のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「御翼の陰に」詩篇36篇

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詩篇
36篇

指揮者のために、主のしもべダビデによる。

1,私の心の奥にまで悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には神に対する恐れがない。
2,彼は自分の判断で自分を偽り自分の咎を見つけてそれを憎む。
3,彼の口のことばは不法と欺き。思慮深くあろうともせず善を行おうともしない。
4,彼は寝床で不法を謀り良くない道に堅く立ち悪を捨てようとしない。
5,主よあなたの恵みは天にありあなたの真実は雲にまで及びます。
6,あなたの義は高くそびえる山。あなたのさばきは大いなる淵。主よあなたは人や獣を救ってくださいます。
7,神よあなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。
8,彼らはあなたの家の豊かさに満たされあなたは楽しみの流れで潤してくださいます。
9,いのちの泉はあなたとともにありあなたの光のうちに私たちは光を見るからです。
10,注いでください。あなたの恵みをあなたを知る者に。あなたの義を心の直ぐな人たちに。
11,高ぶりの足が私に追いつかず悪しき者の手が私を追いやることのないように。
12,そこでは不法を行う者は倒れ突き倒されて立ち上がれません。

 

  私たちは弱さを覚えるとき、不安に陥るとき、自分を匿ってくれる大きな存在に包まれたくなります。それは、かつて子どもだったときに、父親、または母親の胸に逃げ込んだときのような安心感に憧れるからだと思います。

  しかし、大人になるとそうはいきません。日々仕事に追われ、会社も休めず、不安を抱えたまま、また更に不安の中へ飛び込むことになるのです。しかし、いよいよダメだと、力尽き、無断欠勤するようなとき、もはや自分を包んでくれるのは、自分の暗い混沌とした部屋に置かれた布団だけになっているのではないでしょうか。

   その布団にくるまり、ただ涙するのです。誰も助けてくれない。自分は一人ぼっちだ。もはや光が見えず、絶望感だけが頭の中をこだまするのです。

 

1. 悪しき者のことばで

  ダビデという人は、どんな辛いときも、どんなに悲しいときも、いつも彼の前には神さまがおられました。それはダビデ自身が神さまを目の前に常に意識したということです。

"私はいつも主を前にしています。主が私の右にれるので私は揺るがされることがありません。"詩篇 16篇8節

  神を信じるとは、神の存在を信じることだけではありません。それは当たり前のことです。それよりも、もっと神さまが身近にあることに信頼すること。そこに迫る神さまの愛の深さ、高さ、広さに信頼することです。

 今日の詩篇ダビデは、敵の悪しき者のことばが心の奥にまで突き刺さるほどダメージを受けていました(1節)。それは、その人自身が神を恐れていないからです。神を知らず、神を信じていないということは、本当の恐れを知らないということです。自分の存在、自分の価値観が基準(2節)であり、真の神ではなく、いつも自分自身が神になるからです。 神を恐れないので、好き勝手なことを語り、どんな恥ずべき言葉も臆せず語ります。思慮に欠け、悪に更に悪を重ねても良心の呵責すら起こらない。これが、神を恐れない者の究極の姿なのです。

  ダビデは、そのような敵を前に、心が疲れ果て、まさに布団に包まっていたくなるくらい、心が折れてしまいました。

   しかし、どんな逆境にあっても、そこから立ち上がれるのが、真の神を恐れ、真の神に信頼する者の祝福です。どんなに敵が自分のことを悪く言って攻撃してきても、そのような悪しき者さえも支配しておられるお方が、私にはついているではないか。この神の臨在の現実に向き合わされるとき、私たちの心は、不思議と180度変えられるのです。

 

2. 神の恵みに気付かされ

5,主よあなたの恵みは天にありあなたの真実は雲にまで及びます。
6,あなたの義は高くそびえる山。あなたのさばきは大いなる淵。主よあなたは人や獣を救ってくださいます。
7,神よあなたの恵みはなんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。
8,彼らはあなたの家の豊かさに満たされあなたは楽しみの流れで潤してくださいます。
9,いのちの泉はあなたとともにありあなたの光のうちに私たちは光を見るからです。

  ダビデは、神の恵み、その真実、義、さばき、救いに気付かされます。どんな危機にあっても、神の絶対的な存在と自分に対する恵みの真実、義なるさばき。そしてもう一度恵みに戻って来ます。しかも、その恵みを救いによって経験させられます。信仰者は、この神との様々な歩みを既に味わってきた証しがあります。救いは、単に将来起こることだけでなく、現実的に、今、ここでも行われる祝福の先取りなのです。

  その救いこそ、神の御翼の陰に隠れることです。それは布団にくるまるのとは訳が違います。

  これまで、ダビデは自分に襲ってくる悪しき者の言葉で傷つき、その状況に苦しんでいました。しかし、ダビデを愛し、日々恵みをもってともにおられる神が一緒にいることを確認したとき、状況が全く変わらない中にあって、神への信頼が、悪しき者からの苦しみから解放し、ダビデを神への祈りこそ最高の力であるという確信に導き、悪しき者、不法を行う者は神によって倒されると宣言するのです。

 

3. 神によって立ち上がる

10,注いでください。あなたの恵みをあなたを知る者に。あなたの義を心の直ぐな人たちに。
11,高ぶりの足が私に追いつかず悪しき者の手が私を追いやることのないように。
12,そこでは不法を行う者は倒れ突き倒されて立ち上がれません。

  私たちの神は叫ぶと答える方です。祈ると響くお方です。辛いとき、苦しいときもいつも傍にいて、あなたを愛し、多くの恵みで満たし、変わらない真実、義とさばきの主として、信頼する確信に導いてくださるお方なのです。この地上での歩みがある限り、悪しき者の攻撃は尽きません。しかし、もはや、その攻撃も既に神の恵みによって救われた者にとっては、何の意味もなさないことも知る必要かあります。

