のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年10月2日 白石教会礼拝

説教題 「神の御顔を見るように」
聖書箇所 創世記33章1節~11節
 
 
序論
 人と人とのわだかまりを解くことはとても難しいです。それは、そこに感情が入って、必要以上に、相手への嫌悪感が増すからだと言えます。一度、感情的になると、相手の顔を見るのも嫌になりますので、相手の仕草や言葉遣いなど、その人のあらゆる面を否定的に見るようになります。
 
 これまで創世記からエサウヤコブ兄弟の争いと、そこから発したヤコブの試練を見てきました。兄弟の仲が悪くなった要因はいくつか考えられますが、最終的には本人同士の問題になっています。もちろん、父イサクと母リベカには、子どもを偏愛するという欠点がありました。父は兄のエサウを愛し、母は弟ヤコブを愛したと聖書にある通りです。しかし、もうイサクもリベカも登場せず、ヤコブを中心としたストーリーが描かれています。ここには、もはや父母に責任を取らせるというよりも、真の神に出会い、神の許された試練を通して一枚も二枚も自我という皮が剥かれていった「信仰者ヤコブ」としての解決へと、聖書は私たちの視点を導いています。
 
 それは、私たち主を信じる者にとっての人間関係への良きモデルとなる出来事だからでしょう。ヤコブはあのアブラハムの孫であり、父イサクに続いて、アブラハムと神様との契約を受け継ぐ立場にありました。信仰の父アブラハムの子孫として、主なる神を信じて生きるとはどういうことか。主を信じてこの世を歩むとはどういうことか。そのことを、このヤコブの生き様を通して聖書は示しているのです。
 
 それで前回は神と格闘したヤコブを見てきました。自我の強い人ヤコブが神様との出会いでどんどん砕かれ、同時に信仰を持ち強くされていく姿です。神様はヤコブと闘って、ヤコブの方が勝った(神自身は負けた)と言ってくださった。それは、太ももの関節をはずされても、神様から離れようとしなかった、そのヤコブの信仰を見て神様が認めてくださった、ヤコブへのエールでした。
 
 ですから、今日の箇所でも、おじきを7回するなど、一見、弱々しい姿のヤコブが描かれつつ、しかし、同時に実は神を信ずる者として、神を証しする強い人として変えられた姿があります、その姿を今朝ともに見ていきたいと思います。
 
 
1.先に立って進むヤコブ
 さて前回の続きですが、ヤボク川を渡って来たヤコブ一行の前に、いよいよエサウがやって来ます。しかも、使者の言う通り400人の家来を連れて、です。この400人に襲われたらひとたまりもないでしょう。しかし、今朝のヤコブは様子が少し違います。もちろん、ももの関節をはずされていますので足を引きずっていた様子は違うでしょう。でも、そういうことではなくて、ヤコブ側の群れのしくみが大きく変わっています。
 
 その最も大切な記事はどこでしょうか。それは3節です。
ヤコブ自身は、彼らの先に進んだ。」
 前回までは、エサウへの贈り物を前にして、そのあとに家族。自分は一番後ろに構えていました。それは兄エサウを恐れていた証拠です。だから、贈り物によってあわよくばエサウの怒りがなだめられて、助かるようにと、金品で解決を図ろうとしていました。でも、それでエサウの怒りがおさまらなかったときには、自分だけ助かる場所である一番後ろにいた。しかも、家族よりも後ろということです。
 
 しかし、今日のところでは、全く逆の場所にヤコブがいます。それは群れの先頭です。もしエサウが怒りを燃やしてやって来ていたら、すぐさま殺されるところです。しかも家族を一番後ろにして、もし何かがあったら、家族が助かるように隊列を変更したのです。そして、エサウがまだ遠くにいるうちから、7回も地面にひれ伏すかたちで御辞儀をしたとあります。
 
 ここに、神と闘って勝利を与えられ、名前もイスラエルと改められたヤコブは、信仰者として造り変えられたことがわかります。もはや、姑息な、人間的な手段を捨て、真正面から苦手であった兄に向き合う。たくさんの贈り物で何とかしようとするのではなく、ただひたすら、エサウの前にひれ伏し、自分がどれほど酷いことをしてきたのか、その罪をエサウの前にお詫びし、赦しを請う姿でした。七という数字は聖書では完全数を表わしていますので、ヤコブエサウに対するお詫びが完全であることを意味しているわけです。そして、それはかたちだけのお詫びではないという意味でもあります。
 するとエサウの方も、自ら走ってヤコブを迎えに行き、弟を抱き、互いに泣いて再会を喜ぶと言う奇蹟が起こったのです。
 
