のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●主は必ず彼を打たれる:サムエル記第一26章

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1,ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」
2,サウルは立って、三千人のイスラエルの精鋭とともに、ジフの荒野へ下って行った。ジフの荒野でダビデを捜すためであった。
3,サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、
4,偵察を送り、サウルが確かに来たことを知った。
5,ダビデは立って、サウルが陣を敷いている場所にやって来た。そしてダビデは、サウルと、その軍の長ネルの子アブネルが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ていて、兵たちは彼の周りに宿営していた。
6,ダビデは、ヒッタイト人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイに言った。「だれか、私と一緒に陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」アビシャイが答えた。「私が一緒に下って参ります。」
7,ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。
8,アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」
9,ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」
10,ダビデは言った。「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。
11,私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」
12,ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取り、二人は立ち去ったが、だれ一人としてこれを見た者も、気づいた者も、目を覚ました者もいなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいたのである。
13,ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、大きな隔たりがあった。
14,ダビデは、兵たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル、返事をしないのか。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」
15,ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があるだろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を護衛していなかったのか。兵の一人が、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのだ。
16,おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油注がれた方を護衛していなかったのだから。今、王の枕もとにあった槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」
17,サウルはダビデの声と気づいて、言った。「わが子ダビデよ、これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「わが君、王様。私の声です。」
18,そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべの後を追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
19,わが君、王様。どうか今、しもべのことばを聞いてください。もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが主であれば、主がささげ物を受け入れられますように。しかし、それが人によるのであれば、その人たちが主の前でのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです。
20,どうか今、私の血が主の御顔から離れた地に流されることがありませんように。イスラエルの王が、山でしゃこを追うように、一匹の蚤を狙って出て来ておられるのですから。」
21,サウルは言った。「私が間違っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。もう、おまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した。」
22,ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者の一人をよこしてください。
23,主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。
24,今日、私があなたのいのちを大切にしたように、主は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます。」
25,サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ、おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰って行った。

 

  やられたら、やり返す。目には目を、歯には歯をと私たちは考える。特に、自分に非がない場合は、相手に自分が受けた同等かそれ以上の罰があるように願う。

  ダビデも、これまでの執拗に追いかけてくるサウル王に対して、決して赦し続けていたのではありませんでした。「主は必ず彼を打たれる」と、サウルの結末にある死を期待しています。ただし、自分の手でサウルを殺すことだけは避けました。

  今日の箇所は以前にもあった場面と重なります。前回は洞窟に用を足しに来たサウルの着物の裾を切って、自らのサウルに対する潔白を証明し、サウルもその時は心を改めたかのように見えました。しかし、病的なまでにダビデへの嫉妬から来る殺意が消えることがなく、更に追っての、この場面でした。

  つまり、一度、ダビデの手にかかって死んでいてもおかしくなかったにも関わらず、サウルは命拾いをしたはずなのです。しかし、サウルのダビデへの殺意は、再びサウル自身を死へと追い込んで行ったのです。それは、このダビデの言葉から明らかです。

 

「10,ダビデは言った。『主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。』

 

  ダビデは、「誰でもいつかは死ぬ」とは言わず「主は打たれる」と言いました。それが寿命で死ぬか戦死するかのどちらかだろうと。しかも、戦いに下ったときに「滅びるかだ」と、「死ぬ」よりも更に、そこに主の意思があって、主のさばきによる死であることを示唆しています。

  ここに、信仰者の弁えを学ぶことができます。私たち主を信ずる者は、自分で復讐することを考えてはなりません。復讐は主がなさることだと弁えることが肝心です。

  では、自分の手で復讐はしないにしても、相手に天罰が下るようにと、相手が滅びることを願い呪うことは正しいのでしょうか。

   今日の箇所では、ある意味、旧約における限界を見ることができます。確かにサウルは悪いでしょう。また、二度にも渡りダビデの手にかかって殺されてもおかしくない状況に置かれて、その死をまぬがれました。このことは、サウルへの警告であり、サウルが悔い改めるチャンスでもありました。

  しかし、ダビデには、もうそのことに対する期待よりも、主がサウルを打たれることへの期待の方が大きかったと言えます。ここに、私たちはそれは当然だと思わないでしょうか。

  しかし、もしここに主イエス様がおられたら何と答えるでしょうか。

  おそらく、神に打たれるサウルの身代わりになって、神に打たれる側に自らを置き、その犠牲によってサウルの罪を赦そうとされたでしょう。きっと、神の呪いを自ら負い、復讐よりも、報復よりも、相手への死よりも、相手を生かすために、自分は何をすべきかを考えるでしょう。

  それが、新約時代の恵みなのです。主イエス・キリストは、罪人を赦し、御国に招き入れるために、ご自分から十字架に向かわれ、私たちが受けるべき神のさばきをその身に追われました。

  その犠牲によって、私たちは生かされたのです。それは、罪の中にある私たちへの報復よりも、私たちに対するさばきよりも、救うことを望まれたからです。

  パウロはこう言っています。

 

「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。
次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
ローマ人への手紙 12章19~21節

  確かに血を流す者には血による報いは理にかなったことです。しかし、私たちが願うのは敵への報復よりも、その敵が主の前に悔い改めて、主の者として生まれ変わることです。そのことを踏まえて、「主は必ず彼を打たれる」と言いたいと思います。私たちにとって、主が打つとは、彼の古い人に対するさばきであり、彼が主によって新しい人に造り変えられるようにされるということです。

  なぜ、私たちはそのように言えるのか。それは、まず私たちが主によって赦されたからです。私たちを赦すために、主イエスは十字架にかかり、そのいのちをもって私たちのための宥めの供え物になられたのです。そこに神の愛が示されたと聖書は言います。

  その神の愛と赦しをいただいた私たちだからこそ、敵をも赦すことができるのです。滅ぼされて当然の私たちが赦された。

  今日も、その恵みの中で、私たちもまた敵が主の恵みのゆえに、永遠の命をもち、神を愛する者とされるように願うものでありたいと思います。

  

"愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。"
ヨハネの手紙 第一 4章7~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

● 「だから、こう祈りなさい」 聖書箇所 マタイの福音書6章7~10節

 

序論
 祈りは信仰生活を支える霊的な呼吸です。それで今朝は、イエス様が教えてくださった「主の祈り」に聞いていこうと思います。主の祈りと言っても、イエス様ご自身がこのように祈っていたと言うよりは、弟子である私たちがどのように祈るのかということを教えている祈りです。
 前回は先に5節と6節を読んでいました。それは、6節までが信仰生活における姿勢、態度について言われていたからです。「祈るときには」と5~6節で繰り返されていますが、そこでは信仰の態度がまず問われていたからです。
 人に見せるため、人に褒められるための信仰生活ではなく、天のお父様に喜んでいただける姿こそ大事だということです。その生き方が祈りなのだということをまず押さえることが大切だということを学びました。
 今日は、祈りの実践についてです。日々の生き方そのものが神様と繋がっている「祈り」なのですが、時間を取り分けて、聖別して祈ることも大切です。それが奥まった部屋で祈る祈りであり、神様との親密な時間なのです。
 そこで質問です。皆さんの祈りはどんな祈りでしょうか。皆さんにとって祈りとは何でしょうか。お願いの時間でしょうか。宗教儀式でしょうか。義務でしょうか。それとも信仰生活そのものでしょうか。今日は、主の祈りの前半部分までを通して、イエス様が教えてくださった祈りについて聞いていきたいと思います。

 

