のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

最善を尽くして、つまずきを避ける

使徒の働き 21章17~26節

"私たちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。


翌日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。


彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。


彼らはこれを聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。

 

「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。


ところが、彼らがあなたについて聞かさ

れているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。


それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。


ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に、誓願を立てている者が四人います。


この人たちを連れて行って、一緒に身を清め、彼らが頭を剃る費用を出してあげてください。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かるでしょう。


信仰に入った異邦人に関しては、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けるべきであると決定し、すでに書き送りました。」


そこで、パウロはその人たちを連れて行き、翌日、彼らとともに身を清めて宮に入った。そして、いつ、清めの期間が終わって、一人ひとりのためにささげ物をすることができるかを告げた。"

 主イエスは言われました。

"わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。"  マタイの福音書 18章6~7節


 イエス様を信じる者たちにつまずきを与えることは、主の御心ではないということです。

 パウロ一行は、第三次伝道旅行から帰ってから帰って来て、いつものようにエルサレム教会へ報告に来ました。恐らく、このときもエルサレム教会のために異邦人教会から集めて来た献金も携えていたことでしょう。

 そして、エルサレム教会の指導者であるヤコブをはじめ長老たちは、そのパウロの報告を喜びました。

 

 ところが、今度はヤコブたちから提案が告げられたのです。それは、エルサレムにいる救われたユダヤ人たちの中で、律法に非常に熱心な人たちがいて、パウロの宣教を誤解しているというのです。パウロが、あちらこちら外国へ行き、そこにいる全てのユダヤ人たちに対して、割礼などユダヤ人たちが大切にしている習慣を否定して、神を冒涜しているというのです。

 それはパウロにとっては、やはりパウロが異邦人に対して求めている主イエスに対する信仰だけで十分であるということの誤解でしかありません。

 パウロは割礼を否定はしていません。確かに救われるためには不必要ですが、それを受けるかどうかは自由であると考えています。

 かつてパウロは、ユダヤ人の母を持つ異邦人であるテモテを伝道旅行へ連れて行くときに、必ず各地のユダヤ人の会堂でも福音を語るので、テモテに割礼を受けさせました。

 

"パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。"
使徒の働き 16章3節


それによって、パウロが律法をも大切にしていることがユダヤ人たちにも受け入れられて宣教が進んだのです。

 しかし、そのようなことも知らないで、パウロのことをよく思っていない人たちが、このエルサレムには多かった。それで、ヤコブの提案は、ユダヤ人クリスチャンの中で誓願を立てる人たちがいて、それは律法に則って行う習慣ですが、そのことにかかる費用を、パウロに負担してもらうことで、パウロがそのような律法を軽蔑しているのではないことを証明させようとしたのです。

 そのくらい、つまずきを避けたということです。同じ教会の中で、つまずきは色々と起こるものです。しかし、それをなるべく避けることは大切なことです。本来ならば、気にしなくて良いことも、ある人にとって大切であり、常識であるときに、その人たちに寄り添って、その部分は合わせてあげることも必要なのです。

 パウロ自身がこのように言っています。

 

 ローマ人への手紙14章
1,信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2,ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
3,食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
4,他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
5,ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6,特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7,私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
8,私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9,キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
10,それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。
11,次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」
12,ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。


13,こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。

 

14,私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
15,もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。
16,ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。
17,なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。
18,このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
19,ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことをお追い求めましょう。
20,食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。
21,肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。
22,あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。
23,しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。 

 

 パウロは、食べ物のことや、日にちのことでつまずく人への配慮を、ここで語っています。

 実はパウロは、律法を厳格に守ることで信仰生活を守っていると思っている人のことについて、そのような人こそ信仰が弱い人であるともここで言っています。

 それは、すでに主イエス様によって、律法は成就して、キリスト者は自由にされたのに、まだその古い生き方で自分を維持しようとしているからです。そして、そのように律法を厳格に守っている人を私たちも信仰深いと思うことがあります。でも、信仰深いというのは、どれほど神を愛し、その神に対して喜んで生きているかであって、厳格に宗教行為を守ることではないのです。

 主を愛するからこそ、それが敬虔な生き方につながるのであって、その敬虔な振りを表面的に守ることが大切ではないからです。

 だから、今日の聖書箇所の場合、パウロにつまずいたユダヤ人にもかなり問題があるのです。

 しかし、そのことでつまずいてしまう人がいるならば、パウロは大人になって、その誓願を立てて神を剃る費用を負担したのです。

 

 私たちも、もちろん他のクリスチャンの行いを見てさばくことはいけないし、そのような人たちにつまずきを与えることもいけません。むしろ、日々、主を喜んで、主が私のために、またあなたのためにどんな偉大なことをしてくださったかを見極めて生きるならば、必ずそのあなたから溢れ出る主への愛が、あなたに対して、もし誤解をしている人がいるならば、その人の目を主が覚まさせてくださるでしょう。

 私たちは自由です。ですから、その自由を主を愛する自由であり、隣人を愛する自由のために用いようではありませんか。

 なぜなら、主が私たちに命がけで与えてくださった福音は、それに触れる人を様々なしがらみや、闇や、古い生き方から解放する神の力だからです。

 

"私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。"  ローマ人への手紙 1章16節