 ここに、神を信ずる者としての大切な姿勢を学びます。問題から逃げずに神を信じて向き合っていくこと。それが、とても大切です。課題があるから神様に祈るし、神様と格闘するくらい親密さが生まれていくのです。そこで、もう一つ、大事なことは、これまでの20年間という年月であり、700キロも離れていたという物理的距離があっての今日の場面であるということです。
 
 結果的にお互いに距離と時間をとっていた。それが必要だったのです。それぞれに神のお取り扱いを受け、それぞれに神と闘うほど、神との関係の改善時間が必要だったということです。それらがあって、この放蕩息子のお父さんと弟息子の抱擁を彷彿させる感動的な再会が生まれたのです。しかも、ヤコブは神様との闘いがあり、砕かれていったのはわかりますが、エサウまでその心が変えられていたことには驚かされます。エサウに何があったのか、聖書は何も言いません。しかしエサウも変えられていた。それは神様がエサウに何らかの働きをされて変えたと言えると思います。
 
 ここで大切なことは、神を信ずる者は問題に直接向き合うことが大事であるということ。そこに人間的な作戦は必要ありません。ただし、そこに至るまでに、相手との距離をとることや、時間をかけていくことも重要であるということです。そのくらい、人間同士の関係づくりは簡単ではない。また、その時間をかけることも距離を取ることも、私たちが神と闘うほどに神との関係を豊かにしていくことを学ばなければ意味がないことも覚えていきたいと思います。しかし、神に向き合っていくときに、何と神様は相手にも働かれていて、その溝を埋めてくださるのです。
 
 群れの先頭に立った信仰者ヤコブは、神に信頼し群れの先頭に立って、問題に真正面から向き合う中で、神様によってエサウとの劇的な再会を経験することとなったのです。
 
 
2.エサウとの和解を神の恵みと知るヤコブ
 もう一つ、ヤコブが変えられたと分かる言葉があります。それは何でしょうか。今日の箇所で二回言われています。それは5節と11節。
 
 5節にこう書いてあります。
「『この人たちは、あなたの何なのか』と尋ねた。ヤコブは『神があなたのしもべたちに恵んでくださった子どもたちです』と答えた。」
 エサウヤコブは連れて来た人たちのことを尋ねられたときに、それを自分がこれまで頑張って来た成果ですと誇ることなく、それは神様のおかげだ、神様が恵んでくださったのだと言っていることです。
 
11節にも同じ様なことが言われています。
「『どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさんもっていますから。』ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。」
  
 今度はエサウに渡す贈り物のことですが、そのことにおいても神様のおかげだ、神が私を恵んでくださったのだと言っています。
 これまでの20年間、どんなことがあったのか。あのラバンが追いついてきて、そのときにヤコブがラバンに言ったことは、ずっと悩みと労苦であったことを31章42節で言っていました。しかし、それも神が私についておられなかったなら、と神様のおかげで今の自分があることを告白していました。その信仰はぶれておらず、神との格闘以降は益々、その確信に立っていたのでしょう。
 
 贈り物を受け取ろうとしないエサウに対して、二度も神の恵みと証しするヤコブ。その信仰者の状況は、そのような神の恵みに目を留めていく者とされたときから、色々な点で、ヤコブの視点が変わっていることに気づかされます。ついさっきまで、神と闘う32章のときまでは、エサウに渡す贈り物は、ヤコブのことを怒っていると思われるエサウの気持ちを、その金品で逸らさせるという餌のような、作戦の道具でした。
 
 しかし、赦しているエサウと会ってからは、その贈り物を何と言っているでしょうか。それは11節にあるように、「祝いの品」です。何の祝いの品なのでしょうか。それは、神が恵んでくださったというその結果のことでしょう。あの殺し合いになるはずだった兄弟間の仲たがいが無傷で解決し、何よりもお互いに涙を流して抱き合うほどの赦し合いです。ヤコブにとって、このエサウとの関係が平和的に解決した。このことが何よりの神が恵んでくださった最高の贈り物だったでしょう。だから、そのことも神が恵んでくださったものだと分かったので、その贈り物の意味があらためて「祝いの品」になったのではないでしょうか。
 
