のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年7月19日 礼拝

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説教題 「イサクの誕生」
聖書箇所 創世記21章1節~7節

 

序論
 今日の説教題は「イサクの誕生」としましたが、これを言い換えると「笑いが生まれた」とも言えます。イサクとは「笑う」という意味だからです。だから今日の副題は「笑いを与えてくださった神」ということができます。高齢のアブラハム夫婦。5節にあるように100歳のアブラハムに子どもが与えられた。そこに笑い、つまり喜びの笑いが与えられたということです。後継ぎがいないことは、当時の人たちにとって残念なことの第一位に置かれても良いくらいの出来事です。そのことを聖書は既に私たちに伝えていたことを覚えておられるでしょうか。それはサラのことが最初に紹介されていた創世記11章30節です。そこには、こう書いてありました。
サライ不妊の女で、子どもがなかった」
 つまり、アブラハム夫婦は、当時の価値観の中において、笑いのない夫婦、笑いのない家庭であったのです。しかし、神様はアブラハムに目を留めてくださって、一方的な選びの中で、アブラハムから出る子孫によってすべての国民が祝福されるという契約を与えてくださいました。その第一歩がここに成就したのです。それだけに、今日のイサクの誕生は、この夫婦にとって本当の「笑い」が生まれた日でもあるということです。
 皆さんにはどんな「笑い」があるでしょうか。

 

1.約束とおりなされる主とアブラハムとの契約の交わり
 1節と2節を読みます。
「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。」
 「サラはみごもり…アブラハムに言われた通りに…男の子を産んだ」とあります。このことは主の約束どおりでした。この出来事の一年前、それは17章に書いてありますが、アブラハムが99歳のときに神様からお告げがありました。17:16にこう書いてあります。
「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
 17章から、この21章までに色々なことがありましたが、ほんの一年の間の出来事でした。その中で、神様はアブラハムに関わってくださり、選びの民として訓練された。それは、今の私たちクリスチャンと同じですね。まず最初に神様から恵みによって選ばれる。それは良い人だからではない。一方的な神様の選びです。それに信仰をもって応答する。すると、神様から選ばれた者としての訓練がある。神様はいつも、そのように恵み先行型です。先に恵みを与えて、そのことへの応答を待つお方です。
 その人が完璧な善人だから選ぶということはなさいません。その人の欠点や弱点を知った上で、まず選んでくださるのです。そこで私たちは、その祝福を受けとるだけです。そのことを信仰と言います。そこから、ようやく神様の働きに間に合うものとして造り変えられるのです。聖書に登場する信仰者たちは、みんな、そもそもグズグズでした。モーセもギデオンもサムソンもエレミヤも、そしてアブラハムも。そういう人を用いるからこそ神様の栄光が輝くのです。
 私たちもそうです。どうして、私のような者が救われたのか。自分の中に答えを見つけようとしても見つけられません。それは、ただ一方的な神様の憐みである。そこに気づかされるためです。
 このイサクが生まれるときもそうです。アブラハムがようやくいい人になったから、努力して修行を積んできたからイサクが与えられたのではありません。「主は、約束されたとおり」のことを行った。ただ、それだけです。主は主権者であり支配者です。人間の在り方によってご自身が変化するのではなく、御自身の存在によって、むしろ私たちを愛し、生かし、きよめ、つくり変えるお方です。だから、「主はサラになさった」とあります。ここに、人間の側の努力、行いは一かけらも記されないのです。確かに夫アブラハムがいなければ妊娠は起こらないことですが、100歳と90歳の夫婦です。それは、もう神様の介入がなければ無理な妊娠でした。そのことが奇蹟的なことであると言う意味で、5節の言葉があると思います。
アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。」
 しかし、「主はサラになさった。」しかも、主は本当に優しいお方です。真の慰め主です。この妊娠に関して、「サラを顧みて…サラになさった」とサラのことを深く憐れまれてそう行ったことを繰り返しています。そして、今まで夫に対してできなかったことを、サラは行った。夫アブラハムにサラが産んだのだと、サラを祝福しているのです。
 そのように、主はサラを愛し祝福して、サラに男の子を与え、生まれて初めての出産を神様の祝福の中で経験したのです。
 そして、その主の祝福に対するアブラハムの反応はどうでしょうか。3節、4節。
アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。」
 アブラハムは、約束通り子どもを与えてくださった主に応答するように、その子にイサクという名前をつけました。そして、八日目に割礼を施したとあります。それはすべて「神が彼に命じられたとおり」に、主のみことばのとおりに行ったのです。それは、主がアブラハム夫婦に対して誠実に契約を履行してくださったという恵みに対するアブラハムの応答です。そこに互いに契約を通して親密な交わりがあると言っても良いでしょう。
 ここに聖書に見る神様と人間との契約の交わりに、礼拝のひな型を見ます。まず、主の呼びかけがあって、主の恵みを受け、それに礼拝者が応答することで、そこに主と私たちとの交わりがある。一つとされる。ですから、今日の私たちの礼拝も、今、愛する主と一つであり、主の恵み先行に対する私たちの応答として、今、私たちは献身していくのです。そこに真の笑い、祝福の喜びの笑いが生まれるからです。

