日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

神の前に最善を尽くす

"エルサレムの城壁の奉献式に際して、彼らはあらゆる場所からレビ人を捜し出してエルサレムに連れて来た。シンバルと琴と竪琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びをもって奉献式を行うためであった。"  ネヘミヤ記 12章27節

 

バビロン捕囚から帰還して来たユダヤ人たちは、エズラを中心に神の前に悔い改め、律法にたち帰り、神のみことばに忠実であろうとしました。

 

エルサレムの城壁の奉献式においても、これは礼拝であるため、祭儀を行うレビ人を必要としました。そのために、あらゆるところから捜し出して、奉献式に備えたのです。

 

今朝、私たちもそのことを覚えたいと思います。主の前に出る時、私たちの備えはどうか。

 

決して形式主義に陥ってはなりません。あくまで主を愛するがゆえに、です。愛する人に会うとき、デートをするとき、私たちは、風呂に入り身なりを整えて、最善を尽くして、相手との時間のために備えるはずです。

 

主を礼拝するとは、まさに、そういうことです。私たちの中のレビ人を捜し出して、神様への礼拝のための聖別を意識したいものです。

 

そのためにも、パウロがエペソ1章で繰り返すように、「キリストにあって」という信仰を備えることが重要です。

 

なぜなら、現代は、このキリストにあって神と会見することが許されているからです。キリストの流された血潮のゆえに、十字架に釘付けされた御体のゆえに、そして、死んで葬られ、よみがえられ、今も生きて、インマヌエルの主としてともにおられるゆえに。

 

今日も、私たちにできる最善をもって、私たちの救い主なる聖なる神を、愛する主を崇めてまいりましょう。

2022年6月12日 礼拝説教

説教題 「永遠のいのちを得るためには」
聖書箇所 マタイの福音書19章13節~22節
 
 

 大昔から人間は「不老不死」を求めて、様々な研究を進めて来ました。古代中国の秦の始皇帝は、実際に不老不死の薬を追い求めたそうです。しかし、それがかえって死期を早めたと言われています。
 
 しかし、近代になって、医療技術、科学の進歩によって、人間の寿命は随分長くなってきました。そこに戦争も減り、今は100歳社会となっています。人生50年と言っていた戦国時代から見れば、奇蹟的な寿命に延びています。秦の始皇帝からすると不老不死に近い状況かも知れません。私が子どもの頃から見ても、現代の高齢者と言われる方は、見た目も、かなり若いです。これからも、このように人間の寿命は延びていくのでしょうか。いつか永遠まで死なない時代が来るのでしょうか。
 
 聖書でも「永遠のいのち」という言葉がよく出てきます。それは、今述べたような、いつまでも死なないことなのでしょうか。いいえ。そうではありません。聖書はこう言っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」また「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る」とあり、必ず死ぬと言われています。つまり、必ず一度死ぬことは避けられない。しかし、そのあとに神のもとに帰り、さばきを受けるときが来る。そのときに、無罪か有罪か問われる。そこで無罪となった人が天の御国に入れられ、神と共に住む、新しい国で生かされる。それが永遠のいのちなのです。
 
 神が永遠の世界におられるお方なので、そのお方と同じ次元、同じ永遠という空間にいるためには永遠のいのちが必要なのです。では、どうしたら、その永遠のいのちを得ることができるのか。それが、秦の始皇帝だけでなく、私たち全ての人間のテーマです。だから、今日の聖書箇所で、「ひとりの人」がイエス様に尋ねるわけです。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
 これが本日の説教題にもなっている言葉です。永遠のいのちを得るためには、どうしたら良いのか。どんな良いことをしたらよいのか。この問こそ、全人類の問いだからです。
  
 多くの宗教の中心テーマはここです。永遠のいのち、言い換えると天国に入るためにはどうしたら良いのか。地獄に行かないようになるにはどうしたら良いのか。仏教でいわれているエンマ大王という存在も、あとからつくられたキャラクターです。それは、そのような地獄には行きたくないので、良い人になりましょうということです。では、良い人とは何でしょう。どういうことが良いことなのでしょう。どのくらい良いことをすれば永遠のいのちを持てるのでしょう。その問いに聖書は答えます。
 
 それで今朝は、聖書が言う「永遠のいのち」を得ることについて、みことばに聴いていきたいと思います。そして、私たちがいただいている救いがどれほど嬉しいことか、どれほどの恵みなのかを味わってまいりましょう。
 
1. 天の御国はこのような者たちのもの
 今日、招きの詞にも「永遠のいのち」という言葉がありました。それは、御子イエス様を信じたら永遠のいのちを持つことができるという、今日の説教の結論になっています。しかも、このみことばで伝えている一番大事なことは、神様が私たちのことをどれだけ愛しているかということです。だから、神様が一番愛している御子イエスを与えてくださったという救いの理由なのです。
 
 つまり永遠のいのちを持つということは、救われるということです。この救いが聖書では色々な言い方をされていて、「永遠のいのちを持つ」ことはその一つです。他にどんな言い方がされているでしょうか。それは、「義とされる。つまり義人になる」ということであったり、「天の御国に入る」という言い方もされていたりします。また「神の子どもにされる」とも言われます。
 
