のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

私たちを見なさい

"ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。"
使徒の働き 3章1~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 エルサレム神殿の美しの門でいつも、通りがかりの礼拝者から施しを受けていた足の不自由な男性がいました。彼は生まれつき足が悪く、まだこの地上を歩いたことがないのです。しかも、生まれつきですから、この先、足が良くなって歩けるようになるとは全く考えていなかったことでしょう。

 だから、日々の養いを他人に縋る他なかったのです。彼はいつものように、美しの門の前で祈りに来る人々に物乞いをしていました。

 そこに、イエスの弟子ペテロとヨハネが来たのです。当然、足の不自由な男性は、この二人が誰なのかは知らなかったでしょう。だから、彼らが誰かよりも、もらえる金銭の額の方が大事だったはずです。そういう意味で、二人の方を彼は見た。そして、施しを求めたのです。

 すると、二人はまず彼に何と言ったか。それは「私たちを見なさい」でした。それは、足の不自由なこの男性が見ているものが変わらない限り、彼の人生に祝福がないことをペテロとヨハネは悟っていたからでしょう。

 それで彼の視線を施しで得られる金銭から最も価値のある方向へ向けるために、まず「私たちを見なさい」と誘導したのです。

 足の不自由な男性は、いつものように、ここで何かもらえると思いました。その視線はやはり金銭です。そこで、使徒ペテロがこう言います。

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 ペテロはまず彼が期待した金銀がないことを告げます。それは足の不自由な男性にすれば期待外れです。それはこれまでの彼の価値観で言えば失望へと向かうでしょう。

 ところがペテロは、そうではなくて真の祝福の源であるお方を指し示すのです。それが、ナザレのイエスでした。ペテロは自分がいつも見ているもの。いつも自分が祝福を得ている確かなお方を指差して、その名前によって立ち上がるように彼に命じたのです。この言葉は確かにペテロの言葉ではありますが、いける神の御子キリストの名前によるキリストの宣言でもありました。

 またペテロは、この宣言だけでなく、彼に手を添えて、彼の人生初となる地上に立つ助けを忘れません。祝福された人生の主であるイエスの名前によって立ち上がるために、ペテロは彼の松葉杖となったときに、彼の足が強くされ、これまで使っていなかったためにすっかり衰えていた足を始め歩行をさせるための骨が太くされ筋肉が盛り上がって、彼は何と地に立ったのです。

 しかもそれだけではありません。彼は躍り上がって、何と神を賛美しながら家に帰ったのではなく、ペテロもヨハネと一緒に神殿に入って礼拝者となったのです。かれの視線はもう金銭ではなく、彼を愛して死なれ復活された御子に、そして、その御子を与えるほどに彼を愛しておられる神に変わっていました。

 ここに、人生の大転換があります。私たちは人生にとって必要なものを見失って歩んでいる者です。その見誤りに気づかず、そこに価値を置き続けている限り、本当の意味で祝福の人生の旅路に立つことはできません。

 しかし、その視線をあなたを愛して十字架に死によみがえってくださったキリストに向けるなら、あなたは新しく生まれ変わることができるのです。その際、ペテロが手を貸してくれたように、教会があなたのことをキリストの救いを歩んで行けるようにサポートしてくれるでしょう。

 今日、あなたの価値をキリストに置いて、このキリストの名によって立ち上がってまいりましょう。

 

福音を受け入れた者は

"彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし
神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。"
使徒の働き 2章41~47節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 ペテロの説教によって、人々は心を刺され、罪の悔い改めに導かれました。そして、一度に三千人もの人たちがバプテスマを受けることになります。

 バプテスマとは洗礼のことです。その言葉の意味は浸すということです。それは水の中にからだを沈めることによって、キリストとともに死に、水から起き上がることによってキリストとともによみがえることを意味しています。

