のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

知恵と御霊によって

"さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。
ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリア人、またキリキアやアジアから来た人々が立ち上がって、ステパノと議論した。
しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。
そこで、彼らはある人たちをそそのかして、「私たちは、彼がモーセと神を冒瀆することばを語るのを聞いた」と言わせた。
また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
そして偽りの証人たちを立てて言わせた。「この人は、この聖なる所と律法に逆らうことばを語るのをやめません。
『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。"
使徒の働き 6章8~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 エルサレム教会で執事に選ばれたステパノは、教会の中だけでなく、普段の生活にもクリスチャンとしての生き方の模範があります。

 彼は知恵と御霊によって歩んでいたので、イエス・キリストについての議論も誰も彼を論破することはできませんでした。しかし、このことがステパノの殉教に繋がっていくのは、大変皮肉なことにも見えます。

 しかし、イエスを信じて神に仕える者とされた私たちクリスチャンは、死ぬことがイコール不幸ではありません。むしろ、神の完成した祝福への入り口であり、古来の信仰者たちが憧れていた場所への帰還です。

 いずれにしても、今朝はステパノが知恵と御霊によって生きていたことに注目しましょう。それこそが、私たちにとっての模範であり、たとえその生き方によって迫害を受けたとしても、決して不幸ではない、神の祝福を誰よりも先行して与えられる光栄に預かるのです。

 また、この知恵と御霊によるイエス・キリストの弁証は、いかなる人間的な議論にも優ることも覚えたいと思います。私たち人間は神について、キリストについて、自分の経験や先入観によって考察するため、正しく理解できない弱さ、また罪の影響を受けています。

 たとえば自由主義とか、また平和主義とか、一見素晴らしい追求と見えるイデオロギーを前提に神を論じようとして、聖書が伝えている真理をも、その誤った前提が、神が伝えている福音、真理さえも複雑にし、多くの人にとって永遠のいのちに関わる大切な教えも、理解しにくいものにしています。イデオロギーヒューマニズムが神からの知恵と御霊の働きを妨害しているのです。

 特にキリストの十字架の死については、神による御子への刑罰であるという側面を否定したいがために、神の私たちに対する救済の恵み、御子を身代わりにするほどの私たちの罪深さの理解から遠ざけています。

 それは神による刑罰はありえないという誤った前提に束縛されているからです。

 神はイエスの死を信じる私たちに対して、ご自分と和解させるため、つまり関係を修復する手段として、十字架刑を用いられ、きよい神の小羊の血潮を流すことによる罪のきよめと同時に、本来罪人である私たちに対する神の怒りと刑罰を御子に負わせることによる罪の贖いを成し遂げられたのです。

 十字架刑はユダヤ人指導者たちによる妬みによる冤罪の死でもあります。そこには死に至るまで神に誠実であった信仰者の模範もあります。しかし、この十字架の死において最も大切な役割は、神と人間の間に横たわっている罪の呪いを解決することです。だから、神は呪いのしるしである十字架をご自分の恵みの中に取り込み、人類救済の手段ともされた。その神による十字架の贖いには、罪をきよめるための神の小羊として血を流す必要と、刑罰として罪人の代わりにさばかれる審判の意味があるという神の知恵であり、御霊の業であるのです。

 

 神ご自身が、ご自分の知恵と御霊によって、イエスの十字架の贖いを為してくださったのです。そこに人間的な知恵や神への先入観を前提にした議論は相応しくありません。

 神が御子を犠牲にするほどに与えてくださった福音を単純に純粋に信じて、まだ知らない方々に宣べ伝えてまいりましょう。大切なことは、神が与えてくださった福音の恵みをそのまま信じて、そのまま伝えていくことです。

 

"イエスガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。"
マタイの福音書 4章23節


"キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。"
コリント人への手紙 第一 1章17~18節

 

 

 

 

「確かにあなたは神の子です」

聖書箇所 マタイの福音書14章22節~36節

 

 

 イエス様は前回のパンと魚の奇蹟から、ご自分がヨハネとは違う者であることをあらためて示しました。ヨハネも大変立派な人でした。暴力によらず、神に誠実に仕えて生活をし、神の国の福音を人々に教える預言者であり教師でした。最後も何の抵抗もしないで首を刎ねられました。でもイエス様は、そのヨハネとは働きが一見似ていますが、実はそうではありません。イエス様は、ご自分こそ神の御子であることを、この奇蹟を通して明らかにしたのです。

 弟子に明かされた、イエス様が神の子である事実は弟子にとって、また現代を生きる私たちにとって、どういう意味があるのでしょうか。今朝は、その奇蹟のうちの2つ目。湖の上を歩くイエス様のところから、みことばに聞いてまいりましょう。

 