 今日の箇所は、大きく二つのお話がありますが、まさに、その最初の方のお話の14節にある「天の御国はこのような者たちの国なのです」とは、天国にふさわしい人のことをイエス様が教えてくださっていると言うことです。それが後半の「ひとりの人」の「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのか」という問いの答えになっているということです。
 
 この天の御国と永遠のいのちを「救い」という言葉で統一するならば、このように言い換えることができます。救われるためには、どうすべきか。それは子どものようになることだと。
 このように、今朝取り上げた箇所は、別々の話に見えて、実は繋がっています。後半16節に出て来る「ひとりの人」の問いは、その前の段階でイエス様が答えていたことだったのです。その連続性があって、このマタイの福音書記者であるマタイは、きちんと記録しているのです。ここで13節を読みましょう。
「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。」
 
 イエス様がおられるところに、子どもたちが連れて来られたとあります。しかも、イエス様に祈ってもらうためです。でも、弟子たちがそれをしかった。そこには、イエス様の教えを聞くには子どもでは無理だと決めつけていたのかも知れません。または、イエス様がお疲れなので、子どもたちが来ると騒がしくなると思って気を使ったのかもしれません。いずれにしても、当時、子どもは取るに足らない存在として、非常に低く見られていましたので、追い払おうとしたのでしょう。
 
 しかしイエス様は、そういう弟子たちにはっきりとおっしゃいます。14節
「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
 邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのですと、これまでも18章で教えられていたことを思い出させるように語られていたと思います。そして、子たちの上に手を置いて、そこを去って、次の現場へと向かわれたのでした。
 
 ここでは、やはり子どもに見る、天の御国のふさわしさを学びたいと思います。18章では、子どもたちが低い存在であるということから、天の御国にはそういう人がふさわしいと言っていますが、今日のところでは、どうでしょう。全く同じでしょうか。実は、この箇所はルカの福音書にも記されていて、ルカの方にはこう書いてあります。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 
 そこには「子どものように神の国を受け入れる者」とあります。子どもは素直に神の国を受け入れるから、天の御国にふさわしい。永遠のいのちにふさわしいということです。では、本当に子どもは大人と違って神の国を受け入れるのか。答えはイエスです。
 
 それは、教会に来る子どもたちを見るとよく分かります。私は、教会に来る子どもたちの様子を、なるべく月報の牧師室からに書くようにしています。それは、コロナ禍にあっても、また教会学校などを正式にやっていなくても、白石教会の宣教活動を続けていることを知っていただくためです。平日に教会に来る子たちは、私が呼び込みをして連れてきているのではありません。チラシを配って宣伝したから来ているのでもありません。何もしていないのに、来てくれるのです。
 
 大人はチラシを配布してもほぼ来ないのに、子どもたちは何もしなくても来てくれる。これが、子どもたちが「神の国を受け入れる者」であるという証拠です。彼らは素直に神の国を受け入れている。その素直さがとても大事なのです。イエス様は子どもに限定して、子どもだけが天の御国に入れると言っているのではなく、あくまで「このような者たちの国」と、私たちも、このようになることで御国に招かれているということです。
 
 だから、子どもから学ぶべきです。救われるに必要なことは何か。素直に教会に集まること、礼拝することを単純に喜んでいるか。もしそうであるならば、この子たちのように、イエス様の御手が私たちの上に置かれます。みんさんはいかがでしょうか。イエス様の手が置かれていますか。それとも、何かが邪魔していませんか。また、私たち自身が、誰かが主の下で喜ぼうとしていることを邪魔していないでしょうか。そのような問いをもって、16節以降の「ひとりの人」22節では「青年」とある、この出来事について見てまいりましょう。
 
 
2. どんな良いことをしたら
 もう一度、彼の質問を聞きましょう。16節
「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』」 
 永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたら良いか。彼が誰なのかは分かりませんが、他の福音書では役人とも言われています。他の訳では議員だとも言われています。恐らくユダヤ人で地位の高い金持ちの青年であったのでしょう。地位も名誉も若さも兼ね備えており、しかも、彼の話を聞いていると、律法もきちんと守っていたという、だれから見ても、どう見ても彼は天の御国に入れる人。永遠のいのちは間違いなく持っていると思われていたでしょう。
 
 当時のユダヤ人たちの常識では、金持ちは神様から祝福されている証しであるので、間違いなく神の国に入れると思われていました。そこに行いも立派で、若くして役人と言う地位も得ていた人です。だから、16節で彼がした質問の意味が見えてきます。それは、イエス様から「そう、あなたこそ永遠のいのちを得るにふさわしい人です」と言ってもらえるものと期待して、そのように尋ねていたということです。
 
 でも、イエス様のお答えは、実に冷ややかです。まず、17節で、この金持ちの青年の言葉尻を捕えて、「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです」と言っておられます。ルカの福音書を見ると、この青年はイエス様のことを「尊い先生」と呼びかけていることがわかります。確かにイエス様は尊い先生ですが、この青年が使っている「尊い先生」=「良い先生」という呼びかけは、彼自身が本当にイエス様のことを尊敬して言っている告白ではなく、イエス様をよいしょして、持ち上げて、自分への評価を上げてもらいたいというおべっかだったのです。
 
 それを御存じのイエス様は、そう呼ばれることを辞退して、その言葉は天のお父様だけに使いなさいと厳しく言われます。しかも「永遠のいのちを得るために、どんな良いことをしたら良いか」などと、自分の力で救いを得ようとしている態度に、さらに厳しくお命じになっています。
 