 あのノアの家族が箱舟に乗って洪水を通って救われたように、またイスラエルの民が、真っ二つに分かれた葦の海を通ってエジプトから救われたようにです。

 

 "バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。"
コロサイ人への手紙 2章12節


 そしてバプテスマを受けた人たちはどうしたでしょうか。それは、まず弟子に加えられたとあります。それはペテロの弟子となったのではなくキリストの弟子となったということです。これは、主イエス様が死からよみがえられてから、あの大宣教命令の中で言われたことです。

 

"ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、"  マタイの福音書 28章19節

 大宣教命令で、「弟子としなさい」という命令のあとにバプテスマを授けることが言われているのは、バプテスマを授けられる者が主の弟子となることを先に受け入れていることが前提だからでしょう。救いを受け入れることは、神様から永遠のいのちを受け取るだけでなく、同時に主の弟子として、主に従うことも意味しています。そのことを抜きに救いの決心はありません。そもそも罪の悔い改めは、罪の奴隷からキリストの弟子への方向転換だからです。

 ですから、私たちもキリストの弟子として積極的に主のように生きることが求められているのです。

 そのようにバプテスマを受け弟子とされた彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていたのです。

 使徒たちの教えとは、聖書が完成した現代で言うなら、新約聖書のことであると言えるでしょう。このときはまだ聖書と言えば旧約聖書しかありませんでした。しかし、キリストの弟子にとって大切なのは旧約聖書を成就したイエス・キリストの教えであり、生き方であり、その救いみわざです。

 その新約聖書の役割を使徒たちは担っていました。それは旧約聖書と切り離して新約聖書があるのではなく、救い主であるイエス・キリストの到来によって旧約聖書が指し示していたことが実現したことで、イエス・キリストを通して旧約聖書を理解することを使徒たちが教えていたと言えます。それは、これまでになかった新しい聖書理解であり、読み方です。

 そして、そこに交わりがあります。教会の交わりとは単に一緒にご飯を食べて世間話しすることではありません。教会の本来の交わりとは、使徒たちの教え、すなわちみことばによる交わりです。

 礼拝を通して得たみことばの恵みをともに分かち合うことこそ、主の群れとしての本来のあり方であり、意味です。私たちはみことばによって励まし合うことが大切です。クリスチャンと言えども一人で信仰を守っていくことはできません。必ず教会という仲間とのみことばによる交わりが必要なのです。パウロも勧めています。

 

"キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 キリストのことば、すなわちみことばが私たちのうちに豊かに住むようになることにより、互いに教え、戒め、ともに主を賛美する者へと変えられ整えられるのです。

 そして、最後に、パンを裂き祈りをしていた。

 それは主の群れは、「パンを裂き」それは聖餐式を行い、パンとぶどう酒によってキリストを覚え、キリストにある新しい契約にあることを繰り返し味わうのです。それは、キリストの共同体としての確認でもあります。また、天の御国での祝宴の前味でもあります。その新しい契約の中での祈りこそ、キリストに贖われた者たちとしての、新しい祈り、それは新しい神との交わり方でもあります。

 もはや悪魔と罪に支配されない、完全に勝利の凱旋に入れられ、福音の使者とされた集団。それがキリストの教会です。そこにあるのは、教派主義ではなく純粋に、キリストのからだと血に与る主の弟子集団の、キリストのみを中心とした交わり、祈りなのです。

 今日の主日、私たちも主の弟子集団として、使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを裂き祈りをしてまいりましょう。その姿を通して、まだ主を知らない多くの人たちへキリストが証しされ、救われる方々が起こされていくからです。

 

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし
神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。 

 

このイエスを、あなたが十字架につけた

"ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』
イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」"
使徒の働き 2章14~36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 どの口が言ったの?と突っ込みたくなるのが、このペテロの説教の最後の部分です。だれがイエスを十字架につけたのか。それはパリサイ派ユダヤ人たちであり、その他のユダヤ人たちもそうであり、ローマ総督ピラトもそうであり、イスカリオテ・ユダの裏切りであり、そして三度もイエスを知らないと否定したペテロをはじめとする弟子集団でもあります。