1.祈りとは、神との交わりである
 7節を読みます。
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
 ここからイエス様のお話が、祈りの姿勢や態度から内容に入っていきます。それが同じことばを繰り返すなということです。ここに「異邦人のように」と言われています。これまでイエス様はユダヤ人の間違いを中心に語られてきました。律法を知っているはずのユダヤ人がまず間違っているよと言うことです。ここでは異邦人についても触れています。言葉数が多いと聞かれると思っているとです。
 これは神様の前にユダヤ人も異邦人もどちらも足りない者であり、どちらも心を貧しくしなければ幸いでないということです。異邦人の祈りの特徴として、同じことばの繰り返しがあったようです。日本で言うなら、念仏やお題目を唱えるというようなものでしょうか。
 このような同じ言葉の繰り返しは、どういうときに行うでしょう。8節でイエス様は「あなたがたがお願いする先に」と言われていますから、彼らの祈りは「お願い」であることがわかります。お祈り=お願いだということです。
 皆さんはいかがでしょうか。お祈りはお願いとイコールでしょうか。私たちは祈りの中でお願いはしないでしょうか。当然します。そのとき、同じことを何度も祈ることはないでしょうか。病気や怪我が治ってほしいと何度も祈ります。それは間違いでしょうか。
 先週、アッシジのフランチェスコの話をしました。フランチェスコの祈りを知りたいと思った人が、フランチェスコの部屋の戸の外で聞いていたら、その祈りが初めから終わりまで「主よ、主よ・・・・」だったというお話です。
 この「主よ」と繰り返していたフランチェスコの祈りは、イエス様が仰っている異邦人の祈りになってしまうのでしょうか。同じ言葉を繰り返しているという点ではそのとおりです。みなさんはどう思いますか。
 そうではありません。ここで異邦人の祈りと言われているのは、祈る対象に対して願い事をかなえてくれる便利なものとして、機械的に祈ることについて注意しているのです。だから、フランチェスコの祈りは「主よ」と繰り返していても、その言葉の裏側には父なる神に対する愛と信頼があって、多くの賛美と感謝と告白、そして願いがあるのです。
ただし、その「主よ」という祈りを聞いた人が、それが良い祈りなのか真似しよう言って、機械的にまねするだけならば、その祈りはここでいう異邦人の祈りと同じです。問題はきちんと祈るべきお方を捉えているか。そのお方に信頼し、何よりもその愛と憐れみに気がついているのか。そこが問われます。この時の弟子たちで言えば、ユダヤ人として、神様に選ばれている恵みに感謝しているか。今の私たちでいうなら、クリスチャンとして選ばれている恵みに感謝しているかということです。
 神様を役に立つしもべにするなら、それは異邦人の祈りだということです。お願いするだけの存在。困ったときだけの神頼みは、まさに多くの人がしている祈願であり、たんなる宗教活動、宗教儀式です。それは天のお父様を、ドラえもんと同じレベルに引き下ろすことと同じです。ほしいものを言えば出してくれる。神様をそんな便利な道具にしてしまう。だからイエス様は言われます。8節。
「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
 だからまねをしてはいけないと言われます。それは、あなたがたの父なる神は、あなたがお願いする先に、もう必要を知っているからです。だから、くどくどと、しつこく、ごり押し的に祈願するのはいけないのです。
 もし、ここで神様が知っているなら祈らなくても良いのではと思う人がいるとしたら、それはまだ神様があなたの天のお父様であるということがわかっていないということです。神様との親しい関係、神様があなたのお父さんであると認めているなら、そう考えることができないからです。
 もし、私が自分の父親に、私の思いが知られているからという理由で口を利かなくなることってあるでしょうか。むしろお父さんに対して、自分の思いを知ってもらえていることで安心するのではないでしょうか。
 私は子どもの頃、私のほしいおもちゃを親が知っていることはわかっていても、あえて、そのほしいおもちゃが載っているチラシを親が見えるようにしておいて置きました。もちろん、すぐに買ってくれないこともわかっていてやっているのです。それは、明らかに親に甘えているということでしょう。
 その豊かな親子の関係を天のお父様は求めているし、イエス様も、ご自分と神様のその関係に招いているのです。

 

2.祈りで、まず必要なことは
 それでイエス様は仰います。
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。』」
 イエス様の「だから」はとても大切です。私たち弟子の祝福を願って、「だから」彼らの真似をしないで、「こう祈りなさい」とはっきり言われます。
「天にいます私たちの父よ」と。
 これまでイエス様は何度も「あなたがたの父は」と繰り返してきました。そして、だからこう祈りなさいと言われました。天にいます私たちの父よ。お父さんと呼んでいいよと、イエス様が言ってくださった。これはなんという恵みでしょうか。この呼びかけの言葉は、山上の説教の中でも革命的です。心の貧しい者が幸いだという言葉も素晴らしい革命的なことばでしたが、神様に「私たちの父よ」と呼びかけて祈りなさいという主のことばは、天地創造のときから見ても、天地がひっくり返るほどの革命的なのです。
 聖書で神様は、初め神「エロヒーム」と呼ばれていました。そのあと「神である主」と呼ばれました。出エジプト記では「わたしはあるというものである」と名乗られて、そこからヤハウェというお名前だけれども、みだりに唱えてはならないと言われ、それからはずっと主(アドナーイ)と呼ばれてきました。
 しかし、神の御子イエス様が来られてから、その御子イエス様の口から、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけなさいと教えられているのです。今、私たちは、これまで選びの民イスラエルにも明らかにしてこなかった三位一体の神を、私たちに示し、その完璧な愛の交わりの中に私たちをも入れてくださる。
 こんな祝福はエデンの園にもなかった恵みです。この事実に私たちは心を打たれます。あのエデンの園も素晴らしかった。神様ご自身が、非常に良かったと仰って最高の関係にアダムとエバを置いてくださった、それ以上の祝福に今、もう既に私たちは置かれているのです。それくらい、この呼びかけは祝福なのです。天の神様を私たちの父、または私の父と呼んでも良いのです。
 でも、なぜ、いきなり神様の存在がぐっと近づいたのでしょうか。旧約の時代までは、幕屋や神殿をつくって、そこに様々な動物の犠牲があって、神様に近づくのが大変でした。ダビデの家来であるウザと言う人は、倒れそうになった神の箱を手で押さえただけで打たれて死にました。そのくらい聖なるお方なのに、どうして、ここにきて天のお父様と呼び、愛の関係を示しているのでしょうか。
 それは、真の神の御子イエス様が、私たちの代わりに天のお父様に捨てられることで、それが許されたからです。この山上の説教だけでなく、十字架に至るまで、イエス様に罪を赦された人たちは皆、このあとの十字架の贖いがあって、先行して赦されているのです。その赦しは、あのイエス様の十字架上の祈りに表されています。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)
 ここでイエス様は、詩篇を引用していますが、それは真心からの叫びでもありました。天のお父様を「父よ」と呼びかけずに、「わが神」と罪人の祈りとして、私たちが祈るべきことばをもって、天のお父様から切り離されたのです。その犠牲があって、今、私たちは天の父よと呼び、その愛の中で赦され生かされているのです。
 その天のお父様が私たちのお父さんであるならば、祈りはもっと視野が広げられます。その自由な、愛の中にさらにイエス様は天のお父様のご性質に私たちを招いておられます。
「御名があがめられますように」文語では「御名をあがめさせたまえ」です。
これは、神様を賛美していることは確かなのですが、このあがめられますようにという言葉は、もっと深い神様のご性質を表現していることばです。日本語では「あがめられますように」ですが、もとの言葉は「聖なるものとされるように」という意味があります。5:16でも「あがめる」という言葉がありますが、もとの言葉であるギリシャ語では違う単語が使われています。5章の方は栄光とか賛美という意味のことばで、当然あがめるでも良いです。しかし、ここで使われている言葉は「聖なる」とか「きよい」という意味の言葉です。そのきよさをわからせるために、5章で律法を正しく理解するように教えられたとも言えます。父が完全であるようにあなたがたも完全であれとはそういうことでしょう。
冒頭の「天にいます」とあるのは「地にいる肉の父」とは全く別もの、地上の父親と混同しないお方であることを意味しています。聖なるお方とは、世とは分離されたお方と言う意味です。この世の父親がいるから比喩で天のお父様と言っているのではないのです。初めから天の父なる神と子なる主キリストがおられて、その天の父の雛形として人の父を定めたのです。だから見る方向が逆です。神様の方から人間の父親がどうかを見るべきです。人間の父親から神様を知ろうとしてはいけません。そのくらい比べられないお方としてリスペクトすること。それが「あがめさせたまえ=聖なるものとされますように」という言葉にかかっているのです。
 やはり意味としては「聖なるもの」とした方が良いと思います。神様が聖なる方であり、その聖を子である私たちが告白する。しかも、あなたは「聖です」清いお方ですという言い方ではなく、聖なるものとされますよういにという言い方です。これは、神様が私たちの告白によって聖であるのではなく、神ご自身によってご自分によって聖であるからこそ、益々、そうでありますように願い、一切の主権、ご支配がこのお方にあり、絶対であることの告白なのです。あなた以外に神はありませんという告白です。
 そのように完璧な愛ときよさであるお方が私たちの父であるなら、この罪の世にこそ、その支配があるように願わされるのです。そこには私の思いや、私のちっぽけな願いを超えた、完全な神様の支配こそ最善であり最高であることを認めざるを得ません。10節。
「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
 ここで言われる御国が来ますようにとは、大きく三つの意味で考えることができます。一つは、この世が滅びて新しい神の王国が来るようにという願いです。この地上は罪と汚れで満ちていて、悪がはびこって不幸なことがたくさんです。そうであるなら、神様の国が早く来て、信じる全ての人の救いが完成することを願う気持ちはわかります。しかし、それだけではありません。二つ目は彼岸的天国を願う意味もあるでしょう。つまり、早く死んで天国に行きたいという願いです。その気持ちもわかります。しかし、そういう思いで、この世を歩むことは果たして幸せでしょうか。確かに将来、死んだとしても御国は約束されています。でも、今、私たちは、この世に生を受けて、神様の御心によって生かされているのです。しかも、まだ救われていない人たちが大勢いる中、先に救われて、今、ここに置かれているのです。それは何故でしょう。
 それは、三つ目です。この罪の世界において神の支配があるように願うことも私たちの役目だということです。新しい神の国は、あの世の話だけではなく、現実のこの罪の世界にも証しされる必要があるのです。御国とは神の王国。神の支配という意味があります。その神の支配、神の主権が、悲しみが悲しみで覆い尽くされそうな、この世にもあるように願うときに、その悲しみが悲しみで終わらない、絶望から希望に、闇から光に、死からいのちに変えられる神の支配が現実に起こることを意味しています。

