のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年7月26日 主日礼拝説教

説教題 「イシュマエルもアブラハムの子」 
聖書箇所 創世記21章8節~13節
 
序論

 100歳にして、ようやく跡取り息子イサクが与えられたアブラハム夫婦。一見、絶望の淵から一気に幸運が訪れたように見えますが、ここには大きな問題が待ち受けていました。それは、これまで、これで良いと自分たちで決めていた跡取り息子イシュマエルの存在です。
 私はこの場面を見ると豊臣秀吉の後継ぎ問題を思い出します。豊臣秀吉はまさに、妻である「おね」との間に子どもが生まれませんでした。それで側室淀君によって、後に秀頼が生まれるのですが、その間、その後継ぎ問題で翻弄されたのが、先に秀吉の養子として後継ぎとされて関白にまでなった秀次です。彼は秀吉のお姉さんの息子なのでもともと秀吉の甥っ子です。秀吉の後継ぎとさせられたのに、秀吉に子どもができてしまったために秀次は謀反か何か、疑いをかけられて切腹させられて、京都の三条河原でさらし首になるのです。何ともかわいそうな事件です(文禄4年7月15日没)。
 このアブラハムの後継ぎ問題で翻弄されたのがイシュマエルです。彼は、イサクが生まれるまでは、大金持ちになり族長として力もつけたアブラハム一族の後継者でした。ところが、イサク誕生によって、その立場が一変する。しかも、この問題は明らかにアブラハム夫婦の判断ミスから起きた問題でした。
 私たちにもよくあると思います。ある問題が起きたときにとった判断や行動が実は神様の御心ではなかった。でも、その時は、あまり問題なく過ぎていったと思っていたけれども、あとで、順風満帆に波に乗っている頃に、その頃の判断ミスの影響が出てくる。つまり、やはり起きてくる自分の罪の刈り取りの問題です。
 私もこれまで多くの判断ミスを犯してきたと思います。多くの罪を犯してこれまで歩んできました。それは犯罪を犯してきたというよりも、神様の御心ではない方を選んでしまったり、そこから生まれるボタンの掛け違いをずっと経験してきたところがあるということです。でも、今、ここに置かれていることは神様のご計画の中にあることとして信じています。すると、これまでの私の犯してきた罪、過ちも、実は主の御心のうちにあったのかと思いたくなりますが、そうではない。そのことを、今日のみことばは言っていると思います。
皆さんは、これまでの歩みの中で、やっちまったなあということはないでしょうか。仕事や学校の中で、結婚生活の中で、子どもへの教育やしつけの中で、反省はしているものの、あのとき、あれはすべきではなかったとか、言わなければ良かったとか、そんな経験はないでしょうか。神様は今日のみことばによって、そこにメスを入れていると思います。
 