 それは、自分で良い行いを積むことで救いを手に入れるという想い上がりに気づかせるために、「戒めを守りなさい」と律法を正しく守るように命じます。しかもモーセ十戒の後半部分、人間に対する戒めのところを示します。
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。父と母を敬え。」そして律法の中心的なテーマである「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と、彼に尋ねます。しかし、この青年は自分には落ち度がないという想いで、ここに来ていますから、「そのようなことはみな守っています」と言い、更にこう言い放っています。
「何がまだ欠けているのでしょうか」
 
 律法を全部守っているという自信満々でそう答える青年。しかし、イエス様は彼の基準に従って、まだやり残していた良いことを教えてあげました。21節。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に 宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 これが決定打となって、金持ちの青年は悲しんで去って行きました。その悲しみの理由として、多くの財産を持っていたからだと聖書は告げています(22節)。しかし、もし彼がここで財産を貧しい人たちに与えたとしたら、彼は永遠のいのちを得ることができたでしょうか。それはできないでしょう。なぜなら、救いとは人間がした良いことによって与えられるものではないからです。もし彼が財産を分け与えられたとしても、根本の「どんな良いことをしたら」永遠のいのちを得られるのかという、彼の常識が変わらなければ、天の御国は決して近づいてこないのです。
 
 ここが、今日のポイントです。それは、再び子どものようになることに戻りますが、天の御国は、子どものように素直に、そして、何も持っていないそのままで、神様に100%依存しますという信仰が必要だからです。赤ちゃんを見てください。お母さんやお父さんがいないと絶対に死にます。生きていけません。そこに置いたままにするならば、簡単に死んでしまいます。そのくらい親に依存して生きています。その赤ちゃんに学びなさいとイエス様は言っているのです。
 
 私自身の力では良い人になれません。私自身は神様の前に無力です。どうか、お救いくださいと、心を貧しくしてこい願う者となるのです。
 この悲しんで去って行った彼は、このあとどうなったのかは、聖書は何も語りません。でも悲しんで良かったと思います。「自分で、自分で」という人には、このようにできない自分に向き合って、悲しむべきです。それは悲しむ者は幸いであると言われた主ご自身が、必ず慰めてくださるからです。それは、自分の足りなさに気づかされた人は、その足りていない空しさの穴を神によって埋めていただけるからです。
 
 
結び
 今日、あらためて救いが自分の力や、良い行いの積み重ねで得られないことを覚えたいと思います。かつて子どもだった時のように、神の前に立つだけです。
しかし、大人になって来ると、子どもの頃の幸いを一つずつ失っていきます。もちろん、様々な経験や教養を身に着けることや、社会的な地位を得ることも、そのこと自体は人間として成長するためには必要な要素でしょう。しかし、それが自分をよく見せる、また強く見せる鎧やアクセサリーのようになって自分を覆うならば、それは逆に神の恵みを見えなくさせてしまいます。
 
アダムとエバも、罪を犯して自分自身でイチジクの葉でからだを覆って自分自身の醜さを隠しました。その性質を私たちも受け継いでいます。自分の力で、自分の価値観で、罪人の自分をよく見せようとするのです。しかし、罪人のからだは神様にはお見通しです。私たちが自分の知恵でいくら立派な鎧を着ていると思っていても、神様には葉っぱにしか見えません。人はうわべを見るが主は心をご覧になるお方だからです。だから人間的な価値観で自分をよく見せよ言うと装っても、空しいです。それは結局、この金持ちの青年のように、主のもとから去ってしまうことになるでしょう。
 
しかし、神のもとから立ち去らないで、神の前に、子どものように無力で裸で立つならば、神様から祝福を得ます。風呂から上がったばかりの子どものように、恥ずかしがることなく、天のお父様の眼差しの中で、全身全霊をもって甘えることです。裸です。何ももっていません。無力です。だから、神様、あなたを信頼します。そこにイエス・キリストというバスタオルで覆っていただくのです。からだについている高慢、思い上がり、様々な罪という水滴をイエス・キリストというバスタオルで拭いていただいて、神の子どもとして生きるのです。
 
 神様はアダムとエバには、イチジクの葉の腰の覆いの代わりに、皮の衣が与えられました。それは聖書を見る限り、世界で最初に動物が人間のために殺されたということです。同じように、神の御子イエス・キリストが唯一、全人類の救いのために殺されました。それは、そのキリストという義の衣を私たちに着せてくださるためです。
それが天の御国に入ること、永遠のいのちを得ること。神の子どもとされるということです。
 
 
 

2022年6月5日 ペンテコステ礼拝

説教題 「聖霊に満たされる主の教会」
聖書箇所 使徒の働き2章1~13節

序論

 今日はペンテコステです。今から約2000年前に、聖霊なる神様が降って、教会が誕生したことを記念する教会の行事です。クリスマスやイースターと比較すると、あまり有名ではないようです。でも、聖霊が来てくださらなければ今の私たち、キリスト教会は続かなかったでしょう。聖霊が与えられなければ、私たちの信仰生活は続けられなかったでしょう。
 聖霊と教会、聖霊とクリスチャン生活は必ずセットです。私たちは自分の頑張りで信仰を維持しているのでもなく、自分の力で福音を伝えているのでもありません。それは全て、神ご自身である聖霊が私たちに働いて、神様の御心を達成できるように助けてくださっているからです。ですから聖霊のことを「助け主」とも言います。イエス様は言われました。今日の招きの詞のみことばをご覧ください。
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」とあります。
 