 

結論
 そのために、天から遣わされ、この地に置かれている。それが私たち、主の教会です。天に国籍を持つものたちの集まりですが、同時にこの世において神の国を証しするコミュニティなのです。この教会である私たちは、常に神様の御心を願います。それは神の御心よりも優れた心、思いは誰ももっていないからです。その御心が行われるのは天の御国では当たり前です。天にはサタンの支配がないし罪も死もありません。それが、地においても行われるように、この地にも天国の恵みが広げられることを願うのです。それは神の国、神の支配が何よりも素晴らしい祝福だからです。
 今、この地上は神様を忘れた人間中心の価値観で、どんどん生き難くなってきています。原発事故も戦争も、交通事故も不幸な出来事です。また、身近にある病気や人間関係もなかなかうまくいかない時代になっています。人々の愛は冷えて、個人主義が蔓延し、キリスト教会にも神の支配よりも人間の支配が優先されるようなことが起きています。
 このような目標を失った時代にこそ、私たちは天の父に日々繋がり続ける必要があるのです。そのために、あらためて御子イエス様が、わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですかと叫ばれた祈りを聞きたいと思うのです。
 そのようにして、ご自分が天の父から切り離されて、私たちが味わうべき苦しみを通ってくださった。その主のゆえに、今「天のお父様」と呼びかけ、その愛に委ねて生きられる恵みを覚えたいのです。
 この祈りはただではない。御子イエス様のいのちが代価として支払われた。そこにあらわされた恵みに日々感謝しつつ、今週も天のお父様に繋がっていきたいと思います。

 

祈り

天のお父様。あなたを私たちの本当のお父さんとして呼ぶことが許されている恵みを感謝します。しかも、そのきよさに与らせてくださって、その唯一絶対のご支配のうちに匿ってくださり感謝します。そのために、イエス様が捨てられたことを感謝します。その犠牲の上に今の祝福があることを感謝します。どうか、日々、主のゆえに天のお父様との愛に招かれていることを信じ、その愛に満たされて歩むことができるように聖霊によって助けてください。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。

● 「主は、御声に聞き従うことを喜ばれる」サムエル記 第一 15章17~35節

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サムエル記 第一 15章17~35節

"17 サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。
18 主はあなたに使命を与えて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
19 なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」
20 サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。
21 兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上のものとして、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令と、あなたのことばに背いたからです。
25 どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が主を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」
26 サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは主のことばを退け、主があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」
27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルが彼の上着の裾をつかんだので、上着は裂けた。
28 サムエルは彼に言った。「主は、今日、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれた隣人に与えられました。
29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」
30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、主を礼拝します。」
31 サムエルはサウルについて帰り、サウルは主を礼拝した。
32 サムエルは言った。「アマレクの王アガグを、私のところに連れて来なさい。」アガグは、喜び勇んで彼のもとに来た。アガグは「きっと、死の苦しみが去るだろう」と思ったのであった。
33 サムエルは言った。「おまえの剣が、女たちから子を奪ったように、おまえの母も、女たちのうちで子を奪われた者となる。」こうしてサムエルは、ギルガルにおいて主の前で、アガグをずたずたに切った。
34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。
35 サムエルは死ぬ日まで、再びサウルを見ることはなかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。"

 
神のことばに従うことが何よりも大切なことは、旧約時代も現代も変わりません。

  神の憐れみによってイスラエルの最も小さな部族であったベニヤミン族から、イスラエル王国で初めての王が選ばれました。それがサウルでした。

  彼は当初より自分が王になることに対して、とても謙遜に受け入れていましたが、王に任ぜられ、他の国と同じように人々の上に立つ者として歩むうちに、その意識は、やはり他の国の王と同じように、自分の支配力や権力という王座にどっかりと座り、自分で意識しないうちに、どんどん主のことばを軽んじるようになってしまいました。

  かつて、イスラエルの民は、他の国の国民と同じように王を立てるようにサムエルに求めました。サムエルは真の王である主にではなく、目に見える人間を王とすることに反対をしながらも、その求めに応じてサウルに油を注いだのです。

  その彼らのことば通り、今サウルは、他国の王と何も変わらなくなってしまったのです。

  今日の聖書箇所で、中心的なことばは22節でしょう。

「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

  サウルの罪を指摘するサムエルに対して、サウルは自分の口で、主の御声に聞き従ったと言い放ちました。彼の王としてのプライドは、以前ようなへりくだった信仰者としての姿を蝕んでいたのです。彼はいけにえをささげた、その行為を自分で正しいことをしたと思っていました。しかし、主が求めておられることは、ただ御声に聴き従うことだったのです。

  それは、表面的に儀式を行うことではありません。心から主を愛することです。

  罪深く、ちっぽけな自分を選び召してくださった主の恵みに感謝して、その主を愛することが何よりの礼拝でした。

  それなのにサウルは、王としての自分の面目を保つことに終始し、主の御心を損ねたのです。

  このサウルの姿は、私たちクリスチャンの姿でもあります。

  罪の中に埋もれていた私たちを、主は憐れんでくださり、選び、主のものとしてくださいました。

  それなのに、何とかたちばかりの礼拝で自己満足をしていることか。私は悔い改めて言います。

  毎週、主の日に礼拝することは正しいことです。しかし、その心は本当に主を愛しているだろうか。主を愛する心で、本当に礼拝をささげているでしょうか。また、罪を表面的な宗教行為によって覆い隠して、さも信仰深くあるかのように振舞っていないでしょうか。

  主日礼拝だけではありません。日々の黙想の時間も心を注いで主に叫び、主のことばに耳を傾けているでしょうか。かたちだけの日課になっていないでしょうか。普段の信仰の歩みに神への祈り心はあるでしょうか。祈りは信仰生活において霊的な呼吸であると言われます。その呼吸を私たちは本当にしているでしょうか。

 主はかたちだけのいけにえを喜ばれるでしょうか。主が喜ばれるのは、砕かれた悔いた心です。主はそれを決して蔑まれません。その心は、霊的な呼吸である祈りによって主と繋がっている中に培われるのです。

  今日、もう一度、私の心、あなたの心を点検しましょう。あなたの罪のためにいのちを捨ててくださったイエス様の恵みに立ち返りましょう。

  そこから、もう一度悔い改めさせていただき、へりくだって主を愛する者として御声に耳を傾けてまいりましょう。

  

● 「ありのままで神の前に」 聖書箇所 マタイの福音書6章1~6節

"人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。"
マタイの福音書 6章1~6節

序論
 平成から令和という元号に代わりました。多くの人が、年末年始のように賑わっている様子がテレビで映し出されていました。時代の変わり目に立ち会うことは凄いことだと言えば、そうかも知れません。しかし、その賑わいに何か物悲しさを感じてしまいます。本当は何も変わっていないのに、元号が変わっただけで、新しくなったという雰囲気に騙されて、焦点をずらされている気がします。
 政治と言うものは、うまく国民を騙します。うまくいっていないことに気づかれないために、アドバルーンを上げるような出来事によって、私たちの気持ちを違う方向にむけさせようとします。
 かつて預言者エレミヤの時代に、神様はエレミヤを通してバビロンによって滅ぼされるという預言を伝えました。しかし、当時のユダ王国では、実際は平安でない状況なのに、「平安だ、平安だ」と言って、みことばに耳を傾ける者はいませんでした。預言者エレミヤはみことばに聞こうとしない人たちの中で、ただひたすら神のことばを伝えていったのです。
 そのエレミヤと現代のクリスチャンは似ています。初代教会の時代でさえ既に世の終わりが近いと言っていますから、今のこの時代は更に世の終わりは迫っているのは間違いありません。
 こういう時こそ、私たちクリスチャンはどう生きるか、何を大切に生きるかが問われていると思うのです。それが山上の教えなのです。それで、5章までは、神の教え、すなわち律法を正しく理解して行おうとすることが大切であることを学んできました。それは、まずきよい神様の前に私たちは無力であることを認めること。心の貧しい者であることを知ることです。だからこそ、イエス様の十字架と復活によって罪が贖われ、聖霊によってイエス様の歩みについていくのです。そのことを信仰生活と言います。
 今日から始まる6章以降は、その信仰生活について教えてくださっています。ここから始まる信仰生活についての教えは、基本的なパターンで語られています。それは、神か人か。または、神の国かこの世かという二つの選択肢が必ずあるということです。
 今日の箇所では、だれにほめられたいのか。神か人か。だれに見られたいのか。神か人か。ということです。
 それが私たちの信仰生活の日常だとイエス様は仰っているわけです。それで、今朝は、施すことつまり善行(良い行い)と祈りについてみことばに聞いてまいりましょう。それで今日のメッセージでは二つのポイントでお話します。一つは、1節~4節で「信仰生活は良い行いである」ということです。二つ目の5~6節のポイントは、「信仰生活は祈りである」ということをご一緒に考えたいと思います。