 それから50日しか経っていないにも関わらず、ここでペテロは、説教を聞いているエルサレム中の人たちに、「このイエスを、あなたがたが十字架につけたのです」と言えたのはどうしてでしょうか。

 自分のことを棚に上げて、人のせいにしているのでしょうか。

 いいえ。そうではありません。ペテロは復活のイエス様に会って、今度は三度も「わたしを愛するか」と問われた人物でもあります。その質問に対してペテロは悲しみを覚えるほどに、「それはあなたがご存知です」と答える他ありませんでした。

 ですから自分の至らなさで主イエスを否定して、十字架に追いやったという自覚は人一倍あったはずです。でも、このペンテコステの時に、ペテロは大胆にも、このような罪の指摘をすることができたのは、主の前に悔い改めて、そして、このときに聖霊を受けたからではないでしょうか。

 御霊が、最も罪の意識のあるペテロを用いて、この大切なメッセージを語らせたのです。御霊によらなければ、このようには語れないでしょう。

 

 私たちも、主の前に悔い改めて、主を受け入れるならば聖霊が与えられます。そして、これまでの古い自分にとどまっているのではなく、むしろ聖霊によって新しくされて、新しい言葉を語る者へと造り替えられるのです。それは、新しい人へと生まれ変わったからです。

 私たちも古い自分、古い言葉ではなく、新しい自分、新しい神のことばを語る者へと招かれています。あらためて、その大いなる恵みを味わい、まだ救いを知らない方々に、大胆に福音を告げ悔い改めを迫り、救いへ導いていこうではありませんか。

 

キリストは天へ。そして再び来られる

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"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
こう言ってから、イエス使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。
エスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」"
使徒の働き 1章8~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 キリスト教会は古来、使徒信条を告白し続けて来ました。そこにはキリストが死とよみがえりを通られ、天に上り、再び来られることがはっきりと示されています。

「十字架につけられ、死にて葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父の右に坐したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者(死にたる者)とをさばきたまわん」

 キリストが天に上り父なる神の右におられる間、地上でキリストのわざを行うのが私たちキリストの弟子たちです。しかし、弟子とは言っても師であり主であるイエス様と同じように生きることが、そのままではできません。

 それは私たちはイエス様と離れては何もできないからです。

"わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。"ヨハネ福音書 15章5節

とある通りです。

 しかしイエス様はそのような私たちのために聖霊を与えてくださったのです。その聖霊なる神によって、私たちはキリストと一つにされ、留まり、キリストのわざを行うように造り変えられます。

 それが神の奥義である教会です。教会は聖霊によりキリストのわざを行いつつ、その教えを、救いを宣べ伝えなければなりません。それは、この地上に神の国を建てるためであり、やがて来られるキリストの支配にある新しい天と地が完成することに繋がっていきます。

 弟子たちが言っているイスラエルの再興とは、文字通りのイスラエル国家の回復だけのことですが、イエス様のお答えには、それ以上の完成された神の国、新しいエルサレムをも指しておられるのです。

 そのためキリストは、天に上げられたように、再びその有り様で天から降りて来られる。それがキリストの再臨です。

 この再臨をキリスト教会は2000年間告白しつづけています。それは、カトリックプロテスタントもない、一致した真のキリスト教会における真実な告白であり、愛する主の約束だからです。

 私たちにとって、この世においては患難があります。しかし、この聖霊によってキリストがともにおられることにより、私たちは孤児ではないのです。同時に、顔と顔を合わせてキリストとの交わりを追い求める者でもあるのです。

 今日も私たちのために死なれよみがえられたキリストを愛し、とどまり、キリストを宣べ伝えてまいりましょう。そして、同時に再び来てくださり、私たちを完全な者としてくださる、その時がやがて来ることを待ち望もうではありませんか。

