のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●礼拝説教: 「さばいてはいけません」マタイの福音書7章1~6節

序論
 先日、ニュースで日本が国際捕鯨委員会から脱退したことを見ました。日本は鯨を食べる文化がありますので鯨を捕ることは普通のことです。しかし鯨を食べない国からすると非常識だと思われていますので、意見が合わないからです。鯨を食べない国の人たちからすると、イルカと同じで知能の高い鯨を食べるなんて酷いと思います。そう言われると私たちも知能の高い低いに関わらず、牛や豚を殺して食べることはどうなのかと問いたくなるのです。どっちにしても自分の常識で相手をさばくことが私たち人間にありがちです。
 これはお互いの常識の違いが生んでいるトラブルの分かりやすい例です。韓国や中国では今でも犬や猫を食べる習慣のある地域があります。それを聞くと現代の私たち日本人も、その動物たちを可哀相だと思うものです。
 先日の聖書研究会で、ちょうどそのような話になりました。家で捕獲したネズミを殺すかどうかという話になりました。ある人は、せっかくネズミ捕りで捕まえたのに、それを殺すことができずに、野山に逃がしたというのです。
 みなさんならどうするでしょうか。ある人は、まったく迷わずに殺すでしょう。ある人はやはり逃がすかも知れません。どっちにも言い分があります。殺さなければ、また出てきて家で悪さをするでしょう。でも生き物のいのちを奪うことは避けたい。しかし、その基準は何か。ハエや蚊なら殺しても良いという基準は何か。こういうときに、やはり私たちは自分の中にある物差しで計っているのです。
 今日の箇所でイエス様は、「あなたがたが量るとおりに」と言われました。それはまさしく、私たちは自分の量りで相手を量る基準を持っているということです。今朝は、この箇所から「さばいてはいけません」というみことばにともに聞いていきたいと思います。

 

1.さばくこと
1節
「さばいてはいけません。」
 さばいてはいけませんという言葉を聞いて、どのように感じるでしょうか。イエス様は何を禁止しているのでしょうか。しかも、この聖書では平仮名で「さばいてはいけません」と書いてあるので、魚をさばいていけないのかとも読むことができます。でも、前後の文脈で読むならばここの「さばく」ことが裁判の「裁」の意味だろうと気がつきます。ところが同じような「さばく」という意味でも、文語訳では審判の「審」を使うなど意見が分かれます。きっとどちらでも良いように平仮名を使っているのではないかというのが私の結論です。
 どちらにしても、ここでの「さばくな」と言うのは、相手に対して裁判をするな、審判をくだすなという意味だということです。でもここで言っているのは、犯罪を犯したときに行われる裁判のことではなくて、信仰生活でのことであることはきちんと押さえたいと思います。この山上の教え自体が弟子たちに対する教えであることは、今までも何度も言ってきました。そして、今日のところも「兄弟」という言葉をイエス様は何度も使用しています。これは、同じ主の弟子同士の間で、という意味です。だから、簡単に言うなら、同じ主の弟子同士の間柄で、一方的に裁判官になるな、審判者になるなということではないでしょうか。
 私たちは皆、生まれ育った環境が違いますし、年齢も健康状態も違いますから、温かさの感じ方まで違います。礼拝中、寒い人もいれば同時に暑いという人もいます。その中でストーブを点けると、こんなに汗だくなのに何で点けるんだと思う人がいます。また、逆に暑いので窓を開けて扇風機を回すと、寒くて死にそうだという思う人がいます。そういうときに、一方的に自分の思いが常識だろと言ってそれぞれ実行すると問題が起こります。
 このくらいのことなら、まだ良い方です。それぞれの理由が分かれば話し合って譲り合ったり、配慮し合うことができるからです。
 しかし、先程の食べ物のことを含めた生活習慣や文化の違いでは、その人のアイデンティティにかかわる問題も起こってきます。日本人はご飯を食べるときにお茶碗を持って食べますが、韓国の人は置いたまま、手で押さえることもしないで食べることがお行儀がよいとされています。だから、日本人の前でご飯を食べる韓国人を見ていると行儀が悪く見えるし、日本人が韓国に行って、お茶碗を持って食べると逆に行儀が悪いと思われます。だから、宣教師はかなり苦労するらしいです。私の神学校時代の同期に韓国人の人がいました。Cさんという人です。あるとき、私はその常識の違いを知ってから、彼の食事を観察したことがあります。きっと、お茶碗を持たずに食べるに違いないと思って見ていました。ところが、彼はきちんとお茶碗を持って食べていたのです。どうしてでしょうか。
 私はすかさず彼に尋ねました。「Cさん、どうしてお茶碗もってるの?」
彼曰く「長く日本に住んでいるから日本人に合わせているのです。というかこれが普通になりました」
 私は驚きました。クリスチャンはこうありたいなと。自分の物差しを捨てて、相手の懐に飛び込む。そこに本当の平和が生まれるんだと。
 ですから、ここでの「さばいてはいけません」の第一の意味はそこにあります。自分の物差しを捨てるということです。

