ヤコブの手紙 1章12~27節
"試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。
だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。
人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。
そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。
この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。
私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
人の怒りは神の義を実現しないのです。
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。"
信仰とは目に見えないものではありますが、必ず表面に現れてくるものです。それは、表情や言動にも現れてきます。
だから「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」のです。口先ではなんとでも言えます。でも、その信じていることを実行するところに、証があるのです。
それをまず洗礼というかたちをとって証します。そして、実際に信仰者として歩み始める中で、礼拝を大切にする生き方や、聖書を読む習慣や、神様を愛する生き方が生まれてきます。
神を愛する生き方というのは、礼拝や聖書を読むことや祈りの生活に現れてきます。そして、何よりも隣人を愛することで、神様を愛していることが証されるのです。
神を愛する者は隣人をも愛するように変えられるからです。
今日も一日、私たちの歩みを吟味したいと思います。口先だけの信仰になっていないか。かたちだけの信仰生活ほど苦しいものはありません。
しかし、心から神を愛しているならば、そこから溢れてくる言動には感謝があり、賛美が必ずあります。
それこそ、みことばを実行する人です。神様を愛して感謝と賛美の中で信じていることが、まだ信じていない方々への宣教となるからです。
"私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。"
ヨハネの手紙 第一 4章19~21節