 

北海道キリスト教史概論(改訂版)

 
1.キリスト教の伝来
 北海道にキリスト教が伝えられたのは、プロテスタントが1874年、カトリックが1618年である。世界のキリスト教史から見れば大変短い。この短い歩みの中にも豊かな歴史的遺産が残され、今も生き続けている。
 
2.アイヌへの侮辱と支配
 政治的には、16世紀後半に松前藩の封建的支配が確立し、アイヌ民族への苛酷な侮辱政策がとられていた。1620年前後に松前に来た切支丹宣教師は胸を痛めてそれを見ていたという。何度かアイヌの抵抗運動が各地で起こり、その中で最も大きな抵抗運動は1457年のコシャマインの役と、1669年のシャクシャインの役であった。それが皮肉にも、前者が反対に松前藩形成の端緒となり、後者はアイヌ民族への支配権を確立することになってしまったことである。
 
3.徳川幕府から明治維新
 1854年日米和親条約により箱館開港となり、ハリストス正教会の伝道や、カトリック教会の再布教となった。明治維新直後、榎本武揚らによる箱館戦争があり、短期間であったが日本で唯一の共和制がしかれたこともある。しかし、明治政府が勝利したことにより1869年に開拓使がおかれ、蝦夷を北海道と命名し、本格的な開拓が進められるようになった。
 1873年、切支丹禁制の高札が除かれ、この年、函館~青森間の定期航路が開かれ、、また函館~札幌間の道路が開通した。その翌年にプロテスタントの宣教師が渡来した。1881年開拓使官有物払下げ事件が起り、自由民権運動の頂点となった。それが政変に発展したのである。翌年開拓使は廃止され、函館、札幌、根室に県がおかれて、三県一局 の時代となった。しかし、政治力が分散しては思うように開拓が進まないとして、1886年再び札幌に本庁を置き、北海道庁時代となって今日まで至っている。
 
4.急進的発展の光と影
 北海道は、僅か100年の間に原始社会から近代化の途を走り、土地が開かれ、産業を興し、近代工場が立ち並んで昔日の面影はなくなった。アカシヤの並木にロマンの香りを放つ道都札幌を100年前の人々は夢想だにしなかったに違いない。それは勤勉な開拓者の汗と涙の結晶であり、政治力の象徴、文明の謳歌であると言えるだろう。
 しかし、その陰に土地を追われて、生活権を奪われ、差別に泣く先住民族がおり、人生の挫折と権力の集中化の中で弾き出された人々が流刑の地として囚人労役に服し、タコ部屋といわれる土工部屋や、蟹工船に象徴される非人道的な就労、軍国ファシズムの中に中国・朝鮮から強制連行されてきた人々がいた。日本の近代化路線の功罪を凝縮したのが北海道の歴史であったと言えよう。
 
5.北海道の歩みとキリスト教
 以上のような歴史的状況の中でキリスト教の伝道がなされ、教会が生まれ、キリスト者が生きてきた。そのような歴史の中で、キリスト者は、そして教会は、一体、誰を隣人としてきたであろうか。
 キリストに在って生きるとは、イエス・キリストが歴史の本質をご自身に担い給うた方(受肉)と信ずる信仰によって、歴史に深い関わりを持つことである。これは、キリスト論的歴史観ということができる。教会は、活けるキリストを信じ、ただ神の栄光を仰ぎ望むが故にこそ、キリストが受肉し、世を愛してその罪と暗さを身に負い給うた歴史に深い関わりと、責任をもとうとするのである。キリストが指差すその方向を共に視つめるのが歴史的洞察となる。
 