1.嵐の湖で

 パンの奇蹟のあと、群衆たちはイエス様の不思議な力を見て、自分たちの王様にしようとむりやり連れて行こうとしたことがヨハネ福音書の並行箇所にあります。確かにイエス様は真の王様ですが、人々の期待しているような政治的な王様ではありません。また、真の王であることを自ら宣言するときは、群衆の判断ではなく、主権者であるご自分の権威の中で行います。だから、イエス様は弟子たちには先に舟で向こう岸へ行くように命じて、ご自分は山にのぼって天のお父様と交わる時を設けました。23節にこう書かれています。

「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」

 

 前回のパンの奇蹟の時も夕方でしたが、きっとまだ明るい時間帯の夕方で日没までには時間があったのでしょう。しかし、このときは夕暮れ時であったでしょう。イエス様はひとりで山に登って、そこで祈る時間を取り分けて持ちました。このイエス様の姿は現代の弟子である私たちにとっても大切なことではないでしょうか。一日のうちに朝とか夜に神様と交わる時をもつ。神の御子であるイエス様ですら、この時間を大切にしているのですから、イエス様を信じて神の子どもとされた私たちならば、なおさら重要な時間です。

 この神様との祈りの時間は今では聖書も読んで祈るでしょう。今は聖書を通して神様は語っていますから、祈りとみことばはセットです。ここに信仰者の成長の秘訣があります。また弟子として、主に献身する者としての召しのスタートラインがあります。先日行われたケズイックコンベンションの講師鎌野先生も仰っていました。聖書を読まないと召しはないと。それは、聖書が完成している現代、神様はみことばである聖書をとおして召しのことばを与え、召しの確信を与えるからだということでした。

 

 ですからイエス様の弟子として歩もうとする者は、この神様との時間を聖別して取り分けることが重要です。特に、その弟子の集まりである教会としては、主日礼拝が何よりも重要です。この主日礼拝を通して主の群れとしての弟子集団が訓練されます。

 

 さあ、その弟子たちはどうしたでしょうか。ここではあえて彼らだけで舟に乗り込んで沖へ出ました。このことをさせたのはイエス様です。どうして、いっしょに祈ろうとせず、またはちょっと待っているように言わず、この夕暮れ時に舟に乗り込ませたのでしょうか。それは、これから起こる出来事を通して、彼らを主の弟子として大切なことを経験させるためだったからです。弟子たちはイエス様から言われた通りに、彼らだけで舟に乗って出発しました。

 すると、舟が岸からもう何キロメートルも離れてしまっていたところで、山から吹き降ろす風が強くて波が起きて、そこから前に進むことができなくなりました。

 

 以前にもお話しましたが、弟子たちの大半はこのガリラヤ湖の漁師です。このような嵐にはある程度慣れていたかも知れません。しかし、この時間帯に舟を出すことはプロの漁師ならば避けるのではないでしょうか。でも、イエス様が先に行くように言われたので、そのことばのとおりに進んでいったのです。それなのに、このような問題が起きたのです。

 

 前回の湖での奇蹟を覚えているでしょうか。あのときも、イエス様の言うとおりにして嵐に遭い、結局は寝ていたイエス様を起こして嵐を静めてもらいました。でも、今回はイエス様が一緒ではありません。ここが、前回と大きく異なっている点です。

 イエス様が一緒にいない状況の弟子たち。もう彼らには漁師のプロだというプライドは何にも役に立たないことが分かっていたでしょう。だからこそ、イエス様が不在と言う状況に益々不安を覚えるのではないでしょうか。前回は「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ」と言われながらも、嵐を無事に通過できました。ということは、やはりここでも求められているのは、信仰ではないでしょうか。

 

 それはイエス様をどのような方として信頼し従うかが大切だということではないでしょうか。それは、主イエスと言うお方が、神の子である。つまり神である。信仰の対象であるということです。素晴らしい教えを教えてくれる素晴らしい先生というだけでなく、まず弟子として抑えておかなければならない事実です。

 当時の人々はメシアとは政治的リーダーだと思っていました。だからパンの奇蹟をしたイエス様の奇蹟の業、その力を、預言者エリシャのようなお方イエスという人の特技くらいのレベルでしか見えていなかった。だから、自分たちの目的達成のために利用しようとした。でもイエス様はそれを断って、さらに神でなければできない業を行い、彼ら弟子たちにはわかってほしい。そう願ったのではないでしょうか。

 

 イエス様はイデオロギーを超えたお方です。人間の主義主張の中ではなくて、それさえも覆うほどに全知全能の力を持つ神です。ですから、私たちの小さな哲学の物差しで測ることができないということを抑えたいと思います。確かに神が人間となられました。しかし、その歩みには、私たちの理解を超えた神としてのお姿があります。永遠の中に、その無限の御国におられ、完全な愛であると同時に完全な義なるお方。そして罪と悪を嫌う聖なる神として、有限の私たちに関わってくださるのです。

