のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

善きものを保ち、悪しきから離れよ

"兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。
兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
あらゆる形の悪から離れなさい。
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。
すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをしなさい。
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主によって堅く命じます。
私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。"
テサロニケ人への手紙 第一 5章12~28節

 私たちの信仰の歩みは、やがて訪れるキリストの再臨を待ち望みつつある者でなければなりません。

 パウロもそのことを「キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように」と、全ての歩みが善であるように勧めています。

 悪に対して悪で報いず、かえって善によって悪をも主の平和のうちに取り込んでいくのです。

 私たちはやられたらやり返したくなるものですが、そこをキリストによって克服していくところに御霊の歩みがあるからです。だから、そのように生きようとしない者は、御霊を消すことになると警告しています。

 だからこそ、主が与えてくださった祝福の中に既に入れられているのですから、いつも喜び、絶えず神に祈り、全てのことについて感謝すべきなのです。パウロも私たち自身の古い性質をよく知っているからこそ、あえてこのことを命じているのです。私たちの古い性質は、いつもがっかりし、絶えず神から離れ不安を抱き、全てのことについて不満と呪いの言葉を漏らす者です。

 そこには、何の解決もないばかりか、人を蔑み傷つけ、自分さえも苦しめるのです。だからこそ、心がけるべきことをパウロは勧め、命じて、私たちが意識的に悪を捨て善に生きるように願っているのです。

 

 あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している教会の牧師やリーダーたちを重んじ、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保つように勧めます。
 また、怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容であることを願うのです。

 そこに御霊が働き、私たちの心に喜びが溢れてきて、神への祈り心が生まれます。そして、何よりも、この私たちの口から神への願い事以上に、感謝が溢れてくるのです。神への感謝こそ礼拝の中心です。それが賛美となり、神への献身へと繋がるからです。それが礼拝であり、信仰生活の原動力となるのです。

 今日も意識して、悪ではなく善を行い、全ての人に寛容を持って仕えてまいろうではありませんか。そこに、御霊が働き、あなたのうちに真の喜びを溢れさせてくださり、その歩みを続ける中にキリストが栄光をもって来臨されるからです。

キリストの再臨を待つ信仰をもって

テサロニケ人への手紙 第一
4章
1,最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。
2,私たちが主イエスによって、どのような命令をあなたがたに与えたか、あなたがたは知っています。
3,神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、
4,一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、
5,神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
6,また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。
7,神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。
8,ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。
9,兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、
10,マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。
11,また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。
12,外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。
13,眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
14,イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
15,私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
16,すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17,それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18,ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

 

 神の御心は私たちが神のようにきよくなることです。この罪深い世に、罪深い私がきよくなれるのか。私はついそう思ってしまいます。

 しかし、使徒パウロはそのように生きることが、この世におけるキリスト者の務めであることを述べているのです。でも、それは自力で行うことではありません。そこに聖霊の助けがあることを知らなければなりません。

7,神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。
8,ですから、この警告を拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたにご自分の聖霊を与えてくださる神を拒むのです。

 まさに聖霊の働きに期待しつつ、きよくされるように願い、そのように生きようとしなければなりません。そのときに聖霊が私たちに働き、ご自身のきよさに与らせてくださるのです。

 そのきよい生き方をつくり、成長させるためにも大切なのが、そのような罪の世に置かれつつ、私たちの人生がしで終わるものではなく、必ず復活の希望があるということを絶えず信じて疑わずに生きることです。そして、そのためにもキリストが再び来てくださり、私たち信じる者を天に引き上げてくださる携挙があるのだと待ち望みつつ生きることです。

 それがいつなのかは誰も知りません。それは再臨だけでなく、この世でのいのちすら私たちは把握できません。だからこそ、いつ死ぬか、主の再臨がいつなのかはわからないからこそ、目を覚まして、信仰を奮い立たせて日々歩みたいものです。

 キリストは再び来られます。2000年前のパウロたちがリアルにそう信じていたのであれば、更にキリストの再臨が近い時代に置かれている私たちは益々リアルに、この再臨信仰に生きているべきではないでしょうか。

 今日も、もう一度来られるキリストを待ちわびつつ、決して諦めることなく、疑うことなく、痺れを枯らすことなく、愛する主の御顔を拝することを喜びとして歩んでまいりましょう。

 

"わたしはすぐに来る。あなたは、自分の冠をだれにも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい。
わたしは、勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書き記す。"
ヨハネの黙示録 3章11~12節

"「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」"
ヨハネの黙示録 22章7節
"「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。"
ヨハネの黙示録 22章12節
"「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。
これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。"
ヨハネの黙示録 22章16~21節


人にではなく神に

"私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。
むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。
あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。"
テサロニケ人への手紙 第一 2章3~5節

 人の顔色を見て態度を変える人のことを風見鶏のようだと言います。私たちはなるべく批判されたくないし、人気者でいたいです。

 また、福音を語るときに喜んでもらいたいのは事実ですから、皆さんの表情が明るくなるような話を語りたくなります。しかし、それが行き過ぎると真理から外れていってしまうことがあるので注意が必要です。