 

1. 信仰生活は良い行いである(1~4節)
 信仰生活は良い行いであるという言葉の響きに違和感を感じる方がいらっしゃるかも知れませんが、これは、5章までのことを理解している前提で語っています。ですから、今日、初めてここを聞く方は少し注意が必要です。それは、信仰があって初めて、本当の意味での良い行いを実行できるからです。
 イエス様は、あなたがたは地の塩、世の光ですと仰いました。それは、その塩気や輝きによって、まわりの人たちが天の父なる神をほめたたえるようになることが、その目的だからです。私たちの信仰生活の目的はいつもそこにあることを覚えていく必要があります。しかも、その塩気や輝きは私たち自身から出ていることではなく、ともにおられる聖霊が働いておられるからこその結果であって、私たちの人間的な努力、頑張りではないのです。
 しかし、当時のユダヤ人宗教指導者たちは、その信仰の証し自体も歪んでいました。1~2節を読みます。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
 当時の宗教指導者たちは、善行をしていました。客観的には良い行いを実行しました。しかし、それが人に見せるためにそうしていた人が多かったのです。イエス様は善行を禁じているのではありません。「人に見せるために」することを注意しているのです。そうでないと「天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」と言われています。ここでも「神から報いがうけられない」ではなく「天におられるあなたがたの父から」と言われているのは、天の父の子どもとしての祝福をミスミス失うよと言っているのです。なぜなら、天のお父様がくださる前に自分でご褒美を自分に与えているからだよと言われます。
「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」
 天のお父様は、私たちにいつもご褒美を用意してくださって、それを与えようと待っておられます。しかし、私たちはその褒美よりも自分で自分を褒めることに躍起になります。しかも、そういうときはすっかり霊的な目が見えなくなっていて、肉眼で見えるものが全てになっています。そうすると、目に見えない神に祝福よりも、肉眼で見える他の人からの称賛に快感を求めるのです。
 教会では特に牧師は要注意です。人の目のつくところに立つことが多いので、自分の栄光にしてしまうことがあると思います。だから説教で励まされたと言われるときは、「ありがとうございます」ではなく、「励みになります」と答えるようにしています。「ありがとう」だと、そのお褒めの言葉をただ自分の中に受け入れて、栄光を自分に帰してしまうからです。
 それから称賛する人も注意が必要です。たとえば、礼拝で証しのあとに拍手をする場合、それは神への賛美としての拍手なのか、証しした人への称賛なのかということです。私は紛らわしいので、礼拝での奉仕については拍手しないことにしています。どんなに素晴らしい証しも説教も奏楽も司会も賛美も、それはすべて神様への献げものだからです。
 そのくらい、教会における人への称賛はされる方もする方も、よくよく考えるべきだと思います。
 いずれにしても、ここでイエス様が言いたいことは、人の目を気にする信仰生活ではなく、神様を、しかも天のお父様として意識して、そのお父様がいつも一緒におられることを喜んで行きましょうということです。だから、よくよく、自分の行動に気をつけて、人ではなく父なる神を意識した歩みをしなさいということです。3~4節を読みます。
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
 この後半の部分は6節の終わりにも言われていることです。また18節でも使われていて、信仰生活を表現していることばです。
天のお父様は隠れているようにして見ておられるってなんでしょう。神様は全知全能であり、隠れなくても全てをご存知です。これはあくまで、私たちの側の意識として、良いことをしていても神様は見ているという事実でしょう。いくら密かに、左手にわからないよう良いことをしても、神様がちゃんとそれを見ているし、覚えているし、決して無駄にはならないということです。
しかし、人に見せるように、人の評価を気にする信仰生活は一見華々しく見えますが、それは信仰生活ではありません。それは役者だとイエス様は言われます。2節と5節で使われている偽善者とは、役者、俳優という意味のことばです。それは、その人本人ではなく良い人を演じているということだからです。そういう生き方ってどうなると思いますか。それは非常に疲れます。そういうクリスチャン生活は長続きしません。
それで信仰生活にとって欠かせないことがわかってきます。それが祈りです。祈りは神様との会話、また信仰生活において霊的な呼吸であるとよく言われます。私たちは息をしないと死ぬのと同じように、霊的な呼吸である祈りのない信仰生活は死にます。もちろん食事は聖書を読むことです。だから、祈りのない信仰生活はゾンビクリスチャンを生み出します。
神様と繋がって、神様からの酸素を供給されていない人は、霊的酸欠になり、聖書のことばすら取り込むことができなくなります。
 それで、イエス様はここから、もっとも大切な「祈り」へと私たちの視線を導きます。それは、私たちの信仰生活は良い行いをすることで、他の人たちが天のお父様を知るようになることが目的ですが、その信仰生活を支えるものが祈りであることを教えるためだからです。
 
2.信仰生活は祈りである
 イエス様はこのあと有名な「主の祈り」を教えてくださいますが、そこにいたる前に、この5~6節を語っておられます。それは、祈りすら当時のユダヤ人たちは大きな間違いをしていたからです。
 確かに大勢の前で祈る祈りもありますが、信仰生活で最も大切なのは神様との一対一の祈りのときです。しかし、彼らにとっての祈りとはパフォーマンスになってしまっていたのです。信仰深そうに見える祈りです。5節を読みます。
「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
 この言葉は2節と同じ文章形態です。しかも、問題点も同じです。5節は祈りについて教える序文のように、まず祈りが誰にむけて祈るのか。それを前段の偽善者とからめてお語りになっています。
 一見立派に聞こえ、立派に見える祈りも、人に見せるためであるなら、それは役者だ。俳優だ。演じているに過ぎないお芝居だと非難しているのです。
 よく祈れないという人に、言葉がうまく出てこないという人がいます。でも大事なことは、公ですらすら祈るよりも、自分と神様の一対一の間で自分の言葉で祈っているかということです。人の前で祈る祈りは、また別の話です。だから、神様との時間の中では、どんな言葉で祈ってもよいのです。パウロの手紙には異言という言葉が出てきます。それは神様との交わりの中で、個人的に発する意味不明の言葉のことです。教会では説き明かす人がいなければ、教会の益にならないと言われています。しかし、神様と一対一のときは、それでも良いのです。
 先週も紹介しましたが、アッシジのフランチェスコという修道士が修道会設立を認められて、その名が知られていくよいうになったときのことです。
 ある人の家に招かれて泊まることになったそうですが、その人があの有名なフランチェスコ様なら、どんな祈りをするのだろうと、何とかフランチェスコの黙想のときに聞いてやろうとして、夜中にフランチェスコの部屋の戸の外で、聞き耳を立てて聞いていたそうです。そのとき、フランチェスコの部屋から聞こえた祈りのことばは、ずっと、「主よ、主よ、主よ・・・・」だったそうです。
 祈りとはそういうものです。私も、一人で祈るとき出てくる言葉は自分にしかわかりません。もちろん誰にでもわかることばで良いのですが、そのくらいプライベートな時間だということです。その祈りのときなくして、信仰生活は続けられません。なぜなら、それが信仰生活にとっての呼吸だからです。
6節を読みます。
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
 イエス様も仰います。祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。
 この奥まった部屋という表現は、そのまま読むと確かに、その字のとおりに奥まった部屋です。
 私が高校生で求道者だったころ、バイブルキャンプで知り合った、大学生のある先輩クリスチャンに出会いました。その人は、キャンプ中も必ず朝と夜にディボーションの時間。つまり祈りのときを持っていました。しかもキャンプ場になている国民宿舎の押入れに入って祈りをしていたことを思い出します。私は求道者ながらに、すごい熱心な人だなと驚きました。その方は、今はシンガポールの日本人教会の牧師をしています。
 ここで言いたいことは、文字通りの場所というよりも、だれに向かって祈るのかと言うことです。人に向けて祈るなら目立つ場所でかっこよく祈るでしょう。でもそれは祈りではなく、祈るふりをする偽善者です。お芝居です。
そうではなく、大切なのは、当たり前ですが、天の父に向かって祈ることが大切だというころです。そのときに、回りから邪魔されず、かえって誰も知らないところで祈る。それが大事です。だから、家に部屋が足りないといって、祈りのために奥まった部屋を物理的に作る必要はありません。
ある人は、野山かもしれないし、海や川岸かも知れません。またある人は布団の中かも知れません。または車の中かも知れません。イエス様は山に上って寂しい場所が祈りの場所でした。その場所は私たち一人一人の至聖所です。聖域です。だれも入れない、あなたと天のお父様との空間です。
そのくらい、信仰生活にとって神様との個人的な時間が大切だということです。
冒頭でも言いましたが、今日の箇所でもイエス様は神様のことを「わたしの父」とは言わず「あなたがたの父」と仰っていると申し上げました。しかし、4節と6節を見てください。ここでは「あなたの父」と単数形で「あなた」と語っておられます。なぜでしょうか。1節では「あなたがたの父」と複数形です。8節、14節、15節でも「あなたがたの父」です。
実は18節では「あなたの父」と言われています。イエス様の気まぐれでしょうか。
いいえ。そうではありません。それは、神様との個人的な関係の大切なときにだけ「あなた」と言われているのです。施しをするとき、その良い行いのとき、「あなた」は他の人を意識せずに、ただあなたの父なる神を覚えなさい。
祈りのときも、ついでに断食のときも、だれかに見せるためではなく、あなたという個人と父なる神様との大切な時間なんですよと、その重要さを強調しているのです。