 「助け主」まさに、この助けなしには私たちの信仰はあり得ず、私たちの宣教もないと言い切れるほど、大切なお方だということです。かつてイエス様の弟子たちは、約3年半の間、人となられた神であるイエス様とともに旅をしながら、その教えを聞き、業を見て、実際に触れて弟子の訓練をしました。しかし、イエス様が天に帰られてからは、そのイエス様を肉眼で見ることができず、その弟子たちのように、実際にそのお方に触れることができません。
 ところが、イエス様は、天の父なる神様のもとから聖霊を遣わして、その聖霊を通してイエス様を知り、イエス様が今も一緒にいて旅をするように、肉眼で見えなくても、私たちを心の目を開いて、心の目でキリストを捉え、心の耳を開いて、心の耳で主の御声を聞けるようにしてくださったのです。それが、聖霊が与えられている、現代を生きる私たちキリスト教会の特権です。
 
 皆さんは、今、その聖霊の恵みを味わっているでしょうか。この聖霊を通してあかしされるイエス様との交わりを楽しんでいるでしょうか。主は、この聖霊によって、全世界のクリスチャンたちと同時に、いっしょにいてくださっている、その壮大な神の業を味わっているでしょうか。
 今朝は、その聖霊の恵みを使徒の働き2章1節~13節を通して、ご一緒に味わってまいりたいと思います。特に今朝注目したいのは、まず「天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った」ということ。つまり、聖霊が彼ら(主の弟子たち)がいた「家全体に」来られたということです。そして、もう一つは、聖霊が弟子たちの舌(口)に働かれて、御霊が話させてくださるとおりの「ことば」を話したということです。
 
 
1.激しい風が吹いて来るような響き
 あらためて1節、2節を読みます。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。」
「五旬節」とはユダヤの祭りである過越しの祭りから50日目という意味です。これを新約聖書が書かれた原語であるギリシア語でペンテコステと言うので、その日に聖霊が与えられたことを記念して、この日曜日行われる礼拝をペンテコステ礼拝と呼んでいます。ですから、この聖書箇所の出来事が起こった時には、まだユダヤ教の行事として、五旬節、または七週の祭りと呼ばれていました。
 
 5節以降で、このエルサレムにあらゆる国からのユダヤ人たちが集まっていたのは、神の都エリサレムに巡礼して、この七週の祭りを祝うためであったのです。七週の祭りは律法によって定められており、レビ記23章16節以降に、契約の民であるイスラエル人は新しい穀物の捧げもの(小麦の初穂によるパン)を主にささげなければならないと書いてあります。
 
 そのような旧約聖書の律法においても、もともと意味のある日が今はキリスト教においても意味のある日となっています。ユダヤ教にとって種なしパンの祭りとも言われる過越の祭りの時期が、キリスト教にとっては、キリストの十字架と復活を覚える受難週とイースターになり、ユダヤ人にとって小麦の初穂をささげる七週の祭りが、キリスト教では聖霊降臨日として覚えられています。このことは偶然ではなく、やはり神様の救いの計画にある摂理であると言えます。
 
 しかし、この聖書時代ではまだユダヤ教の慣習の中で、多くのユダヤ人たちもイエス様の弟子であるユダヤ人たちも、このエルサレムに集まっていたのです。弟子たちは、恐らく弟子の一人であるマルコの家にいたと思われます。そこは、最後の晩餐を行った場所で、二階に広間がある大きな家であったと考えられています。また、弟子たちは、イエス様が天に帰られてからは、「いつも宮にいて神をほめたたえていた」と言われていますので、格別、この五旬節の日は、特別な思いをもって、集まっていたことでしょう。
 
 2節「すると突然、天から」。これは、今日の招きの詞を借りて説明するならば、「天に帰られたイエスさまによって父なる神様のもとから」という意味の「天から」だと言えます。弟子たちは、以前からイエス様によって確かに聖霊が与えられるというお話は聞いていましたが、はっきりとした日にちや時間は聞いていませんでした。だから、この出来事は弟子たちにとっては、やはり突然の出来事であったのです。しかし、この突然の出来事、聖霊の降臨という大切な体験が、この家全体で経験できたことは、とても重要です。使徒のリーダー格であったペテロだけでなく、家にいた弟子たち全員で聖霊を受けたことの意味は、現代を生きる私たちにとっても大切なことを受けとることができます。
 
 それは、聖霊と言うお方は、大勢いる個性的な私たち、教会という群れを一つにすることができるということです。言い換えると、聖霊の臨在によって教会とされているということです。それは、主の教会は個人プレーの集団ではなく、個々の個性が生かされながら、神の教会と言う家全体に響き渡って、どのようなことも一緒に経験させられる群れであるということです。
 
 それは、良いことも、悲しいことも、ともに味わうということです。誰かだけが苦しんでいたり、誰かだけが喜んでいるのではなく、いつもどのような響きをも、この聖霊にあって、ともに一つとなるということです。しかし、神様は私たちをロボットのように操ることはなさいません。だから、聖霊が与えられているからと言って、自動的に一致ができるのではありません。今日も交読でともにお読みしたように、既に与えられている御霊の一致を保つことを意識していく必要があります。
 
