く人に恵みを与えよ」と言います。
 人間は、余計なことを、つい、うっかり話してしまい失敗することの多いものです。たった一つの表現の貧しさで、相手を不快にさせたり、傷つけたりしてしまうものです。私もときどき、一番近い隣人である妻を言葉で傷つけることがあり、よく反省しています。あなたはいかがでしょうか。
 そもそも、私たちの口は何をするために造られたのでしょう。誰かの悪口や、不平や不満を漏らし、他人を傷つけるために造られたのでしょうか。決して、そうではありません。聖書によると、人間は神のかたちに造られたと書いてあります。それは、私たちのこの口も神の口に似せて造られたということです。
 では、神の口とはどんな口なのでしょう。何をするために使われているでしょう。それはまず、その口から出る言葉によって、この天地を創造されたと言うことができます。そして、その口から出る言葉によって、人間に仕事を与え、おきてを与えます。その口から出る言葉で、この世界を治め、愛され、さばかれ、そして、終わらせられます。その口から出る言葉には一点の汚れも間違いも、無駄もありません。それは、すべて、私たち人間との愛の交わりのために用いられているからです。
 これは私たちの口にも同じことが言えます。私たちの口も、そのように、まず神との交わり、つまり祈りのために用いられるべきです。そして、隣人との愛の交わりのために用いるべきです。その正しいかたちの回復のために、神は御子キリストを遣わしてくださいました。それは、私たちが神を愛し、隣人を愛するものとして生まれ変わるためです。そのために御子キリストが十字架にかかり、全人類の罪を負って死んでくださいました。このキリストのうちに、神の求めておられる新しい創造があり、回復があります。
 このキリストをあなたの救い主として受け入れるなら、あなた自身とあなたの人生を神が造り変えてくださって、あなた自身を神のかたちとしての正規の役割に戻されるのです。そのときに、私たちのこの口は人を傷つけるためではなく、神を讃美し感謝するための口に、そして、隣人を癒す、恵みを与える口として用いられるのです。
 ぜひ、お近くのキリスト教会へお越しください。心よりお勧めいたします。

◎2020年6月3日(水)きょうみことば

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列王記 第一 20章41~43節

"彼は急いで目から包帯を取った。そのとき、イスラエルの王は彼が預言者の一人であることに気づいた。
彼は王に言った。「主はこう言われる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」
イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。"

 イスラエルの王アハブは、主によってアラムとの戦いに勝利しましたが、アラムの王の言葉に引き寄せられてしまい、彼らを聖絶しなければならないという主の御心に逆らうことになりました。

 そのため、主は預言者を通してアハブにさばきのメッセージを告げたのです。

 一見、アハブは敵を滅ぼし尽くさず、和平を結び、良いことをしたのに、どうして主はそれを認めずに、アハブをさばくのかという思いにさせられます。

 聖絶というのは、この当時のイスラエルにおいて、主がご自身のさばきを行うときにイスラエルを用いて行った特別な手段です。それは、当時のパレスチナに広まっているバアル礼拝、モレク信仰が淫らなこと、また子どもを生贄にするという恐ろしい内容を含む慣しがあったため、それがイスラエルに蔓延しないように、そうさせた可能性があります。

 いずれにしても、その聖絶のことで私たちは私たちの疑問によって、この箇所で主が教えようとしていることを見失ってはいけません。

 大切なことは、主のみことばに素直に従うという主への従順であり、みことば通りに主が戦いに勝たせてくださったことへの感謝なのです。

 しかしアハブ王は、アラムの王を助けたことにより、みことばを軽んじて、しかも忠告に来た主の預言者の言葉に腹を立て、自分の宮殿へ行ってしまいました。

 もともとアハブは、その妻イザベルによってバアル礼拝をイスラエルに取り入れた罪に問われなければならない人です。しかし、主はそのアハブを愛し、彼が主に立ち返るように導いて来られました。この戦いにおいても預言者を通してこのように言われています。

"ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」"列王記 第一 20章28節

 この戦いは、アハブをはじめイスラエル人たちがバアルを捨てて主に立ち返ることを願って、この戦いを用いられたのです。それにもかかわらず、彼はみことばに従わなかったのです。

