のりさん牧師のブログ

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◎ 説教「求めなさい、捜しなさい、叩きなさい」 聖書箇所 マタイの福音書7章7~12節

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序論
 今日の7節の最初の言葉もとても有名です。「求めよ、さらば与えられん」と文語体で知られています。このことばを『故事ことわざ辞典』で意味を調べるとこう書いてありました。
●意味:与えられるのを待つのではなく、自ら積極的に努力をすれば、必ず良い結果が得られるということ。
●注釈:ひたすら神に祈れば、神は必ず正しい信仰を与えてくれるだろうということ。転じて、何事も進んで努力をする姿勢が大事だということ。
 「転じて」というのが驚きです。転じすぎて、信仰のことよりも、自分の願いごとや欲求が叶えられるためには、ただ待っていないで、積極的に努力して何かを始めていこう。それが求めることだということでしょう。神様に願うことよりも自分のやる気とか努力が大事なんだ。そうすれば必ず良い結果がついて来るというふうに解釈されています。恐らく昔であれば、真の神様を信じていなくても、目に見えない何か大きな存在は認めている人は多くいました。だから、それぞれの置かれている状況でそれぞれ畏れかしこんで生きていました。しかし、現代は神亡き時代と言われています。それをポストモダンとも言います。神とか宗教とか言っていることはもう古い。そんなもの信じて弱弱しく生きてないで、自分を信じて逞しく生きる。これが現代の基本スタンダードになっています。だから、益々教会離れが進み、そこにオウム真理教の事件などがあって、キリスト教会も同じ宗教と見なされて、敬遠されがちです。特に学校周辺でチラシを配ることなどが難しい。それが現代です。
 しかし、イエス様は、今日の箇所で、神様抜きでいいから頑張って求めれば良いことがあると教えているのでしょうか。勝手に「転じて」、意味を間違って捉えて単なる「ことわざ」にしておいて良いのでしょうか。
 今日は、「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」という主題ですが、「ことわざ」ではなく、聖書は何と言っているのか。つまりイエス様は何と仰っているのかをともに聞いていきたいと思います。
 
1. 求め、捜し、叩き続ける私たち
 イエス様は、この7節から8節で、神様に対する私たちの姿勢を教えています。まず今日の箇所で考えたい一つ目のポイントは、私たちは誰に求めるのかということです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
 ここに「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」と命じられています。これは、求め方を三段階で示して、どんどん迫るほどの熱心さの大切さを表しています。それは、「求める」という最初の言葉は、心の状態、その思いがどうかということを表しています。私たちは、叩く、つまりドアをノックする前に捜し、捜す前に求めます。
 何をするにも、まずその心が熱心でなければなりません。いくら、捜しても、いくらたたき続けても、その思いが熱心に「求める」のでなければ、それはパフォーマンスに過ぎません。それだとやはり偽善者になってしまいます。捜し続け、たたき続けて、熱心な振りをすることはいくらでもできます。そのようなかたちだけの熱心なら、決して求めているものは与えられないでしょう。かたちだけの信仰は空しいと学んできた通りです。
 もし人間がつくった宗教ならば、かたちだけでも儀式をすることに意味を持たせますが、キリスト教は人間にとって神様の方から啓示された唯一の道です。人格をお持ちの神様が、ご自分のかたちに造られた人間に、人格をもって関わり、愛の関係の中で交わることに意味があります。
 ですから、神様と言うお方を、親しく私たちの天のお父様であるとわきまえて交わる。ここで、まず求める相手が誰かという意味がはっきりするのです。
 現代の私たち人間社会は、自分を信じるということが基本になっているということを初めに言いました。自分を信じるという社会の中では、求めると言っても、自分の心の中で強く願う気持ちで、だから自分の持つ力、能力を最大限に絞り出して、良い成績を収めようとします。ホームランを40本打つ。受験に合格する。大金持ちになるとなるわけです。そのためには、寝る間も惜しんで練習、または勉強して、学校だけでなく塾にも行く。それ自体が悪いことではないでしょう。でも、それがことわざで言う「捜し、たたく」ということになるのです。それで、うまく合格すれば、私はすごいと自画自賛し、自分を褒めたくなるでしょう。そういう価値観の人間こそ、神なき現代の基本だと言えます。でも最近の新興宗教もその価値観の中にあります。オウム真理教なども自己啓発としての宗教で、自分に罪があるとか、唯一の神様との断絶状態からの救いなどと言う意味での信仰ではありません。性善説に立って、もともと良いものを持っているのだから、頑張って自己能力を引き出す。努力で良い人になれる。努力すれば願っていることは適うという独りよがり的な生き方がニューエイジ現代のキリスト教会にも入り込んでいるので注意が必要です。
 しかし、イエス様はそうは仰っておられません。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれるというのは、その求めを知っていてくださり、その捜す姿をご覧になり、あなたがノックするその音をよく聞いている天の父がおられるということです。その神様をあなたの天のお父様として、きちんと捉えているでしょうか。天にいます、私たちの父よという祈りは、主の祈りのときだけの呼びかけではありません。どんなときも、私たちが信仰者、礼拝者、主の弟子として歩むどんなときでも、誰に求めるのか。自分自身にでしょうか。そうではありません。常に天のお父様に求めるべきであることをしっかりと覚えたいと思います。

 