6.キリスト教地方史を考える
 キリスト教史は教会の歴史として把握されなければならないと言われているが、その背景となっている政治史、経済史、思想史的研究の成果を無視することはできない。ことにキリスト教地方史を研究しようとするとき、その社会的・風土的影響を考えずに教会の歴史を見ることは困難である。
 キリシタン時代の迫害によって当時蝦夷地と呼ばれた北海道に逃れ、礼拝を守り、小さな教会をつくったのは、切支丹のもつ固い終末論的信仰と、徳川幕府の徹底した迫害政策、そして松前に新しく発見された金山の採掘が可能にしたものと思われる。和親条約による箱館開港が、カトリックやハリストス正教会の宣教師に門を開き、諸外国の強い非難と外交があって高札が撤去され、プロテスタント宣教師の渡来を容易にした。これらの出来事の背後に神の深いご計画があったことは言うまでもない 。
  すなわち、教会と地域を二つの点として描いた楕円として見る視点が重要であることがわかる。ことに北海道では、アイヌ民族や、自由民権者たち、土工部屋で働いた人々等をキリスト教史との関わりで考えようとするとき、その視座を外しては出来ないことであろう。
 地方にはそこにしかない独自な生活や言語、文化を生み出してきたものがある。それは全体史に組み込まれることによって光を受け、同時にその特質を失うことも避けられない。しかし、やや狭く、微視的でも、その独自性を掘り下げることにより、逆に全体史に新たな光を与えるものとなることであろう。
 北海道キリスト教史においても、それを掘り下げることにより、日本キリスト教史を新たに理解し、チャレンジをもたらすと思われる。

 

7.時期区分
第一期 前 史  〔1617(元和3)年~1857(安政4)年〕
津軽に流されてきた切支丹が迫害を恐れて松前に渡ってきた。アンジェリス 神父渡来。千軒岳、大沢金山等での大殉教。ハリストス正教会イヲサブ司祭の千島伝道。
第二期 開始期  〔1858(安政5)年~1886(明治19)年〕
・ハリストス正教会のマアホフが領事館司祭として箱館に来た年、カトリックジラール神父が箱館に宣教師派遣を決めた年を北海道伝道開始期とみる。プロテスタント史としては、1874(明治7)年のM.C.ハリス(メソジスト)、W.デニング(聖公会)の来道から開始期とすべきであるが、キリスト教史としては、ハリストス正教会の宣教開始まで遡る。
第三期 教会形成期〔1886(明治19)年~1911(明治44)年〕
・開拓伝道の困難期から前進期。教会組織の整備、日本における教会形成。1886年・日本組合基督教会、1887年・日本聖公会、1890年・日本基督教会などが組織される。カトリック教会では函館司教区(1891年)が設置されている。
第四期 協力伝道期〔1901(明治34)年~1932(昭和7)年〕
・1901年に展開された20世紀大挙伝道、1914年からの全国協同伝道、1929年から32年までなされた神の国運動など、北海道でも各派協力伝道が盛んになされた時期である。
第五期 苦難期  〔1931(昭和6)年~1945(昭和20)年〕
・苦難期は、ファシズム化していく国情の中で教会は嵐の中に巻き込まれていく。満州事変、支那事変、太平洋戦争と非常時体制下に協力を強いられ、宗教団体法下の苦悶の歴史が続いた。1941年の宣教師強制退日、42年聖公会やホーリネスへの弾圧、43年の非戦論のため浅見一仙作の拘留、44年反戦主義容疑で小野村牧師逮捕など暗い日々であった。
第六期 戦後発展期〔1946(昭和21)年~〕
・焦土の中から天皇人間宣言、民主主義国家の誕生、平和憲法の制定、信教の自由が保証され、50有余派の教会が北海道伝道するに至った。
 