 その主の救いのタイミングを蔑ろにしてはなりません。

 すべてに時があるように、主の憐みのタイミングを自ら後ろに投げ捨ててはならないのです。主の御腕が短くて救えないのではありません。

 私たちがうなじのこわい民であるので、みすみす、その時を自ら逃すことがあるのです。しかし、きょうもう一度、今与えられている時を大切にしましょう。全ては主の御手の内にあり、今は恵みのとききょうは救いの日であるとされている今、神が与えてくださった救い主イエス・キリストを信じて、神の下さっている憐みを受け入れていこうではありませんか。

"私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。
神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。"
コリント人への手紙 第二 6章1~2節

◎2020年6月2日(火)きょうのみことば

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列王記 第一 20章13~14節

"13 ちょうどそのころ、一人の預言者イスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」
14 アハブが「それは、だれによってでしょうか」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう言われる。『諸州の首長に属する若い者たちによって。』」アハブが「だれが戦いを仕掛けるのでしょうか」と尋ねると、「あなたです」と答えた。"

 

列王記 第一 20章21節
"21 イスラエルの王も出陣し、馬と戦車を討ち、アラム人を討って大損害を与えた。"

  主は憐み深いお方です。あれほどまでにバアルに仕える預言者たちを持ち、主への信仰を軽んじたのに、主は、アハブを憐み、みことばを与えたのです。

 それはなぜか。

「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」

  それは、アハブがこのみことばを与え、イスラエルを勝利に導く神こそ主であることをアハブが知るためでした。「知るため」とは体験を伴うことを意味しています。また、それは深い関係を意味しています。

 創世記でアダムが妻を愛して一体となったことをこのように記しています。

"人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、主によって一人の男子を得た」と言った。"
創世記 4章1節


 つまり主がアハブに「わたしが主であることを知る」と仰せられているのは、言い換えると「わたしのことを愛する」という意味なのです。主を知ることは主を愛することなのです。

 そのことを、これまで主の目の前に悪を行なってきたアハブに対して、すぐに滅ぼさず、主に立ち返るように、預言者を通して働きかけたのでした。

 主は今もそうです。憐み深く私たちを愛し、悔い改めて立ち返ることを待っておられるお方です。私のために、あなたのために、今も主を愛するものとなることを期待して、恵みを持って今日も臨んでおられます。

 その主の憐みを、このみことばを通して知りました。あなたのきょうの一日が、きょうもあなたを愛し憐み、待っていてくださる主に立ち返るものでありますように。心からお祈りいたします。

 

"わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」"
ヨハネ福音書 6章39~40節


◎2020年5月31日 ペンテコステ礼拝

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動画礼拝:https://youtu.be/rIQ2ydX7gCw

説教題 「ただで受けたのだから」
聖書箇所 マタイの福音書9章35~10章1節


 4月12日のイースターから、会堂に集まる礼拝を自粛してきました。会堂が与えられたばかりなのに、毎週、からっぽになった礼拝室の中で、私と妻は二人で礼拝をすることになりました。でも今日から、正式に皆さんと会堂に集まって一緒に礼拝をささげています。私は、この様子は、バビロン捕囚のときのイスラエル人のようだなと思います。
主に贖われた者たちは帰って来る。あのペルシャのクロス王によって解放されて、ユダヤ人たちが約束の地に帰って来たように、今日、私たちは、この主が建ててくださった会堂に集まることができました。バビロン捕囚から帰ったユダヤ人たちは、これから神殿建設でしたが、私たちは既に会堂が与えられている。すぐに礼拝を行なうことができる。それがペンテコステの日「聖霊降臨日」であることに感謝したいと思います。
それは、ペンテコステは別名、教会の誕生日とも言われ、弟子集団が改めて、キリスト教会となった日だからです。これまでの弟子集団とこのペンテコステ後の弟子集団と何が違うのか。それは神ご自身である聖霊がこの群れの中に降り、同時に信じる弟子である私たち一人ひとりに住まわれるというダイナミックな聖霊バプテスマが行われたということです。それは、ここで行われる一切の業が人間の業ではなく、神の助けの中で、神にのみ栄光が帰される共同体にされたということです。
白石教会も改めて、今日から、もう一度聖霊に満たされて、聖霊の助けの中で宣教の業を進めていきたいと願わされます。今回、コロナウィルス感染の影響で、会堂で礼拝がお休みという前代未聞の経験をした私たちですが、ここを通されたことで感謝だなと思わされたこともいくつかありました。その一つに、インターネットによる礼拝のライブ配信があります。すべての先端技術も神様のためにまず用いるべきですから、それが大いに用いられているのです。
それは、この札幌から遠く離れた地におられる方々も、白石教会の礼拝に参加できるようになったということです。今日も離れていますが、全国の白石教会に繋がっている兄弟姉妹たちがともに礼拝をささげておられます。その新しい御国でのような礼拝の恵みに感謝しつつ、今日もみことばに聴いていきましょう。