 パウロは、「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と言っているのは、そのことを心掛ける責任が教会にあるということです。このことが疎かになってしまうと、いくら平和や愛を掲げても口先だけのキリスト教会になります。平和教会が聞いてあきれるようになったら、悲しむのはイエス様です。せっかくご自分のいのちをささげて私たちを買い戻してくださったのに、その主の流された血潮を空しくするようなことが教会で起こるならば、それは実に悲しいです。あらためて、パウロがエペソ人への手紙で教えている教会が一致することを、私たちも求めていきたいと思います。
 
 
2.御霊が話させてくださる
 初めの教会の兄弟姉妹たちは、一緒に一つとなって聖霊が降られた奇蹟を味わい、益々、一つの神の家族とされていきました。すると、さらに不思議な出来事が起こります。3節、4節
「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」
 聖霊は、激しい風が吹いて来るような響きとともに、今度は炎のような分かれた舌が現れました。さっきは激しい風のような響き。今度は炎のような舌。要は、聖霊は大きな響きと分かれた舌を通して、何かを伝えているということでしょう。単に、不思議なことによって驚かせるだけではないと思います。
 
 それは、響きの方は「家全体に」とあり、分かれた舌は「ひとりひとりの上に」とあるように、聖霊の働きが教会にとってどのように働き、また教会を形成するクリスチャンひとりひとりにとってどのようなお方なのか、ということを現わしているということではないでしょうか。ですから、この分かれた舌が家全体として、つまり教会全体として一つの分かれた舌ではなく、ひとりひとりにあった。そして、このあとの出来事を見ていくならば、その舌の意味が見えてきます。
 それは、一人ひとりが、他国のことばを自由に話すと言う奇蹟が起こり、エルサレムに来ていた全ての人がわかるように、御霊が話させてくださった言葉をそのまま語ったのです。当時のエルサレムには五旬節(七週の祭り、初穂の祭り)ということで、離散していたユダヤ人たち、そして、もともと外国人であったが、真の神様を信じて割礼を受けてユダヤ教信者になった人もいましたので、9節にあるように、様々な地域から、様々な民族の人たちが巡礼にきていた中で、その国々に応じて、弟子たちは今まで話したことのない言語を操って語ることが出来たのです。
 
 では、聖霊に満たされた弟子たちが語ったこと、その内容は何だったでしょうか。それは11節にあります。
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビア人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
 これはどういうことでしょうか。弟子たちが色々な国のことばで語ってはいましたが、語っている内容は一致していたということです。それは「神の大きなみわざ」というメッセージだったということです。
 
 ここに、聖霊が一人ひとりの上に分かれた舌を与えたというのは、弟子たちそれぞれに語ることを許しておられ、しかも、語るべきことは、自分の自慢話や、苦情や、人の悪口ではなく、ただ一つのこと。それは「神の大きなみわざ」であったということです。では、その「神の大きなみわざ」とは何のことを言っているのでしょうか。
 それが、あらためて今日の招きの詞に注目したいと思います。それは、「その御霊がわたしについてあかしします」とあるように、私たちにとって、最も偉大な神の御業、それは主イエス・キリストご自身のことです。まさにキリストの福音です。14節以降で、ペテロが語ったそのメッセージがその内容でしょう。彼は旧約聖書を引用して、最後に36節の言葉を結論とし、エルサレムに集まっている人々に迫ります。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
 
 すると、その言葉を聞いた人たちはどうなりましたか。37節以降「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
 彼らは与えられた聖霊の恵みによって、それぞれに「神の大きなみわざ」である主イエス・キリストを大胆に証しする者とされていったのでした。
 
 このようにキリスト教会は誕生し、聖霊によって一つとされ、一人ひとりが一つの福音、主イエス・キリストをあかしし、宣べ伝える者とされました。私たちが、それぞれ、個性があり、多くの違いがあっても、同じ福音を信じ、同じ福音を宣べ伝えていくところに、神は更に多くの人たちを増し加えてくださって、その人たちにも聖霊を与え、益々、主イエス・キリストがあかしされていくのです。
 
 
結び
 私たち、白石キリスト教会という家全体にも聖霊が注がれ、このときの弟子たちのように、聖霊が話させてくださるみことばが備えられていると信じます。それは、まだキリストを信じていない方々に届けるためです。そのためにも、既に与えられている御霊の一致を熱心に保つ必要があります。でも、そのヒントは今日のみことばにあるとおりです。弟子たちがあきらめないで「みな一つに集まって」礼拝をささげ続けるところに聖霊が激しく臨んでくださるからです。
 
 その礼拝の中で、パウロがエペソ教会の兄弟姉妹に、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれ」と語っているように、互いに主の前にとるに足らない者であることを認め、へりくだって主と教会に仕えていくことです。それは、今日の使徒の働き2章36節でペテロが指摘したように、「このイエスを」十字架につけたのは他でもなく、私であり、あなただからです。私たちもあらためて、ペテロから言われるでしょう。「悔い改めなさい」と。
 