 それは、みことばを語るときも語る相手は人であっても、あくまで神のために、神の栄光のために語るべきだからです。そこでは、たとえ相手に嫌な顔をされたとしても恐れず語らなければならないのです。

 それを説教者がせずに誰がするでしょうか。説教者は預言者的であり、同時に祭司的でもあり、使徒的でもあります。大切なことは、軸足を常に神に置いていることなのです。

 現代のキリスト教会には、人間の多様な価値観に寄り添うように、その立ち位置を変化させている向きがあります。結婚という制度を同性でも認めるべきだという、社会を混乱させ崩壊させるようなことが常識になりつつあり、それを認めるべきだという教会が増えています。

 そのことにNO!と言うことすら憚られる時代に入っています。男女差別をなくすことは大切なことです。しかし、男女の区別は必要です。

 このことは一例にすぎません。私たちは物事の判断や価値基準を人間に合わせて行ったときに起きる危険に気がつかなければならないのです。それは、神ではなく人間を喜ばせることだからです。みんな仲良くとは聞こえは良いですが、神を抜きにした価値基準は、社会秩序を破壊するのです。なぜならば、それは明らかにサタンの策略だからです。

 神ではなく人間を喜ばせることは、人間が喜ぶのではなくサタンが喜ぶのです。人を甘い言葉で誘惑し、神から遠ざけ、いや神にも従っているように思わせて、福音を骨抜きにしようとしているからです。

 使徒パウロもそのことを懸念して、このみことばをテサロニケの教会に書き送ったのでした。

 私たちも、そのような人にへつらうような時代に入っていることを自覚し、時が良くても悪くても正しく聖書から、神の栄光のためにみことばを語っていこうではありませんか。

 

"みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。"
テモテへの手紙 第二 4章2~5節


見ゆるところによらず、信仰によって歩むべし

民数記 14章1~25節

"すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。
なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」
そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。
すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、
イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。
もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。
ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。
主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。
わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剝奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」
モーセは主に言った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、
この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。
もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。
『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。
どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。あなたは言われました。
『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。
この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
主は言われた。「あなたのことばどおりに、わたしは赦す。
しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上、
わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、
わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。
ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。
平地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け。」"

 カナンの地のから帰って来たイスラエルの偵察隊のうち、ヨシュアとカレブ以外のものたちは、カナン人を恐れ、カナン攻略は無理であると嘆きました。

 そればかりか、あの奴隷として苦役を舐めたエジプトにいた方がマシだったと、かつての生活を懐かしんだのです。しかも、カナンの地への侵攻に前向きなヨシュアとカレブを殺そうとしました。

 つまり、彼ら偵察に行った者の中で、同じものを見たにも関わらず、ある者は不可能だと思い、ある者は可能だと確信したわけです。

 同じものを見、また体験しても、その受け取り方が全く違ったのです。

 このようなことはよく起こります。教会で何かを決めるとき、ある人は無理だと言い、ある人は大丈夫だと言う。私も以前、教会が新たに土地を購入して会堂を建てるという計画に参加したことがありました。そのとき、購入する候補地を決める場面がありました。

 その土地は、当時、ゴミ捨て場としてつくられた場所のすぐそばで、住宅地と言えるほど人が住んでいませんでした。そこで、ある人は、そんなゴミ捨て場に移転して何になるのかと言い、ある人は、これから多くの人々が移り住み、新しい住宅地になる可能性があるので良いのではないかと言いました。

 そこで、結果的には後者の意見が採択され、現在では住宅地となり、ゴミ捨て場であった広大な場所も埋め立てられて、大きな公園となり、多くの市民の憩いの場となっています。

 ここで、大切なのは何でしょうか。いつも綱渡りすることを神様は求めておられるのでしょうか。いつも、危なっかしい方を選ぶように導いておられるのでしょうか。

 そうではありません。大切なことは、いつもともにおられる神様を信頼しているかです。その中で、必要なときは、神様を信頼しているからこそ踏み出す一歩がある。その一歩がときには、周囲の目から見て無謀に思えることもある。ただそれだけです。

 何でも危ない方を選べば良いという問題ではありません。神を信じ、神のみことばに聴いて歩むことが最善であり最高の選択ができるということなのです。

 あなたにとって、今日生きるためのチャレンジはあるでしょうか。ある人は、病院へ行って手術を受けなければならないかも知れません。それはとても緊張を伴う一歩になるでしょう。ある人は、進学や就職のために踏み出す一歩があるかも知れません。またある人は近所の人に福音を伝えようとすることかも知れません。

 どんな緊張を伴うような出来事があったとしても、そこにともにいてくださる神を感じ、その神に信頼するならば、どんな困難をも乗り越えることができるのです。そのとき、大切なことは、あなたを愛してやまない神様に祈り、聖書を開いてみことばをいただくことです。そうすれば、確かな神様からの答えをいただくことができるばかりか、そのみことばがあなたの霊性を高めるための霊の糧としても用いられ、あなたの踏み出す一歩に力と勇気を与えるものとなるのです。

 さあ、今日もその一歩を踏み出すためにも、神様に祈り、みことばに聴いてまいりましょう。

"「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。"
ヨハネ福音書 14章1節

"わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。
それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。"
ヨハネ福音書 14章30~31節