のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2023年4月9日 白石教会イースター礼拝説教

説教題 「あの方はここにはおられません」
聖書箇所 マルコの福音書16章1節~8節
 
 

 先ほど歌った讃美歌「うるわしのしらゆり」は、聖歌では「イースターの朝には」という曲名で歌われている賛美歌です。でも讃美歌21や教会福音讃美歌に、その曲がないのは、歌詞が賛美歌としては不足しているというのがその理由だと考えられています。原曲も「beautiful lilies white as the snow」で、やはり哲学的な印象を受けます。アメリカの讃美歌集では早くから、この曲名は消えていたそうですが、日本では、大正から昭和にかけて特にミッション系の女子学生の間で愛唱されていたということです。
 
 NHKの朝のドラマ「エール」で、薬師丸ひろ子さんが焼け野原になった東京で歌っていたのを思い出します。確かに、歌詞には、信仰が直接的に表現されていないように見えますが、空襲で焼け野原になった東京を背景に歌うと、戦争で多くの人が亡くなり、町も無くなってしまいましたが、それでも神に信頼する中に、きっと希望がある。主イエスが死からよみがえられたように、この町も、そして自分たちも新しくされていくのだという信仰を見せられた気がいたしました。
 
 そういうことで、今朝は久しぶりに「うるわしのしらゆり」を歌いました。皆さんは、ここにどのような思いをもって賛美したでしょうか。
 
 先ほども言ったように、この曲が女子学生の間で歌われていました。これが、今日の説教の導入になります。日本だけでなく、イスラエルがあったパレスチナ、シリア地方でも古くから男尊女卑の思想があって、社会における女性の地位は低く、子どもも含めて社会の数に入れられていないほど、低く見られていました。
 
 今日、登場する女性たちもまた、そのような社会の中で、生きて来た人たちです。しかし神様は、このイースターの朝の出来事に、その女性たちを第一発見者、そして、第一伝道者としてお用いになるのです。4つの福音書すべてにおいて、イエス様の復活の場面で登場するのは、まず女性たちです。今朝のイースター礼拝では、その女性たちの姿から、主への信仰について考えていきたいと思います。
 
 
1.日が昇ったころ
 1節、2節を読みます。
「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。」
 
 「安息日が終わったので」とあります。イエス様の十字架刑が金曜日の夕方くらいまでかかったので、ゆっくり遺体に油(防腐剤)を塗ることなく、墓に納められてしまい、すぐに安息日になっていたからです。お墓は、エルサレムの城壁の外にあったアリマタヤのヨセフという弟子の所有する新しいものでした。そこには、12弟子の姿はありませんでした。この安息日の間、弟子たちは何を思って過ごしていたでしょう。少なくとも、アリマタヤのヨセフは勇気を出してイエス様の遺体を引き取り、亜麻布でくるんで納めるだけで手いっぱいだったようです。
 
 そこで登場するのが女性たちです。特に、これを記したマルコは女性たちの名前をきちんと伝えています。まず、マグダラのマリアヤコブの母マリア、そしてサロメは、「イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」とあります。そして、主の初めの日、すなわち日曜日の早朝、日が昇ったころに墓に行ったのです。
 
 ということは、イエス様のからだに塗る香料を買ったのは、日が昇る前ということになります。ユダヤの一日の始まりは日没ですので、死なれたイエス様が十字架から降ろされ墓に葬られて夕方になり、土曜日になった。そこから24時間、次の日没までが安息日。その安息日が終わった日没後に彼女たちは、香料を買ったということです。
 
そして、おそらく、他の弟子たちもいる家で待機していて、日が昇る頃に3人で出かけたということです。そこに男の弟子たちが出てくる様子はありません。日が昇る頃ですから、まだ薄暗い時間帯に外に出かけるわけですから、男性が一人でも来てくれたら、きっと心強かったでしょう。でも、そうする人はいませんでした。そこまで配慮する余裕がなかったのか、男の弟子たちの存在感はまったくありません。
 
先ほど墓を提供したアリマタヤのヨセフが「勇気を出して」と言いましたが、彼女たちもきっと勇気を出して、出かけたはずです。ここに、彼女たちを通して、主日礼拝への備えの模範を見ます。確かに、彼女たちには「勇気を出して」という言葉は使われていませんが、彼女たちの主イエス様に対する信仰と愛を見ることができます。
 