 

1.選ばれた弟子たちとその群れ
 先週からマタイの福音書10章に入りました。前回は、イエス様がご自分の宣教の業を弟子たち委ねられるところを見てきました。そのためには、まず「祈れ」と主は言われて、神さまとの交わりの中で「あなたはどうですか」という招きを聴き立たされていく。そういうお話でした。今日は、その続きで、まずどういう人たちが弟子に選ばれたのかというところから始まります。2節から4節までを読みましょう。
「さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」
 ここで12使徒全員を細かく見ている時間はありませんが、大事なことだけをご一緒に確認したいと思います。まず、この12人が使徒という特別な役目として、教会の軸になっていく人たちになります。
 その筆頭がペテロです。ここではペテロと呼ばれるシモンと紹介されています。書いてある通りで、本名はシモンでしたが、イエス様から新しい名前をもらってペテロとなったということです。このことは、他のマルコ、ルカでも言われています。マルコでは「シモンにはペテロという名をつけ」とあり、ルカでは「ペテロという名をいただいたシモン」となっていました。それは、どの福音書記者も、ここを強調しているということです。福音書を書いたもう一人のヨハネという人は、ペテロがイエス様から名前をいただく場面をきちんと伝えています。
 その箇所のイエス様のことばをお読みします。
「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」ヨハネ1:42
 ケパというのは当時のユダヤ人たちが日常会話で使っていたアラム語で、それを公用語ギリシャ語に訳すとペテロという名前なのです。その意味は「岩」です。
 実は、このことこそ、この12人の弟子たちすべてを表していると言っても過言ではありません。それは、今、イエス様に選ばれたばかりの初心者であるシモンという漁師が、何があっても動じない岩のような信仰者という意味の名で呼ばれる。そうお呼びになるイエス様のお心は、他の弟子たちに対しても同じだと言えるからです。
 シモンだけではなく、弟子すべて、そして私たちも、今、どのような小さな信仰だったとしても、どんなに貧しい信仰だったとしても、岩と呼んでくださる主の励ましをここに覚えるのです。決して名前負けしていることを馬鹿にしているのではありません。今、私たちがどのような弱く貧しい者であったとしても、それはこれからイエス・キリストによって、言い換えると聖霊によって岩のような信仰になることを先取りして、このように言われているのです。
 そういう彼等を主イエスはあえて選んでくださった。ここで聖書が言っていることは、先週もお話したとおり、どれほど自分をからっぽにしているかです。つまり、自分の経験や能力を武器に立つ弟子ではなく、丸腰であることに価値を置き、何も持っていないからこそ、主の権威を入れることのできるへりくだりです。

 

