のりさん牧師のブログ

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2020年9月10日(木)きょうのみことば「イエスを否むペテロとイエスを審問するユダヤ人たち」

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ルカの福音書 22章54~71節

"彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。
人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。
すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」
しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。
しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。
それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」
しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。
主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。
そして、外に出て行って、激しく泣いた。

 すべての弟子たちが逃げてしまったのに、弟子の筆頭であるペテロは、群衆に紛れてイエス様の様子を伺っていました。すると、群衆の中から、彼がイエスと一緒いた弟子の一人であることはバレてしまいます。中にはペテロがガリラヤ人であることから、イエスの仲間だと指摘する者すらいたのです。それは、言葉がなまっていたのがその理由であると記している福音書もあります。

 そうこうしているうちに、ペテロは三度もイエスの弟子であることを打ち消してしまいます。それは、最後の晩餐の席で、イエス様に誓ったことばとは逆の態度でありました。そして朝方となり鶏が鳴きます。そのとき、ペテロの脳裏にはイエス様のことばがこだまするのです。しかも、そう思い巡らして目をイエス様に向けると、何と弟子たちに裏切られ、ユダヤ人の指導者たち、そしてユダヤ人の中の最高指導者でもある大祭司にも敵視され逮捕され捕縛のままペテロを見つめるイエスの姿がそこにあったのです。

 ペテロは本当はイエス様を愛しているはずだったのに、あんなに自分でも裏切るなんてあり得ないと断言するほど、主として愛していたのに、いとも簡単に保身に走った自分に、心から腹が立ち、また同時に悲しくなり、外に出て激しく泣いたのでした。こんな経験は初めてだったでしょう。自分さえしっかりしていればイエス様について行けると思っていた。でも、イエス様について行くというのは、自分の頑張りや気力や自分の思いに軸足を置いた利己的な愛では、なし得ません。それは、神の完全な愛を知り、神の御霊の助けなしには不可能だったのです。そのことをペテロは思い知らされました。この事件は、イエス復活後「わたしを愛するか?」と三度問われることによって、あらためて向き合わされます。

 私たちも神を信じ、イエスを信じているのは、自分の力や努力や気力でもありません。私たちが神を知りイエスを知る以前から、神の方が近づいて先に愛を示してくださったから、その証しであるキリストの十字架と復活を知らされたからです。そこに神の完全な愛が注がれているから、その愛を受けて、ようやく私たちも神を愛することができるのです。また、そのキリストを信じることで与えられる御霊が内側から助けてくださるから維持できるのです。

 実は神を信じることも愛することも、全てが与えられていることなのです。神様のこのような至れり尽くせりの救いの恵みを私、そしてあなたは受けているのです。

 
"さて、イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、むちでたたいた。
そして目隠しをして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞いた。
また、ほかにも多くの冒瀆のことばをイエスに浴びせた。
夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。
「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。
わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」
彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」
そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。"

 

 そして、ここからイエスの十字架への道が益々鮮明にされていきます。無実の罪で神の御子がさばかれるのです。それは単に冤罪という話ではありません。全く罪の性質も持たず、罪も犯さなかった人間が神によってさばかれるということでもありました。それは、人間が持つ罪から起こる出来事を神ご自身の全能の権威によって、人類救済の業として用いたという、人間にも悪魔にも到底思いつかない、想像すらできないことでした。

 それとも知らず、大祭司はじめユダヤ人指導者たちは、イエスを憎み、その罪深い感情によってイエスを死に追いやろうとします。その背後にはキリストを亡き者にしようとする悪魔の働きがあったことは明白です。もうすでに弟子であったユダに入り裏切らせて、神の御子を殺すように仕向けていたからです。

 その悪魔の策略を神は赤子の手をひねるようにご自身の恵みの業にされる。ここに、神の知恵があります。

 この大祭司による裁判で、イエス様が言われた最後のことばによって、彼らは怒り心頭、この上もなくナザレのイエスは神を冒涜したと憤慨し死刑に定めたのです。その最後のことばとはこうです。

「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」

 この「わたしはそれです」と言われたことが、大祭司たちにとってはこの上もない証拠となったと断言します。

「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」

 それは、彼らの質問どおり、ご自分が神の御子であり、「わたしはある」とご自身こそヤハウェであると証言されたのと同じだからです。そのことばで彼らは「これ以上証言が必要だろうか」と死刑判決の決め手としたのです。

 この場面は、実は神からのユダヤ人たちに対する挑戦でもありました。もし、彼らがここでイエスこそヤハウェなのだとそのイエスのことばを信じたならば、状況はまた変わったでしょう。それは、メシアを信じ受け入れたイスラエル民族をもっての神の贖いとなったはずだからです。

 しかし、彼らはイエスの証言を受け入れず神を冒瀆したとして死刑に定めるのです。

 それでも、神の私たちに対する救済の熱意は冷えません。むしろ、神のアブラハムに対してご自分に誓った約束を果たすように、そのようなアブラハムの肉の子孫の罪を用いても完全に成し遂げられる。ここに、神様の私たちへの大きな愛を覚えるのです。