2. 聞いて与える天の父
次に、その神様と私たちとの関係性にあらためて気付かせるために、イエス様は9節~11節で教えてくださっています。ここでは、その親子の関係の中で何を求めるべきなのかを教えています。
「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
 イエス様は、これまでも要所要所で「あなたがたの天の父が」という表現を使って繰り返されてきました。やはりここでも「あなたがたの天の父が」と言われて、私たちと神様との関係が親子であることがしっかりと身につくように言われています。この関係を無視して、求め、捜し、たたくということはできません。神様が私たちの天のお父様だから、甘えて求めて良いのです。
 だから天のお父様は、私たちが求めるべきものについて、よくご存知であり、
「良いものを与えることを知っている」お方です。同時に悪いものもよくご存知です。だから、パンを求めているのに石は与えません。魚を求めているのに、蛇は与えません。逆を言うと、私たちが間違って石を求めても石は与えず、蛇を求めていたら蛇は与えないお方でもあるということです。
 だから、私たちが間違ったものを求めていたら、それがどんなに欲しくて捜して、たたいて求めたとしても、その願いは聞かれないことを伝えています。
よく、祈ったのに願いが叶えられないということがありますが、その理由の一つには、私たちにとって相応しくなかったから、神様が別な答えを下さることがあるということです。
 ですから、ここに来ると、何でも求め続ければ願いが適うという話ではないことがわかります。ここがことわざと全く違います。ここでイエス様が言いたいことは、ごり押しで求めればどんなことも叶えられるということではなく、そもそも天のお父様の御心に添った求めるべきものがあって、そのことを求めるならば、それは必ず与えられるということなのです。
 それはやはり、この山上の説教の文脈では6章33節の「神の国と神の義を求めなさい」に繋がってきます。7節では、「神の国と神の義を」という言葉はありませんが、求め続けること、そして、そうすれば与えられるという同じ表現で、同じ単語を使って言われています。実は7節の「求めなさい」も6章33節の「求めなさい」も日本語では同じ言葉ですが、7節の方は原語では「尋ねる」とか「要求する」という意味で「求める」という言葉が使われています。しかし6章33節の「求める」は7節の「捜しなさい」と同じ言葉が用いられているのです。 
つまり6章33節は「神の国と神の義を第一に捜しなさい」でも良いのです。その捜しなさいを、今度は真ん中に置いて「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」と言われた。または7節の方を「尋ね求めなさい。捜し求めなさい。たたきなさい」でも良いわけです。ですから、7節ではさらに熱心に求めることを強調しているのです。なぜそのくらい強く繰り返して求めることを命じているのか。
 それは先週も言いました。私たちが常に求め続けていかなければ、間違いも過ちも起こるからです。ここで用いられている「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい」には、すべてそれをし続けなさいという意味も含まれています。でも求め続けることをやめたときに失敗します。
神の国と神の義」はイエス様ご自身と言っても良いと思いますが、私たちは、イエス様の価値を忘れて、自分がきよい、自分が正しいという高慢に陥るときがある。それが人をさばくときであると言いました。そのとき、私たちが犬とか豚だという話を先週しました。犬や豚は宝物の価値がわかりません。私たちも価値をイエス様ではなく自分の生き方や行い、経歴に置くなら、この動物たちと同じだと。
だから犬や豚にはならず、イエス様に価値を認めて、喜んで人に伝える。でも相手がイエス様の価値のわからない人間なら伝えるなと言われる。ここにイエス様の弟子として葛藤が生まれます。ではどうすれば良いのか。
 その答えが、それでも熱心に「求めなさい。求め続けなさい」です。そこでもう一度、そこで更に求め続けることの価値がある。そして、そうするならば必ず与えられる。なぜならば、それは天のお父様の御心だからです。神の国と神の義はイエス様のうちに全てあります。
 私たちがイエス様をパンや魚のように、自分のいのちのために大切なものとして、その価値を認め、熱心に求めるなら、必ずあなたのうちに神の国が来る。あなたのうちに神の義が来る。つまり、あなた自身がキリストと同じ姿に造りかえられるということです。
天のお父様に求め続けるなら、必ず、御子イエス様と同じ姿に造りかえられるからです。パウロは、そのことは御霊の働きであると言います。
「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18
実は、この求め続けるという、その先には神様からのどういうギフトが待っているのか。ルカの福音書のイエス様の言葉には、求め続けることで何が与えられるのかが明らかにされています。ルカ11:9~13
「9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
 この求める、捜す、たたくの先には何が待っているのか。それは聖霊です。私たちの内に神の国を建て、神の義で満たし続けることのできるお方。罪深い私たちをきよい愛に溢れたイエス様のように造り替えてくださるお方である聖霊で満たしてくださる。これが天のお父様が与えようとしている究極の聖なるもの、真珠です。この聖霊の満たしを私たちは求め続ける。これが、イエス様がこんなにも求めることを強調している理由なのです。
そのことを踏まえて、イエス様はこのように仰います。

 