 

結論
信仰生活とは、パフォーマンスではありません。そういう、人の目を気にする生き方は疲れるし、それ自体信仰とは全くかけ離れた役者さんです。俳優です。大切なことは、まず神様との個人的な関係づくりです。人間同士だって、関係作りが大切です。人から、色々言われたらうるさいと思うことも、その人との関係が出来ていれば、素直に聞けるのと同じように、神のことばも、私の父のことばとして、あなたの父のことばとして、そこに溢れる父の愛を感じて聞くことができるのです。
だから信仰生活は、祈りの生活によって神からいただく愛と恵みへの応答です。一言でいうと、感謝の歩みなのです。今年の年間聖句はまさにそのことを指し示すみことばです。「あふれるばかり感謝しなさい」その生き方こそ信仰生活です。
キリストに贖われた私たちは、新しい時代の過った空気に流されず、ただ神の子とされた恵みに感謝して、かっこつけずにそのままの自分を認めて歩んで、イエス様についていきたいと思います。

祈り 愛するお父様。この混沌とした時代にあって、今、私たちに信仰を与えてくださり、世の光、地の塩として置かれていることを感謝します。どうか信仰が形式的になって、あなたへの感謝も賛美も空しくならないように助けてください。いつも祈りによってあなたとの隠れた時間を大切にし、いつも新たな心で感謝し、その恵みに答えていけるものとならせてください。主の御名によって祈ります。

◎起工式と地鎮祭

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  起工式というのは、日本では一般的に地鎮祭と呼ばれています。しかし、キリスト教では、その土地毎に神や精霊がいるとは考えません。その土地にいる神々を怒らせて建設工事を妨害するようなことがあってはならないという意味で行うものではありません。

 


あくまで、全知全能、唯一の神に、施工に関わる一切の災いから守られるように祈り願うものです。人身事故ばかりでなく設備事故からも守られて、工事関係者お一人おひとりの業が祝され、またそのご家族も祝され、また近隣の地域の皆さんにも、この工事で不快な思いをさせず、むしろ祝福で覆い、神の栄光を見ることができることを願うものです。

 


全知全能の神がおられるのにどうして災いがあるのか。聖書にこう書いてあります。

 


"また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。

大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。

あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」"

創世記 3章17~19節

 


人間が罪を犯してから、大地はのろわれたと書いてあります。これは、人の罪が入ったせいで、被造世界が人間に牙を向くようになったことを表しています。

 


だから、この地では天災もあるし人災もあって、生きにくい世界だと言うことです。だからこそ、神は新しい神の国を建設するために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。このキリストが私たちの罪の代価をご自分のいのちによって支払ってくださったのです。

 

罪を悔い改め、このイエスを我が主と信じるなら、新しい天地に入れられる祝福に与り、この地上にあっても天国と同じ祝福を味わいつつ歩めるのです。

 

だからこそ、教会の起工式には意味があるのです。それは、天地万物の創造者である神のご支配を願う、神の御心を行う業であるからです。だから私たちはいつも祈ります。

 

"『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」"
マタイの福音書 6章9~10節

 

あなたの人生の上にも、神の国が建てられるたましいの起工式が行われるように祈ります。

● 「左の頬を向け、敵を愛する」 聖書箇所 マタイの福音書5章38~48節

"『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。"
マタイの福音書 5章38~48節

 

序論
 今日は、これまで続いていた山上の教えの一区切りになります。山上の教えは7章までありますが、これまでの律法についての考え方としての結論がここにあります。それが、今週のみことばである48節です。
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
 これまで5章の中でイエス様が語られてきた教えの中心はまさにこのことばです。天の父、つまり神様が完全なのであなたがたも神の子どもとして完全であれということです。あながたは選ばれたのだから、選んでくださった神様のように完全になりなさいという命令です。
 だから、イエス様の仰っている内容のハードルはかなり高かったことを覚えているでしょうか。腹を立てたら裁判にかけられ、能無しとかばか者と言ったら死刑です。情欲をもって女性を見たらアウトです。これまで見てきたことには二つの意味があります。一つは、「あなたは律法の前につまり完全な神様のきよさの前に無力ですよ。心の貧しい者ですよ」と言うことです。二つ目は、「わたしの弟子ならばそのように生きなさい」ということです。
今日の箇所は、その結論。ゴールになります。しかも、最後43節から47節までは「愛」がテーマになっています。これは実は、これまで語られてきた律法を完全に行うことにとって、この「愛」が最も大切であることを表しています。この「愛」の実践こそ、これまで語られてきた全ての問題解決の要です。完全な愛があれば、相手に腹を立てて「ばか者」と言わないだろうし、人を見て情欲を抱かないでしょう。
ですから、48節の「天の父の完全」を「天の父の完全な愛」というふうに言い換えることもできます。「天の父の愛が完全なように、あなたがたの愛も完全でありなさい」ということです。今日は、この完全な愛とは何かという問いを持ってみことばに聞いていきましょう。

 