よく「礼拝はどこから始まるか」と言われます。日曜日に教会に来たときか、前奏が始まったときか。しかし、その答えが、彼女たちを通して、この礼拝式だけのことではないと言うことがわかります。彼女たちは、ここでは遺体に油を塗るという行為のためですが、他の男の弟子たちではなく、この女性たちが、安息日が終わるのを待って急いで香料を買って、日が昇るまで待って、彼女たちだけで、今、自分にできる最善をささげた。ここに、彼女たちの主への献身を見るからです。
 
彼女たちが、エルサレムの城壁を出てイエス様の墓に行くということは、大きな危険をはらんでいました。現代のように治安が良いわけではありません。城壁外にどんな盗賊がいるかわかりません。またイエス様の墓の番兵を任されたローマの兵士たちだって、いい人か悪い人かわかりません。しかし、そのような危険を顧みず彼女たちはささげたのです。主に対する思いは、日が昇る前からです。
 
私たちも、この女性たちのように、いつも考えているからこそ、必要なときに、ふさわしいささげものができるのです。私たちはイエス様のために何ができるのか。そのことをまず考えていきたいと思うのです。
 
 
2.石をどうするか
 そのように、イエス様の遺体に油を塗ることを目的としていた彼女たちでしたが、一つだけ心配なことがありました。それが、石をどうするか、です。3節。
「彼女たちは、『だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」
 
 これは重要な問題です。当時の墓は、洞窟のようなところを利用していましたが、その入り口には、大きな石の蓋がされていました。15章46節に、「岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた」と書いてあります。これを女性3人でなんとかできると思っていたのでしょうか。この墓の持ち主であるアリマタヤのヨセフはユダヤの議員だったのでお金持ちだったでしょう。だから、お金持ちのお墓は墓泥棒に荒らされる恐れがありますから、その蓋にする石も簡単には動かせるものではありません。しかも他の福音書を見ると封印がされていたとあります。
 
この彼女たちに対して、「事前に香料を買っておいた割には、石をどうするのか考えていないのは、どうしたことか」と批判する人がいるかも知れません。しかし、ここで彼女たちに欠けていることを言うとしたならば、指摘すべきは、その無計画性よりも、やはり彼女たちも、男の弟子たちと同じように、イエス様が死んで終わってしまったとしか捉えていないということです。
 
つまり、イエス様が言われていた、よみがえることを、誰も信じていなかったということです。彼女たちが墓に行こうと思ったのは、復活したイエス様に会うためではなく、その遺体が腐らないように香料を塗るためです。そこには、復活に期待する一かけらの信仰もなかったということです。
 
このあとの、彼女たちの動転した様子を見ると、主の復活を信じていなかったことが明らかです。だから、石のことが心配になるのです。そこには、イエス様の復活を信じないことによって心配事が増える現実が見事に描かれています。イエスというお方が、仮に死んだままでよみがえらなかったら、私たちの信仰は空しいです。イエスというお方を、素晴らしい立派な教師として見倣うだけのことを信仰というなら、そこには何の希望もありません。
 
そこには、天国とか地獄という理解もありません。現実に見えるこの世界だけが現実であり、今という世界、今という時代を立派な教師イエスに倣って生きるだけの道徳の教えの一つにしかなりません。しかし、イエス・キリストの復活は現実にあったのです。そして、その復活は、その十字架の死が私のためであったことを信じる者にとって、永遠のいのちに続く希望となったのです。
 
 もしイエス様の復活を信じなかったら、永遠のいのちも空想の世界です。夢物語です。いつも、人生の小道をふさぐ諸問題に悩まされ、神もなく、希望もなく、救いもない、目の前のことだけに翻弄され、人生の歩むべき道を見失うのです。大きな石が彼女たちの心配事だったように、いくらイエスという人のことが好きでも、イエス様の十字架の意味を理解せず、復活を信じないならば、それは不幸です。
 
 しかし、不幸にならないために、幻でもなく空想でもなく、歴史的事実としてイエス・キリストはよみがえったのです。だから、その事実の前に、彼女たちの心配事も同時に解消しました。それが4節です。
「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」
 その石は非常に大きかったとマルコも記しているくらい、彼女たちの力では動かせない石だったことが言われています。しかし、主イエスの復活の前に、彼女たちの心配は解消されたのです。
 
 
3.墓を出て
女性たちは、石が取り除けられているのを見て、墓の中に入りました。このとき、彼女たちはまだイエス様の遺体に油を塗ろうと思っていたでしょう。でも、石がなぜ動かされていたのか、その疑問もあったはずです。先に他の弟子たちに先を越されたかも知れないと思っていたかも知れません。
 