 

2・サラに与えられた「笑い」の祝福
 笑いがなかったアブラハム夫婦も、この主との親しい交わりの中で本当の笑いが与えられたのです。でもアブラハム夫婦のことを聖書で振り返ると、他に笑っている箇所があるのを思い出します。それは、先ほども触れた創世記17章です。先ほどのサラに男の子が生まれるという神様のおことばのあと、アブラハムはどういう反応をしたのかが17章17節に書かれています。
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
 このときアブラハムは確かに笑っています。では、サラはどうでしょうか。サラも笑ったことが18章12節でこう言っています。
「それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
 確かに夫婦で笑っています。なんだ、ちゃんと笑いがある夫婦だったのだ。良かった。でも、本当にそうでしょうか。その笑いは、どういう笑いでしょうか。それは、神様への不信仰からくる笑いだったと言えるでしょう。「とても信じられない。こんな私がこの年で子どもを産むなんて」とアブラハムとサラは二人とも、その神様のお話が滑稽にも思えたのでしょう。その笑いは、彼ら自身の中から出てくる自然な笑いだったかも知れません。しかし、その自分から出てくる笑いには、本当の幸せはなかったのです。
 神様は、その彼らが神様のみことばを嘲り「笑った」ことを通して、産まれてくる子こどもにつける名前を命じました。それがイサク。つまり「笑い君」です。そのときは、アブラハムとサラの笑いは、本来、神様が人間に与えた笑いではなく、みことばを蔑み、神に信頼できないところから来る笑いでした。しかし、主はそのような笑いしか知らなかった彼らに、神に造られた者としての、本当の笑い、喜びの笑いをくださったのです。
 その喜びの笑いを象徴するイサクが与えられたことについて、今度はサラが神様に応答しています。6節と7節。
「サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
 このサラの言葉を、私は以前から、何度読んでも違和感を覚えていました。それは、サラは、まだひねくれて言っているのか、喜んでいるのかがわからないからです。この聖書の言葉を読んでも、「神様が私を笑っている。そして、この90歳である私が子どもを産むと聞いた人もまた笑うでしょう」と、何だか笑うという言葉が使われることで、馬鹿にされるような印象を受けるからです。
 実は、聖書全体を見渡しても、この「笑う」という言葉は良い意味ではあまり用いられていません。そのほとんどが、あざ笑うとか、馬鹿にする、いじめるという意味で使われているのです。次週読む予定の9節には、「からかう」と訳されている言葉がありますが、これはまさしく「イサク」と原語では書かれているのです。「イサクをイサクしている」とイシュマエルがイサクのその名をもってからかっていることがわかるほど、この言葉そのものは決して良い意味ではなさそうです。今日の招詞だけです。私が聖書を探して出てきた、とても前向きな「笑い」として使っている箇所は。
 では、どうして、サラはこの6節で「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」と、ここで「喜び」とか「祝福」という言葉を用いなかったのか。それは、神様が与えてくださった子どもの名前イサク「笑う」にかけて、その語呂合わせで、神様にユーモアを用いながら応答している。そこに、彼女の卑屈な心ではなく、主の前に自由を得た信仰があるからだと思うのです。
 実は、この6節の訳にはもう一つ疑問があります。それは「神が私を笑われた」というところです。でも、ここを原文で読むと、この6節には神は造ってくださったという動詞が使われているのです。ところが、この聖書ではそれを「神が笑った」というふうに訳しています。でも、やはりここは直訳的には神がサラのために「笑い」を造ったとなるので、新しい翻訳の方がよりふさわしいと思います。新しい訳ではこうなっています。
「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」

 これは新改訳2017ですが、共同訳の方も同様の意味です。
 つまり「神様が私に笑いをくださった」。これがこのサラの本意だと思います。これを原語のヘブル語で見ると、サラの言葉の中にイサクという名前が繰り返されているのがわかります。それは、お母さんになったサラが「イサク」と自分に与えられた子どもの名前を呼んでいるように聞こえるのです。日本語で「笑う」のところをイサクに変えて読んでも少しはわかると思います。そして、それがサラの主に対する感謝の言葉であることがわかるのです。「神は私にイサクを下さいました。」と。
 これまでアブラハム夫婦は、本当の喜びがなかったのです。だから、神様が一年後にあなたに子どもを与えるよと言われても、そのみことば、その約束を信じられずに冗談に聞こえる笑い、みことばを蔑む笑いでした。しかし、神様のみことばが実現したことを目の当たりにし、その主のみことばの確かさ、主の誠実な愛にアブラハムもサラも変えられ、蔑み、嘲りではなく、喜びの笑いを得たのです。

 