1. 完全な愛とは左の頬を向けていく生き方である
38~39節を読みます。
「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 「目には目、歯には歯」というのは有名な言葉です。学校でも世界史で習いますが古代バビロニア帝国のハムラビ法典にある戒めです。その意味はやられたらやり返せという復讐を認める法律です。これと同じような律法が聖書にもあります。レビ記24:20~21
「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。」
この戒めの意味は、復讐することを勧めるのとは全く逆で、余計な復讐にならないための償いのルールです。やられたらやり返せではなく、相手に間違ったことをしてしまったら、同じ痛みを自分も負い、被害者に正しい償いをしなければならないということです。
 しかし、その頃から1300年経ってイエス様の時代には、復讐を認めている律法としてその解釈が曲げられていたのでした。それでイエス様は、あなたがたはそうやって解釈していますよねと念を押した上で仰います。
「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 この悪い者というのは、私たちに危害を加えようとする者のことです。そういうときに手向かってはいけないというのです。ここを読むと襲われたら襲われっぱなしで良いのか。その悪を野放しにして良いのかという思いにさせられます。
 実は、今日の箇所はきちんとここの文脈を理解しないといけません。この箇所での問題は、まず復讐をしないことを教えることでした。そして律法の正しい理解を教えることでした。だから、ここだけ切り取って他のテーマ(悪を放っておいて良いのかなど)で読もうとするなら、真実が見えなくなります。
 イエス様がまずここで言いたいことは、その次の言葉です。
「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
 大事なのは、この39節でいうなら「左の頬を向けなさい」です。同様に、40節、41節、42節で言うならそれぞれ「上着もやりなさい」「2ミリオン行きなさい」「断らないようにしなさい」ということです。
 これは何を言っているのか。神の国の論理は、やられたらやり返す論理ではありません。また、やられて、常に受身でぼこぼこにされっぱなしの単なる無抵抗主義とも違います。むしろ天の父の子どもとしての自由意志を行使して左頬も与えてやれという、能動的な選択をするということなのです。
 受けるよりも与える。これが天国の国民の選択です。むしろ自分を与えることで戦っているのです。パウロはイエス様が仰った言葉として「受けるよりも与える方が幸いである」と語りました。まさにそのことです。だから下着を取られたら、上着を残す権利を持っていても、そんな権利にしがみつかずに天の御国の国民、自由人としての自由意志によって上着も与えるし、2ミリオン一緒に歩くし、求められたら与え続ける。追い込まれるのではなく、差し出すのです。これがイエス様の論理です。
 そんなの無理だと思われるかも知れません。しかし、復讐を認めては争いを終わらせることはできません。早いうちにどちらかが左の頬を出さなければならないのです。その勇気が与えられているのが、イエス様を信じて救われた人です。
 それは、クリスチャンは天のお父様の子どもであるからです。全宇宙の支配者である神の子どもは神のすべてのものを受け継いでいます。大富豪の子どもも大富豪なのと同じです。だから差し出す余裕があるのです。勇気だけではありません。何よりも聖霊が与えられているので実現可能なのです。聖霊はイエス様の霊であるので、イエス様のように生きるように助けてくださいます。
 イエス様はどんなに不正な裁判をされても、左の頬どころか頭を殴られ、背中の肉が裂けるほど鞭で打たれ、十字架に架けられました。それは、正しくさばかれる方にお任せになったとペテロが言っているとおりです。むしろ左の頬を差し出すように、ご自分の全てを差し出して、相手に身を任せているのではなく、神様に全部任せたということです。そして、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
 そのイエス様を信じた私たちも、この主イエス様の御霊が与えられているので、必要なときに争いを終わらせるための、その力が与えられるのです。
だから、この箇所を読んで、そのまま自分の子どもに適用しないでください。
 子どもが学校でいじめられて帰って来たときに、この箇所を読んで子どもに押し付けないでください。イエス様を信じた人が自分から進んですることです。自分ができないことを子どもに押し付けるのは残酷なことです。それは律法主義です。罪を犯したなら教えるべきですが、短絡的に聖書にこう書いていあるからこうしなさいという言い方には、愛がありません。愛とは与えることです。子どものために時間も労力もいのちも与えることです。できない自分を認めて一緒に神様に向かうことです。これは子どもだけでなく、他の人に対してもそうです。聖書のことばをまず自分に適用しないで他の人に適用することは、愛のないやり方です。 
この左の頬を向けるということができるのは、キリストの十字架の愛に裏打ちされた能動的な信仰があるからです。このことは敵を愛することと繋がってきます。

 

2.完全な愛とは敵を愛する生き方である
 ここから、これまでのイエス様が言われた内容の総括になります。それは、人に腹を立てないことから始まり、復讐しない。むしろ復讐を終わらせるために、何が必要か。それが敵をも愛する愛であり、迫害者をも愛する愛なのです。
43~44節
「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
 この43節の「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」という言葉は、聖書には書いていないことばです。聖書に書いてあるのはレビ記19:18
「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」です。
 聖書に自分の敵を憎めという言葉はありません。これもまた、当時のユダヤ人たちの歴史の中で変化していった教えでした。隣人とは誰かということを自分で決めて、隣人は愛するけど、そうでない人は愛する対象ではなかったのです。しかし、イエス様が言われたのは、むしろあなたがすべての人の隣人となりなさいということです。よきサマリヤ人の教えはそういうことです。愛されることよりも愛することを求めよということです。
 アッシジのフランチェスコというカトリックの修道士がいました。彼の祈りとしてこのような言葉が残っています。
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
 フランチェスコは、受けるよりも与える生き方を求め、実践した人でした。この祈りには、そうできない自分を認め、しかし、だからこそ積極的に能動的に神に求めていく彼の信仰が見えてきます。
ただそのような生き方が45節のみことばにも通ずる内容です。
 「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
ただ、ここを読むと、敵を愛せないと神様の子どもになれないのかとがっかりしてしまいます。敵を愛せるかどうかが神の子どもになる条件のように聞こえます。しかし、イエス様がここで言いたいことは、救われるためには良い行いが必要ということではなく、既に神の子どもなんだから、そのように生きようとするならばそこに神の子どもとしての完成があるということです。というのも、ここでイエス様は「わたしの父の子どもになれる」とは言わずに「あなたがたの父の子ども」と既に神様が私たちの父であると仰っておられるからです。私たちはイエス様を信じてすでに天のお父様の子どもとされたのです。だから、敵を愛そうとすること、迫害する者のために祈ることで天の父なる神様の子どもとして完成に近づいていくというプロセスを言っているのです。フランチェスコの祈りもそういう意味でしょう。
川崎家の子どもは私の言うことを一字一句守れないからと言って川﨑家から追い出されません。今度がんばろうねと言われてまた川崎家の一員として生活します。そうやって大人になっていきます。皆さんの家もそうでしょう。神の家の子どもになった私たちも、霊的な成熟を目指して生きるのです。
 その生き方は46~47節の言葉に表されています。
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」
 私たちの生き方は、自分を愛してくれる人だけではなくて、敵対する人に対しても、迫害してくる人に対しても、いやそういう人だからこそ愛をもって与えていく愛を表す生き方です。
 それが成熟を目指す歩みであり、天のお父様が私たちに求めておられる完全な愛なのです。48節
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 

結論
 今日、私たちに求められているのは天の父の完全さ。更には天の父の完璧な愛です。その愛をどのように身につけ、どのように表すことができるでしょうか。
 それは、実は誰かに愛を表さなきゃと思う前に、もっと大切なことがあります。それは、隣人を愛する前にまず神様を愛するということです。イエス様はそのことをずっと私たちに伝えていることをご存知でしょうか。神様がどれほど私たちを愛し、私たちを子どもとして招いておられるか。
 イエス様は弟子たちに対して神様のことを言うとき、「あなたがたの神」とは言わずに、必ず「あなたがたの父」または「あなたの父」と仰っています。イエス様は弟子たちに神様のことを言うときに、必ず「あなたがたの父」と仰って、神様と私たちとの深い関係性を強調しているのです。この表現はマタイの福音書が最も多いです。マタイの次に多いヨハネでは10回です。マルコやルカでは1~2回なのに対してマタイでは15回使われています。
 神様はイエス様にとって父です。その豊かな愛の関係に私たちをも招き入れてくださっているのです。もう天の父は私たちのお父さんなのです。私たちは、イエス様を信じて神の民とされましたが、それは神の王国の王子、王女とされたという恵みなのです。パウロはこう言います。ガラテヤ4:4~6
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」
 罪深い私たちは、イエス様の十字架によって天のお父様の子とされたがゆえに、天のお父様に憧れ、天のお父様を喜び、天のお父様を愛する者へと造り変えられているのです。
 私の子どもが小さい頃、私が朝仕事へ行くとき、あとを追ってよく泣いてくれました。そして私が仕事から帰って来ると大喜びで飛び跳ねて迎えてくれました。その子どもたちの私への姿こそ、父なる神様に対する私の姿であり、あなたの姿なのです。その愛の中にあるとき、眉間にしわを寄せて頑張って完全になろうとするのではなく、ただ天のお父様を喜び、天のお父様が一緒にいてくださることに心から感謝し溢れるのです。今年の年間聖句に何て書いているでしょうか。それは、「あふれるばかり感謝しなさい」です。これこそ、天のお父様の子どもとして完全にされる歩みです。その歩みの延長線上に、左の頬を差し出す勇気、敵をも愛する愛が培われるのです。
 先週のニュースでスリランカの教会がテロにあって多くの人が亡くなりました。また日本でも車が暴走して道を歩いていた人が犠牲となりました。私が被害者だったら、報復したくなります。しかし、そこに報復、復讐ではなく左の頬を向けることができるのは、キリストに贖われたクリスチャンです。
  では具体的に何が私たちにとっての左の頬でしょうか。敵を愛することって本当にできるのでしょうか。
 イエス様は何と言われたでしょうか。44節後半。
「迫害する者のために祈りなさい。」
 私たちは、愛しなさいと言われると大きなことをしなければと考えてしまいます。何か、相手の心が変わるような大胆なことをすべきと思います。しかし、イエス様は「祈りなさい」と仰るのです。
 私たちの左の頬を差し出すことは、敵を愛すること。では敵を愛するとは何か。それは、まずその人のために祈るところから始まるということではないでしょうか。
 その祈りは、最初は相手を呪うような思いで溢れるかもしれない。しかし、天のお父様にお話しているうちに、その心は確かに変えられていきます。
  敵を愛するために、まず愛する天の父に祈ろうではありませんか。天のお父様に繋がろうではありませんか。そのままの気持ちで。その神に向かう心を、神ご自身が造り替えてくださるのです。そこに、完全な愛への第一歩があるからです。