  ダビデを御翼の陰に隠して救った主は、あなたをも、その偉大な御翼の陰にかくまい、あなたが苦しみで負けないように支えてくださるのです。

  今日も主はあなたを既にその御翼の陰にかくまい、慈しんでおられる事実に気がついているでしょうか。神の恵みはさばきに優って、常に先行しています。私たちが望むよりも前にすでに恵みは与えられているのです。

  私たちがまだ神を知らなかったときに、神は御子を遣わし、この方によって神の愛を明らかにされました。それがイエスによる十字架の御業です。ここに愛があると聖書は言います。この神の恵みがどんなときにも味わえる、そして、その状況さえも変えて、私たちの一生を良いもので満たそうとするのです。

  これが神が愛する者のために備えてくださった救いであります。あなたも、この神様に心を開き、その御翼の恵みを日々味わうものとされてまいりましょう。

 

"主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やしあなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせあなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。"
詩篇 103篇3~5節

  

「石は非常に大きかった」マルコの福音書16章

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マルコの福音書16章
1,さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアヤコブの母マリアとサロメは、エスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
2,そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
3,彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
4,ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
5,墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
6,青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
7,さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
8,彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕
9,〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。
10,マリアは、エスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。
11,彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。
12,それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、エスは別の姿でご自分を現された。
13,その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。
14,その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
16,信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
17,信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
18,その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
19,主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
 
1. 彼女たちは
 イエスの死後、活発な行動を見せるのはイエスに付き従って来た女性たちでした。それは15章後半から、その名前が多く出てきます。特に15章47節以降は、主語が女性たちになっていることに注目させられます。
 これまで表舞台には出て来なかった女性たち。しかも、様々なエピソードについては、度々出てきてはいましたが、特にこのマルコの福音書では名前は殆どと言ってよいほど明らかになっていませんでした。しかし、他の弟子たちが皆逃げてしまってから、そこに実は彼女たちの存在がずっとあったことに、マルコは気づかせようとしているのではないでしょうか。
 15章40節では、他の男の弟子たちはどこへ行ったのやら不詳ですが、女たちは「遠くから見ていた」と記録されています。しかも、41節では、これまでの彼女たちの様子が記されているのは、驚くべき事実です。
「イエスガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」
 なんと彼女たちはイエスがまだ「ガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たち」であり、「イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たち」でした。しかも「たくさんいた」と書いてあります。
 ここに、イエスの死から復活にかけての神の大きな恵みと、私たちに対する死から復活への大きな意味を見出すことができます。
 パウロは「罪の報酬は死です」と言いました。それはまさに私たち人間が聖なる神の前における状態のことです。そのくらい、私たちの罪の性質は神との和解を阻んでいました。その死を待つものの姿は、死に対する恐怖と絶望のゆえに、心もからだも縮こまった状態でした。その姿自体が、死人と同じでした。しかし、神はイエスを通して、絶望から希望を、闇から光を、死からいのちを与えてくださったのです。
 それは、事実、これまで日陰にいた人を日向に、滅びに向かっていた人を神の国に招き入れたのです。その事実が、この女性たちの行動と姿勢に表されているのではないでしょうか。イエスは山上の教えで言われました。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
 ここの「貧しい」とは縮こまっているという意味です。罪の中で身動きとれず、また世間からも見下され、蔑まれ、自分ではどうすることも出来ずに縮こまって、とことん貧しくなってしまっている状態のことです。しかも「心の」とは、神と繋がるために与えられている霊がもはやぼろぼろの状態です。
 その人は幸いだ、祝福だとイエスは言われた。それは、そう言われたイエスご自身がその貧しき憂い、生くる悩みをつぶさに舐められ、その身に負ってくださり、そのイエスに信頼し従ってくる者を救ってくださるからです。この女性たちの存在は、これまで虐げられてきた多くの女性たちに、そして、社会的に弱い立場にあった人たちに希望を与えたことでしょう。
 
2. 主のそばにいたい
 その彼女たちが、イエスの遺体が納められた墓で見たものはなんだったでしょうか。
それは、墓に着く前から心配していた、墓の穴を塞いでいる大きな石でした。
3,彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
 女性たちは、その石が動かせないかも知れない状況でも、イエスの墓に行くことをやめませんでした。その大きな石はどうなっていたでしょう。それは4節です。
4,ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
 まず見たものは、既に石が転がしてあった事実です。そして、二つ目には、その転がされていた石が非常に大きかったという事実です。ここに、女たちを通して、神の救いの深さを覚えさせられます。
 それは、まず第一に神は彼女たちの素朴な愛を受け入れてくださっていたことです。彼女たちは、イエスが復活されたことは信じていなかったようです。しかし、石がどうであってもイエスが納められている墓に行きたいというイエスへの愛があったことがわかります。いつまでも残るものは信仰と希望と愛ですが、その中で最も大いなるは愛であるとパウロが言ったように、彼女たちの弱さのうちにあるまっすぐなイエスへの愛を神は尊ばれたのではないでしょうか。ですから、二つ目の神の救いの深さとして、彼女たちの心配であった石が退けられていたことです。彼女たちは死からよみがえられたイエスのことをまだ理解できていない状況にあって、神は一つひとつ、彼女たちの心配事を解消して、目の前の霧が晴れるように、彼女たちの信仰の窓を開いてくださっているのです。そして、三つ目は、転がしてあった石がどれほど大きく自分たちには無理なものであったことへの確認です。
 女性たちは決して強くありません。当時も社会的に弱い存在として扱われてきました。ですから、初めから墓の石を自分たちで転がそうとは考えておらず、だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と言って、自分たちの無力さを認めていました。それは、まさに心の貧しい者の態度であり、それでも墓に行きたいという彼女なりの信仰があったと思われます。その彼女たちに、神は通常の石でさえ動かすのが無理であった石が「非常に大きかった」現実に向き合わせることで、神の救いが100%神の一方的な恵みであることを示しているのではないでしょうか。
 