 いつも、自分の至らなさに気づかされ、悔い改めていくときに、教会は成長します。そのようにして最初の教会は、悔い改めた人たちによって、謙遜と柔和の限りを尽くして一つに集まっていたときに、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださったのです。誰もが互いに従い、仕え合う仲間。主の弟子。キリストの同労者です。誰が上だとか下だとかではありません。常にキリストの下にみな一つに集まる。それがキリスト教会です。
 聖霊なる神は、今日も、この家全体=白石教会にも臨んでおられ、多くの方々をここに送ろうとしておられます。そのことを覚えて、今週も、置かれたところで、私たち一人ひとり、御霊が話させてくださるとおりのみことば「神の大きなみわざ」イエス・キリストを大胆にあかししてまいろうではありませんか。

2022年5月29日 白石教会礼拝説教     

説教題 「礼拝される唯一の方」
聖書箇所 コリント人への手紙8章6節
 
 

 今朝お読みした聖書のみことばは、神様がどのようなお方か言い表すために参考にした聖句の中の一つです。
 
 先月から月一回の割合で、教理を学ぶ説教を心掛けています。それは白石教会の信仰告白が2020年に与えられましたが、その信仰告白は私たち個々においても本当に信仰の告白になっているか。それが、これからの課題であるからです。信仰と言うのは、教理問答を暗記して言うことに意味があるのではなく、自分の信じていることを口でこうだと言えること、そして、そのように生きることが大切です。誰かに質問された時に、信じていることを説明できるか。
 
 それで前回は白石教会の信仰告白の順に従って「聖書」を取り上げました。そして、聖書は何かという、その告白をだんだん短くしていくとどうなるか。それが、前回の教理説教の説教題でした。それは「聖書は権威ある神のことば」。神のことばだから権威があり、誤りがなく、信仰だけでなく、すべての領域における規範である。だから、誰かから「聖書って何ですか」と質問されたら、信仰告白の文言全部を覚えていなくても、大切な一部分だけでもわかっていたら答えられるということです。
 
 同じ様に、今日、注目する「神」についても、誰かから聞かれたときに、自分ならどう答えるか。それを白石教会の信仰告白を上手に使ったらどのように答えられるか考えたいのです。「えっ?神様の事を一言で言えるのか」そう思う方もおられると思います。もちろん、神様のことを、神様に造られた私たちが一言で言いきれるとは思いません。しかし、その偉大な神様についても、このことは譲れない。このことはキリスト者として外せない。そのことを押さえて告白する。伝える。そこが大切です。ですから、今朝のメッセージも、白石教会の信仰告白を手掛かりに、自分はどのように人に伝えられるか。そんなことを思いながら、みことばに聴いていきたいと思います。
 
 
1.唯一の神
 まず、白石教会の信仰告白を一緒に読みましょう。
【神】「神は、永遠に父・子・聖霊の三位一体であり、義と愛と聖なる方、礼拝される唯一の方です。神は、天と地のすべてのものを創造し、イエス・キリストによって人に救いと永遠のいのちを与え、世の終わりまで教会と万物を支えられます。」
 
 私たちが信じている神がどのようなお方か、その特徴として、ここに最初に挙げられているのが、「神は、永遠に三位一体で」あるということです。
三位一体とは一体どんなことでしょう。この言葉は2世紀後半のアンティオキア教会のテオフィロスという教父です。でも、神様に対するこの三位一体という捉え方そのものの記録は、聖書以外にも、1世紀のローマのクレメンスの書簡から既にありました。その文書にはこう書いてあります。
「私たちにはひとりの神、ひとりのキリスト、私たちに恵みを注がれたひとりの御霊がおられるではありませんか。キリストにあって召しは一つではありませんか。」
 その他にも当時の多くの教父たち、特に教理を守るために尽力した護教教父たちによって、三位一体という教理は支持され、守られてきました。なぜならば、そこには、三位一体を否定する異端が存在していたからです。
 
 だから、現代でも、三位一体の教理を否定することは異端と見なされます。エホバの証人モルモン教などは、聖書を用いてはいるものの、神は父なる神だけで、イエス・キリストは被造物の一つのような扱いです。それも独自の聖書解釈があって、そのように捉えているので、やはり聖書をどのように見て、どのように解釈するかがとても大切であることがわかります。
 
 この三位一体は、正確に完璧に語れる人はいません。それくらい、この被造世界にいる私たちが簡単に説明できることではありません。それだけに、この冒頭にある「永遠に」という言葉がその神秘性を説明しています。
 
 永遠というのは、時間をも造られ、時間の制約を受けないお方であるという意味です。
 神は、人に永遠への思いを与えられたと伝道者の書は言っていますが、その永遠こそ神の領域であり、それは天の御国という世界における時間を超越した時間。私たち3次元の者にはまだ理解しきれない、私たち人間の憧れのときであり次元です。ですから、その永遠という概念はまさに、三位一体と合わせて、完全には説明できないけれども、聖書において神様が啓示してくださった、神様ご自身のお姿であることをしっかりと受け取っていきたいと思います。
 
 ここでは先人たちが言い表した三位一体についての信仰問答をご紹介し、私たちもそのように答えるものでありたいと思うのです。
16世紀につくられた「ハイデルベルグ信仰問答」
問25「神は、ただひとりであるのに、何故、父・子・聖霊、と三というのですか。」
答え「それは、神が、みことばにおいて、この三つの異なった人格が、唯一の、真の、永遠の神であることを、あらわされたからであります。」
 