2.ただで与える心
 そういう彼らにイエス様は具体的な宣教する相手を指定します。5節、6節。
「 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。』」
 初心者の弟子集団12使徒たちの最初のミッションは、イスラエル人たちへの宣教でした。ここを読んで、外国人を差別していると思ってはなりません。これは、イスラエル人たちが神様から委ねられている役割のゆえに、先に選ばれているのです。イスラエル人の役割は真の神様をこの世界に証しして、すべての民が神を知るようになることです。ですから、そのためにイスラエル人がまず神に立ち返り、遣わされた救い主であるイエス様を受け容れなければなりません。
 そこに行って、何を伝えるのかというと。7節、8節。
「行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
 この7節を見るとおやっと思います。確かまず癒す権威が与えられたのだから、癒すこと、寄り添うことが先ではないのか。この開口一番に「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさいとはどういうことか。
 先週、福音宣教は宣教の業の中心だと言いました。でも、いきなり救いのことを伝えようとしても、関係性がないとなかなか聞いてもいらえないという話をしました。それは事実だと思うのです。でも、その次のステップで救いを語りたいという下心があると、本当の意味でその人の心を開くことはできません。むしろ、全部言わないまでも、中心的なことを伝えることは必要でしょう。
 それで、ここをよく見ると、「悔い改めなさい」という言葉は入っていません。ただ「天の御国が近づいた」と癒しの前にそう一言添えるだけです。つまり、一番大事な救いのためであるという目的を隠したままで寄り添うのではなく、神様の救いの目的をきちんと告げることが大切であることを教えているのではないでしょうか。
 それで、ここまでからっぽになった彼らに癒しの権威が与えられて、その相手が示されました。さて次は何でしょうか。その働きの原動力のようなものは何でしょう。そのことを教えるため、イエス様はこのように言っています。8節後半。
「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
 私たちがイエス様のために働くとはどんなときでしょう。それはまず礼拝をささげることが第一の働きです。そして、そのために奉仕すること。献金すること。家に帰って教会で聞いたみ言葉の通りに生きようとすること。それがイエス様のために働くことです。そのために与えられている時間、力、技術、お金、能力、いのち、愛、ことば。それがすべて神様からただで受けているというのです。それ以上に、罪が赦され救われることが何よりのタダで受けた大きな出来事です。選ばれるにふさわしくない者が選ばれた。そのことを何というでしょう。
それは「恵み」といいます。そのただで受けた恵みに立ち続けること。そして、その恵みから出てくるものは何でしょう。それは神への感謝です。その感謝が私たちの原動力なのです。それが、ただで受けたのだから、ただで与えるということです。その感謝の中にいるとき、私たちは生まれ変わります。自分の持っているすべてのものが神様からのギフトであり、一方的な賜物として感謝して生きる人に造り変えられます。自分にとって生まれつきの能力と思っていた、あの才能もこの特技も、神様からの賜物として感謝できるのです。
 でも、もし、信仰生活の原動力がこの恵みへの感謝ではなく、私たちのがんばり、気力、やる気、義務感だけだったらどうなるでしょうか。それは、その礼拝も奉仕も、どんなに立派な行為も自分の手柄になります。それは10節後半のイエス様のことばを自分のことばにしてしまうということです。
「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」
 イエス様は、弟子たちが旅先で生活に必要なものを心配しなくても大丈夫だよ。神のために働く者にはきちんと食べ物が与えられるのだからと励ましてくださっているのですが、これを私たちが自分の口で言ってはなりません。この言葉はイエス様の私たちへの励ましであり約束だからです。牧師などフルタイムで教会の働きをする者は、このイエス様のことばで励まされて、どんな厳しい境遇にあっても、主が必要を必ず満たしてくださる。そのように確信し、一歩踏み出して、一般の仕事をやめて、献身します。しかし、自分が教会で働いているのだから、あなたがたは私を支える義務がある。とか、これこれの奉仕をしたのだから、私は報酬を受けるのは当然だと言ったなら、それはここのイエス様のことばを誤解しているだけでなく、神の恵みを冒瀆することになります。
 つまり、神が恵みとして、ただでくださった賜物に感謝して、この働きをしているはずなのに、それを報酬にしてしまっているからです。それは神のための働きと言っていながら、自分の業、自分の手柄、自分の栄光にしているということです。ですから、牧師は特に、いただいている給与は謝儀という神からの恵みの賜物であって報酬ではないとわきまえておく必要があります。また、給与を支出する教会も、牧師を雇っていると思ってはなりません。なぜなら、それは互いに神への感謝が原動力だからです。それを評価した途端に、神様の恵みを人間の手柄へと引き下ろすことになるのです。パウロは、そこを勘違いしているコリント教会からの献金を一切拒否していました。パウロはそれを受ける権利はあるが「これらの権利を一つも用いませんでした」と言うほど大切なことです。パウロは、お金のために奉仕しているんだと思われるくらいなら死んだほうがましですとも言っています。私も神学校で教えられました。「貧しくて、もし本当に食べるものがなかったら聖なる餓死を選びなさい」と。その通りだと思います。特に、お金に関しては、イエス様はこの箇所できちんと警戒するように教えておられます。9節。
「胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。」
ここでイエス様は弟子たちに大事なことを釘刺しています。胴巻き(財布)に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。これはどういう意味でしょうか。私は最初にここを読んだときに、お金を持って行かなくても、必要は与えられるから大丈夫ってことかなと思っていたのですが、ここの原語を直訳するとこうなります。「儲けようとしてはいけない。金、銀、銅をあなたがたの帯びの中に」
帯びの中にという言葉があるので、儲けるという言葉をわかりやすく「入れてはいけません」と訳していると思うのですが、この「入れるな」というのは「儲けようとするな、得ようとするな、獲得するな」という言葉が使われているのです。しかも、10節で「働く者が当然与えられるもの」はお金ではなく、食べ物です。つまり生きるための必要最低限のものがお金ではなく食べ物であることをあえて強調して、恵みを手柄にするな、金銭に執着するな、私腹を肥やしてはならないとイエス様は警告しているのです。
 