3.  あるがままの私を 
 イエスの復活は、死を打ち破る勝利のしるしであり、私たちの希望です。私たちにとって、罪の報酬として死は避けられないものであり、それはとても人間には動かせない非常に大きな石でした。ですが、神はその非常に大きな石を取り除けるように、死んだイエスを墓からよみがえらせることによって、私たちの前に立ちはだかっていた死と滅びを退けて、信じる私たちをも、そのよみがえりに預かる者とならせてくださったのです。
  ですから、私たちも今置かれている状態の中で、そのままの自分。あるがままのイエスへの愛をささげようではありませんか。女たちは弱い自分を認め、しかし、イエスのそばにいたいという素朴な愛によって、私たちに必要な姿勢を教えてくれました。
 今日も、よみがえりの主を、今置かれている、あるがままの信仰で充分です。その信仰でイエスに従ってまいりましょう。そうすれば、女たちから心配事であった石が退けられていたように、あなたの心配事も一つひとつ取り除けられて、今まだ信じ切れていなかった霧も晴れていくことを味わうことができるからです。イエスは確かに復活され、今も尚、信じる者たちの中に住んでくださり、同時に天の父なる神の右におられて、天の父のタイミングで、この地上にもう一度来られます。
 あなたの主であるイエス様を愛する歩みを始めましょう。
 
エスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。ヨハネ福音書14:23 
 
  主よ。このままの姿であなたを愛します。どうか、私の不信仰という大きな石を取り除けてください。私のあなたへの愛を開かせてください。よみがえりの主よ。あなたのそばにおらせてください。
 
 
 

●番外編:「神の宮の門口に立ちたいのです」ルカの福音書23章

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 今日、注目したいのは、ルカの福音書23章39~43節の場面です。それは他の福音書には記されていない、イエスといっしょに十字架にかけられた二人の強盗の場面です。皆さんもご存知のように、今、みことばの光で読んでいるマルコには、初めは二人ともイエスをののしっていたことが記録されています。しかし、最後の最後に、そのうちの一人が救われたという感動的な場面です。


 おそらく、回心した方の強盗は、十字架の上のイエスの姿に触れていく中で変えられたと思われます。

  これまでの彼の人生の中で、いつが一番幸せだったでしょうか。だれもが、その母親から生まれ、どういう生い立ちかはそれぞれ違うでしょう。しかし、あるときから、彼は強盗をして生活するようになっていきました。同じ強盗仲間もいて、人から奪ったもので生活し、それはそうなってしまったというか、そういう自分を受け入れるしかないです。決して幸せではありませんでした。しかし、ローマ軍に捕まりある意味、彼の人生で最悪のときに、彼にとっての幸せが始まったのです。一見、このゴルゴタの丘に立てられている強盗の姿は、だれが見ても不幸です。またある意味、自業自得と言われてもしょうがない場面です。
 しかし彼は人生の最後の最後に、すべての人が必要としている救いを手にしたのです。しかも、彼のことばに感動します。42節
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
 何と控えめな姿。さっきまでののしっていたとは思えないほど、彼の心はイエスに釘付けになったのです。つまり、くだけた言い方をするなら、イエスが大好きになったのです。そのイエスに思い出してもらうだけで幸せですと言っているのです。
 私たちは、今日、彼の姿を学びたいと思います。彼こそぶどう園で遅くなってから雇われた労務者です。あとから来たにも関わらず、ペテロなどの十二弟子よりも先に、ある意味、御国の祝福に与ったのです。彼は、死ぬ寸前まで強盗でした。しかし、イエスに出会って、永遠のいのちを得たのです。


 イエスの十字架は、罪人を滅びから救う力を持っています。そして、その救いに与った者は、自分を誇るものを一切持っていません。この強盗がその代表です。この福音を私たちはここで刻まれ、そして遣わされて行きます。だから、自分の頑張りで進むのではありません。ただ彼の信仰を学びたいです。そして、この強盗のように、さっきまで福音に否定的だった人間をも救う力を持っている十字架を私たちも述べ伝える。その使命に与っている恵みに感謝して、遣わされていきたいと思います。

 

"まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。"詩篇 84篇10節


 主よ、あなたに思い出していただくだけで十分幸せです。

「処刑されたキリスト」マルコの福音書15章16〜32節

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「十字架」カール・ブロック画

 

マルコの福音書 15章16~32節

"16兵士たちは、イエスを中庭に、すなわち、総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
17そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
19また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
20彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
21兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。
22彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。
23彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
24それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。
25彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
26イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。"

29通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。

30十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
32キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。"

1.イエスの罪状書き

  私はよく裁判を傍聴に行きます。裁判所に行くとまず掲示板にその日の裁判のスケジュールが貼り出されており、自分で傍聴したい裁判を決めて、指定された法廷に向かいます。そのスケジュールには、裁判ごとに被告人名と罪状が記されている欄があります。大抵、その罪状書きを見て、その日の傍聴する裁判を決めます。

  もし、その罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれていたら、私はびっくりするでしょう。なぜなら、それでは、どんな裁判かわからないし、そんな罪はないからです。

  イエスの十字架には、罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれました。それは総督ピラトが書いたものです(ヨハネ19:19)。それは罪状書きというよりは、ピラトが認めたイエスの肩書きだったと言えます。それは、この十字架は、もはや、処刑する理由を持たないということです。

  しかし、処刑することになるや否や、兵士たちはイエスを嘲弄し、侮辱を与え続けました。

 

17そして、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18それから、「ユダヤ人の王様、万歳」と叫んで敬礼し始めた。
19また、葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。
20彼らはイエスをからかってから、紫の衣を脱がせて、元の衣を着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

