のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎2020.6.7主日礼拝説教

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説教題 「平安を祈るあいさつ」
聖書箇所 マタイの福音書10章11節~15節


 今朝のみことばは、イエス様が12使徒を宣教の実践訓練に遣わす場面の二つ目の教えになります。前回は、宣教の働きの必要は神様が与えてくださるということから、弟子と言うものは金儲けのために主の働きを利用するな。ただ主への感謝が私たちの信仰生活の原動力だというお話をしました。それで今日のところは、では実際に遣わされた場所でどのように人々の中に入って行くのか。そこで人々にどのような思いで寄り添っていくのか。そのことを教えています。
 昔、電話工事の仕事をしていたときの話です。NTTの電話工事というのは、工事に行った後に、NTTの事務所から工事に行った人間がきちんとお客様応対をしていたか、お客様に電話調査をします。つまりお客様満足度調査です。そのチェック項目の中で身だしなみとか、言葉遣いなどもありますが、やはり挨拶をきちんとしたかという項目もあります。というのも、挨拶って、毎日、きちんとやろうと心掛けないと簡単にかたちだけになってしまうからです。「おはようございます」も「おはようっす」になったり、「ありがとうございます」も「あざーす」になったりするからです。それは段々形式的になってくるということです。
 今日のイエス様の平安を祈る挨拶は、まさにそのことをまず指摘しているのです。皆さんの挨拶は、いかがでしょうか。その挨拶が宣教に関わっている。その挨拶がその相手への祝福を握っているというのです。
 それで今朝の説教題は「平安を祈るあいさつ」としました。これは、12節のみことばから引用したものです。これが、今日の中心テーマであります。挨拶は一般社会でも人と関わっていく中で欠かせないクッションのようなものです。このことを念頭に、今日与えられた箇所からみ言葉に聴いて行きたいと思います。

 

1.ふさわしい人に出会う
 イエス様の伝道は巡回式でした。一定の場所に定着せずに、自分で町や村を巡って、救いを伝えていくのです。でも、それは当時のユダヤ教の教師たちも同じ方法をとっていたので、そういう意味では、人々に受け入れられやすかった方法でもあると思います。また、この伝道方法というのは、道端に立って行うのではなく、その町での拠点になる家をまず見つけ、そこを使って人々に来てもらうということです。イエス様もカペナウムのペテロの家を拠点に教えを語られたのと同じです。11節を読みます。
「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。」
 その拠点になる宿、家を見つけるという意味で「そこでだれが適当な人かを調べ」なさいと言っているわけです。この「適当」という言葉は、原語では13節の「ふさわしい」と同じ言葉が使われていますので、「そこでだれがふさわしい人かを調べて」の方が良いと思います。「ふさわしい人」というのは、弟子たちの働きを理解し、伝道の場として使わせてくれるにふさわしい人です。そういう人との出会いを大切にして、そこを立ち去るまでとどまるようにと言われています。それは、その家が今後、弟子たちが去った後も今度はその「ふさわしい人」によって宣教の場として用いられていくからです。
 戦後日本に福音を伝えた宣教師たちも、まず同じように拠点となる家を借りるのが大変だったと聞いています。この白石教会にも、北海道の戦後の宣教に関わっておられた兄弟姉妹がいらっしゃいます。どこの町へ入っても、まず予め自分たちを快く受け入れてくれる人との出会い。それが、その後の宣教を大きく左右します。メノナイトの宣教師や国際福音宣教会の宣教師たちが伝道した町々には、現在も教会として、ほぼ残っていますが、それは、もともとは、「ふさわしい人」の家だったり、借家だったりした場所です。それが、現在は教会堂が建てられて、宣教の拠点となっているのです。