結論
 このように牧師などのフルタイムの働き人のことを中心にお話をしてきましたが、これはすべて、そのまま、すべてのクリスチャンにも適用できます。それは、同じように、ただで与えられた恵みへの応答としての礼拝、奉仕、献金なのに、人の手柄のようにしてしまう弱さを、私たちは持っているということです。イエス様は山上の教えでこう教えています。
「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」マタイ6:3
またこうもおっしゃいました。
「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」ルカ17:10
 奉仕への感謝はあっても良いでしょう。でもそれが称賛となってはなりません。それはその瞬間、主の恵みを人の手柄にしてしまうからです。そのことを互いにわきまえ、一人ひとりが主から受けている恵みを恵みとして感謝するならば、それで十分ではないでしょうか。
 今日はペンテコステです。この弟子たちが岩のような信仰をいただいて、殉教を恐れないものとして整えられたのは、実は聖霊を受けてからでした。このあと、弟子たちはみんな弟子の中で誰が一番偉いかで頭がいっぱいになって、イエス様を裏切って逃げました。せっかく祈って、からっぽになっても彼らの中に詰まってしまったものは高慢でした。癒しも悪霊の追い出しもイエス様の権威によってさせていただいていただけなのに、自分の手柄にしていったのでした。しかし、主の十字架と復活を通して悔い改め、そこでもう一度からっぽにされて聖霊が与えられました。イエス様はそのことを経験させたかったのだと思います。私たちは聖霊の助けがなければ、いっさい働けない。自分が無力であることを。だからこそ幸いを得ることができるということを思い知るのです。
 今、イエス様を信じるあなたにも聖霊が住んでくださっています。聖霊は、ただで受けた恵みに感謝して生きられるように、日々助けてくださっているはずです。でもただより高いものはないと言いますが、この場合、救いは私たちにとってはただ受けた恵みですが神様はただではありません。神の御子イエス様の血が流され、いのちが捨てられました。私たちの罪の代価として神のいのちが支払(はら)われたのです。だから、パウロはこう言います。
「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」Ⅰコリント6:20
 これからも、この場所で自分の栄光ではなく、神の栄光のために聖霊に満たされつつ、ともに礼拝をささげて、福音を宣べ伝えてまいりましょう。

 

祈り

◎2020年5月27日(水)きょうのみことば

 