 

  イエスのことを「ユダヤ人の王」とピラトが言ったことで、兵士たちは、イエスに茨で編んだ冠を被らせ、王笏のかわりの葦の棒で、茨がイエスの頭にくい込むようにイエスの頭を叩き、唾を吐きかけ、その前でふざけてひざまずいて拝み、ユダヤ人の王という肩書きを侮辱し、罪のない完全な人間としてのイエスを蔑み、その彼らの罪を贖う神の御子キリストを愚弄したのです。

   私たちの罪状書きがあるとしたら、どんなことが書かれるでしょう。それは、恐らく十字架に掲げられた小さな板には書ききれないほどの罪があるのではないでしょうか。書かれては恥ずかしいあの罪も、この罪も全てがそこで明らかにされるでしょう。しかし、その恥を主イエスが「ユダヤ人の王」として負ってくださったのです。その書ききれない罪を全てキリストが背負って十字架に釘付けにされたのです。その罪状書きに「ユダヤ人の王」としてイエスの身代わりがあった事実をまず受け取る必要があります。

 

2.  クレネ人シモン

  さて、兵士たちはイエスに十字架を負わせてゴルゴタの丘は向かいましたが、すでに多くのリンチを繰り返されたイエスには、その力がもう残ってはいませんでした。仕方なく兵士たちは、たまたまそこに来ていたクレネ人シモンにイエスの十字架を負わせることにしたのです。

  この場面はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書には全て記されていることです。そのくらいクレネ人シモンという人が後にキリスト教会で知られた人物であることが推察できます。しかし、この当時はまだ、異邦人ユダヤ教徒だったようです。過越の祭りのために、アフリカの方から巡礼に来ていたと思われます。ですから、イエスの十字架を負ったのは、イエスの弟子ではなく、たまたま居合わせた外国人だったのです。

  かつてイエスは弟子たちにこう言われました。

 

"わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。"
マタイの福音書 10章34節
"自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。"  マタイの福音書 10章38節

 

ここで、イエスは、イエスに従う弟子たちは、イエスがもたらす剣、つまりイエスが私たち弟子に与える「剣」としての私たち自身が受けるべき十字架(苦難)を負うことが弟子としてふさわしいと語っているわけですが、結果的に弟子たちは皆が逃げてしまい、全ての弟子がイエスを見捨てたと聖書は証言しています。そこで、ここに途中参加で注目を集めているクレネ人シモンが負うことになった十字架は、まさに全ての弟子すら負えなかった十字架であり、その残念な事実を、このような一つの型を通して伝えているのではないでしょうか。

  私たちにも与えられている十字架があります。それは、「わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」(マタイの福音書 10章35~36節)とイエスが仰ったように、私たちがイエスを信じているからこそ訪れる試練であり、苦難であると言えるでしょう。その苦難こそ、キリストの弟子として忍耐をもって乗り越えるべき、大切な課題です。

  クレネ人シモンが図らずも、その十字架を担ったように、私たちも心して、与えられた自分の十字架を、また愛する兄弟姉妹の十字架さえも共に、互いに担いあっていきたいものです。

 

3. 他人は救ったが

  イエスを嘲弄したのは、ローマの兵士たちだけではありませんでした。

 

29通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。

30十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
32キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。"

  まず通りすがりの人たち(29節)。そして祭司長や律法学者などの宗教指導者たち(31節)。それから、イエスと一緒に十字架につけられていた者たちも「イエスをののしった」のです32節)。

  ルカの福音書を見ると、イエスのために涙を流す女性がいたことがわかりますが、ここでは、そういう人たちよりも、その場にいたほとんどの人がイエスを辱めたということを強調していると思われます。それは、イエスの十字架の意味が全ての人の罪のためだったことを示していると言えます。

 イエスご自身も、没薬(痛みを和らげる効果があった薬)を混ぜたぶどう酒を拒み、十字架の痛み、苦しみから逃れるよりも、むしろ自ら苦しむことを選ばれました。それは、全ての人の、どんな痛み、苦しみをも、その肉体をもって経験することで、そのような私、またあなたのことを誰よりも知るためでした。私たちの罪だけでなく、私たちのこの地上での痛み、苦しみも負って十字架の上に釘付けにされたのです。

 

  "私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"ヘブル人への手紙 4章15~16節

  神の御子が処刑されること。それは、罪の贖いによる神との和解であり、罪がもたらす呪いと死からの解放です。悪魔は人間に罪を犯させて、神の滅びの道連れをリクルートしていますが、罪から来る報酬である死を十字架と復活によって打ち滅ぼしてくださったイエスによって、もはやその呪いは消え去ったのです。

  むしろ、これからは私たちのために死んでよみがえってくださったお方の愛と恵みによって、その方の御姿に似る者として歩むことができるようになりました。それは、イエスの弟子としての愛と平和に満ちた歩みであり、イエスご自身がそうであったように、神を愛し隣人を愛するという律法の成就、やがて来るべき完成された神の国の国民としての姿なのです。

  本来、この十字架を背負いゴルゴタの丘に向かうのは私たちでした。そして、裸にされ、その上で辱められ嘲弄されるのは私たちでした。その罪状書きには、書ききれないほどの罪を並べられて、私たちは自分の罪ゆえに、悪魔とともに滅ぼされるべき者でした。しかし、その呪いは身代わりとして十字架にかかり死なれたイエスによって取り除けられたのです。

  今日、あなたはこの処刑されたキリストの前に立たされています。どうか、イエスをあなたのキリストとして、あなたの心にお迎えください。イエスはあなたを神の子どもとして、ご自身の守りと支配の中に導いてくださり、終わりの日まで、いや永遠に神の国の国民として祝福される歩みに招き入れられるのです。

 

"私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
死んだ者は、罪から解放されているのです。
私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。"
ローマ人への手紙 6章6~8節