 

2.霊的な盲目に注意せよ
 しかし、先程から言っているように、このことばは弟子たちに対して語られています。だから重要なのは、5~6章(山上の教え)からの文脈で読むことです。その6章のポイントは神の国と神の義をまず求めなさいということでした。だから、この7章の前提として、神の国をいただいた弟子たち、神の義が与えられた弟子たちという視点が大切です。それは、神の国と神の義を求め、いただいた私たちが陥りやすいことをイエス様が指摘しているからです。
 確かに私たちは、自分のことを棚に上げて、他人のことをとやかく言うものです。それは、先程から言っているように、私たちは各々自分の物差しを持っているからです。だから、その基準で人をさばくのです。では、神の義を求めて、神の義によって生きている私たちは、他人をさばくことはないのでしょうか。
 実は、イエス様が仰りたいことの中心はそこにあります。主の弟子、神の側にいるものの陥りやすい問題点をイエス様が教えてくださっているのです。1~2節をもう一度読みます。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
 ここでイエス様が語られている「さばいてはいけません」の次の「さばかれないため」または「量られる」とは誰がさばき量るというのでしょうか。それは神様です。私たちが用いる同じ量りで、神様が量る。つまり、私たちクリスチャンが誰かをさばくときに振りかざすものは「神の義」と言う物差しだということです。だから神様は当然、その神の義によって、私たちをさばくのです。
 私たちが陥りやすいのは、かつての自分の常識、自分のルールによるさばきもあるけれども、それ以上に神様の義によって人をさばく愚かさがあることもきちんと覚えなさいということです。
 いや、神様に救われて神様の正しさがわかって、その基準で生きて何が悪いのかという人がおられるかも知れません。聖書を読み、みことばから神様の正しさがわかり、律法を通してきよく生きるべきだと思います。それは正しいことです。毎週、礼拝を献げ、献金をして、毎日聖書を読み祈る生活。それは正しいことです。神の国と神の義を求めて生きていることです。
 しかし、その中で、不思議と霊的な盲目に陥ることがあるのです。正しい信仰生活を続けている。決して間違っていない。でも、自分が正しい。自分は罪を犯していない。神に喜ばれているという歩みの中に、完全になりきれない私たちがいるのも事実です。3~5節を読みます。
「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
 私たちは、クリスチャンになると神に選ばれたという喜びに満たされます。それは本当に嬉しいものです。そして聖書を読み、神様の正しさを学び、神様の義を纏うようになります。まさに放蕩息子が父親から新しい衣を着せられたようにです。そこで感謝しながら歩んでいれば良いのですが、それに慣れてくると兄息子のような自分の力で正しく歩んでいるかのような錯覚に陥るのです。すると、他の兄弟姉妹の信仰の歩みが気になってしまい、着せられた神様の義を自分の義として使ってしまうことがあるのです。きちんと礼拝していない人や献金していない人、ちゃんと奉仕していない人が気になってしまって、その勢いで神の義を振りかざして注意することになります。
 そのとき、私たちの中には、自分はきちんとしている。私は正しいという思いでその人を注意するでしょう。間違ったことを注意して何が悪い。
しかし、そのとき、あなたの眼の中には梁があるではないか。それが見えないのか。これがイエス様の問いです。しかも、そのように指摘する人を主は「偽善者よ」と呼んでいるのです。以前にも言いました。それは仮面をつけた役者だという意味です。
私たちが気になって指摘することは、とても小さなことです。兄弟姉妹の目の中の塵に過ぎない。むしろ、あなたの眼の中のでっかい木に気がつかないのか。あなたが言えた義理か。これがイエス様の答えです。パウロは言います。
ローマ14:1「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」
 使徒パウロも「弱い人を受け入れなさい、さばくな」と勧めています。それでは、だれも注意する人がいなくても良いのかという質問が出るかも知れません。しかし、パウロはその質問にはこう答えます。
ローマ14:15「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動していません。」
 同じ意味のことを伝えるにしても、必要なことは何でしょうか。それは愛によって行動しているかどうかです。その愛がないままに、神様が正しいのではなく、自分を正しい側において語るとき、その言葉も態度も愛のないものとなって、相手を殺します。みことばも剣ですから乱用するならば、相手の心はズタズタに切り裂かれるでしょう。
 つまり、私たちが、神の義が与えられていることを勘違いして、自分の義とするならば。分かりやすくいうと、神様のみことばを自分自身に適用しないで、兄弟姉妹に適用するだけならば、それはイエス様を信じて歩もうとしている人を引き裂くことになるということです。
 そのとき私たちは霊的な目を失っていると言えます。霊的な盲目状態であると言えます。大変危険です。自分を義として、相手を蔑み、結果的に福音を踏みにじっているからです。