2.シャロームと祈れ
 ここで、イエス様は面白いことをおっしゃいます。12節を読みます。
「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい」
 なぜ面白いかと言うと、これは普通のことですよね。知らない人の家を訪ねて、普通は挨拶をするのではないでしょうか。この12節を直訳するとこうなります。
「その家に入るときには、あいさつしなさい。」
 聖書に書いてある「平安を祈る」というのはお話を分かりやすくするための補足です。実際には「平安を祈る」という言葉はありません。ここは、私たち日本人にしたら「平安を祈る」という言葉があるかどうかは、会話の上で大きなことに思えます。でもユダヤ人にすれば、もともと挨拶そのものが「平安があるように(シャローム)」ですから、ただの挨拶ならばこの補足は必要ないのです。
 ここでイエス様は、ユダヤ人ならば当然のことをしなさいとあえて教えておられる。それはどうしてか。それは挨拶の言葉は、いつも当たり前のようにして口から出ている。でも、その言葉が「祈り」であることを忘れるな。いつも形式的になってしまいがちな挨拶の言葉こそ心を込めて、そう願って言いなさいということです。
 日本語の挨拶もほぼ形式的になっています。「おはよう、こんにちは、こんばんは」は、本当は長い文章なのに、初めの部分だけでOKにしています。それであっても、心を込めてその言葉を用いるのと形式的とは違います。それが、このヘブル語、ユダヤ人の言葉ならば一層意味がストレートに入っていますので、その言葉を、意味を改めて確認して、心から祈り心をもって挨拶するならば、それこそ宣教であるということです。
 ユダヤ人の言葉であるヘブル語の挨拶は、おはようも、こんにちはも、こんばんはも全部「シャローム」です。それは「平安があるように」というふうに訳せますが、その使う時間帯によって、おはようだったり、こんにちはだったりするのです。だから、聖書でも、この私たちが使っている新改訳聖書では、復活したイエス様が女性たちに出会ったときのあいさつを「おはよう」と訳しています。それは朝だったからです。しかも親しみを込めてイエス様は仰っていると解釈してそのように訳しているのです。でも、あるところでは、同じシャロームでも「平安があるように」とも訳している箇所もあります。
 このシャロームというヘブル語には「平安」だけでなく「平和」「繁栄」「健康」「和解」という意味があります。そして、それがすべて神様からの恵みであるという言葉なのです。だから「平安あれ」というとき、その中に、ヤハウェなる主の完全な回復、繁栄、平和があなたにありますようにという祝福の祈りなのです。
 そのシャロームという完全な神様の祝福を私たちはいただいているので、それをそのまま与えるのです。前回も「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と学びました。空っぽの私たちに、主の権威とともに本当の平安であるシャロームも与えられたのです。それは、この新型コロナウィルスも勝てない、ペストもインフルエンザも勝てない、完全な状態のことです。
いや、でも実感がないという方もおられると思います。でも大丈夫です。イエス様は私の救い主ですと信じているならば、実感があってもなくても真の平安がそこにあるのです。なぜならば、イエス様を信じることは、神さまとの和解であり、そこにあった緊張関係がなくなるからです。その状態こそ、天国の状態です。そのように聖書は言っているので、実感はあとからついてくるものです。
罪の自覚もそうです。聖書で言う罪とは、法律を犯す犯罪のことだけではありません。そういうものを生む根本的な、私たちが神様と離れている状態のことを大元の罪と言います。別な言い方で原罪ともいいます。それは自覚があってもなくても、その状態であることを認めるところに救いの第一歩があるのです。神様から離れて生活していることは、そこに神様との緊張関係があることを意味しています。でも、イエス様が、私と神様の緊張関係の間に立ってくださって、私の罪の身代わりになってくださった。そのことを信じたときに、今度はその緊張関係が取り去られて、神様と一つにされる。その状態をシャロームと言うのです。だから、平安とか繁栄とか一つの日本語では本当は表現できない言葉です。
そのような偉大な言葉がヘブル語の挨拶に使われている。それは日本人の私たちにすれば表現できないほど偉大な言葉だということがわかります。しかし、弟子たちユダヤ人は、普通のあいさつでいつも使っているので、伝道の拠点にする家に来たときでも、形式的に挨拶してしまう可能性がある。
そこをイエス様は、そうではなく、その平安(シャローム)をその家に届けるのだと仰っているのです。13節を読みます。
「その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。」
 イエス様は、その平安という祝福を宝物のように表現して言われます。つまり、訪ねた家の人が、私たちが神様からいただいている「平安」を受け取ってくれるふさわしい家であれば、その平安をその家に置いてくれば良い。でも受け取ってくれない、つまりイエス様を理解してくれないならば、そのまま平安を持って帰ることになるので、それはそのままあなたがたのところに返って来ると仰っているのです。

 