  

「十字架につけろ」マルコの福音書15章1〜15節

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「この人を見よ」Antonio Ciseri 画

マルコの福音書 15章1~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1. ユダヤ人の王

"1夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
2ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
3そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。
4ピラトは再びイエスに尋ねた。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。」
5しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。

 

  夜が明けて、イエスはピラトのところに連れて来られました。しかし、ピラトはイエスに罪を認めていません。祭司長たちの妬みによって、イエスが連れて来られていることを知っていました(10節)。

  もしピラトのローマの総督としての権威が絶対であったなら、彼の気持ち一つでイエスを釈放できたはずです。しかし、ピラトは多数決を選びました。それは彼の立っている場所は、あくまでローマの属州に過ぎないからです。そこにはローマ帝国をよく思わない人たちが数多く住んでおり、イエスの代わりに釈放することになったバラバのように暴動を起こすものが度々あったのです。

  ですから、ここで多数決を取らなければ、間違いなく暴動が起きると思い、それを恐れたものと考えられます。

  私たちの社会でも基本的に多数決が重んじられています。それは、賛成者の多いことが、その後の安定をもたらすと考えられるからです。しかし、このピラトの裁判を見ると明らかに、イエスがここに立たされていることは、不法であり冤罪です。ですから、必ずしも多数意見が正しいとは限らないことが、ここで分かります。

  私たちは選挙で為政者を選ぶという機会があたえられています。しかし、現在多数を占めている政党や、権力者の政策や思想が全部正しいわけではありません。かつて、ヒトラー率いるナチスは、多数の人々の支持を得て独裁政治を行なったのです。もともとは、決してヒトラーの絶対的な権力で支配していたわけではないのです。あくまで多くの国民の支持を得て政権を得たのです。

  私たちは、たとえ少数意見でも疎かにしてはならないのです。話し合いを積んで、結論ありきの考えではなく、意見を擦り寄せて、誰もが納得いくように努力する必要があるのです。

  特に、この場合は裁判ですから、正しいものは正しい、間違っているものは間違っているとはっきりさせるべき場所です。真実を見ないで、単に人間の感覚で良し悪しを決めてはならないのです。ピラトは裁判官として誤った選択をしてしまいました。それでも、裁判官として、イエスに尋問します。

  イエスは一言だけ、そのピラトの質問に答えました。それは、ユダヤ人の王なのかという問いに対してだけでした。

 

2ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」

 

  イエスの答えは「あなたがそう言っています」という、イエスの明快な返事ではなく、ピラトの言ったことだと、イエスの意見というよりは、ピラトの質問こそがピラト自身に答えているのだという、イエスの意図だったのかも知れません。つまり、「あなたの言っている通りだ」と言われたのです。

 私たちもこの世にあって、たとえ少数になったとしても「あなたこそ、私の王です」と、自分の言葉で、自分の意思で、明快に告白し続けたいものです。

 

2. 群衆を満足させるために

6ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。
7そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。
8群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
9そこでピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」
10ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。
11しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。
12そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
13すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
14ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
15それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。"


   結局、このピラトの裁判は、群衆の気持ちを引くことが優先であり、裁判の真相は二の次だったということです。

  ピラトのことは、現代でも使徒信条において、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、教会で告白し続けています。それは、イエスの苦しみが、当時のローマ帝国支配下にあった歴史的事実であることを告白しています。しかし、実際にイエスを苦しめたのはピラト自身ではありません。正確に言うと、ピラトだけではないと言うことです。つまり、イエスエルサレムへ入城したとき、「ホサナ、ホサナ」とシュロの葉を道に敷いて大喜びで迎え入れた人々が、いとも簡単に「十字架につけろ」と叫び続けた。その群衆も含めた全員です。

12そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
13すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
14ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」

 

 ピラトは、あえてイエスの名を呼ばず、「ユダヤ人の王」と繰り返すことで、群衆にその事実に気づかせようとしているし、もしかしたらピラト自身がそう告白したかったのかも知れません。

12節で再び答えたというピラト。「あなたたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか」と、あくまでその決定は自分には責任がない。人々が選んだことに同意するだけだと、責任逃れの言葉にも聞こえます。事実、判決はイエスを十字架につけることになりました。

 その理由が、群衆を満足させるためだったということに、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と世界中の教会で告白し続けられる、歴史的責任が彼にあったことを示しているのではないでしょうか。

 

15それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。"

 

3.  「十字架につけろ」は、あなたの言葉

  最終的にピラトを含む全ての人が、無実のイエスに「十字架につけろ」と叫んでいたということです。そこには、私もいたし、あなたもいたのです。誰も言い逃れはできません。

  私たちは自分に都合の良い方を選びます。私たちは、自分が傷つかない方に傾きます。何でも丸く収まるように、長いものに巻かれることを優先します。争いがないこと。平和という言葉を使って、和解という言葉を使って、本来はっきり言わなければならないことを横において、白黒をきちんとつけるべきことを後回しにして、人間の価値観で平和でつくろうとするとき、私もあなたもイエスを十字架につけているのです。

  ピラトは、はっきりと決断すべきでした。イエスは何も罪を犯していない。無実であると。釈放を宣言すべきでした。また、それだけではない。「ユダヤ人の王なのか」ではなく、「私の王です」と受け入れるべきでした。

  その曖昧さ。弱さのゆえに、イエスは十字架に架けられたのです。しかし神は神の知恵によって、その十字架に架けられたイエスを、神の裁きによって殺される神の子羊として、イエスを十字架につけた人々の贖いとしてくださったのです。神ご自身が、人の罪ゆえに殺された、このキリストの死を通して、完全なる神との和解を成立させたのです。