 

 つまり、その歩みを倣う前に神として、信仰の対象として受け入れなければ、弟子として行き詰ります。このような嵐のとき。自分の経験や知恵や技能ではどうすることもできない事態が起こったときに、死に直面したときに、いったい主イエスの弟子たちはどうすれば良いのでしょうか。それは、このイエス様に信頼し祈ることではないでしょうか。それが前回の嵐の湖で既に学んだことです。

 

2.イエスとともに

 しかし、前回は、イエス様が舟の中に一緒にいましが、今回はいません。しかも、そうこうしているうちに夜中の3時になってしまいました。もう夕方から何時間経ったのでしょう。夕方が6時くらいだったとすると、夜中の3時まで9時間も彼らは舟の中で漕ぎあぐねいていたということになります。いくら漁師だとしてもふらふらだったでしょう。そこにイエス様が来られます。25節を読みましょう。

「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた」

 

 弟子たちみんなびっくりです。おそらく舟に乗らなかったイエス様に次に会えるのは、向こう岸についてからか、または波に戻されて出発点に着いてからでしょう。いずれにしても上陸しないと会えないと思っていたはずです。そこに、まさか湖の上を歩いて来るなんて。しかも波が荒れている中をどのように歩いたのでしょうか。きっと、何にも影響を受けないで、濡れることもなく来られたのだと思います。

 

 というのも、神にとって、天候がその御業の妨げになることはありえないからです。むしろ、前回のときのようにみことばだけで風も波も静めることができるのです。しかし、このときの弟子にはもう分析している余裕がなかったでしょう。9時間へとへとで、そこに暗やみから湖の上を歩いて来るイエス様の姿。これは幽霊だと言っておびえて当たり前ではないでしょうか。

 

 そこでイエス様は怯え切っている弟子たちに話しかけます。27節。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」

 よく読むと「イエスはすぐに話しかけ」たと書いてあります。主は神として、彼らの叫びに対してすぐに応えてくださるお方です。同じように、私たちの祈りにもいつもすぐに対応してくださる優しいお方です。

 しかも、この三つの短い言葉での励ましは、弟子ペテロの信仰の訓練の次の行動を生み出します。

 

 このみことばに2つの動詞があります。「しっかりしなさい」と「恐れることはない」です。それが弟子たちを奮い立たせる命令のことばです。まず「しっかりしなさい」とは、別な訳では「安心しなさい」または「勇気を出しなさい」となっています。つまり、「あなたがたは安心して良いのだ。勇気が出るのだ」という安心を保障する意味です。なぜ、この場面で勇気を出すことができるのか。また、どうして安心できるのか。それは、この二つの動詞に挟まっている「わたしだ」という言葉に、そのようにできる、なれる理由があるからです。

 

 この「わたしだ」という言葉は日本語で見ると、単にイエス様が幽霊ではなくて私だよと言っているだけの言葉に見えます。確かに弟子たちにとって慕いまつる先生、イエス様御自身だという自己紹介です。それだけでも弟子たちを安心させるかも知れません。でもそれだけではありません。このことばのもとの意味は「私は私である」と直訳できることばです。ギリシャ語では「エゴ―エイミー」と発音して、これは本来「エイミー」だけでも私ですという意味なのです。ギリシャ語ではbe動詞に既に主語が入っているからです。でもそこにさらに「エゴー」という「私は」ということばを重ねているのは、あまりユダヤ人が発音しない言葉になるのです。なぜならば、それは主なる神ヤハウェの語源となった、出エジプト記モーセが聞いた「わたしはある」という、その神の名と同じだからです。

 

 この神の名も、また神ということばすら、当時のユダヤ人は口にすることを避けました。それは主の名をみだりに唱えてはならないという十戒に抵触するからです。だから恐れ多い言葉なのです。その言葉を語れるのは主なる神御自身か、神を冒涜する者かのどちらかです。

 イエス様はどちらですか。神を冒涜しているのでしょうか。それとも神ご自身なのでしょうか。この福音書を書いたマタイは、これを読むユダヤ人に配慮して、この福音書の中で「神」ということばを使うことを極力控えていると言われています。それは、これまでも「神の国」と言うべきところを「天の御国」と言っているようにです。

 それだからこそ、その配慮があったとしたら尚更、ここで「エゴーエイミー」とイエス様が仰ったことを明言していることには、大きな意味があると思います。やはり、主イエスこそ旧約聖書イスラエルの民を選び導いてきた、主なる神ヤハウェそのお方なのだ。その意味において、この「わたしだ」ということばは、今、闇夜、嵐で恐れている弟子たちに、真の安心を与え勇気を出させる理由となるのです。