 

祈り

 天の父なる神様。罪深い私たちをイエス様の十字架の贖いによって、あなたの子どもしてくださり感謝します。私たちはあなたとイエス様の豊かな関係に入れられた恵みをまだ十分に味わっていません。どうか、日々、あなたにある完全な愛がまず私たちに注がれている恵みを教えてください。そのためにイエス様が呪いの十字架に架けれられたことを覚えて、あなたの完全な愛に生き、あなたの完全な愛を表すものとならせてください。
 今日、集まれなかった方々の上にもあなたの祝福がありますように。主の御名によって。

● 「よみがえりのイエスと歩む」 聖書箇所 ルカの福音書24章13~32節

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序論
 先週は中標津教会で礼拝の奉仕をさせていただきました。まずは、中標津教会の皆さんが、白石教会のみなさんへ宜しくと仰っていましたのでお伝えします。パウロの手紙によくある挨拶と同じように、同じ主を信じる群れとして、場所は離れていても祈りあい、励ましあっていける。これが主の教会の素晴らしいところです。
 主の教会は主イエスの十字架によって罪が贖われた人たちの集まりです。それは白石教会も中標津教会もそうです。ですから、私は中標津教会の聖餐式の司式もさせていただきながら、イエス様の十字架の恵みをともに味わってまいりました。これからもともに主の十字架の恵みを宣べ伝える仲間、同じ主にある家族として、交わっていきたいと思わされました。
 イエス様の十字架は神と私たちを和解させ、人間同士の隔たりをも取り除く神の知恵です。先週の礼拝、そして受難週として、その十字架に向かわれる主イエス、そして十字架に架かられて、私たちの罪を負って死なれた、その主のお姿を見てきたのではないでしょうか。私たちは絶えず、主の十字架の恵みに帰り続けることが大切です。
 そして今日はイースター(復活祭)です。キリスト教会では、クリスマスよりも早く主の復活を特別に覚えるという行事が生まれました。3~4世紀にはもう既にキリストの復活を記念していたということがわかっています。
 それは、私たちクリスチャンにとって十字架と復活が教えの中心であり、そこに神様の救いが表されているということです。イエス様が罪を犯さずに神様に従いとおしただけでも素晴らしいことですが、もしそこで終わっていたら、それこそ、その生き方に学びましょうという、エジソンとかガンジーなど、他の偉人と同じレベルになってしまいます。しかし、イエス様の救いはたんに良い人になりましょうではありません。むしろ、私は自分の力で良い人になれないので、その罪を負って死なれたイエス様を信じ、更には死からよみがえられたイエス様からいただく聖霊の助けによって、イエス様のように造り変えていただく歩み。これが聖書が指し示す救いです。
 だから私たちの歩みは聖霊を通して、日々イエス様と一緒の歩みを味わうことができるのです。皆さんはいつもイエス様と一緒に歩んでいるでしょうか。クリスチャンの信仰生活は、言い換えると「よみがえられたイエス様とともに歩む」といえるでしょう。
 今日のイースター礼拝は、そのイエス様との歩みを念頭にみことばに聞いていきたいと思います。

 

1.目はさえぎられ(13~24)
 今日の出来事はイエス様が復活された週の初めの日のことです。13節には「ちょうどその日」と書かれています。
 ここに二人の弟子が登場します。その名前は18節で一人だけ紹介されています。クレオパという名前です。この弟子たちはエマオという村に向かっていました。ではどこから出てきたのか。それはエルサレムからです。
 二人は、これまでエルサレムで起った出来事について話し合っていました。それが第一にイエス様が逮捕され、十字架に架けられて殺されたということ。第二には、この24:1~12までの出来事。つまりイエス様の復活のことです。
 いわゆる今の私たちクリスチャンにとって、教えの中心的事柄を話し合っているわけです。15節を見ると「話し合ったり、論じ合っていた」と書いてあります。具体的にどんな内容だったのかはわかりませんが、彼らがもとの生活に戻ろうとしていたと考えることは決して読み込み過ぎとは言えないでしょう。それはエルサレムを離れてエマオに行く途中であったと書いてあるからです。彼らは失望して弟子集団から離れ地元に帰る途中だったと見ることができます。
 ですから、会話の内容も、「まさか先生が逮捕されて処刑されるとは」とか「墓が空っぽでイエス様の遺体が見当たらない」という後ろ向きな内容だったと思われます。復活したとは信じていないのです。
 そういう彼らの歩みに何とイエス様が合流します。15節
「 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」
 イエス様が「彼らと共に道を歩いておられた」。これが、今日の主題です。復活のイエス様とともに歩くこと。イエス様が彼らの後ろから知らないうちに近づいて追いついたのか、今まで姿が見えなかったのに、急に現われたのかはわかりません。
 とにかくイエス様が弟子たちの前にというか横に来てくださったのです。この弟子たちは12使徒ではありませんが、イエス様と一緒にいたことがあったはずですから、顔を見てないということはないはずです。しかし、彼らには一緒に歩いている人がイエス様だとはわかりませんでした。
 その理由は何でしょうか。16節
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」
 二人の目はさえぎられていたと書いてあります。これはびっくりです。しかし何かにさえぎられていると、目の前にイエス様がいてもわからないということがあるのです。
 これは実はよくあることです。何か違うことで頭がいっぱいになって真実がわからなくなることってあると思います。また見る角度とか、見るときの姿勢で見え方が変わってしまうために見えなくなることはあります。
 よく眼鏡がないと騒ぐ人の頭に眼鏡がのっかっていることってあります。探し物をしていて、いくら捜しても見つからなかったのに、次の朝、捜したはずの場所から見つかることってよくあります。
 イエス様も、いつも私たちと一緒にいるのに、私たちの方が見失ってしまい、寂しい気持ちになったり、神様から見捨てられたような気持ちになることがないでしょうか。そのとき、決してイエス様はあなたを見捨ててないし、裏切ることもありません。かえって、私たちの方が霊的な盲目になっている。しかし、そういう私たちと一緒に歩みをともにしてくださるお方。それがイエス様であることを覚えたいと思うのです。
 イエス様に信頼する者は決して失望することがない。まさに、イエス様はどんなときでも一緒にいてくださるために、新しいからだで復活され、天に昇って聖霊を送ってくださった。その聖霊がともにある歩みこそ復活のイエスとともに歩む生き方なのです。そうしなければ、同時に500人どころか全世界のクリスチャンと一緒にいることができません。復活したからこそ、全てのクリスチャンとともに同時にまた時代を越えて歩むことができるのです。
 さて、彼らの目は何によってさえぎられていたのでしょうか。それは、彼らの信仰告白から窺い知ることができます。
 ともに歩かれたイエス様は彼らに質問します。17節
「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」
 そして19節「どんな事ですか」
 まさにイエス様らしい質問です。「何をしてほしいのか」とか「よくなりたいか」という言葉を覚えておられるでしょうか。イエス様がわからないわけではない。しかし、私たちの口から出ることばを聞こうとするイエス様。この姿は天地創造のときの園を歩き回られる主と同じです。アダムとエバが罪を犯したとき、神様は「あなたはどこにいるのか」と捜してくださいました。それは、わからなくて捜しているのではありません。私たちが自分の口で告白することばを待っているのです。人の子は失われた人を捜して救うために来たのですとイエス様は言われました。あえて捜すと言われるイエス様。どこにいるかわかっていても、私たちの自発的な告白を待っておられるお姿なのです。そして、これはあのペテロに対して「あなたがたはわたしをだれだといいますか」とも通じる質問です。
 それはイエスというお方をどう答えるか。ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。
今日の箇所では、イエスは何をされたお方なのかという質問でもあります。あなたにとって、イエスの十字架と復活は何のことですか。どんな事ですかと、私たちも問われているということです。あなたは答えられますか。
 この二人の弟子たちはどう答えたでしょうか。
 19~24節
「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
 まず彼らはイエス様をメシアであると思っていたことがわかります。それは、「この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした」という告白。そして「この方こそイスラエルを贖ってくださる」という告白です。この言葉は明らかにイエスをメシアだと認めていたことを表すものです。しかし、その告白は過去形で締めくくられます。
21節「と望みをかけていました」
 つまり彼らにとって期待していたメシアはすでに過去のものとなっていたということです。しかも、そのメシア像があくまで政治的な王としてのメシアであって、自分たちの罪とか汚れ、律法を守れない者としての貧しさについては何も触れていません。あくまでローマ帝国から独立してイスラエルを再建する。それだけの望みでしかなかったということです。
 これはイエス様を信じていたのではなく、その生き方に憧れてついていこうとしただけの弟子の姿です。でも自分の価値基準に満たなかったから、もう過去の人。弟子集団からも離れてエマオに帰る。そういう彼らだったのです。
 ここに私たちの弱さを見ることができます。私たちはもちろんイエス様に望みをおきます。それは正しいことです。しかし、自分の価値観や経験だけでイエス様を計り、自分の良し悪しで神の計画をさばくことは間違いです。彼らは、自分の知識や経験だけでエルサレムで起こった出来事を話し合い、論じ合いました。しかし、それでは神様の御心はわかりません。イエス様がどんな方か。その十字架と復活がどういうことなのか正しく説明できないのです。それは信仰の告白がきちんとできないということです。そんな彼らにイエス様は何と仰っているでしょうか。