 しかも、ヤコブが以前32章11節で「エサウの手から私を救い出してください…私は彼を恐れているのです」と言っていたほどに敵だと思っていたエサウのことをこのように告白していることは、神に取り扱われた者の証しでしょう。
10節のヤコブの言葉です。
「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」
 兄エサウとの熱い抱擁のあと、ヤコブは贈り物をエサウに渡そうとしますが、エサウは「私はいっぱい持っているから自分のものとしてとっておきなさい」と返そうとします。でもヤコブは食い下がって、どうしても受け取ってほしいと言うのです。それは、ヤコブを受け入れるエサウの姿と、前日に経験した神様とが重なったということです。昨晩神と格闘した。言い方を変えると、神から熱い抱擁をいただいた。そこで神と顔と顔を合わせたというほどに、そこにある神の愛と恵みを受け取ったヤコブは、このエサウからの赦しを表わす熱い抱擁に神の御顔を見たのでした。
 
 それは神に、先に赦された者がもつ、神の赦し、神の愛、神の恵みを敵であったエサウに対して注ぐことができたということなのです。「神に罪を赦され、その罪を覆われた人は何て幸いなのか」と招きの詞で今日聞いたとおりです。
 
どうして幸いなのか。それは、赦された人は赦すようになり、愛された人が愛するようになるからです。それは、私たちはそもそもは神のかたちに造られている一人ひとりですが罪が入ってからは、大きく歪み、歪んだ赦し、歪んだ愛しか表せなくなっていますが、神は真の愛と赦しを私たちに与えてくださって、その愛と赦しを携えて、私たちの隣人も、また嫌悪するあの人もこの人も愛し赦せるようになるからです。
 
 赦せない者が赦せるようになり、愛せない者が愛せるようになる。そこに神の国が建て上げられていくからです。
 ヤコブも、エサウの顔を神の御顔を見るように見られたのは、その前に神の御顔を見て、そこで神の愛をたっぷりいただいたからなのです。
 
 
結び
 今、皆さんの中で、あの人苦手だなとか、口もきかないほど反目状態にあるとか、人との関係がうまくいっていない人はおられるでしょうか。聖書は正直ですから、信仰者だからと言って、すべてうまくいくとは教えていません。完成する迄、未完成な者としての私たちの姿を指し示し、だからこそ生きる知恵と力を、聖書のことばによって与えようとしています。
 
 今日のところから、三つのことを受け取って行きたいと思います。
 一つは、神に信頼する者は、問題から逃げずに向き合うことが大切だということです。
 二つ目は、しかし、そこに向きあうためにも物理的な距離や時間も必要であるということです。その間にまず神様との関係を豊かにすることが大切です。教会の礼拝を守り、毎日、最善を尽くして祈りとみことばの時を持ち、神様とまずいつも和解していることが重要です。
 三つ目は、その中でいただく神様からの愛と赦しをもって、一歩踏み出して、ヤコブのように先頭に立って、いただいた神の愛と赦しを、今度は与える番です。いただいたのだから与えることができるのです。
 
 今日、交読で読んだヨハネの手紙第一で「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」とありました。そして、今週のみことばにもあります。
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
 神様はないものを出しなさいとは言いません。できないことをしなさいとは言いません。すでに与えられているから与えることができるのです。すでに神は、私たちに御子キリストをお与えになってご自身の愛を私たちの注いでくださいました。でも、この世にあってはよく渇いてきます。なくなっていきます。すりへって行きます。
 
 でも、渇いたら、また来て、この礼拝に来ていただけば良いのです。十字架のそばに湧き出でる神の愛を何度も飲んで良いのです。そこで、また神との和解の恵みを味わって、あらためて、あの人やこの人との和解に平和的解決へと向かって行くのです。
 今週もヤコブがそうであったように、まず私たちが神様との和解をもって、あんなに嫌いだった人も、怖かった人も神の御顔を見るようにして、赦し合うものでありたいと思います。