  ですから、私たちはこのイエスを信じなければならないのです。このキリストの犠牲が私の罪のためだったと告白して、あなたの全てを神に明け渡すことです。

  「十字架につけろ」はあなたの言葉だったのです。そこに明らかにされた、あなたの神への過ちは大きな罪です。しかし、そこに解決があることも明らかにされています。どうか、イエスをあなたの救い主として、あなたの王としてあなたの心にお迎えしましょう。あなたが捨てた石ころが、あなたの要石となったと聖書は言います。これが神の知恵です。ただ一方的に示された、その神の知恵、神の愛を今日、私の人生に、そしてあなたの人生に受け入れてまいりましょう。

 

"神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。"
コリント人への手紙 第一 1章21節

"主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。"
ペテロの手紙 第一 2章4~5節

"キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。"
ペテロの手紙 第一 2章24~25節

「おまえは、キリストなのか」マルコの福音書14章53~72節

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1. 大祭司の尋問

Mark 14:53 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。


Mark 14:55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
Mark 14:56 多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
Mark 14:57 すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
Mark 14:58 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
Mark 14:59 しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
Mark 14:60 そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
Mark 14:61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
Mark 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
Mark 14:63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
Mark 14:64 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
Mark 14:65 そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。

 

 推論のための論理は、二通りの方法に集約されます。それは演繹法帰納法です。演繹法というのは、大前提を見定めて結論を導き出す思考の経路で、前提が適切であれば非常に分かりやすく、説得しやすい方法です。しかし、前提が誤っていると結論に至るすべての議論が虚しくなります。また帰納法というのは、多くの観察で得た事実から、類似した事柄を集約して結論を導き出す方法で、確かな事実の積み重ねによって立証するので、人に納得させる効果があり、もし仮に事実が誤っていても、修正しながら結論に至らせることができます。しかし、論法としては、結論が最後までわからないので、聴く者の意欲を維持させることが難しいです。ドラマで説明するなら、刑事コロンボや警部補古畑任三郎演繹法的ドラマです。それは初めから犯人を視聴者に分からせた上で進めていく脚本だからです。しかし、アガサクリスティなどは、最後の最後まで犯人がわかりません。エンディングまで様々な証拠を積み上げて、最後に名探偵エルキュール・ポアロが犯人を特定するという筋書きです。これが帰納的ドラマ展開です。 

 今日の箇所は大祭司による尋問です。これは「最高法院全体は」(55節)とありますから前任のアンナスではなくカヤパによる裁判であると言えます。この大祭司を議長とする最高法院はイエスの尋問を行ないました。しかし、この裁判はいくつか問題点がありました。それはまず、死刑判決を下す裁判は日中に行うべきことが決められていましたが、この裁判は夜中でした。そして、もう一つは、初めから被疑者を死刑にする目的で開かれていたことです。55節。

 

Mark 14:55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。

 

 ここに「イエスを死刑にするため」と書いてあります。つまり、イエスを死刑にすることを大前提として裁判が行われた。それは演繹的な裁判だったということです。これは、大変重大な過ちをユダヤの最高法院サンヘドリンは犯してしまったということです。

 これは一般的にもよくある過ちです。警察の捜査で、先に犯人に目星をつけて、その犯人の状況証拠を積み上げて立証しようとすると、最初に目星をつけた人が犯人でなかったときに、冤罪を生むことが多々あります。最初に犯人だと言ってしまったプライドを傷つけたくないために、警察の威信にかけてという思いも相まって、証拠すら捻じ曲げて犯人にでっち上げるのです。刑事の感で、何となくというあいまいな理由で、またこの人を犯人にしたいという誤った理由で大前提を決めてしまうなら、そこに大きなリスクがあることをわきまえておかなければなりません。

 ですから、このイエスの裁判も最高法院全体で既に死刑にすると決めているところに、大問題があると言わざるを得ません。しかも、56節には「多くの者たちがイエスに不利な偽証をした」と書いてあり、この裁判の異常さを伝えています。しかし、イエスを死刑に出来るような証言は得られませんでした。それは、この裁判は罪人の思惑によってイエスが十字架に架けられることは事実ですが、その背後には神の救いの計画があり、その御心を遂行すべくイエスがここに立っているとも言えるのです。すなわち、イエスが義人のまま、何も罪を犯さない完全な人として、贖いの神の子羊として、御子キリスト自ら十字架に向かっている。そのためには、偽証ではない、自ら真の証言をして、そのゆえにゴルゴタに引かれていくのです。かつてイエスはこう言われました。

 

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 ヨハネ10:18 

 

 ですから、イエスはご自分でご自分のことを証言しました。それは大祭司の質問に対して誠実に答えるかたちで行われました。

 

Mark 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

 

 イエスは他のことには無言でしたが、御自身のことを証言するこのとき、そして、一応大祭司からされた質問に誠実に答える意味でも、はっきりとお答えになりました。

しかし、この証言は事実ですが、信じない者にとっては偽証であり、神を冒涜しているとしか受け取られませんでした。それで彼らはイエスを「全員で、イエスは死に値すると決めた」のです。

 さて、この裁判の主導権は誰が握っていたでしょう。それは、本当の大祭司であるイエスです。実はカヤパがさも偉そうにこの最高法院を司っているように振舞っていますが、最初から最後まで、本当の審判者であるイエスが裁いていたのです。

 私たちも、常にこの事実を認めていく必要があります。私たちの人生の主導権、私たちの思考の主導権、私たちの教会の主導権など、すべての主導権は私たちの真の大祭司、真の審判者であるイエスにあることをわきまえなければなりません。そして、その真の大祭司イエスご自身が自ら贖いの子羊として犠牲となられたことを覚えることが大切です。

 

「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」ヘブル7:27  

 

2. 泣き崩れるペテロ

 この一部始終を見ていた弟子がいました。それがペテロです。なぜ彼は逃げずに、ここに潜んでいたのか。ある意味、大変危険な行動でもあります。

Mark 14:54 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。

 