1.罪の刈り取り
 先週、無事にひとり子イサクが与えられ、主への感謝に溢れたアブラハムですが、イサクが乳離れした3歳ころに宴会を盛大に行いました。これは、当時の人たちが普通に行っていた慣習だったようです。みんなアブラハム一族の人たちは、イサクの乳離れを喜び、立派な大人として成長することを願っていたことでしょう。アブラハム夫婦も、まさに先週の笑いの話にあったように、神様からの恵みに感謝して、本当の喜びを味わっていたことでしょう。その喜びの席で、サラはある出来事を見かけます。9節。
「そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。」
 サラは、イサクがイシュマエルにからかわれている場面を見てしまったのです。このからかうという言葉は「笑う」(イサク)と同じ言葉が使われていますので、イサクをイサクしているのを見た。もしかしたら、イサクに対してイシュマエルが「おまえの名前は変だ」と笑っていたのかも知れません。何と言ってもイシュマエルの名前が「神は聞いてくださる」という意味ですから、イサクの名前が個性的であることはわかります。また、イシュマエルもイサクが生まれたことで、何か危機感を持っていた可能性はあります。みんなが喜んで、騒いでいるのは良いが、もしかしたら、これは自分の立場が危ういのかもという思いもあって、嫉妬のような思いが起きていたことは十分考えられます。
 このときイシュマエルは何歳かと言いますと、アブラハムが99歳のときに13歳だったということが、17:24,25に書いてありますので、21章に入ってアブラハムが100歳ですからイシュマエルは14歳。そして、イサクの乳離れが3歳くらいとすると17歳くらいの少年です。高校生と幼児の戯れと言えばそうかも知れないし、高校生くらいの少年ならば、自分の立場が不安定になっていくことに気が付いても不思議ではありません。
 しかも、日ごろイシュマエルの母ハガルがもともとは奴隷でしたが、アブラハムの子どもとしてイシュマエルを産んでから、サラへの優越感はあったようです。サラもそこに生まれた確執を意識していたものと思われます。この9節の言い回しがそのことを表していると思います。
 ここは「ハガルがアブラハムに産んだ子」でも意味は十分通じるのに、わざわざ「エジプトの女」とハガルの出身地を言っていることや、そういう「身分の低い女がアブラハムに産んだ子」と「自分の子」というふうに対比させて聖書が伝えているのは、サラが単にイシュマエルがイサクをからかっている以上に、そのことを意識していることを示していると考えられます。
 そのサラの心はもうおさまりませんでした。10節。
「 それでアブラハムに言った。『このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。』」
 まず一緒にいたくないのはイシュマエルよりもハガルのことです。このはしためを追い出してくれとアブラハムに訴えます。そこにイシュマエルもくっつけて追い出してくれと。それは「私の子イサク」といっしょに跡取りにしてはいけないという理由です。
 確かに、サラが言う事には一理あります。このままでは、混乱が続いて、一緒にいるうちは火種が絶えない家庭になってしまうからです。これは当たり前のことです。でも、この問題の原因は、ほかでもないサラ自身の提案による結果であり、それを認めてハガルを受け入れたアブラハムの判断ミスが招いた結果なのです。
 アブラハム夫婦は、かつて神様の約束を聞きながら、その約束を待ちきれずに勝手に女奴隷ハガルによって子どもをもうけるという選択をしました。しかも、その発案者はサラです。
「主は私が子どもを産めないようにしています。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」
 そう言ってアブラハムにハガルを当てがったのです。アブラハムもそれを聞き入れたので、事は進みました。結果的にそのように人間的な思いだけで、みことばを後回しにした判断は、ほころびてきます。その直後でも、妊娠したハガルは、主人であるサラを見下げるようになり、サラはハガルをいじめるようになってハガルは一度逃げました。そういうことがあって、今回です。しかも、これまで跡取りとして17歳になった息子であったイシュマエルともども追い出すという強硬手段は、サラとハガルにあった確執の大きさを物語っています。
 そして、間に挟まれたアブラハムの苦悩も大きいです。11節。
「このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。」
 アブラハムにとっては、イシュマエルもイサクも自分の可愛い息子です。しかも、当然、本妻サラとの間に生まれたイサクも可愛いけど、17年間いっしょに過ごしてきたイシュマエルも可愛いし、愛しているのです。それだけにアブラハムの苦悩は大きいです。豊臣秀吉のように、いらなくなった方に切腹させるなんてできません。追い出すこともしたくありません。でも、妻サラとハガルの問題を何とかしなければなりません。
 このときアブラハムは恐らく思ったはずです。ああ、あのとき、神様のみことばに信頼して、はやまったことをしなければ良かったと。
 ここに、信仰者であっても、その罪の刈り取りがあることがわかります。新約聖書にこのようなみことばがあります。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるようなお方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」ガラテヤ6:7
 確かに、既に神様に選ばれ祝福の約束を得たアブラハムですが、自分が犯した罪に対しては刈り取りがあるのです。それはダビデもそうでした。ウリヤの妻バテシェバとの姦淫の罪を預言者ナタンに指摘されて、罪を悔い改めて赦されましたが、その刈り取りとしてバテシェバとの最初の子を失うという刈り取りを味わいました。
 このようなことは、私にもあります。私も、子どもへのしつけは、取り戻せるならば改めたいです。仕事もサラリーマンから個人事業主になったことがありましたが、もう少しサラリーマンで我慢をしていた方がきっと良かったと思います。個人事業主になるということは、サラリーマンよりももっとお金の流れが身に染みるようになりますので、私にとっては、自分が仕事を休んだらお金が入ってこない。すると家庭が回らなくなるという強迫観念が生まれて、単純に神様に信頼するという生活ではなくなっていきました。そういう緊張感や生活スタイルが自分だけでなく、家族にも影響を与えます。だから、その後、私は、その刈り取りをしてきていると自覚しています。ですから、このアブラハムの苦悩が自分のことのようにわかります。
 