結び
 笑うことは、本当は良いことです。笑うことは健康にも良いと言われます。コロナ禍にあってテレビではお笑いをよく観ました。笑点は毎週見ています。確かに面白くて笑います。楽しい笑いもあります。嬉しい笑いがあります。でも、私たちの笑いにはもう一つの面もあることも知っています。それは、嘲り、蔑み等、相手を馬鹿にした笑いです。それは神様が造られた笑いではありません。私たちの罪の性質から生まれてくる、神との平和、人との平和を妨げる笑いです。
 実は、新約聖書を見ると、「笑う」という言葉は、ほぼイエス様に対して使われています。あの会堂管理者の死んだ娘を眠っているのだと言われたイエス様に、人々はあざ笑ったとあります。また、十字架にかけられているイエス様に対して、ユダヤ人たちがあざ笑っていたと書いてあります。しかし、主イエスご自身が笑ったという箇所は一つもありません。主が涙を流されたという箇所はありますが、主ご自身は笑うどころか、逆に笑われ、蔑まれて、十字架に追いやられました。
 私は、そのことを知ったときに、サラが言った「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」という言葉には、サラのこと、そして、そこから生まれたイサク、そして、その子孫としてお生まれになったイエス様のことも含んでいたのだと思わせられるのです。そして、この言葉は祝福の笑いか、嘲りの笑いか、その両方を、今の私たちに突き付けているのです。あなたはどっちなのか。
 そのことを、サラは、片肘を張らず、眉間にしわを寄せずにサラっとユーモアで神様に答えていた。ここに、主に愛されている者の解放された、自由の喜びがあるのです。
 最後に、この話をして終わりたいと思います。クリスチャンで東北大学の名誉教授の宮田光雄という先生がおります。専門はヒトラー時代のナチス・ドイツです。その宮田先生の著書に「キリスト教と笑い」という本があります。その中に、ヒトラー時代に、いかに民衆たちがユーモアによって闘っていたかということが書かれています。たいてい、私たちの平和のための働きかけというのは、どうしても悲壮感がただよってきます。でもそうではないのだと教えられて嬉しくなります。そのナチス時代のドイツのボン大学で教鞭をとっていた、カール・バルトという神学者であり牧師がいました。彼は戦時中にそのボン大学で教えていたのですが、ナチスの命令で、公務員は必ず「ハイル・ヒトラー」と宣言しなければならなかったそうです。でも、バルトは主を愛する者として、それをしたくありませんでした。でも、学生から「ハイル・ヒトラー」と言われれば、それに答えなければならなかったそうです。そこで、バルトはどうしたか。それは、学生が「ハイル・ヒトラー」とやろうとすると、「電気をつけなくっちゃ」とか「カーテンをなおさないと」などど言って、それをかわしていたそうです。そして、そのかわりに聖書のみことばを一節読んでから授業を始めるようにしていました。でも、やはり、とうとうお咎めを受けて、裁判にかけられ、失職し、国外退去となってしまいます。このバルトの生き方は、まさに、キリスト者にあるユーモアかなと思います。既に神の祝福の内にある者として、攻撃的に拒否するのではなく、ユーモアをもって対峙していくのです。また、バルトは、晩年にスイスの大学を引退して、アメリカに講演旅行に行ったことがありました。その頃は、すでに大有名人の神学者でした。その中でシカゴ大学を訪れたとき、講演の質疑応答でひとりの若い学生が立ち上がって、バルトに向かってこう質問したそうです。「先生がこれまで論じられてきた神学を一言で要約してくれませんか」と。周囲は、世界に名だたる大神学者に向かってなんて質問をするのか」とざわめき、ハラハラしていました。でも、そこでバルトはにっこり笑いながらこう言ったそうです。
「その質問に答えるのは私にとってとてもやさしいことです。私が子どものころに母親の膝に座って聴いた讃美歌の言葉でお答えしましょう」
そして、幼い頃から口ずさんできた讃美歌の1節を歌って聞かせたそうです。
「主、われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」
 この歌は、日本でも親しまれている讃美歌です。「神様は私を愛してくださっている。神様は強いお方なので、私が弱くても恐れることはない。私がやってきた仕事と言うのは、この歌の通りなのだ」とバルトが答えたということです。
 私も、このエピソードを知った時、主を信じて歩むこと。クリスチャンとはどう生きるのか、牧師の仕事は何かと、色々と難しく、眉間にしわを寄せて考えがちだけれども、実はバルトがそうだったように、このユーモアの中に、その答えがあると思わされました。
 今、この世界は、コロナだけでなく、災害も、国家間の対立なども、日本の政治においても、なかなか希望が持てない、楽観的になれない状況が続いています。そこに疲れを覚え、あきらめの力に負けそうになります。でも、主はまず私を愛してくださっている。その主が強いお方なので、私が弱くとも恐れなくてよいのだ。そこに、肩ひじを張らず、眉間にしわを寄せずに、自由にされた生き方があるのです。
 サラは主の祝福に対してユーモアをもって返しました。「神はイサクをくださった。それを聞いた人は祝福の思いで笑うだろう。同時に馬鹿にした笑いがあったとしても、主がともにおられるのだ。へっちゃらだわ。」
 私たちも、その自由な喜びをもって、今週も歩ませていただきたいと思います。

 

祈り