 

2.目が開かれ
25~26節
「するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
 ここでイエス様は彼らに「愚か者」と大胆に発言しています。そして、十字架刑前に何度も予告していた十字架と復活のことを振り返ります。恐らくこの二人の弟子たちも12使徒といっしょにその言葉を聞いていたからでしょう。
 しかし、彼らの理解は自分の知識、自分の経験、自分の価値観の域を出ていませんでした。だから、イエス様はあえて強い言葉で彼らを叱っているのです。しかし、ただ叱るだけでなく、どうやったら正しくイエス様のことを告白できるか。どうやったら十字架と復活の事件を説明できるかを教えてくださいました。27節
「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」
 イエス様は神様ですから、神の御子として直接教えてくださっても良かったはずですが、あえて聖書によってご自分のことを説き明かされたのです。ここが今日の箇所でとても大切なところです。
 イエス様はこれまでの宣教の旅のように、直接的な発言で十分ご自分について教えることはできたはずです。しかし、わざわざ聖書を使用してご自分のことを話されました。それはどうしてでしょうか。
 それは、イエス様が復活されたあとの弟子たちの集団、つまり教会は、肉体をもったイエス様からみことばを聴くのではありません。イエス様の弟子によって聖書を通してみことばを聴くことが、新約時代の弟子集団のあり方なのです。そして、このあと聖霊が降臨されて、私たち主の弟子が聖霊に導かれて聖書からイエスご自身を語り、告白し、宣べ伝えるという新しい宣教が始まるのです。
 そして彼らはイエス様とは知らずに、聖書を学びつつ、家に入り食事をします。イエス様は先へ行きそうな様子だったけど、あえて引き止めたと書いてあります。28~29節
「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。」
 二人の弟子たちにしたら、見ず知らずの人と旅の途中で出会い、その人の素振りでむっとし、また「愚かな人たち」と言われても、なぜか、ここで別れようとはしないで家に招き入れています。
 この場面を見ると、イエス様のあの言葉を思い出します。マタイ25:40
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
 彼らは、この方をイエス様とは知らずに旅人としてもてなしました。そのくらい、彼らの心は既に燃えていたのです。最初は暗い顔つきだった彼らが、このように旅人をもてなし、受け入れ、愛する行動ができたのは、まさしく聖書のことばを聞いて心が燃やされていたからなのです。ジャンプして32節を先に読みます。
「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」
 彼らはイエス様から聖書のことば、しかも旧約聖書からイエス様についての説き明かしを聴いて、心が燃やされていたのです。ここに、旧約聖書の読み方の一例を見ることができます。
 このときの聖書ということばは直接的には旧約聖書のことです。その旧約聖書を読むときにはどのように読むべきか。第一には、書かれたとおり、書いた人の意図を汲み取って文脈で読むことが大切です。しかし旧約聖書はキリスト論的に読むことが許されているということをここから知ることができます。そうすることで、旧約聖書で難しいところも、そこにイエス・キリストがどのように表されているかという視点で読むならば、視野が広がって、なるほどと受け取れるところが出てきます。旧約聖書を読んでいてもここにもあそこにも既にイエス様を思わせる箇所がたくさんある。その心は燃えてくるのです。
 そして、極めつけは30~31節です。
「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」
 イエス様は先を急いでいるふうでありながら、弟子たちの言うとおりに家に入られました。弟子たちも11キロの道を歩いて来たのでお腹がぺこぺこでした。そこで食事のために席に着くと、お客さんがパンを取って祝福して裂いたのです。すると「あれ?」そのとき初めて目の前にいるお客さんがイエス様だということがわかったのです。聖書は言います。「彼らの目が開かれた」と。
 彼らはずっといっしょに歩いていた人が誰かまったくわかりませんでした。それは彼らの目がさえぎられていたからでした。しかし、今、目の前におられるお方こそ、道々聖書を通して話していたイエス様ご本人だったのです。さえぎられていた彼らの目はどうして開かれたのでしょうか。


結論
 今日の箇所は、あえてそのことを私たちにも教えるためにイエス様がこの弟子たちとともに歩まれたことを記しているのです。
 彼らの目が開かれたのは何によるものなのでしょうか。それは大きく二つあります。
 一つは、まず聖書を通しての説き明かしです。それはしかも、聖書からイエス様についてのメッセージでした。それは確かに、彼らの心は聖書を説明されている間中、熱く燃やされていたのです。それはすでにイエス様が一緒におられる体験がそこから始まっていたことを示しています。そして、第二には、パンを裂くことです。これは誰もが主の晩餐をイメージします。この弟子たちが最後の晩餐の席にいたとは思えませんが、ここでこの聖書箇所が言っていることは、新約の新しい礼拝のあり方を指し示しているということではないでしょうか。
 このあと、ペンテコステ後に教会は誕生しますが、彼らの礼拝は使徒たちの教えをかたく守り、つまり聖書を学び、パンを裂くというスタイルでした。この礼拝は今もなお教会の礼拝スタイルとして受け継がれています。
 私が説教のあとに聖餐式を行うのは、この場面からの適用です。
 それは形式だけの問題ではありません。よみがえりの主とともに歩むということが今、現実に、ここにもあるということを証ししているのです。復活のイエス様は今から2000年前で終わったお方ではありません。今も尚生きて、全世界の主にある兄弟姉妹、主にある教会とともに歩むために、このかたちを通して臨在しているということです。
 私たちが礼拝で聖書からメッセージを聴き、聖餐式をするのは、礼拝と言う形式を守るためではありません。今も生きて私たちとともに歩まれる主イエスご自身にしっかりお会いし、霊の目が開かれて、心燃やされて生かされるためなのです。
 今日、私たちも聖書を通して主にお会いし、心を燃やされようではありませんか。初代教会では毎日が礼拝でした。毎日聖書を読み、パンを裂きました。今は毎週聖書からメッセージを聞きます。聖餐式は便宜上白石教会では2ヶ月に1回ですが繰り返し、その恵みに与ります。本来的には聖書と聖餐はセットです。どちらもイエス様を味わうために欠かせない。そのために、多くの教会では聖餐卓を礼拝堂内の真ん中とか講壇の近くに設けてきました。
それは聖書からの説教とともに、パン裂きを行わない日でも意識的に、主の聖餐を覚えて目が開かれてよみがえりの主とお会いすることを願ってきたということです。そこに私は立って、今回聖餐卓を希望しました。それは礼拝堂として格好がつくからという理由ではありません。それは、目が開かれてイエス様と出会うためです。
エス様はこの弟子たちに問われたように、あえて、あなたの信仰はなんですか。イエス様の十字架と復活はあなたとどんな関係ですか。どんな事ですかと私たちにも問われています。私たちもこの主日礼拝を通して、目が開かれて、今も生きておられるイエス様とともに歩んでいきたいと思います。

 

祈り 恵み深い天の父なる神様。
今日もみことばを与えてくださって感謝いたします。二人の弟子は聖書とパン裂きを通して霊の目が開かれました。そして復活されたイエス様と出会うことができました。私たちもイエス様と日々ともに歩みたいと願っています。どうか、この礼拝の中心におられる主が聖書を通して、またパンを裂くことによってご自身を明らかにしてください。私たちは今日、このイースター礼拝を通して益々、主の復活の希望に満たされて歩むものとならせてください。
 どんな苦しみの中にある方をもあなたのよみがえりの喜びと希望で溢れさせてください。今日、礼拝に来られなかった愛する方々をもどうか顧みてください。主の御名によって。