 

3.あなたはどっちか
 最後の6節は、これまでの話を踏まえて、あなたはどっちかというところに導かれます。6節
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」
 正直言って、この6節が次の7節に繋がる話なのか、これまでの5節までと関係しているのかわかりにくい箇所です。しかし、6章からの神の義を求めて生きる中で起こる勘違いによって、立場が大きく変わる恐ろしさを、この6節を通して知ることができます。
 ここでイエス様は、聖なるものを犬に与えるなと言われています。また豚に真珠を与えるなと言われています。これは、宝物の価値の分からない相手に宝物を渡すなということです。犬も豚も聖書では軽蔑されている動物の代表選手です。 
ここで言う聖なるものとは何でしょう。真珠とは何でしょう。聖なるものというのは、聖書によれば神様しかありえません。真珠も大変高価な宝石の一つです。それは神聖であり価値あるものを意味していますから、神のことばとか、まさに福音とか、または両方を含むイエス様ご自身とも言えるでしょう。
 その福音を与えるなと言われても、私たちはすべての人に伝える責任があります。それなのに、人を選びなさい。価値がわからない相手には伝えるなとイエス様は言われるのでしょうか。あの人が福音の価値がわからない人だってどうやってわかるのでしょう。今は価値がわからなくてもわかるときが来るかもしれない。それが宣教ではないでしょうか。パウロも、「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい」と言っています。
 イエス様は、すべての人の救い主です。すべての人に与えられている神のことばです。ですから、ここでイエス様が本当に仰りたいことは、これまでの「さばいてはいけません」という言葉をとおして、あなたはどっちにいるかという問いだと思うのです。
 もし、神の義に立って、自分を正しいとして兄弟姉妹をさばいているならば、そういう人は犬とか豚のように価値がわからず、イエス様ご自身を踏みにじるものと同じだということではないでしょうか。そして、イエス様を伝える人を引き裂くほどに、神様の敵になってしまう。そんな恐ろしいことなんだよと教えていると私は思います。それは、結局福音に生きていない、恵みを恵みとしない態度だからです。
 イエス様ご自身は、聖なるもの、真珠として、ご自分を与えようとしました。それは、本来、神を愛し、神のことを証しするはずのユダヤ人指導者たちに、ご自身を与えようとされました。しかし、彼らは律法を振りかざし、まさに神の義を自分たちの義に引き下ろして、神様が遣わしてくださった聖なるお方、神の御子を踏みにじり、裁判にかけ十字架に架けて殺し、ひき裂いたのでした。事実、彼らは聖なる神の御子をさばいたのです。

 

結論
 ここに、あなたはどっちなのかという主の問いがあると私は思います。神を信じていると言いながら、実はイエス様を追い出し、福音を踏みにじり、教会を引き裂く側、人をさばく側にいるのか。それとも、イエス様と一緒に、全ての人に福音を携え与え、踏みにじられ、引き裂かれる側なのか。
 だから7節で「求めなさい」と主は言われる。でも今日のところまでは、あらためて神の国と神の義を求めることが結論です。その神の義とは神の国が先にある義です。神の支配、神の愛が支配する義によって、私たちが支配されるときに、そこに起ることは、相手をさばくのではない、かえって、罪深い自分に向き合わされ、砕かれ小さくされる私ではないでしょうか。その砕かれた心をもって神を愛し、兄弟姉妹を愛する歩みがそこにあるのです。なぜなら、そこにイエス様が立っておられるからです。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17
 私たちの代わりに、先に、踏みにじられ引き裂かれたお方。それがイエス様です。だから、今週も私自身が人をさばく犬や豚にならないように、かえって、この福音にこのイエス様に救われた喜びと感謝をもって溢れていたいと思うのです。そこにある福音の価値をしっかりと味わっていきたいのです。放蕩息子は豚の世話をして豚の餌を食べたいと思うほどに落ちぶれていました。しかし、我にかえってお父さんの下へ帰ろうと決心したのです。私たちも、豚になる前に父の元へ帰らなければなりません。それは弟息子だけでなくお兄さんもそうだったのです。大事なことはいつも豚になりそうになる自分を知り、だからこそ与えられている義の衣を感謝して受け取ることです。その恵みに溢れて生きるときに、さばいて人を殺すクリスチャンではなく、愛して生かすクリスチャンに造りかえられるからです。