 私たちが神様のことをこの信仰告白で「三位一体」であると告白していることは、特別、メノナイト派だからとか、プロテスタントだからではなく、キリスト教会の歴史からも正当な信仰の教理であるからです。キリスト教会が2000年間守り続けて来た教えを私たちも、キリストが再臨されるときまで、これからも告白し続けるのです。
 
 
2.義と愛と聖なる方
 次に神様が「義と愛と聖なる方」であることについて考えてみましょう。
義、愛、聖とは何でしょう。それは神様のご性質のことです。よく、私たち人間の間でも、「あの人は愛の人だ」とか、「あの人は正しい人(義人)だ」と使うように、その人の性格、性質を表わすものです。ですから、その人の言動によって、その性質を知ることができます。ただし神様においては、神様こそ義そのものであり、愛そのものであり、聖そのものという意味での、そのご性質ですので、人間の性格や性質を述べることと同列には置けません。
 
 白石教会の信仰告白においては、この【神】の項目の、後半部分が神様の業が示されていて、その業を通して、神様が義であり、愛であり、聖であることが明らかにされます。その神の業も、本来ならば書き切れないところですが、信仰告白はあえて、短く言います。
「神は、天と地のすべてのものを創造し、イエス・キリストによって人に救いと永遠のいのちを与え、世の終わりまで教会と万物を支えられます。」
 
 この後半部分からは、神様の数えきれない業から大きく四つに分けることができます。一つは、「天と地のすべてのものを創造」された「創造主」。つまりクリエイターだということです。「初めに神が天と地を創造された」とみことばにあるとおりです。そのことは神様が造られた被造物によっても証しされています。
 
 先々週、息子が暮らす音威子府へ行って、その周辺の山、北大の研究林などを散策しました。札幌よりも北にありますので、遅い春があちこちにあって、桜だけでなくウドなどの山菜、高山植物なども、見事に咲きまくり、生えまくり、神様の創造の御業を賛美せずにはいられませんでした。花が終わってそこに実ができるためには、昆虫や鳥などの協力が必要です。それらの動物たちだって、その植物がなければならないのです。自然が本当に調和して、上手に循環している。その不思議な秩序が宇宙まで広がっている。その宇宙の仕組みも、逆に物質の分子レベルまで貫いて、私たちのこの世界を維持しているのです。秩序正しく、物事が正しく回るように造られている。そこにも神の義と、それらの生き物たちを育む神の愛を感じます。
 
 また神は、二つ目の業として「救い主」であることがわかります。そのような自然の中だけでなく、御子「イエス・キリストによって」とあるように、イエス様によってご自身を現わしました。イエス様は言われました。「わたしを見た人は父を見たのです。」(ヨハネ14:9)
 これは12使徒のひとりであるピリポに対して言われた言葉ですが、ここにイエス様の御子としての役割も見ることができます。それは、目に見えない父なる神を見えるように現れてくださったお方だという事です。だから、「神様を見たら信じる」という人には、イエス・キリストを紹介するのが適切です。イエス・キリストについては、次回の教理説教のテーマですので、ここでは深くは学びませんが、父なる神のご性質は御子イエス様のご性質であり、聖霊なる神のご性質だと言うことは覚えてまいりたいです。特に、神が、このイエス・キリストをこの地上に送ってくださった中心的な理由に注目する必要があります。
 
 それは「救いと永遠のいのち」が、このイエス・キリストを通してはっきりと私たちに表されたからです。なぜ、キリストが来られたのか。それは罪人を赦し救うためです。つまり永遠のいのちを与えるためです。その神様の御心は、「御子を与えるほど、世を愛された」からです。それが十字架刑において神の愛が完全に示されました。「神は愛です」とヨハネが言った通りです。
 
 しかし、何故、そもそもそうしなければならなかったのかというと、神様が義であり、罪とは相いれない聖なるお方だからです。神様がそもそも正しいお方であり、きよいお方だから、人間の罪を見過ごさなかったのです。神様が真にまったくきよいお方だから、罪を犯したアダムとエバエデンの園から追い出して分離しなければならなかったのです。聖なるという言葉には、きれいであるという意味だけでなく、分けるとか切り離すという意味があります。それは、罪とは分離された、悪とは一緒になれないご性質であるということ。そして、義であるというご性質は、罪を正しくさばくお方であることも表します。
 だから、私たち人間の代わりに罪の罰を受けるべき身代わりを必要としたのです。イエス様が身代わりになったのは、神の完全な愛を示すことでもあり、同時に神様が罪を罪として必ずさばく、完璧なさばき主、審判者あることの証明でもあるのです。告白文に「世の終わりまで」とあるのは、まさに最後の審判があることを物語っています。つまり、神は「審判者」(さばき主)であるということです。そのことについては、信仰告白の14番目「神の統治」で学びたいと思います。
 
 神が義でなく聖なる方でもなく、罪をさばかない単に愛のお方だけであるならば、どうなるでしょう。おそらく創世記3章以降の聖書の記述は大きく変わるでしょう。もし愛だけのお方であるならば、ノアの洪水も箱舟もなく旧約時代の動物の犠牲も不要となるでしょう。ソドムとゴモラは滅ぼされなかったでしょう。歯止めなく悪ははびこり、神は礼拝されず…かえって人間と神様が交わることは不可能になるでしょう。しかし、神はご自分の義のゆえに、聖であるゆえに、罪を犯した人間とは断絶せざる得を得なかった。
 