3. 自分を与えること~聖書~イエス 
 12節。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
 この言葉も一般的にもよく知られています。私がこの言葉が「黄金律」と呼ばれているということを知ったのは、高校生の倫理社会の授業のときでした。
 自分にしてもらいたいことを他の人にもするということは、自分がしてほしくないことは、他の人にもしないということでもあります。それは別な言い方をすると、自分を愛するように他の人をも愛するということです。その完全な現われは主イエス様のうちにあるものです。常に聖霊に満たされているお方、イエス様こそ完全に神を愛し、人を愛するお方です。しかし、その完全さは、ただイエス様だけで終わるものではありません。神の国の国民であり、イエス様の弟子である私たちの内にも与えられるものなのです。それが「律法であり預言者」であるということ。これは直接的には旧約聖書のことです。翻って聖書の中心は、神を愛し人を愛することであるということです。
 黄金律は遠い先の憧れではなく、今、神を求め続ける私たちの中に与えられているものなのです。そのことを私の栄光、私の力、私の誇りではなく、神の栄光、神の力、神の誇りとするとき、聖霊によってあなたから溢れる現実です。
 神の国と神の義を求め続ける。イエス様を求め続ける。そこに聖霊が天のお父様によって満たされて、私たちがイエス様のかたちにされていく。これが求め続ける大切な意味です。
 そこでこの12節の言葉が現実のことになっていくのです。それが聖書の真理です。それが律法と預言者です。

 

結論 
 今日の結論は、この12節に真実に向かっていくために、求め続け、捜し続け、たたき続けるということです。それは、そもそもイエス様ご自身が私たちにしてくださったことでした。イエス様は「失われた人を捜して救うために来ました」と言われました。それはあなたを求め、捜し、あなたの心の戸をたたき続けてくださっていたということです。
 そのように、今度はあなたがその主を求めていく番です。
 私は、小さい頃にイエス様ってどんな方か知りたくてずっと興味を持って中学生までいました。途中、宣教師の家に英語を習いに行ったり、その家が私の親戚の叔父さんの貸家だったことを含めて、イエス様がずっと私の心の戸をノックしてくださっていたのです。高校生のときに洗礼を受けて初めてそのことに気がつきました。そして、今度は23歳のときに献身をするようにみことばが与えられて、ずっとそのために祈り、いつなのか、実際に神学校に入って伝道者になるのはいつなのか。まさに神の国とその義を求め続けていました。でもなかなか、それからが前に進めない。途中で挫折し、もうあのみことばは夢だったのか、私の思い込みだったのかと疑ったこともありました。何度も仕事を辞めたり、勤めていた会社が倒産したり、大きな事故があったり、家族が病気になったりして、私の主を求める心は段々と萎えていきました。
 ところが、今までで一番萎えていたときに、もう一度主から同じみことばが与えられて、もう死んでも良いと思う中で、あらためて主を求める心が与えられて49歳のときに、その道は開かれました。私がたたき続けてきた門が開いたのです。今思うと、それは確かに狭き門でした。でも、私にとって一番ぼろぼろなときに、主は道を示し、門を開かれる。それが主のタイミングだったということです。
 預言者エリヤは、カルメル山でバアルの預言者と勇敢に戦い勝利を収めました。しかし、そのエリヤは戦いに疲れ、イゼベルを恐れ、主よ、もう十分ですと、自分の死を願うほどに落ちぶれてしまいました。燃え尽きてしまいました。もう求める気持ちすら起きません。でもそれが現実の信仰生活ではないでしょうか。
 しかし、主はエリヤに声をかけられます。「エリヤよ。ここで何をしているのか」それは決して弱り果てているエリヤを叱る言葉ではありませんでした。やさしく、エリヤの心をノックする主の声でした。
 その主の声から、エリヤはまた預言者として立たされていきます。つまり、私たちの信仰生活は、当然、主を求め続けることが大切です。しかし、その中で挫折を経験し、もう自分からは信仰が出てこないのではないかというくらい落ちぶれることもあるのです。しかし、そういう時こそ、今度は主の方がやさしく求め、捜し、ノックしてくださる。その細きみ声を、私たちは聞いて、また主を求め、主を愛し、隣人を愛する歩みに立たせてくださるのです。
 どうか、今日、あなたも諦めないで主を求めてください。諦めないで捜してください。諦めないでたたき続けてください。必ず、その門は開かれます。そこに聖霊が注がれます。主と同じ姿に変えられていきます。もし、今、倒れているならば、今、やさしく語られている主のことばに耳を傾けてください。
そこから、またあなたの明日の一歩が始まります。信仰生活はその繰り返しの中で、確実に神の国へと向かっているからです。

 

祈り

 主よ。あなたを求めます。どうか私たちのうちに住んでください。聖霊で満たしてください。自分にしてもらいたいことを、ほかの人にもしてあげられるように造り替えてください。どうか絶えずイエス様を求め続けられるように導いてください。もし倒れたときには、主よ。どうか、多くの恐れや疲れや弱さでさえぎられている心に語ってください。心をやさしくノックしてください。あなたこそ私の神、救い主であることをわからせてください。
今週も愛する兄弟姉妹をあなたのご支配とあなたの義で満たしてください。今日、来られなかった愛する方々の上にもあなたの平安と恵みが豊かにありますように。私たちの主イエス様のお名前で祈ります。

●今日のみことば:サムエル記第二3章1、6〜11節「ダビデは強くなりサウルの家は弱くなった」

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"サウルの家とダビデの家の間には、長く戦いが続いた。ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。"
サムエル記 第二 3章1節


"サウルの家とダビデの家が戦っている間に、アブネルがサウルの家で勢力を増していた。
サウルには、アヤの娘で、名をリツパという側女がいた。イシュ・ボシェテはアブネルに言った。「あなたはなぜ、私の父の側女と通じたのか。」
アブネルはイシュ・ボシェテのことばを聞くと、激しく怒って言った。「この私がユダの犬のかしらだとでも言うのか。今日、私はあなたの父サウルの家と、その兄弟と友人たちに真実を尽くして、あなたをダビデの手に渡さないでいる。それなのに今日、あなたは、あの女のことで私をとがめるのか。
主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私がダビデのために果たさなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられるように。
それは、サウルの家から王位を移し、ダビデの王座を、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に堅く立てるということだ。」
イシュ・ボシェテはアブネルを恐れていたので、彼に、もはや一言も返すことができなかった。"
サムエル記 第二 3章6~11節


