のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

いけにえよりも神を知ること

"わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。"
ホセア書 6章6節

 主はかたちだけの信仰を嫌います。主は見せかけだけの礼拝を悲しみます。ダビデ王朝のユダ王国では、ソロモンの息子のレハブアム以後、偶像崇拝する王たちが続きましたが、その中にも時々、主への信仰を表して、宗教改革がたびたび行われました。

 しかし、その領民である民たちは、上手にコロコロ心の中を変えられません。結局は、いくらヒゼキヤ王が良い王様でもその民たちはそんなに簡単に偶像の神を拝む習慣は捨てられません。

 王が主を礼拝する様に整えたとしても、民たちの心の中には主への信仰が失われていたのです。

 その状態について、主は仰せられました。わたしが喜ぶのは真実な愛であると。だから形だけの生贄ならばいらない。

 そのことをイザヤはこう伝えています。

"「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。──主は言われる──わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。"
イザヤ書 1章11節

主が求めておられるのは、私たちが心して神を知ることです。知るというのは単なる知識として知るのではなく、主を体験するということです。主と交わるということです。そこには主への愛が伴います。なぜならば、この「神を知る」とは、夫が妻を知ると同じ意味だからです。

 主はそれほどにあなたと一緒にいることを望み、あなたからの愛を待っているのです。その愛とは心を尽くし想いを尽くし、力を尽くして主を愛して礼拝をささげることです。その愛をあなたから表してほしいので、主はあらかじめご自身の愛を現してくださいました。

 それが、御子を与えることだったのです。あなたの罪の身代わりに御子キリストが処刑される。ここに愛があるのです。私たちが愛したのではありません。神がまず私たちを愛して、私たちのために御子を遣わし、なだめの供物とされた。ここに愛があると言われているとおりです。

 今日、私たちもその愛に立ち返りたいと思います。そして、その愛をあらためていただき、味わい、御子を与えるほどの大きな犠牲の愛に生きるものとされてまいりましょう。