日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

● 「ありのままで神の前に」 聖書箇所 マタイの福音書6章1~6節

"人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。"
マタイの福音書 6章1~6節

序論
 平成から令和という元号に代わりました。多くの人が、年末年始のように賑わっている様子がテレビで映し出されていました。時代の変わり目に立ち会うことは凄いことだと言えば、そうかも知れません。しかし、その賑わいに何か物悲しさを感じてしまいます。本当は何も変わっていないのに、元号が変わっただけで、新しくなったという雰囲気に騙されて、焦点をずらされている気がします。
 政治と言うものは、うまく国民を騙します。うまくいっていないことに気づかれないために、アドバルーンを上げるような出来事によって、私たちの気持ちを違う方向にむけさせようとします。
 かつて預言者エレミヤの時代に、神様はエレミヤを通してバビロンによって滅ぼされるという預言を伝えました。しかし、当時のユダ王国では、実際は平安でない状況なのに、「平安だ、平安だ」と言って、みことばに耳を傾ける者はいませんでした。預言者エレミヤはみことばに聞こうとしない人たちの中で、ただひたすら神のことばを伝えていったのです。
 そのエレミヤと現代のクリスチャンは似ています。初代教会の時代でさえ既に世の終わりが近いと言っていますから、今のこの時代は更に世の終わりは迫っているのは間違いありません。
 こういう時こそ、私たちクリスチャンはどう生きるか、何を大切に生きるかが問われていると思うのです。それが山上の教えなのです。それで、5章までは、神の教え、すなわち律法を正しく理解して行おうとすることが大切であることを学んできました。それは、まずきよい神様の前に私たちは無力であることを認めること。心の貧しい者であることを知ることです。だからこそ、イエス様の十字架と復活によって罪が贖われ、聖霊によってイエス様の歩みについていくのです。そのことを信仰生活と言います。
 今日から始まる6章以降は、その信仰生活について教えてくださっています。ここから始まる信仰生活についての教えは、基本的なパターンで語られています。それは、神か人か。または、神の国かこの世かという二つの選択肢が必ずあるということです。
 今日の箇所では、だれにほめられたいのか。神か人か。だれに見られたいのか。神か人か。ということです。
 それが私たちの信仰生活の日常だとイエス様は仰っているわけです。それで、今朝は、施すことつまり善行(良い行い)と祈りについてみことばに聞いてまいりましょう。それで今日のメッセージでは二つのポイントでお話します。一つは、1節~4節で「信仰生活は良い行いである」ということです。二つ目の5~6節のポイントは、「信仰生活は祈りである」ということをご一緒に考えたいと思います。

 