 

 サウル王が死んで後、イスラエルダビデを王とするユダ族とサウルの息子イシュ・ボシェテを王とする他の11部族のイスラエルが対峙していましたが、その情勢は明らかにダビデ側が力を増し、サウル側が衰えていました。

  実質、軍団長アブネルによる傀儡政権であったイスラエルは、王に対する敬意もなく、ただダビデに対抗してサウル王家を守ることに終始していました。

  その王朝の脆さは、ここに現れました。

  軍団長アブネルが、亡きサウル王の側女と姦通していたというのです。そのことを知ったイシュ・ボシェテは、自分の義母とアブネルが通じていることに黙ってはいられなかったようです。

  そもそも、イスラエル軍でもっとも力を持つアブネルを王であるイシュ・ボシェテも恐れていました。それでも言わなければならないほどのことだったのか、それとも傀儡政権であったため、自分よりも力を持つ軍団長アブネルに対して妬みを持っていたのかも知れません。

  そんなイシュ・ボシェテの一言が脆弱な政権に破滅をもたらしたのです。

  アブネルは痛いところを身内に突かれて、その心は折れました。しかし、ここでのアブネルの言葉は、読者である私たちを驚かせます。というのも、ダビデが主から選ばれたことをアブネルが知っていたということです。それはアブネルだけでなく、他の11部族の人々も知っていたのでしょう。

  それで、アブネルがダビデと和睦するために長老たちと話したときも、特に反対する者がいなかったのは、そもそも主の御心に反対していることを自覚していたからではないでしょうか。

  このようにして、サウル家は滅んでいくことになります。

  私たちも主の御心だと知っていながら従わなかったり、更に敵対するようなことをしているならば、今、主の前に悔い改めることをおすすめします。

  

「主がダビデに誓われたとおりのことを、もし私がダビデのために果たさなかったなら、神がこのアブネルを幾重にも罰せられるように。
それは、サウルの家から王位を移し、ダビデの王座を、ダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に堅く立てるということだ。」

  ここでの経緯ではアブネルの弱さと罪があったでしょう。しかし、そこから主の御心を行う者へと彼はその選択を移しています。

  今日も、少しずつでも主の御心に近づき、主の御心を行う者へと変えられていきたいものです。

  

●黙想:「平和をつくる者は幸い」聖書のみことばから

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旧約聖書

・「王は軍勢の大きさでは救われない。勇者は力の大きさでは救い出されない。
軍馬も勝利の頼みにはならず軍勢の大きさも救いにはならない。
見よ主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。」(詩篇 33篇16~18節)
・「平和を求め、それを追い求めよ」(詩34:14)
・「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」(詩46:9)
・「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(イザヤ2:4)
・「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます」(イザヤ26:12)

・「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。」(イザヤ書 52:7)

・「たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。」(イザヤ書 54:10)

 

 

新約聖書
・「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)
・「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)
・「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え」(使10:36)
・「すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)

・「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」(コリント人への手紙 第一 14:33)

・「平和を求めてこれを追い求めよ」(1ペテロ3:11)

 

●祝祷

・"どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。"ローマ人への手紙 15章33節
・"平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。"ローマ人への手紙 16章20節
・"平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。"テサロニケ人への手紙 第一 5章23節
・"永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、
あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。"
ヘブル人への手紙 13章20~21節

 

 

●黙想:「ダビデ、ユダの王に」サムエル記 第二 2章4~10節

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"ユダの人々がやって来て、そこでダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬ったことが、ダビデに知らされたとき、
ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使者たちを遣わし、彼らに言った。「あなたがたが主に祝福されるように。あなたがたは、あのような真実を尽くして主君サウルを葬った。
今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。あなたがたがそのようなことをしたので、この私もあなたがたに善をもって報いよう。
今、強くあれ。勇気ある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油を注いで、自分たちの王としたからだ。」
一方、サウルの軍の長であったネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテを連れてマハナイムに行き、
彼をギルアデ、アッシュル人、およびイズレエル、そしてエフライムとベニヤミン、すなわち全イスラエルの王とした。
サウルの子イシュ・ボシェテは、四十歳でイスラエルの王となり、二年間、王であった。しかし、ユダの家だけはダビデに従った。"

 

"アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」"

  サウルが死に、その息子ヨナタンも死にダビデはいよいよ次のステップに進もうとしていました。

  ユダの民たちがダビデに油を注ぎ、早速ダビデはユダの王となりました。他方、サウルの子イシュ・ボシェテはイスラエルの王として油が注がれました。このときのイスラエルとは、ユダを除く残り11部族の群れのことです。

 これはある意味当たり前の様子ではあります。サウル王が死に、王子であるヨナタンが死に、王位継承者として、その血縁者が後を継ぐことは、王国を名乗る国であれば普通のことです。