Mark 14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。
Mark 14:67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」
Mark 14:68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
Mark 14:69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
Mark 14:70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
Mark 14:71 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
Mark 14:72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。

 

 ペテロは、このあとイエスのことを知らないと三度否定して激しく泣く場面がきますが、最後までイエスのことを見届けようと思ったのか、もしかしたら、これまで目の当たりにしてきた奇蹟の業によって、敵を蹴散らすことも期待していたかも知れません。

 どちらにしても、ペテロの行動はペテロなりの、そのとき出来る限りのイエスを愛する行動だったのかも知れません。そうでなければ、もっと安全な場所にいて、今後の対策を考えるはずです。しかし、彼はイエスがどうなるか、どうされるか見ようとした。いや、そうしてしまったのかも知れません。一人剣を振るって戦おうとしたペテロは、ここで決して簡単に責められるべき弟子ではないと思います。おそらく、各福音書に記されている大祭司の尋問から十字架刑までは、ペテロの証言を得て著されていることでしょう。それが今、私たちがこの裁判の事実も、彼がここでイエスを知らないと言ってしまったことも知ることが許されています。きっと初代教会においても、ペテロ本人の残念な体験として語られ、多くの弟子たちに慰めを与えたことでしょう。

 

 今日の箇所で、イエスは死刑に値するという大前提で裁判をし、最終的には神の摂理のうちにはありましたが、彼らの悪巧みをごり押しするかたちで判決が出ました。それは大祭司や最高法院は演繹的に、イエスは殺すという大前提を掲げて、人間としてはあってはならない判決をくだしたことがわかりました。

 一方、ペテロはずっとイエスを遠巻きに見続けて、イエスがどんな方か、これまでのイエスとの時間を思い起こしながら、更にどんな方か探り求めながら、裁判におけるイエスを見続けました。それは結論はまだ出さず、しかし、これまでのイエスのことば、行動、態度、すべての事実を繋ぎ合わせて、まとめていたことでしょう。それは帰納法的な姿勢でした。おそらくペンテコステ聖霊が下るまで、ペテロは他の弟子たちとともに、イエスはだれか。イエスはどんな方かを祈り、願い、求め、探り続けたことでしょう。

 しかし、そのペテロもある意味、大前提を持っていたことも事実です。それは、イエスから直接、あなたはわたしをだれだと思うかという問いに答えた、その答えがペテロのイエスに対する大前提であったからです。

 

するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」マルコ8:29  

 

 ペテロの大前提は、イエスはキリストであるということだったのです。つまり、演繹か帰納かという話ではありませんが、ペテロは正しい大前提のもと、イエスを愛し、その証拠を繋ぎ合わせるために、イエスの姿を追い続けたのです。

 私たちも、今日、このペテロの前提に立ちたいと思います。まずイエスはキリストです。(マタイ16:16:イエスは生ける神の子キリストです)その告白を前提に、今日も、このお方を求め、探り続けたいと思います。イエスを更に求め、知ることこそ、弟子である私たちの大きな喜びであるからです。

 

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」ピリピ3:12

神と私たちの主エス知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。 」Ⅱペテロ1:2

 

 

「イエスを見捨てて」マルコの福音書14章43~52節

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「ユダの接吻」ジョット・ディ・ボンドーネ作

 

◎マルコの福音書14章43~52節(新改訳2017版)

43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。

 

1. ユダの口づけ

 マルコの福音書記者は「そしてすぐ」とこれまでの記事と同様に、イエスの忙しさ、間髪入れず様々な出来事が押し寄せるように記録しています。

 ゲツセマネでの祈りが終わり、すっかり寝込んでいる弟子たちに「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くにきています。」と告げるや否や、弟子の一人であるユダが現れました。ユダがイエスや弟子たちの中にいなかったのは、イエスを引き渡すために祭司長たちのところに行っていたからでした。(10節)ユダは「その機会をうかがっていた」(11節)と記されています。おそらく、イエスがこのゲツセマネで祈っている間もユダは遠巻きにころあいを見計らっていたのでしょう。イエス祈り終え、立ち上がったところに何と、祭司長や律法学者たちだけでなく、「剣や棒を手にした群衆も一緒」に来たのです。48節でイエスが「強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか」と言われたように、たった12人の男たちを捕らえるために、彼らがとった行動は、イエスと弟子たちがローマへの反逆集団であるように、あえて装ったとも言えます。それはローマへの反逆罪であれば、イエスを死刑にすることができるからです。

 それでユダが取った第一の行動は、イエスに口づけをすることでした。口づけは愛を表し、その親しさを表す行為です。その愛を表す口づけをユダは、この男がイエスであることを祭司長たちに知らせるために用いたということです。しかも「先生」と言って、イエスとの信頼関係、師弟関係を明らかにする呼び方で、ユダはイエスを裏切ったのです。そして、ここにその打ち合わせでイエスを裏切る者、すなわちイスカリオテ・ユダが言ったとされる言葉が明らかにされているのは興味深く、また心痛を覚えさせられます。44節。

 

44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。

 

 これまで、他の弟子たちとともに神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒す権威が与えられて、その業を行わせていただき、3年半の間、寝食をともにしてきたユダが、イエスへの扱いとして「しっかりと引いて行くのだ」(命令形)と言ったことは、もはやイエスのことを神の御子であることも、神からの預言者であることも否定しているということではないでしょうか。イエスを裏切ることは、神を裏切ることです。イエスに対して、もし神の御子としての恐れがあるなら、「しっかり引いていけ」ということは言えないと思います。しかも、それを人々に命じていたということが、ユダの裏切りの残酷な面として伝わってきます。

 そして、予定どおりユダは、イエスに口づけし、人々は打ち合わせどおりイエスを逮捕したのです。

 