 主はそのことを一貫してきょうのみことばに示しておられます。これでもか、これでもかと迫ってきます。ご自分が逮捕され、これから審問され拷問されると知っておられながらペテロのことをご覧になっていた主イエス、ご自分のことを憎み殺そうと初めから決めてかかった不法な裁判にも、その彼らをも愛し救うために十字架に向かおうとされる主イエス

 きょう一日、この主イエスが私の主、あなたの主であることの幸いを覚えていこうではありませんか。大きな愛があなたに迫り、今もなお迫り続けている現実。ヤハウェなるお方こそあなたの神である幸せ。

 もう何も恐れるものはないのです。

"しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"
ローマ人への手紙 8章37~39節


※以下は今日みことばの箇所のギリシャ語原文です。70節にἐγώ εἰμι.(エゴーエイミ)と主イエスが言われているのがわかるでしょう。そうです。それが「わたしはある」という、かつてモーセに告げられた主なる神の御名です。 

  22:54 Συλλαβόντες δὲ αὐτὸν ἤγαγον καὶ εἰσήγαγον εἰς τὴν οἰκίαν τοῦ ἀρχιερέως· ὁ δὲ Πέτρος ἠκολούθει μακρόθεν. 55 περιαψάντων δὲ πῦρ ἐν μέσῳ τῆς αὐλῆς καὶ συγκαθισάντων ἐκάθητο ὁ Πέτρος μέσος αὐτῶν. 56 ἰδοῦσα δὲ αὐτὸν παιδίσκη τις καθήμενον πρὸς τὸ φῶς καὶ ἀτενίσασα αὐτῷ εἶπεν· καὶ οὗτος σὺν αὐτῷ ἦν. 57 ὁ δὲ ἠρνήσατο λέγων· οὐκ οἶδα αὐτόν, γύναι. 58 καὶ μετὰ βραχὺ ἕτερος ἰδὼν αὐτὸν ἔφη· καὶ σὺ ἐξ αὐτῶν εἶ. ὁ δὲ Πέτρος ἔφη· ἄνθρωπε, οὐκ εἰμί. 59 καὶ διαστάσης ὡσεὶ ὥρας μιᾶς ἄλλος τις διϊσχυρίζετο λέγων· ἐπ̓ ἀληθείας καὶ οὗτος μετ̓ αὐτοῦ ἦν, καὶ γὰρ Γαλιλαῖός ἐστιν. 60 εἶπεν δὲ ὁ Πέτρος· ἄνθρωπε, οὐκ οἶδα ὃ λέγεις. καὶ παραχρῆμα ἔτι λαλοῦντος αὐτοῦ ἐφώνησεν ἀλέκτωρ. 61 καὶ στραφεὶς ὁ κύριος ἐνέβλεψεν τῷ Πέτρῳ, καὶ ὑπεμνήσθη ὁ Πέτρος τοῦ ῥήματος τοῦ κυρίου ὡς εἶπεν αὐτῷ ὅτι πρὶν ἀλέκτορα φωνῆσαι σήμερον ἀπαρνήσῃ με τρίς. 62 καὶ ἐξελθὼν ἔξω ἔκλαυσεν πικρῶς. Luke 22:63 Καὶ οἱ ἄνδρες οἱ συνέχοντες αὐτὸν ἐνέπαιζον αὐτῷ δέροντες, 64 καὶ περικαλύψαντες αὐτὸν ἐπηρώτων λέγοντες· προφήτευσον, τίς ἐστιν ὁ παίσας σε; 65 καὶ ἕτερα πολλὰ βλασφημοῦντες ἔλεγον εἰς αὐτόν. Luke 22:66 Καὶ ὡς ἐγένετο ἡμέρα, συνήχθη τὸ πρεσβυτέριον τοῦ λαοῦ, ἀρχιερεῖς τε καὶ γραμματεῖς, καὶ ἀπήγαγον αὐτὸν εἰς τὸ συνέδριον αὐτῶν 67 λέγοντες· εἰ σὺ εἶ ὁ χριστός, εἰπὸν ἡμῖν. εἶπεν δὲ αὐτοῖς· ἐὰν ὑμῖν εἴπω, οὐ μὴ πιστεύσητε· 68 ἐὰν δὲ ἐρωτήσω, οὐ μὴ ἀποκριθῆτε. 69 ἀπὸ τοῦ νῦν δὲ ἔσται ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου καθήμενος ἐκ δεξιῶν τῆς δυνάμεως τοῦ θεοῦ. 70 εἶπαν δὲ πάντες· σὺ οὖν εἶ ὁ υἱὸς τοῦ θεοῦ; ὁ δὲ πρὸς αὐτοὺς ἔφη· ὑμεῖς λέγετε ὅτι ἐγώ εἰμι. 71 οἱ δὲ εἶπαν· τί ἔτι ἔχομεν μαρτυρίας χρείαν; αὐτοὶ γὰρ ἠκούσαμεν ἀπὸ τοῦ στόματος αὐτοῦ.