"サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。
敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。
サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。"
使徒の働き 8章1~4節
聖書 新改訳2017
キリスト教会は、迫害の時代にこそ発展してきた歴史があります。最初はユダヤ人たちから迫害を受け、次にローマ帝国。その中では聖書を焼き払うことで教会を撲滅しようとする迫害もありました。しかし、迫害の手が強まれば強まるほど、不思議とどんどん救われる人も増えていき、しまいにはローマ皇帝が認めなければならなくなるほど、ローマ中がクリスチャンだらけになったのです。
今日の聖書箇所は、まさにその初めの頃のエピソードです。
迫害者サウロによって、始まったばかりのキリスト教会はエルサレムにとどまっていることができなくなりました。サウロもクリスチャンたちを捕まえては牢に入れ、その勢いを止めようとしたのです。
しかし、クリスチャンたちはエルサレムから逃げながらも、彼らは福音を伝えることを忘れてはいませんでした。
彼らはみことばの福音を宣べ伝えながら巡り歩いたのです。
私たちも、今日、このことを覚えたいと思います。私たちには、現代において使徒の時代のような迫害はないかも知れません。しかし、職場の中や家庭で、信仰を持っていることで味わう、苦しみ、悩みがあります。または病気や怪我もそうでしょう。
信仰を持っていても嫌なことがある。そのとき、信仰を持っていても意味がないと思うことがあるかも知れません。こんなことがあるならば、別に信仰をもっていなくても良い。
しかし、そんな中にあるからこそ、弱い自分、罪だらけの自分の悲惨さに気付かされて、そんな時だからこそ、なおさら神への信頼なしには生きられないのではないでしょうか。
もし、神が本当におられなかったら、正しく生きても意味がなくなり、苦しいところを堪えても、そこに堪える意味を見出せません。この世は悪に傾く一方で、良いことなんか何もない希望のない世界で終わり、私たちの人生も何も価値のないものになります。
しかし、神はそのような人生の行き詰まりをもたらす世界だからこそ、キリストをお遣わしになり、私たちの希望となってくださったのです。キリストこそ、罪のない歩みをされたにも関わらず、最も理不尽な死に方をして、全ての人の絶望をその身に負われた方です。しかし、彼はそのような中にあっても、神を信頼することをやめず、むしろ自分を殺そうとしている人々の罪の赦しを神に願ったのです。
その神への絶対的な信頼を続けた結果、それでも十字架に釘付けにされ死ぬことになった。しかし、そのキリストの信実のゆえに父なる神は、そのキリストを新しいからだをもって死からよみがえらせて、神を信じて死ぬものの初穂となったのです。
もし、神を信じるが故に辛い思いをしているならば、それはむしろ神に喜ばれることです。なぜなら、キリストがその模範となって、既に神の栄光を受けたからです。
あなたも、今日、キリストを信じるならば、そのキリストの栄光の中を歩むことができるのです。そして、その苦しみの中こそ福音を宣べ伝える絶好の時です。それが私たちの、この地上に置かれている使命だからです。その使命に生きる時、苦しみの中にも神の使節としての生き甲斐を体験できます。
あなたは神の子ども、キリストの弟子、天の御国の国民だからです。
今日、私たちもキリストの福音を伝えながら、歩ませていただきましょう。