8.北海道に教会が形成されるパターン
①宣教師の伝道によって生まれた教会:日本伝道の熱意と祈りをもって本国のミッション本部から派遣された宣教師たちによってなされた。長い鎖国と切支丹禁止令の中で邪教観が身にしみている日本での伝道は、開拓者である宣教師の人物にかかっていたという一面がある 。
②開拓者たちによって生まれた教会:北辺の守りと殖産興国の施策によってたくさんの移住者たちが北海道開拓に応じてきた。その中には、キリスト教の信仰によって新理想郷土をつくろうとして入植してきた群れもいくつかあった。彼らは米国のピューリタンにならい、村の中心に教会堂を建て、学校を起こし、聖日厳守、禁酒、賭博禁止など高い倫理的生活を目標とした 。
③移住者たちによって生まれた教会:開拓者のように初めから同じ目的をもって来道した者ではなく、町の発展に伴い、それぞれに移住してきた者がやがて同信の友を見い出し、各家庭を回って集会を持ち励まし合っているうちに生まれた教会である 。
④邦人の伝道者が移住し、あるいは伝道旅行にきて生まれた教会:これは必ずしもそれぞれの教派が伝道計画をもって伝道者を送ったというよりも、他の理由で移住することになったか、個人の熱意によって伝道されたかによる 。
⑤各派の教団や教区(部会・中会)の伝道計画によって生まれた教会:後期にできる教会はほとんどがこの型に属する。教会の発展に伴い、道内にも中会や部会などの組織ができ、まだ教会が設立していない地域での伝道計画も立てられる。多くの場合はこの中会や部会の決議が全国の大会や年会に提案され、しばらくはミッションよりの補助を得て伝道者が送られる 。
 