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列王記 第一 16章21~34節

"当時、イスラエルの民は二派に分裂していた。民の半分はギナテの子ティブニに従って彼を王にしようとし、もう半分はオムリに従った。
オムリに従った民は、ギナテの子ティブニに従った民より強かったので、ティブニが死ぬとオムリが王となった。
ユダの王アサの第三十一年に、オムリはイスラエルの王となり、十二年間、王であった。六年間はティルツァで王であった。…… オムリは主の目に悪であることを行い、彼以前のだれよりも悪いことをした。
……… オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。
彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。
アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。
彼の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。"

 主の目の前に悪を行うオムリ王のあとを継いだアハブもまた主の目の前に悪を行う者となりました。

 特にアハブは、シドン人という異教の王であるエテバアルの娘イゼベルと結婚したことは、北イスラエル王国のみならず、イスラエル全体に悪を及ぼすことになりました。

 主がイスラエル人たちをエジプトの地から連れ上るときから、カナンの宗教を警戒して、その地の民を聖絶することを命ずるほどに、その地の宗教は堕落していたことがわかります。

 

"あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の民の町々では、息のある者を一人も生かしておいてはならない。
すなわち、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり必ず聖絶しなければならない。
それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌み嫌うべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主の前に罪ある者とならないようにするためである。"
申命記 20章16~18節

 

 しかし、アハブは父オムリ同様、主の目の前に悪を行い、しかもイスラエルに主が忌み嫌う宗教を持ち込んだのです。そもそも、ヤロブアムによってユダ族と分裂し北イスラエル王国が建国されてから、正しい主への礼拝は行われてはいませんでした。それでは、何がこれまでと違っていたのでしょうか。これまでの主の目の前での悪と、アハブの悪とは何が異なっているのでしょう。

 それが、このバアル信仰にある不道徳の極みだったと推察できます。バアル信仰とは、天候神の男神であるバアルと大地神の女神であるアシュタロテ等が交わることで、大地が実り、五穀豊穣に繋がると考えられていたため、旱魃などで農作物が採れなくなると、バアル神の欲情をそそらせて雨を降らせるための淫行が礼拝として公然と行われるのです。それが、神殿男娼、娼婦の役目でした。そのようなことが宗教行為として慣習化していくことで、おのずと一般的な社会活動、文化にも影響を及ぼします。つまり、主の求めるきよさとは程遠い生き方が当たり前になってしまうのです。

 その忌み嫌うべき宗教が、神の民イスラエルの中に入って来た。それがアハブとイゼベルが結婚したことに含まれる主の目の前における悪であり、それはこれまでも悪と言われたオムリすら行ってこなかった行為だったのです。

 でも、そのようなことをどうしてアハブは行ってしまったのか。それは、やはり、これまでの父オムリ以前からの主の律法を軽んじ、主への礼拝を正しく行わず、主のみことばに耳を傾けなかった結果だと言えるでしょう。どんなことも、そのようになる原因があり、知らないうちに、その悪いものに巻かれてしまうものです。アハブも父オムリから受け継いだ主を軽んじる生き方の延長線上で、結果的にこれまで以上の罪を犯すことになったのでしょう。

 これは、私たちに対する教訓でもあります。私たちも、罪を罪として、その都度、悔い改めていかなければ、その罪の雪だるまが知らないうちに、扱いきれないほどに大きくなり、しまいにはその雪だるまの下敷きになってしまうのです。神を愛し、神の喜ばれる生き方を望むならば、日々、主のみことばに耳を傾け、それを実行できるように祈っていかなければなりません。その中で、大切なことは何でしょうか。それは、あなたのためにいつも恵みを与え続けておられる主なる神を愛することです。私たちは、宗教をやっているのではありません。私たちの神であるお方、主を愛するからこそ、そのように生きたいと願わされるのです。

 そのために神は、御子をこの世に遣わし、私たちが主の目の前に犯した悪を負わせて十字架に磔にしてくださいました。ここに神の愛が完全に示されたと聖書は言っています。だからこそ、その愛を受け取って、私たちもその主を益々愛するものとされていこうではありませんか。主の目の前に悪を行うものから、主への愛を実践するものへと変えられてまいりましょう。

 

ヨハネの手紙第一3章1~3節

1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。