3.受け入れられないなら
 このあたりから、イエス様は私たちが出会う人たちの中には、この働きに理解を示さず、受け入れない人もいることを告げられます。14~15節を読みましょう。
「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。」
 ここでイエス様は、イエス様を信じて歩む者にとってのつらい部分を教えてくださっています。
 クリスチャンになるということは、天において神の御使いたちに喜びが湧きおこると言われるほど素晴らしいできごとです。しかし、私たちが置かれている地上は、基本的に神から離れてしまった世界ですから、その喜びが理解されません。それで、冷たくあしらわれることがよくあります。
 私の母がクリスチャンになったとき、川崎家で初めての出来事だったので、親戚中から嫌がられました。特に、母の場合は、イエス様を信じて嬉しくて、家族なら聞いてくれると思って、イエス様のことをベラベラしゃべっていたら、頭がおかしくなったんじゃないかと言われました。そして、私もそのあと洗礼を受けましたので、親戚のおじさんたちと会うたびに批判されました。
 それで、聖書を読むと「足のちりを落としなさい」と書いてあるので、何度、足のちりを落としてきたことか。でも、ここをよく読むと、「その家を出ていくとき」と書いてあるので、当時高校生だった私は、気持ちの上では出て行った気持ちで、足のちりを払っていました。
 この足のちりを払うというのは、ユダヤでは実際に旅をして、異邦人の土地を通ったときに、そこを出るときに足のちりを払ってきよめたそうです。その生活文化の動作を通して、弟子たちにわかりやすくイエス様は語られたのです。そして、ショッキングなことをイエス様は言われます。それは、弟子たちの伝道を、その町の人たちが受け容れなかったときの神さまの裁きについてです。
 ソドムとゴモラというのは、創世記をずっと学んで来た中にありました。アブラハムの執り成しも空しく、たった10人の正しい人もいなかった町の名前です。神様は、この町を火と硫黄を降らせて滅ぼしたという事件がそこに書いてありました。ロトとその家族は御使いによって連れ出されたのですが、ロトの妻が後ろを振り返ったために塩の柱になったということがあった、あの事件です。しかし、そのソドムとゴモラよりも、この福音を聴いて受け入れなかった方が、罪が重いというのです。
 それは、この恵みの時代における、もう一つの面を言っています。今は、行いによらず信じる信仰によって救われるという恵みの時代です。それは、神様が私たちを愛しているので、罪を悔い改めてイエス様を信じたら神の子どもになれるという嬉しい期間を設けてくださっているということです。それは、とても喜ばしい、よきおとずれ、福音の時代です。でも、神様が、そこまでいたれりつくせりしているにもかかわらず、その恵みを拒否するならば、その責任は重いということです。

 

結び
 だからこそ、私たちは、イエス様のことをできるだけ多くの人に伝えなければなりません。それで、大切なことは、この挨拶なのです。ユダヤ人にとっては、当たり前すぎるシャロームという挨拶。しかし、この挨拶こそが福音宣教の第一歩なのです。「天の御国は近づいた」よりも先に、シャロームという挨拶に込められた祈りこそ、ふさわしい人を見出し、呼び出し、救いに導く祝福のことばなのです。
 しかも、それは、一旦、拒否してふさわしくないと思っていた人をも変える力があります。弟子のペテロと言う人は、その手紙の中でこのように言っています。
ペテロの手紙第一3章1節~2節
「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。同じく9節…悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
 ここでは、妻たちよと言われていますが、夫であれ、友人であれ、誰に対しても、私たちの持っている平安という宝物によって、あなたの愛する者が変えられて神のものとされるという弟子ペテロの証言です。ここでは無言のふるまいと言っていますが、それは「多くを語らなくても」という意味です。
いつも、あなたが主からいただいている平安という祝福をもって、シャロームと言う様に「おはよう」と挨拶し、シャロームという様に、主の祝福を願って、「こんにちは」と言うならば、その主の平安に満たされた祈りが、ふさわしくないと思っていた人を変えるのです。
 私たちは、主イエス様を信じているならば、すでに主のシャロームをいただいています。あとは、その宝物を持ちつつ、祈りをもっておはようございます。こんにちは。こんばんは。ありがとう。そういう何気ない日常的な挨拶、ことばを伝えるだけです。そのあなたから溢れる神様の祝福の力が、あなたの愛する人をも主の救いへと導くのです。
 今週も、先に神に選ばれた者として、主にある挨拶をもって祝福を届けていこうではありませんか。