9.明治期の北海道キリスト教史の特徴
 明治期における北海道キリスト教史の特徴を見る前に、その時期の日本キリスト教史の特徴をまず押さえておきたい。
 明治期における日本キリスト教史は、その初期は超教派を旗印とする公会主義。十年代は自由民権運動キリスト教主義学校の設立、聖書翻訳など。二十年代は天皇制を中心とした国家主義との衝突、新神学による影響、各派形成。三十年代には無教会主義及びキリスト教社会主義の誕生、協力伝道の推進。四十年代には世界教会との交わり、三教会合同などを特徴としてあげることができる。
①北海道では、初期の公会主義はほとんどなかった。公会主義は1876年までで、その後は公会という名で設立される教会はなくなった。その時期に北海道に入っていたプロテスタントは、メソジスト教会聖公会だけであった。道内では1886年に設立された赤心社の浦河教会とバチェラーによるアイヌ公会がある。しかし、アイヌ公会は聖公会に属するという意味での公会であり、公会主義の公会ではない。赤心社においても積極的な意味で公会という名称を用いたわけではなく、指導者たちの出身に由来していただけであった。内容的には札幌独立キリスト教会にみることができる。
②十年代の自由民権運動も北海道ではみられず、同時期に札幌農学校に生まれた俊英な学生キリスト者たちの中にも、その動きはみられない。官立校であったことや民権を支持する社会的基盤がなかったことが考えられるがキリスト教史研究の課題の一つである。
③二十年代になって、土佐民権で挫折した指導者たちが、新しい理想を北海道開拓にたくしてきたときに自由民権運動と関わりを持つようになった。浦臼の武市安哉、北見北光社の坂本直寛、前田駒次、浦臼から移った遠軽の学田農場などの開拓者たちである。加波山事件事件などで集治監に送られた自由民権運動者たちの中には教誨師を通じてキリスト教に触れていく者たちが空知集治監などでかなりみられる 。この時期に同志社で信仰的働きの視野を社会改良にと目を向けさせられた卒業生十余名が、集治監の教誨師として来道し、彼らは激しい情熱をもって教誨の働きと共に伝道にあたっているが、その当時本州では伝道の衰退期であった 。新神学の影響も道内ではあまり見られず、その影響を最も受けていた同志社を中心とする組合教会も、北海道には本格的な伝道はしていなかった。
キリスト教主義学校としてはメソジストの遺愛女学校(1882年)、ハリストスの正教女学校(1884年)、カトリックの聖せい保ほ禄ろ女学校(1886年)、長老教会のスミス女学校(1887年)、聖公会の釧路英和女学校(1889年)、靖和女学校(1889年)、長老教会の静修女学校(1896年)などが建てられ、女子教育の先駆的働きをしている。
⑤北海道には5つの集治監が出来、重罪を犯したものとともに多数の政治犯も送られて来た。その中には自由民権運動で捕らえられた者も多く、集治監の中でキリスト教に触れ、獄中で信仰をもち、筆墨がないために血で聖書に懺悔を書いたものが残されている。
国家主義との衝突は、その偏狭性の故か、1891年の内村鑑三不敬事件を頂点として本州でみられた官憲の迫害や教勢の沈滞はあまり見受けない。もちろん、天皇制を中心としたナショナリズムキリスト教のもつコスモポリタニズムとの緊張関係は続いていくが、北海道は拓殖に急務であったため、思想・宗教を問題視する余裕がなかったと思われる。しかし全くなかったわけではない。1889年の帝国憲法発布記念祝賀行列を拒否した日本基督教会室蘭教会員の小学校教師が学校を追われるという事件があった。また1892年10月に「空知集治監の不敬事件」として東京の絵入自由新聞に報じられたことがある。これは当時集治監典獄となった大井上輝前の教化主義に反対する者たちによる全くの捏造であった。
⑦三十年代には、札幌バンドの内村鑑三による無教会主義の誕生がある。しかし、道内に無教会主義の聖書研究グループができたのは大正時代に入ってからであった。
キリスト教社会主義との関りは片山潜の北海道訪問が1899年にあり、札幌で協働店の設立に尽力している。彼は翌1900年にも来道し、各地で演説し、教会でも礼拝の説教をしている。「日本基督教団旭川六条教会65年史」をみると、1900年7月29日に六条教会で説教をしていることが出ている。彼は1906年頃の社会新聞に「自分は信徒の一人として、日本の教会の牧師・信徒諸君に忠告する。どうか社会主義を研究してもらいたい。もし諸君が注意して社会主義を研究したら、必ず自分の主張に賛成してくれるだろう。それは結局、キリストのために働くことになるのだから」と記しているので、おそらく、この北海道遊説の際の教会での話しでも社会主義について触れていたと思われる。片山の影響を受けた永岡鶴蔵は1897年に院内鉱山(秋田)から同志80名と共に夕張炭鉱に移住し、南助松と知り合って労働者のために力を合わせて働こうと誓い、1902年の春、大日本労働運動がやや衰微した時であったと言われている。彼らはキリスト教精神による社会運動として大日本労働至誠会憲法に次の4つをあげている。
 
1)労働者の品位を高めること
2)独立自営の精神を養うこと
3)勤倹貯蓄を実行すること
4)会員互いに相親しみ相助けること
 
 彼らは夕張だけではなく、道内各地の炭鉱をまわって呼びかけたり、さらには全国に遊説して日本炭坑夫組合をつくろうとしたり、有名な足尾銅山に大日本労働至誠会の支部をつくったりしている。永岡は一方で夕張に講義所を設け伝道にも励んでいる。後に夕張に派遣された小山恒次郎伝道師は社会主義研究会などをつくったりしている。
 協力伝道も北海道の各地で盛んになされた。1900年から20世紀を迎え、各派協力して20世紀大挙伝道が全国的に展開された。北海道でも中央からキリスト教界の名士が多数来道して、聖公会、メソジスト、日本基督教会、組合教会など各地で協力して伝道集会をもった。札幌では1週間連続集会をもち2570人が集まったと報じられている。
⑨四十年代では、三教会同が内務次官の呼びかけで神・仏・基の代表者が一同に会した。「北日本カトリック教会史」には時の内務大臣原敬は青年時代カトリックの信仰をもっていたので陰の力となったことであろうと書いている。これはキリスト教がはじめて公認された事件であるとも言われたが、他方国家主義との対決を避けて妥協した象徴であるとも批判された。しかし、北海道ではほとんど注目された形跡はみられない。
 