2.人の罪をきよめ覆う主の憐み
 そこで、神様はアブラハムに語ってくださいました。12節、13節。
「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
 ここで、神様は「だからいわんこっちゃない」とは言われませんでした。この問題で悩むなと励ますのです。そして、サラの言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさいと、あのサラの言うことだけども、さばかずに愛する妻の思いとして汲みなさいと諭すのです。神様は、サラの言うとおりにしていたら失敗するよとは言われない。
それは、一見、失敗の影響を受けているように見える中にあって、これから神様の約束通りのことが起こって来るという大事な一歩だからです。そのためには、欠けがあってもあなたの妻と一つとなって行きなさい。それが、あなたの祝福となり、その子孫の祝福となるからだというのです。
 そして、もう一つは、イシュマエルだって決してどうなっても良いのではない。神様の救いの計画のための本流ではないけれども、それが祝福されないという意味ではない。イシュマエルだってあなたの子どもなのだからと、イシュマエルもアブラハムの子どもとしては平等に祝福する。そう主は言われるのです。
 つまり、これまでのアブラハムの失敗、罪があって苦しんでいるかもしれない。しかし、私に信頼するあなたには、わたしが約束した祝福が必ずあるのだと主は励ましているのです。
 アブラハムは確かに自分の犯した失敗によって、このとき苦しみました。その過去の罪の刈り取りをしたのでしょう。しかし、主に信頼するならば、その一見自分がやらかしてしまったために負っている苦悩すら、アブラハムがより神に選ばれた主の民としてきよめられ、神を愛し、人を愛する者になるために用いられるのです。ローマ人への手紙8章28節、29節にはこのようなみことばがあります。
「28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めておられたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」
 では、過去の罪も必要だったということでしょうか。このみことばは時々、罪も失敗も益とされるのだからくよくよするなという意味で用いられますが、そういう意味での益ではありません。神がすべてのことを働かせて益としてくださるとは、そういう意味ではないのです。神様の憐みの深かさは、私たちの罪、汚れすらも覆いつくして、それをがっかりな出来事、残念な過去で終わらせない力を持っているということです。罪を犯して良かったとか、不信仰が用いられたのだから、結果オーライではないのです。
 このあとイシュマエルは、アラブ人の先祖となってこの地域に増え広がります。そして、現在はイスラム教徒の多い民族ですが、きっと将来、アブラハムの子としての真の祝福が彼らにも及ぶと信じます。今、ユダヤ人と対立するような情勢にありますが、主のことばに信頼するならば、このイシュマエルの子孫も主イエスを信じる人々が多く起こされて、このときのアブラハムの涙が悲しみだけで終わらない涙となることを覚えるのです。不信仰によって間違った方向を選んでここまで来てしまったアブラハムですが、その苦しみが彼を信仰の父アブラハムへと造り変えるために用いられて益となったのです。
 
 
結び
 この主の憐みは、私たちに対しても注がれています。あなたの過去の失敗、思い出したくない過去も、もし主に信頼するならば、それはあなたが御子のかたちと同じ姿になるために用いられます。決して悲しみでは終わりません。
なぜならば、今は主イエス・キリストがあなたのその過去の苦しみ、悲しみ、罪のすべてをその身に負い十字架に磔にされ、死んでよみがえったからです。それは、十字架こそ本来は絶望のしるしですが、主は、その絶望の中に、確かにご自分を置かれよみに降りました。しかし、そこで滅んで終わりではなく、その絶望の墓からよみがえられて、その十字架刑すら完全な救いのしるしと変えられたからです。
 私たちの主は、復活の主です。闇から光へ。死からいのちへとあなたを永遠まで導いてくださるお方なのです。
過去の失敗や過去の傷は、今も私たちを苦しめることがあるかも知れません。でも神様は「だからいわんこっちゃない」とは言われません。その呪いで苦しむのではなく、今はその苦しいことすらあなたが御子のかたちと同じ姿になるために益とされるのだ。だから、わたしについて来なさいと主は言われる。イサクにもイシュマエルにも、あの十二弟子たちにも、そして私たちにも。すべての人をこのアブラハムの祝福に招いているのです。
 
祈り