  しかし、ユダ部族だけがダビデを王としており、全イスラエルとしては分裂状態になったということです。

  ですから、ダビデ率いるユダ部族軍とイシュ・ボシェテを王として立て、サウル王朝としての安定を図ろうとする将軍アブネル率いるイスラエル軍がぶつかることは必然でした。

  これは、人間の歴史を紐解けば、いつの時代も覇権争いは後を絶ちません。常に、今も、このような対立と、そこから来る戦争は、世界中で起こっていることです。

  アメリカとソ連との冷たい戦争が終わったと思いきや、そのバランスが歪み、そこに中国が入り、ソ連はロシア共和国になって、互いに世界の覇権を我がものにしようと必死です。

  そして、それは必ず軍事力による衝突の危険もはらんでいます。

 

  そんなとき、今日の箇所ではアブネルのこの言葉こそ真理であると思わされるのです。

「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」

  そのアブネルもアサエルに追われて、アサエルを殺しました。もともとサウルが王であったときの統一イスラエル王国では仲間であった間柄であり、本来戦うべき相手ではなかったはずです。それなのに殺し合いになっている。そこに悲しみを覚えることは、大切なことでしょう。

  では、ここでアブネルがしなければならなかったことは何でしょうか。それは、イシュ・ボシェテを降ろして、ダビデを王として認めることではないでしょうか。それは、サウル家にすれば受け入れがたいのかも知れません。しかし、主の御心は何かともし真剣に尋ねるならば、その答えは明白です。

  ダビデはこの度ユダ部族の中で油を注がれユダの王となりましたが、それ以前に預言者サムエルによって油注がれていたれっきとしたイスラエルの王です。それは人が決めたのではなく、主による選びでした。その事実がどれほど他の人に知られていたのかは分かりませんが、主の御心はそうだったのです。

  そうであるならば、ユダの王となったダビデが統一イスラエルの王であることを受け入れなければならないでしょう。そうすることで、剣が人を食い尽くすことはなくなるでしょう。

 

   私たちの人生も、その主権を自分自身ではなく、イエス様にあけ渡さなければ何も解決しません。私自身のことは私が決める。私の主権者は私だというふうに言うことは理解できます。

  しかし、剣が人を食い尽くすように、主を必要としない生き方を選ぶならば、あなた自身の問題はいつまでも続き、終いにはあなた自身に滅びをもたらすでしょう。しかし、そうならないためにイエス様が遣わされ、あなたの王として与えられているのです。

  アブネルもそうです。ダビデを我が王として認め受け入れれば、殺し合いは終わるのです。

  今日もあなたの王であるイエス様は待っておられます。ぜひ、あなたの心の王座にイエス様をお迎えしましょう。あなたの心に真の平安と永遠のいのちがもたらされるからです。

 

  "  なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。"
ローマ人への手紙 10章9節

   

●黙想:「私の息子なら敬うはず」マタイの福音書 21章37節

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"その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。"

  このたとえ話の中でイエス様は、天のお父様の御心を教えてくださいました。

これまで愛するアブラハムの子孫たちのために、これでもかというくらい、多くの預言者たちを遣わして来た天の父ですが、ことごとく迫害され、殺されてきました。

  その旧約最後のしもべであり預言者バプテスマのヨハネでした。しかし、彼さえも当時のイスラエルを代表するヘロデによって殺されました。

 

  そこにイエス様が遣わされたのです。このイエス様をお遣わしになったとき、天のお父様はどんなお気持ちだったのでしょうか。それが、このたとえ話で言われている主人の言葉なのです。

 

 『私の息子なら敬ってくれるだろう』

  「わたしの息子である御子キリストなら受け入れ、そのことばを聞き、信じてくれるだろう」と天のお父様はお考えになり、期待を持ってイエス様を遣わされたのだということがわかります。

  この御心の深さを、今日ともに考え味わいましょう。

  あなたのために、御子をさえ惜しまずに死に渡された方である天の父。実に神はそのひとり子をお与えになったほどに、あなたを愛してくださった。

  その御子ならあなたは受け入れてくれるに違いないと、あなたの救いのために送ってくださったのです。

  あなたは、今日、あなたのために来てくださった御子キリストを信じますか。既に信じているから関係ないという答えは間違いです。信じるとは信じ続けること。受け入れるとは受け入れ続けることです。

  天のお父様は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と思われた。それは御子キリストを敬い続けてくれるだろうという意味です。

  今、あなたは主イエスを敬い続けていますか。このイエス様を愛し続けていますか。

  あなたの心の戸の外に追い出していませんか。都合の良いときだけ、戸を開けていませんか。しかし、主はあなたの心の戸をいつも叩き続けておられるのです。

  それは、その主を送ってくださった天のお父様が、今日なら「敬ってくれるかも知れない」と思い続けてくださっているからではないでしょうか。

  あなたを想う天のお父様の御心の深さ、そのご愛を思い続ける一日とされていただきたいと思います。

"わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」"
ヨハネ福音書 6章40節


  

●黙想:「宮の中で…子どもたちが何と言っているか、聞いていますか?」マタイの福音書 21章14~16節

"また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
エスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」"

  以前、イエス様は子どもたちのことをご覧になってこう言われました。

マタイの福音書 18章3節

「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」

マタイの福音書 19章14節

「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」

  イエス様は繰り返して、天の御国に相応しいのは子どもたちであると言われたのです。イエス様は、たとえ話の中では、これが天の御国だとか、天の御国はこういう人だということを話されても、目の前にいる人に対して、天の御国はこのような者たちのものだとは、子ども以外には使っていません。

