のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

黙想:生きたささげものを献げる礼拝

"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。"
ローマ人への手紙 12章1節

礼拝と聞くと、まず、日曜日に集まって献げるもの、と思わないでしょうか。確かに日曜日にみんなで集まって献げるのも礼拝です。特に教会の業として、最も大切な奉仕です。

 

その名の通り、今朝のみことばで言う「ふさわしい礼拝」の礼拝という言葉は「奉仕」とも訳せる言葉です。この言葉はギリシャ語でラトレイヤと言います。このほかにも新約聖書では「礼拝」と訳されている言葉があります。

 

それは、ヨハネ4章に出てくるサマリヤの女との会話の中で言われた主イエスの言葉です。

 

「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」ヨハネ4章24節

 

ここで使われる「礼拝」はブロスクネオというギリシャ語で、もちろん礼拝という意味でも使われますが、「ひれ伏す」とも訳せる言葉です。

 

ですからラトレイヤもプロスクネオも礼拝ですが、ローマ書でパウロが使った方が、礼拝の意味合いとしては、奉仕をするという動的なささげものとしての礼拝と言うことになります。

 

礼拝にはひれ伏すという静的な動作を表すプロスクネオと、奉仕をするという動的な様子を表すラトレイヤがあるということです。

 

ですから、日曜日に集まってささげる礼拝式はプロスクネオでしょう。しかし、毎日の生活で実際に神のために働くことはラトレイヤだと言えます。

 

しかし、ラトレイヤを維持するためにはプロスクネオが必要です。そして、プロスクネオという行為だけで礼拝があるのではなく、ラトレイヤつまり、主の前にひれ伏す心で日常生活を主のために働くこともあって「礼拝」であることを覚えたいです。

 

私たちの神への信仰が、形式的な冷たいものではなく、神に愛され、神を愛する者としての心の通った礼拝とすることが大切なのです。

 

主にひれ伏す思いで日々奉仕する。これこそ、私たちがささげるべき生きた献げものとしての礼拝だからです。

 

今朝もプロスクネオの礼拝を心からささげつつ、この主のために自分自身をいけにえとして献げるラトレイヤの礼拝をもささげてまいりましょう。