1. 信仰生活は良い行いである(1~4節)
 信仰生活は良い行いであるという言葉の響きに違和感を感じる方がいらっしゃるかも知れませんが、これは、5章までのことを理解している前提で語っています。ですから、今日、初めてここを聞く方は少し注意が必要です。それは、信仰があって初めて、本当の意味での良い行いを実行できるからです。
 イエス様は、あなたがたは地の塩、世の光ですと仰いました。それは、その塩気や輝きによって、まわりの人たちが天の父なる神をほめたたえるようになることが、その目的だからです。私たちの信仰生活の目的はいつもそこにあることを覚えていく必要があります。しかも、その塩気や輝きは私たち自身から出ていることではなく、ともにおられる聖霊が働いておられるからこその結果であって、私たちの人間的な努力、頑張りではないのです。
 しかし、当時のユダヤ人宗教指導者たちは、その信仰の証し自体も歪んでいました。1~2節を読みます。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
 当時の宗教指導者たちは、善行をしていました。客観的には良い行いを実行しました。しかし、それが人に見せるためにそうしていた人が多かったのです。イエス様は善行を禁じているのではありません。「人に見せるために」することを注意しているのです。そうでないと「天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」と言われています。ここでも「神から報いがうけられない」ではなく「天におられるあなたがたの父から」と言われているのは、天の父の子どもとしての祝福をミスミス失うよと言っているのです。なぜなら、天のお父様がくださる前に自分でご褒美を自分に与えているからだよと言われます。
「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」
 天のお父様は、私たちにいつもご褒美を用意してくださって、それを与えようと待っておられます。しかし、私たちはその褒美よりも自分で自分を褒めることに躍起になります。しかも、そういうときはすっかり霊的な目が見えなくなっていて、肉眼で見えるものが全てになっています。そうすると、目に見えない神に祝福よりも、肉眼で見える他の人からの称賛に快感を求めるのです。
 教会では特に牧師は要注意です。人の目のつくところに立つことが多いので、自分の栄光にしてしまうことがあると思います。だから説教で励まされたと言われるときは、「ありがとうございます」ではなく、「励みになります」と答えるようにしています。「ありがとう」だと、そのお褒めの言葉をただ自分の中に受け入れて、栄光を自分に帰してしまうからです。
 それから称賛する人も注意が必要です。たとえば、礼拝で証しのあとに拍手をする場合、それは神への賛美としての拍手なのか、証しした人への称賛なのかということです。私は紛らわしいので、礼拝での奉仕については拍手しないことにしています。どんなに素晴らしい証しも説教も奏楽も司会も賛美も、それはすべて神様への献げものだからです。
 そのくらい、教会における人への称賛はされる方もする方も、よくよく考えるべきだと思います。
 いずれにしても、ここでイエス様が言いたいことは、人の目を気にする信仰生活ではなく、神様を、しかも天のお父様として意識して、そのお父様がいつも一緒におられることを喜んで行きましょうということです。だから、よくよく、自分の行動に気をつけて、人ではなく父なる神を意識した歩みをしなさいということです。3~4節を読みます。
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
 この後半の部分は6節の終わりにも言われていることです。また18節でも使われていて、信仰生活を表現していることばです。
天のお父様は隠れているようにして見ておられるってなんでしょう。神様は全知全能であり、隠れなくても全てをご存知です。これはあくまで、私たちの側の意識として、良いことをしていても神様は見ているという事実でしょう。いくら密かに、左手にわからないよう良いことをしても、神様がちゃんとそれを見ているし、覚えているし、決して無駄にはならないということです。
しかし、人に見せるように、人の評価を気にする信仰生活は一見華々しく見えますが、それは信仰生活ではありません。それは役者だとイエス様は言われます。2節と5節で使われている偽善者とは、役者、俳優という意味のことばです。それは、その人本人ではなく良い人を演じているということだからです。そういう生き方ってどうなると思いますか。それは非常に疲れます。そういうクリスチャン生活は長続きしません。
それで信仰生活にとって欠かせないことがわかってきます。それが祈りです。祈りは神様との会話、また信仰生活において霊的な呼吸であるとよく言われます。私たちは息をしないと死ぬのと同じように、霊的な呼吸である祈りのない信仰生活は死にます。もちろん食事は聖書を読むことです。だから、祈りのない信仰生活はゾンビクリスチャンを生み出します。
神様と繋がって、神様からの酸素を供給されていない人は、霊的酸欠になり、聖書のことばすら取り込むことができなくなります。
 それで、イエス様はここから、もっとも大切な「祈り」へと私たちの視線を導きます。それは、私たちの信仰生活は良い行いをすることで、他の人たちが天のお父様を知るようになることが目的ですが、その信仰生活を支えるものが祈りであることを教えるためだからです。
 
