のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

受けるよりも与える幸い

私たち人間は、目の前に欲しい物があると手当たり次第に手に入れたくなるものではないでしょうか。でも、手に入れるためには、結局、今握りしめている物を捨てるか、欲しい物を制限しなければなりません。それは、あれもこれも、全てを持つことはできないからです。家の大きさや、トランクの大きさや、物置の大きさなど、物理的に入れ物の容積には限界があり、私たちの心や頭の中も限界があるからです。色々なことを同時にあれこれ考えることは精神的疲労を生み出し、ストレス物質を多く分泌することになり、脳内物質分泌のバランスを失わせ、心も体も疲弊するのです。

 

神様は私たち人間を神様のかたち(像)として造ってくださったと聖書は言います(創世記1:27)。それは、神様の全知全能の力が私たちにもある、という意味でのかたち(像)ではありません。ここで、その全てを語ることはできませんが、一つ、私たちにある神様のかたち(像)として言えることは、神様が私たち人間を愛して、私たちにその全てを与えてくださったように、実は私たちも、私たちの隣人に対して、その全てを与えることができるということです。

ですから、持っている物で満足しないで、あれもこれも欲しい、もっと手に入れたいという思いというのは、神様のかたちとは真逆にあると言えます。聖書では、持っている以上に欲しがることを「貪り」と言います。それは、あのモーセ十戒の第十個目の戒めとして言われている、神様が嫌われる罪です(出エジプト20:17)。その罪の性質は全ての人間にある、神様のかたち(像)を歪め、神様との断絶を生んでいる原因です。

しかし、神様はそのような私たちを憐れんでくださり、愛しているからこそ、そのままにしないで、自らを犠牲にしてまで取り戻したいと思ってくださいました。

つまり、神様は私のことを、そしてあなたのことを自らの犠牲を惜しまないで得たいと思われたのです。だから神様は自らの全てを捨ててくださった。それは、神でありながら神のままでいることをよしとせず、人間の姿でこの地上に来てくださり、私たちが受けるべき罪の刑罰を代わりに受けてくださった、あの主イエスの十字架刑です。それは、私たちの罪の身代わりの姿であり、同時に、得るためには与えなければならないということを、身をもって示してくださった姿とも言えます。それは私たちが貪りではなく、自分を与えるところにこそ神様のかたち(像)が証しされるという実践でもあります。そのかたちを愛と言います。それが与える愛(アガペー)なのです。私たちも、そのかたちをキリストによって回復できるのです。

 

今、あなたにとって手に入れたいものはなんでしょうか。それは、どんなものでしょうか。もし、私たちが神の声に聴き、罪を悔い改めて救い主イエス・キリストを信じるなら、「くれろくれろ」の空しい生き方ではなく、むしろ与える幸いに生きる者へと変えられます。

受けるよりも与える人生。それは、まさにキリストが歩まれたように歩む、神の子どもとしてのきよく美しい人生です。

ともに罪(神から離れた生き方)を悔い改め(方向転換して)、キリストを信じて、与える人生に踏み出してまいりましょう。

 

「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」使徒の働き 20章35節