  それは、子どもこそ「心の貧しい者」の代表だからです。イエス様は天の御国はどのような人たちのものだと仰っているでしょうか。

"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"マタイの福音書 5章3節

"義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"マタイの福音書 5章10節

  つまり子どもたちは、さらに義のために迫害されている者でもあるということです。

  事実、祭司長たちや律法学者たちは、子どもたちが素直に叫んでいることばを聞いて腹を立てました。それは、子どもたちの証言に腹を立てたということであり、その証言を迫害したということです。

  どうしてナザレのイエスが「ダビデの子」つまりメシアなのか。更にホサナと神を賛美することばをつけるとは何事かということでしょう。またホサナという意味は「救ってください」という意味がありますので、まさにイエスに救い主として救ってくださいと懇願している告白でもあるということです。

  それはイエス様がこの世に来てくださった理由であり、使命でもあることです。その事実を子どもたちの口から語られた。ここに、天の御国に相応しい者たちを主が用いてくださって、頭の固い、うなじのこわい大人たちへの警告ともなっていることと見ることができるのではないでしょうか。

  大人は子どものことを簡単に蔑みます。そして、自分のことを高いところにいつも置いています。大人は自分の物差しを捨てられず、簡単に人をさばいていることすら自分でわかっていないくらい、凝り固まっています。

  それで神様は子どもを用いられて、その大切な真理を語らせてくださいました。それも宮の中でです。

  人々が神を覚え、神に礼拝を献げるその場所で、祭司長をはじめ律法学者たち、神への礼拝を導く側にいる者たちが神の御心を正しく証することばを否定したのです。

  そのことにイエス様は聖書のことばをもって、子どもたちこそ教師であると告げられたのでした。

「『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

  今日のみことばから学ばせられることは、やはり幼子たち、乳飲み子たちに倣って、その口から出ることば、そのあり方を吟味せよということではないでしょうか。

  神に用いられる天の御国にふさわしいものとは誰か。

  それは、より小さくより貧しく、より砕かれた存在。しかも主をほめたたえることで非難され迫害を受けるその者たちです。

  今日の黙想は、私たちがどれほど高ぶりやすい者であるかを悔い改めること。そして、子どもたちのことばに耳を傾け、その存在に学ぶ謙遜を思い巡らし、身につけていきたいと思います。

  

●礼拝説教: 「さばいてはいけません」マタイの福音書7章1~6節

序論
 先日、ニュースで日本が国際捕鯨委員会から脱退したことを見ました。日本は鯨を食べる文化がありますので鯨を捕ることは普通のことです。しかし鯨を食べない国からすると非常識だと思われていますので、意見が合わないからです。鯨を食べない国の人たちからすると、イルカと同じで知能の高い鯨を食べるなんて酷いと思います。そう言われると私たちも知能の高い低いに関わらず、牛や豚を殺して食べることはどうなのかと問いたくなるのです。どっちにしても自分の常識で相手をさばくことが私たち人間にありがちです。
 これはお互いの常識の違いが生んでいるトラブルの分かりやすい例です。韓国や中国では今でも犬や猫を食べる習慣のある地域があります。それを聞くと現代の私たち日本人も、その動物たちを可哀相だと思うものです。
 先日の聖書研究会で、ちょうどそのような話になりました。家で捕獲したネズミを殺すかどうかという話になりました。ある人は、せっかくネズミ捕りで捕まえたのに、それを殺すことができずに、野山に逃がしたというのです。
 みなさんならどうするでしょうか。ある人は、まったく迷わずに殺すでしょう。ある人はやはり逃がすかも知れません。どっちにも言い分があります。殺さなければ、また出てきて家で悪さをするでしょう。でも生き物のいのちを奪うことは避けたい。しかし、その基準は何か。ハエや蚊なら殺しても良いという基準は何か。こういうときに、やはり私たちは自分の中にある物差しで計っているのです。
 今日の箇所でイエス様は、「あなたがたが量るとおりに」と言われました。それはまさしく、私たちは自分の量りで相手を量る基準を持っているということです。今朝は、この箇所から「さばいてはいけません」というみことばにともに聞いていきたいと思います。

 