もうそのころには朝日が昇って外は明るかったでしょう。そこから、朝日を背に洞窟のような墓に入るには、目がまだ慣れていなくて真っ暗な状態に見えたはずです。しかし、彼女たちが恐る恐る中に入ってみると、なんと、墓の右側に若い男性が見えました。しかも真っ白な衣をまとっています。そんな人、イケメンは、弟子たちの中にはいません。5節を見ると、非常に驚いたとあります。
 
すると、その青年が何か語りだします。6節、7節。
「青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
 
 これは驚きます。墓の中に生きている人がいたら、それはびっくりします。でも「驚くことはありません」と、優しく語られ、彼女たちの目的を知っていました。そう、イエスを捜しているのです。しかし、それは死んだイエスを捜すためでした。ところが、この青年が言うには、「あの方はここにはおられない」というのです。
 
 なぜですか。それは「よみがえられたから」です。その証拠に、イエス様の遺体が納められていた場所はもぬけの殻になっていました。15章47節を見ると、この女性たちは「イエスがどこに納められるか、よく見ていた」ので、間違いなく、イエス様の遺体はそこにありませんでした。もう、彼女たちは、何が何だかわかりません。ただ、この青年が言うことを聞いていたようです。あとで、「彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた」ことがわかります。
 
 しかし、これを記録したマルコは、そのことよりも彼女たちの驚き、気が動転したことを中心に記録しています。8節。
「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
 
 それはどうしてでしょうか。それは、このことがまさにイエス・キリストが復活された証拠になるからです。イエス様の復活は敵側にいたユダヤ人指導者たちやローマの総督ピラトなどだけでなく、イエス様の弟子たちでさえ信じられていなかった。そのくらい、普通ではありえないこと。しかし、事実起こったのだと証ししていることだからです。
 
 彼女たちは恐ろしかった。だれにも何も言わなかった。気が動転した。震えた。逃げ去った。しかし、とても大切なことがここに書かれています。
 そては「墓を出て」ということです。びっくりしたし、怖いのだから墓から出るのは当たり前でしょう。でも、このことは、イエス様を愛する彼女たちに対する、イエス様の復活がもたらす救いを予告していることです。
 
 
結び
 そうです。イエス様の復活とは、イエス様ご自身が死から、よみから、墓から出たことでありますが、同時に、イエスを信じ愛する者をも、墓から出し、よみから救い、死からいのちへ移す神の力だからです。これは、イエス様が十字架上で天のお父様に見捨てられても、とことん忠実に神様への信頼を失わずに死なれた。そのことに対する天のお父様からの祝福であるからです。
 
 復活というのは、イエス様が神の子だから、自分で生き返ったのではありません。それは、あくまで天の父なる神のイエスに対する祝福の御業です。それは、私たちができないことをイエス様が全うされて、イエス様を信じる者をも復活の祝福にあずからせることが、神様の救いだからです。6節の「あの方はよみがえられました」をもし直訳するならば、それは「あの方はよみがえらされました」と受け身になります。
 
 それは、イエス様の復活とは、天のお父様によって与えられた御業だからです。私たちもそうです。神様が遣わされたイエス・キリストを信じるならば、イエス様がそうであったように、私たちも、たとえこの体が死を迎えても、なお、イエス様のように新しいからだが与えられて復活する者となるのです。
 
 この女性たちの信仰は不十分でした。イエス様の復活を信じていませんでした。しかし、イエス様の復活を目の当たりにしたときに、びっくりしながらも、やがて彼女たちは、他の弟子たちに復活を伝える伝道者として用いられました。決して劣っていません。勇敢です。主の弟子として、もっとも大切な出来事を伝える弟子として用いられたのでした。
 
 大正から昭和にかけて、女学生たちに歌われた「うるわしのしらゆり」という讃美歌は、今は廃れてしまったかも知れません。しかし、そこで彼女たちに歌われた主の復活の事実は今なお語り継がれています。4節にこうありました。
「冬枯れのさまより 百合白き花野に いとし子を御神は 覚ましたもう 今なお」
 
 「いとし子を御神は覚ましたもう 今なお。」この讃美歌は、「ささやきぬ昔を」と単に昔話をささやいているだけの歌ではありません。天の父なる神様が、愛する御子を死から覚ましてくださった。しかも、「今なお」と、今なお、父なる神によみがえらされた御子は生きておられる。その真理を、今、私たちも信じ告白するのです。宣べ伝えるのです。なぜなら、確かに主は今、生きて、ここに臨在される真の神だからです。