10.札幌とキリスト教
 札幌は、日本の多くの都市の中でもキリスト教色の強い町であった。繁華街の近く、大通や北一条通のあまり騒がしくないところに、主要な教会が点在していた。教会のある風景は、市民が見慣れた風景であった。信徒数は住民人口の2~3%というところだったが、信徒でなくても教会の幼稚園に通ったり、日曜学校に出席したことのある市民は多い。音楽会や講演会を聴きに行って、キリスト教会の雰囲気に触れたことのある市民は多かった。キリスト教が市民生活の中によく溶け込んでいたのである。
 クリスチャンだからと言って、爪弾きにされたり変人扱いされるおそれはなかった。しかし、ある時期から、こうした印象は徐々に薄れていく。ある時期というのは、高度成長の初期である1960年頃のことである。札幌の人口は1920年に10万人、1940年に20万人、1960年に52万人、1980年に140万人へと増加している。札幌に市制施行されたのが1922年であるが、戦前においては10万~20万都市、戦後高度成長以前は30万~40万都市であった。札幌という都市の特徴がつかみやすいのは、大体この時期までであって、それ以後の人口の急増と流動化、都市の巨大化は町の特質をわかりにくくしてしまった。現在、200万都市札幌の中では、いったいどこがキリスト教的なのか判断に苦しむところである。
 札幌で最初の教会は、札幌基督教会である。札幌農学校の関係者によって創立された。彼等はクラークによって信仰に導かれた農学校1、2期生が中心であり、札幌バンドと呼ばれる。内村鑑三新渡戸稲造、佐藤昌介、宮部金吾、町村金弥など、これらの名があまりにも著名であり、その印象が強烈なために、札幌のキリスト教は札幌バンドや札幌基督教会の後身である札幌独立基督教会と結びつけて考えられやすい。札幌農学校出身の有島武郎も、農学校の後身である農科大学の教師であり、キリスト教から離れるまでは独立教会の熱心な働き人であった。このことからも、札幌のキリスト教のイメージは、札幌農学校北海道大学+独立基督教会と結びつくことになったと考えられる。
 草創期の問題としては、クラークの伝道だけに目を向けるのではなく、英国教会海外伝道協会(CMS)の伝道活動や、アメリカン・ボード(米国海外伝道会社)の活動や、早くから函館に拠点をもったハリストス正教会カトリック教会にも目を向けなければならない。
 これらの様々な教会教派の影響のもとに、札幌のキリスト教会も展開したのであり、その結果として戦前の札幌にはプロテスタントとしては、札幌日本基督教会(現・日本基督教会札幌北一条教会)、日本メソヂスト札幌教会(現・日本基督教団札幌教会)、札幌組合基督教会(現・日本基督教団札幌北光教会)、札幌聖公会(現・日本聖公会札幌キリスト教会)などの教会が、さらに札幌天主公教会(現・カトリック北一条教会)と、札幌顕栄会堂(現・日本ハリストス正教会教団札幌ハリストス正教会)が併立したのである。これらの教会はそれぞれの個性と立場を守り、ときに協力し合いながら発展してきた。
 札幌が近代的な都市として形態を整えた第一次世界大戦後、札幌の諸教会も、それぞれ市民の記憶に残るような大会堂を持ち、市民生活に溶け込んで、揺るがすことのない地位を確立した。しかし、その後、太平洋戦争の数年前より思想統制が始まり、教会は理不尽な攻撃にさらされ、苦悶の時代となった。
 今日もなお、この受難に教会はどのように対処し、復興を迎えたか、それは、札幌キリスト教会史だけの問題ではなく、北海道のキリスト教会史、また日本のキリスト教会史としても捉え、更に検証し、次代に継承していく責任を私たち現代のキリスト教会は担っているのである。