1.さばくこと
1節
「さばいてはいけません。」
 さばいてはいけませんという言葉を聞いて、どのように感じるでしょうか。イエス様は何を禁止しているのでしょうか。しかも、この聖書では平仮名で「さばいてはいけません」と書いてあるので、魚をさばいていけないのかとも読むことができます。でも、前後の文脈で読むならばここの「さばく」ことが裁判の「裁」の意味だろうと気がつきます。ところが同じような「さばく」という意味でも、文語訳では審判の「審」を使うなど意見が分かれます。きっとどちらでも良いように平仮名を使っているのではないかというのが私の結論です。
 どちらにしても、ここでの「さばくな」と言うのは、相手に対して裁判をするな、審判をくだすなという意味だということです。でもここで言っているのは、犯罪を犯したときに行われる裁判のことではなくて、信仰生活でのことであることはきちんと押さえたいと思います。この山上の教え自体が弟子たちに対する教えであることは、今までも何度も言ってきました。そして、今日のところも「兄弟」という言葉をイエス様は何度も使用しています。これは、同じ主の弟子同士の間で、という意味です。だから、簡単に言うなら、同じ主の弟子同士の間柄で、一方的に裁判官になるな、審判者になるなということではないでしょうか。
 私たちは皆、生まれ育った環境が違いますし、年齢も健康状態も違いますから、温かさの感じ方まで違います。礼拝中、寒い人もいれば同時に暑いという人もいます。その中でストーブを点けると、こんなに汗だくなのに何で点けるんだと思う人がいます。また、逆に暑いので窓を開けて扇風機を回すと、寒くて死にそうだという思う人がいます。そういうときに、一方的に自分の思いが常識だろと言ってそれぞれ実行すると問題が起こります。
 このくらいのことなら、まだ良い方です。それぞれの理由が分かれば話し合って譲り合ったり、配慮し合うことができるからです。
 しかし、先程の食べ物のことを含めた生活習慣や文化の違いでは、その人のアイデンティティにかかわる問題も起こってきます。日本人はご飯を食べるときにお茶碗を持って食べますが、韓国の人は置いたまま、手で押さえることもしないで食べることがお行儀がよいとされています。だから、日本人の前でご飯を食べる韓国人を見ていると行儀が悪く見えるし、日本人が韓国に行って、お茶碗を持って食べると逆に行儀が悪いと思われます。だから、宣教師はかなり苦労するらしいです。私の神学校時代の同期に韓国人の人がいました。Cさんという人です。あるとき、私はその常識の違いを知ってから、彼の食事を観察したことがあります。きっと、お茶碗を持たずに食べるに違いないと思って見ていました。ところが、彼はきちんとお茶碗を持って食べていたのです。どうしてでしょうか。
 私はすかさず彼に尋ねました。「Cさん、どうしてお茶碗もってるの?」
彼曰く「長く日本に住んでいるから日本人に合わせているのです。というかこれが普通になりました」
 私は驚きました。クリスチャンはこうありたいなと。自分の物差しを捨てて、相手の懐に飛び込む。そこに本当の平和が生まれるんだと。
 ですから、ここでの「さばいてはいけません」の第一の意味はそこにあります。自分の物差しを捨てるということです。

 

2.霊的な盲目に注意せよ
 しかし、先程から言っているように、このことばは弟子たちに対して語られています。だから重要なのは、5~6章(山上の教え)からの文脈で読むことです。その6章のポイントは神の国と神の義をまず求めなさいということでした。だから、この7章の前提として、神の国をいただいた弟子たち、神の義が与えられた弟子たちという視点が大切です。それは、神の国と神の義を求め、いただいた私たちが陥りやすいことをイエス様が指摘しているからです。
 確かに私たちは、自分のことを棚に上げて、他人のことをとやかく言うものです。それは、先程から言っているように、私たちは各々自分の物差しを持っているからです。だから、その基準で人をさばくのです。では、神の義を求めて、神の義によって生きている私たちは、他人をさばくことはないのでしょうか。
 実は、イエス様が仰りたいことの中心はそこにあります。主の弟子、神の側にいるものの陥りやすい問題点をイエス様が教えてくださっているのです。1~2節をもう一度読みます。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
 ここでイエス様が語られている「さばいてはいけません」の次の「さばかれないため」または「量られる」とは誰がさばき量るというのでしょうか。それは神様です。私たちが用いる同じ量りで、神様が量る。つまり、私たちクリスチャンが誰かをさばくときに振りかざすものは「神の義」と言う物差しだということです。だから神様は当然、その神の義によって、私たちをさばくのです。
 私たちが陥りやすいのは、かつての自分の常識、自分のルールによるさばきもあるけれども、それ以上に神様の義によって人をさばく愚かさがあることもきちんと覚えなさいということです。
 いや、神様に救われて神様の正しさがわかって、その基準で生きて何が悪いのかという人がおられるかも知れません。聖書を読み、みことばから神様の正しさがわかり、律法を通してきよく生きるべきだと思います。それは正しいことです。毎週、礼拝を献げ、献金をして、毎日聖書を読み祈る生活。それは正しいことです。神の国と神の義を求めて生きていることです。
 しかし、その中で、不思議と霊的な盲目に陥ることがあるのです。正しい信仰生活を続けている。決して間違っていない。でも、自分が正しい。自分は罪を犯していない。神に喜ばれているという歩みの中に、完全になりきれない私たちがいるのも事実です。3~5節を読みます。
「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
 私たちは、クリスチャンになると神に選ばれたという喜びに満たされます。それは本当に嬉しいものです。そして聖書を読み、神様の正しさを学び、神様の義を纏うようになります。まさに放蕩息子が父親から新しい衣を着せられたようにです。そこで感謝しながら歩んでいれば良いのですが、それに慣れてくると兄息子のような自分の力で正しく歩んでいるかのような錯覚に陥るのです。すると、他の兄弟姉妹の信仰の歩みが気になってしまい、着せられた神様の義を自分の義として使ってしまうことがあるのです。きちんと礼拝していない人や献金していない人、ちゃんと奉仕していない人が気になってしまって、その勢いで神の義を振りかざして注意することになります。
 そのとき、私たちの中には、自分はきちんとしている。私は正しいという思いでその人を注意するでしょう。間違ったことを注意して何が悪い。
しかし、そのとき、あなたの眼の中には梁があるではないか。それが見えないのか。これがイエス様の問いです。しかも、そのように指摘する人を主は「偽善者よ」と呼んでいるのです。以前にも言いました。それは仮面をつけた役者だという意味です。
私たちが気になって指摘することは、とても小さなことです。兄弟姉妹の目の中の塵に過ぎない。むしろ、あなたの眼の中のでっかい木に気がつかないのか。あなたが言えた義理か。これがイエス様の答えです。パウロは言います。
ローマ14:1「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」
 使徒パウロも「弱い人を受け入れなさい、さばくな」と勧めています。それでは、だれも注意する人がいなくても良いのかという質問が出るかも知れません。しかし、パウロはその質問にはこう答えます。
ローマ14:15「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動していません。」
 同じ意味のことを伝えるにしても、必要なことは何でしょうか。それは愛によって行動しているかどうかです。その愛がないままに、神様が正しいのではなく、自分を正しい側において語るとき、その言葉も態度も愛のないものとなって、相手を殺します。みことばも剣ですから乱用するならば、相手の心はズタズタに切り裂かれるでしょう。
 つまり、私たちが、神の義が与えられていることを勘違いして、自分の義とするならば。分かりやすくいうと、神様のみことばを自分自身に適用しないで、兄弟姉妹に適用するだけならば、それはイエス様を信じて歩もうとしている人を引き裂くことになるということです。
 そのとき私たちは霊的な目を失っていると言えます。霊的な盲目状態であると言えます。大変危険です。自分を義として、相手を蔑み、結果的に福音を踏みにじっているからです。