 だから父なる神は確かに、十字架上のキリストが言われた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(どうして私をお見捨てになったのですか)という祈りをも無視して、御子に手を下された。それは、罪への怒りを、その刑罰を、御子に置かれたからです。それは、御子を私たちの代わりとして、イエス様の事を心から憎んでそうなさったのではありません。なぜなら、父なる神は、私たち以上に御子を愛していたからです。しかし、完璧な聖なるお方は、完璧な義によるさばき主として罪は罪として許さず、そのかけがえのない御子を差し出し、そこに罪のさばきを下したのです。
その天の父のお気持ちを考えると、震えます。しかし、同時に、その完全なご愛によって、罪人をも救おうとされるのです。そこに父なる神のご自分を犠牲にした愛があります。子どもを失うことは自分が死ぬことよりも辛いことです。子どもが目の前でいじめられ、殺されることは、自分がされるよりも耐え難いことです。
 
 
結び
 このような神が他にあるでしょうか。神様のそのご性質があって、その御業があって、今、私たちはここに立たされています。それは、このような素晴らしいお方を知れば知るほど、礼拝せずにはいられないからです。そのような神のご支配こそ、ここに実現してほしい。
このような戦争が起こって人々が殺される世界、銃が乱射されて子どもたちが殺される社会、人が人を愛せず、信頼できず、待ちきれず、平和が失われていく世界。教会の中にもそのようなことが起こってくる。だから、主イエスは、こう祈りなさいと言われました。
 
「天にいます私たちの父よ…御国が来ますように。御心が天で行われているように、地でも行われますように」と。
 
神様の完全なご支配にこそ真の平和があることを求め、願うのです。それは、天の御国で起こっている完璧な世界をこの地上においても神様は与えてくださることを信じるからです。今日の信仰告白の最後の部分は、そのことを告白しています。
「神は、世の終わりまで教会と万物を支えられます」
それは信じる者を、必ず神は、その御手をもって支えていてくださるお方だからです。だから、毎日、主をほめたたえ、毎週、教会という神のこどもたちの集会で、愛する皆さんと一緒に神の栄光をほめたたえるのです。
 
 神。このお方を一言で誰かに伝えるとき、どのように言うか。私は白石教会の信仰告白を用いて「礼拝される唯一の方」と言いたいと思います。どうして、この方だけを礼拝するのか。そのことを自分に問うてみるとき、その答えが自然に湧いてこないでしょうか。
 今日も、この大いなるお方を思って、天の父を崇めて、その足台のもとにひれ伏すのです。
「われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。」
 
 礼拝される唯一のお方。私たちの神、栄光の主を、礼拝し続ける一週間とさせていただきましょう。

いさおなきわれを

私は、旧讃美歌271番をよく口ずさむ。色々な讃美歌集に別訳で選ばれているが、個人的には旧讃美歌の歌詞を好む。

キリストが私の罪を負って十字架にかかり死んでくださった。こんな惨めな、穢れた私を御許に招いてくださる。何という恵み、何という憐れみ。決してただではない。御子のいのちが差し出されたのだからというメッセージを覚えるからである。

私が生きるために御子のいのちが代価として支払われた。この恵みに今日もすがり、従うものとされたい。

 

◎讃美歌271番「いさおなき我を」

作曲は①William B. Bradbury、
作詞は②Charlotte Elliott による。

原題は“Just as, I am without one plea”。

他の日本語賛美歌集については、教会福音讃美歌299番「小羊なる主の招きにこたえて」、聖歌271番「ほふられたまいし」、新聖歌231番「勲なき我を」、讃美歌21-433番「あるがまま我を」などで長きに渡り、改訳され採用され続けている。

 

アメリカのビリー・グラハムクルセードでは、この賛美歌が長年、招きのときに使われ、多くの決心者が起こされるために用いられた。

 

1 作曲者 William B. Bradbury(ウィリアム・ブラッドベリー)1816~1868

アメリカの有名賛美歌作曲家であり、ニューヨークにあるバプテスト教会オルガニストでもあった。多くの賛美歌を世に広めた。私たちにとって馴染み深いのは、教会福音讃美歌では、52番「主、我を愛す」“Jesus Loves Me”,303番「かいぬしわが主よ」“Saviour, like a shepherd lead us”などがある。この曲は、もともと “The God of Love Will Soon Indulge."という賛美歌につけられたものであったが、“Just as,I am without one plea”に結び付けられてからは、大いに歌われるようになった。

 

2 作詞者 Charlotte Elliott(シャーロット・エリオット)1789~1871

イギリスの賛美歌作詞家で、英国国教会の信徒だった。彼女は、この歌を書く何年も前、どうすれば神を見出せるのかと牧師に尋ねた。そして、「ありのままの自分で、神のところに行きなさい」と助言されると、その言葉に従い、後年、病気の失意と闘っていたとき、キリストの御許に行って自分の罪が赦された日のことを思って “Just as ,I am,without one plea”を書いたと言われている。

へたくそですが、キーボードで弾きながら歌ってみました。

  ↓

https://youtu.be/Kuwp52Uehww