2.信仰生活は祈りである
 イエス様はこのあと有名な「主の祈り」を教えてくださいますが、そこにいたる前に、この5~6節を語っておられます。それは、祈りすら当時のユダヤ人たちは大きな間違いをしていたからです。
 確かに大勢の前で祈る祈りもありますが、信仰生活で最も大切なのは神様との一対一の祈りのときです。しかし、彼らにとっての祈りとはパフォーマンスになってしまっていたのです。信仰深そうに見える祈りです。5節を読みます。
「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
 この言葉は2節と同じ文章形態です。しかも、問題点も同じです。5節は祈りについて教える序文のように、まず祈りが誰にむけて祈るのか。それを前段の偽善者とからめてお語りになっています。
 一見立派に聞こえ、立派に見える祈りも、人に見せるためであるなら、それは役者だ。俳優だ。演じているに過ぎないお芝居だと非難しているのです。
 よく祈れないという人に、言葉がうまく出てこないという人がいます。でも大事なことは、公ですらすら祈るよりも、自分と神様の一対一の間で自分の言葉で祈っているかということです。人の前で祈る祈りは、また別の話です。だから、神様との時間の中では、どんな言葉で祈ってもよいのです。パウロの手紙には異言という言葉が出てきます。それは神様との交わりの中で、個人的に発する意味不明の言葉のことです。教会では説き明かす人がいなければ、教会の益にならないと言われています。しかし、神様と一対一のときは、それでも良いのです。
 先週も紹介しましたが、アッシジのフランチェスコという修道士が修道会設立を認められて、その名が知られていくよいうになったときのことです。
 ある人の家に招かれて泊まることになったそうですが、その人があの有名なフランチェスコ様なら、どんな祈りをするのだろうと、何とかフランチェスコの黙想のときに聞いてやろうとして、夜中にフランチェスコの部屋の戸の外で、聞き耳を立てて聞いていたそうです。そのとき、フランチェスコの部屋から聞こえた祈りのことばは、ずっと、「主よ、主よ、主よ・・・・」だったそうです。
 祈りとはそういうものです。私も、一人で祈るとき出てくる言葉は自分にしかわかりません。もちろん誰にでもわかることばで良いのですが、そのくらいプライベートな時間だということです。その祈りのときなくして、信仰生活は続けられません。なぜなら、それが信仰生活にとっての呼吸だからです。
6節を読みます。
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
 イエス様も仰います。祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。
 この奥まった部屋という表現は、そのまま読むと確かに、その字のとおりに奥まった部屋です。
 私が高校生で求道者だったころ、バイブルキャンプで知り合った、大学生のある先輩クリスチャンに出会いました。その人は、キャンプ中も必ず朝と夜にディボーションの時間。つまり祈りのときを持っていました。しかもキャンプ場になている国民宿舎の押入れに入って祈りをしていたことを思い出します。私は求道者ながらに、すごい熱心な人だなと驚きました。その方は、今はシンガポールの日本人教会の牧師をしています。
 ここで言いたいことは、文字通りの場所というよりも、だれに向かって祈るのかと言うことです。人に向けて祈るなら目立つ場所でかっこよく祈るでしょう。でもそれは祈りではなく、祈るふりをする偽善者です。お芝居です。
そうではなく、大切なのは、当たり前ですが、天の父に向かって祈ることが大切だというころです。そのときに、回りから邪魔されず、かえって誰も知らないところで祈る。それが大事です。だから、家に部屋が足りないといって、祈りのために奥まった部屋を物理的に作る必要はありません。
ある人は、野山かもしれないし、海や川岸かも知れません。またある人は布団の中かも知れません。または車の中かも知れません。イエス様は山に上って寂しい場所が祈りの場所でした。その場所は私たち一人一人の至聖所です。聖域です。だれも入れない、あなたと天のお父様との空間です。
そのくらい、信仰生活にとって神様との個人的な時間が大切だということです。
冒頭でも言いましたが、今日の箇所でもイエス様は神様のことを「わたしの父」とは言わず「あなたがたの父」と仰っていると申し上げました。しかし、4節と6節を見てください。ここでは「あなたの父」と単数形で「あなた」と語っておられます。なぜでしょうか。1節では「あなたがたの父」と複数形です。8節、14節、15節でも「あなたがたの父」です。
実は18節では「あなたの父」と言われています。イエス様の気まぐれでしょうか。
いいえ。そうではありません。それは、神様との個人的な関係の大切なときにだけ「あなた」と言われているのです。施しをするとき、その良い行いのとき、「あなた」は他の人を意識せずに、ただあなたの父なる神を覚えなさい。
祈りのときも、ついでに断食のときも、だれかに見せるためではなく、あなたという個人と父なる神様との大切な時間なんですよと、その重要さを強調しているのです。

 

結論
信仰生活とは、パフォーマンスではありません。そういう、人の目を気にする生き方は疲れるし、それ自体信仰とは全くかけ離れた役者さんです。俳優です。大切なことは、まず神様との個人的な関係づくりです。人間同士だって、関係作りが大切です。人から、色々言われたらうるさいと思うことも、その人との関係が出来ていれば、素直に聞けるのと同じように、神のことばも、私の父のことばとして、あなたの父のことばとして、そこに溢れる父の愛を感じて聞くことができるのです。
だから信仰生活は、祈りの生活によって神からいただく愛と恵みへの応答です。一言でいうと、感謝の歩みなのです。今年の年間聖句はまさにそのことを指し示すみことばです。「あふれるばかり感謝しなさい」その生き方こそ信仰生活です。
キリストに贖われた私たちは、新しい時代の過った空気に流されず、ただ神の子とされた恵みに感謝して、かっこつけずにそのままの自分を認めて歩んで、イエス様についていきたいと思います。

祈り 愛するお父様。この混沌とした時代にあって、今、私たちに信仰を与えてくださり、世の光、地の塩として置かれていることを感謝します。どうか信仰が形式的になって、あなたへの感謝も賛美も空しくならないように助けてください。いつも祈りによってあなたとの隠れた時間を大切にし、いつも新たな心で感謝し、その恵みに答えていけるものとならせてください。主の御名によって祈ります。