 

3.あなたはどっちか
 最後の6節は、これまでの話を踏まえて、あなたはどっちかというところに導かれます。6節
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」
 正直言って、この6節が次の7節に繋がる話なのか、これまでの5節までと関係しているのかわかりにくい箇所です。しかし、6章からの神の義を求めて生きる中で起こる勘違いによって、立場が大きく変わる恐ろしさを、この6節を通して知ることができます。
 ここでイエス様は、聖なるものを犬に与えるなと言われています。また豚に真珠を与えるなと言われています。これは、宝物の価値の分からない相手に宝物を渡すなということです。犬も豚も聖書では軽蔑されている動物の代表選手です。 
ここで言う聖なるものとは何でしょう。真珠とは何でしょう。聖なるものというのは、聖書によれば神様しかありえません。真珠も大変高価な宝石の一つです。それは神聖であり価値あるものを意味していますから、神のことばとか、まさに福音とか、または両方を含むイエス様ご自身とも言えるでしょう。
 その福音を与えるなと言われても、私たちはすべての人に伝える責任があります。それなのに、人を選びなさい。価値がわからない相手には伝えるなとイエス様は言われるのでしょうか。あの人が福音の価値がわからない人だってどうやってわかるのでしょう。今は価値がわからなくてもわかるときが来るかもしれない。それが宣教ではないでしょうか。パウロも、「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい」と言っています。
 イエス様は、すべての人の救い主です。すべての人に与えられている神のことばです。ですから、ここでイエス様が本当に仰りたいことは、これまでの「さばいてはいけません」という言葉をとおして、あなたはどっちにいるかという問いだと思うのです。
 もし、神の義に立って、自分を正しいとして兄弟姉妹をさばいているならば、そういう人は犬とか豚のように価値がわからず、イエス様ご自身を踏みにじるものと同じだということではないでしょうか。そして、イエス様を伝える人を引き裂くほどに、神様の敵になってしまう。そんな恐ろしいことなんだよと教えていると私は思います。それは、結局福音に生きていない、恵みを恵みとしない態度だからです。
 イエス様ご自身は、聖なるもの、真珠として、ご自分を与えようとしました。それは、本来、神を愛し、神のことを証しするはずのユダヤ人指導者たちに、ご自身を与えようとされました。しかし、彼らは律法を振りかざし、まさに神の義を自分たちの義に引き下ろして、神様が遣わしてくださった聖なるお方、神の御子を踏みにじり、裁判にかけ十字架に架けて殺し、ひき裂いたのでした。事実、彼らは聖なる神の御子をさばいたのです。

 

結論
 ここに、あなたはどっちなのかという主の問いがあると私は思います。神を信じていると言いながら、実はイエス様を追い出し、福音を踏みにじり、教会を引き裂く側、人をさばく側にいるのか。それとも、イエス様と一緒に、全ての人に福音を携え与え、踏みにじられ、引き裂かれる側なのか。
 だから7節で「求めなさい」と主は言われる。でも今日のところまでは、あらためて神の国と神の義を求めることが結論です。その神の義とは神の国が先にある義です。神の支配、神の愛が支配する義によって、私たちが支配されるときに、そこに起ることは、相手をさばくのではない、かえって、罪深い自分に向き合わされ、砕かれ小さくされる私ではないでしょうか。その砕かれた心をもって神を愛し、兄弟姉妹を愛する歩みがそこにあるのです。なぜなら、そこにイエス様が立っておられるからです。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17
 私たちの代わりに、先に、踏みにじられ引き裂かれたお方。それがイエス様です。だから、今週も私自身が人をさばく犬や豚にならないように、かえって、この福音にこのイエス様に救われた喜びと感謝をもって溢れていたいと思うのです。そこにある福音の価値をしっかりと味わっていきたいのです。放蕩息子は豚の世話をして豚の餌を食べたいと思うほどに落ちぶれていました。しかし、我にかえってお父さんの下へ帰ろうと決心したのです。私たちも、豚になる前に父の元へ帰らなければなりません。それは弟息子だけでなくお兄さんもそうだったのです。大事なことはいつも豚になりそうになる自分を知り、だからこそ与えられている義の衣を感謝して受け取ることです。その恵みに溢れて生きるときに、さばいて人を殺すクリスチャンではなく、愛して生かすクリスチャンに造りかえられるからです。