2. 強盗にでも向かうように

 そこに一人の弟子が、持っていた剣を抜いて祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としてしまいました。この弟子はマルコの福音書では明らかにしていませんが、シモン・ペテロのことです(ヨハネ18:10)。また、剣が2ふりあり、事前にイエスが「それでよい」と言って持たせたものでした。また、耳を切られた人はイエスによって癒されたことも他の福音書記者は証言しています。しかし、マルコはこの人物が誰かなど詳しい情報には触れずに、出来事のみを記しています。そして、そこでイエスが語った言葉を一つだけ書き残しています。48節。

 

48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。

 

 著者マルコは、ユダをはじめとするイエスを逮捕しようとして集まって来た人たちに対して、「まるで強盗にでも向かうように」と仰いました。それは先にも触れたように、たった12人の男たち、いやイエス1人を逮捕するために、彼らは武装してきたということです。それは本来、同じような武力をもって抵抗する勢力に対する装備です。それは強盗に対しての装備だということです。

 イエスが、また弟子たちがいつどこで強盗を行なったでしょうか。いつも、人々に神の国について教えていただけです。49節。

 

49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」

 

 イエスの行動も発言も一貫しており、その教えに、また行動に対して異論を唱え、捕らえたければいつでもできたはずです。でも彼らはしなかった。それは今回の逮捕も、逮捕する理由が特別あったわけではなかったからです。だから、このあとの大祭司カヤパによる尋問も、あえてイエスを陥れるような偽りの証言をする者を備えなければならなかったのです。しかし、その背景には神の摂理があったことを聖書は証言しています。神の視点から見れば、この一連の出来事は聖書の成就のためだったということです。しかし、それは人間の立場から見れば、人間の罪によって御子キリストが憎まれ、妬まれ、捕らえられたと言えます。そこに働く人間の罪の責任は問われるのです。

 さて「強盗」であるかのように逮捕されたイエス。この出来事自体は、これまでイエスご自身も予告していたことでした。しかし、ユダは自分の意思で裏切り、口づけを合図にイエスのことをしっかり引いていけと命じました。他の弟子たちは、どうだったでしょうか。剣や棒を持って捕らえに来た人々に対して、弟子の一人が抵抗を試みましたが、それは大祭司のしもべの耳を切り落としたに過ぎず、その抵抗の虚しさしか残りませんでした。そして、そういう弟子たちもまたイエスに従い続けることができずに逃げてしまったのです。時間的に見れば、ついさっき、死んでもついて行くと言っていた弟子たちは、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまいました。50節。

 

50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

 ユダは裏切り者です。その罪は重いでしょう。しかし、死んでもついて行くと言っていた他の弟子たちも、イエスを見捨てたと聖書には記されています。他の詳しい情報はさておき、マルコは、弟子たち「皆」が「イエスを見捨てて逃げてしまった」と強調して証言しているのです。

 それは結果的に、だれもが最後までつき従った者がいなかった事実を伝えているとともに、誰もが等しく神の前に弱く、また罪人であり、その全ての人の贖いとなるために、まさにイエスが無抵抗で逮捕され、十字架に向かっていることを指し示しているのではないでしょうか。ですから、「強盗にでも向かうように」というイエスの言葉は、イエスご自身がまさに、イエスを捕らえに来たユダや他の人々だけでなく、またイエスを見捨てて逃げた弟子たちにだけでもなく、そこにいた全ての強盗と化してしまった人々の罪を負い、すべてを父なる神にお任せになったメシアとしてのイエスご自身のことを示唆しているのかも知れません。

  また、マルコにしかない記録として、ある青年のことが記されています。

 

51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。

 

  これは著者マルコ本人と言われている記事です。マルコ自身も逃げてしまった一人として、しかも「裸でにげた」と、恥ずかしい者であることを明らかにしています。ここに、裏切り、イエスを見捨てたことを他人事にせず、自分のこととして受け止める。それが私たちの姿であることを示しているのです。

 

3. イエスの弟子として

 この出来事の目撃者であり、剣を振るった本人であるペテロはこう言います。

 

「キリストは自ら十字架の上で、 キリストは自ら十字架の上で、  私たちの罪をその身に負われた。  それは、私たちが罪を離れ、  義のために生きるため。  その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」Ⅰペテロ2:24

 

 また、このことは弟子たちに対するイエスの生き方を指し示しているとも言えます。今、現実的には全員がイエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、このあと十字架刑の後にイエスは復活され、天に帰られて後、約束どおり聖霊が降ります。そのとき、弟子たちはその聖霊を受けて、イエスが歩んだように、イエスが生きたように生き、また死に、そして復活するという歩みに変えられます。

 そのとき、今はできないこと。今はわかっていてもできないことも、聖霊によってできるようになる。イエスのように神を愛し隣人を愛する神の国の国民としての生き方に変えられるのです。

 私たちも、今日、古い自分に囚われて、希望が見えないかも知れません。古い自分が覆っていて、神への希望がわからなくなっているかも知れません。しかし、キリストはあえて無抵抗の状態で逮捕され、弟子全員から見捨てられていく中で、そこに私のため、そしてあなたのために十字架の苦しみ、神のさばきを通られました。それは、イエス様に従いたいと願ってもそうできない、従えない、罪を犯してしまう私たちの身代わりだったのです。そして、そのイエスの贖いを信じるときに、いのちを捨ててイエスに従う者として、聖霊によってつくり変えられるのです。

 イエスは、あなたのためにいのにをお捨てになりました。それによって神の愛がわかりました。今日も、その愛に真心から応えるものとされたいと思います。

 

「21  このためにこそ、あなたがたは召されました。  キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、  その足跡に従うようにと、  あなたがたに模範を残された。22  キリストは罪を犯したことがなく、  その口には欺きもなかった。23  ののしられても、ののしり返さず、  苦しめられても、脅すことをせず、  正しくさばかれる方にお任せになった。」Ⅰペテロ2:21~23