 

結び 

 その主のことばに弟子の筆頭ペテロが行動します。28節。

「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

 さすがせっかちなペテロ。でも彼の存在が現代に至るまで、キリストに従おうとしている者たちに勇気を与えています。そういうせっかちな男が使徒のリーダーとして、これからイエス様が十字架刑で殺され、三日目によみがえり天に帰られてから、このときの出来事が用いられて、主の教会が、そこに集う弟子たちが、どのようにこの世に置かれながら、そこで起こる困難を乗り越えていくのか。

 

 信仰生活は決して平たんではないということ。主に従うとは、主に従うことで経験する多くの困難が起こるということです。でも、私たちの主イエスこそ真の神。あのイスラエルの民をエジプトから贖い出し、目前に迫る葦の海を真っ二つに分け、堅固なあのエリコの城壁を崩し、これは主の戦いだと宣言しダビデに巨人ゴリヤテを打ち破らせた主なる神。そのお方だった。

 

 ペテロはその主を見てそのみことばのとおりに踏み出したときに、何と彼も湖の上を歩くことができました。それは、まさに私たちの信仰の歩みと同じです。主に信頼し、主のみことばに聴こうとしながら一歩を踏み出す。これが信仰生活です。それはまさに湖の上を歩くような、奇蹟の連続です。このような罪人の私が、神の子どもとされて、この世と言う海原を歩くことは、主の支えなしにはあり得ない奇蹟です。

 だから、主から目が離れ、風を見てしまったときにペテロは沈んでおぼれたのです。しかし、その失敗も、そのおぼれてしまうことも信仰生活です。主から目を離したら、問題の中で沈んでいくのです。でも、もしおぼれても、ペテロのように「主よ。助けてください」と素直に主を呼べば良いのです。なぜならば、主イエスはあなたの神だからです。

その繰り返しです。天の御国へ帰るまで、その連続です。それが私たち主の弟子の信仰生活、聖化の歩みなのです。ペテロは32節にある様に、イエス様と一緒に舟に乗り込んだ時に風がやんだことを経験しました。そして他の弟子たちと一緒に、「イエスを拝んで」つまり礼拝したのです。それが教会の姿です。しかも「確かにあなたは神の子です」という信仰告白をしながらです。ペテロはこの経験が、あの16章の「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白の基礎になっていき、更にその約2000年後、昨年採択された白石教会の信仰告白まで繋がっているのです。

 

この二つの奇蹟を経験した弟子たちのように、私たちも今週、様々な経済的な不安や、全く太刀打ちできない嵐を通らされるかも知れません。でも恐れることはありません。それは私たちが聖なる者となるために通らされる訓練だからです。しかも愛する主が、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と励ましてくださいます。「わたしこそ、あの紅海を真っ二つに分けて渇いた道をつくった主なる神ヤハウェなのだ」と。

だから安心して良いのです。その主から目を離さないで、今週も信仰の一歩を踏み出してまいりましょう。その一歩とは、主イエスを信じて洗礼を受けることかもしれない。または主イエスに対して狭い捉え方をしていたが神として崇める一歩かも知れない。または主に生涯をささげていく一歩かも知れません。いずれにしても大切なことは、主から目を離さないで、歩もうとするチャレンジを喜んで受け取っていくことです。そこで経験する喜びも、また失敗もすべては益とされていきます。

そして来週も、ともに主を礼拝するために、この教会と言う舟に乗り込んで一緒に告白しようはありませんか。「確かにあなたは神の子です」と。

 

コロナ禍における取り組み

新型コロナウィルス感染症が、今もなお私たちの生活を脅かしております。現在は変異して、対策を難しくしてもおります。しかし、インフルエンザも含めて感染症に対する対策は基本的には同じです。特に、多人数で会話を伴う飲食をしないことや、トイレを利用したときには必ず手指をよく洗う、または消毒することは必須です。外出先における共用トイレの利用はかなり感染リスクが高いです。

 

他方、キリスト教会をはじめ、寺社仏閣等への出入りは、これまでも集会への参加としては制限はされておりません。市民生活に必要なこととして行政でも認めているところです。そうであるならば、なおさら私たちキリスト教会も、人が多く集まる場所であることは確かですので、そのことを自覚して一層の注意が必要と考えております。

 

それで、以下のことを私たちの教会は守りつつ礼拝だけは続けております。どうかお読みいただき、感染対策を意識しつつ、ともに神に礼拝を献げ続けることができればと願っております。


1 体調不良の方は無理せず、ご自宅で休んでいただくため礼拝のライブ配信(※1)を行っております。
2 礼拝は事前の手洗い、マスク着用を行い、近距離での対話を避けるよう注意しております(※2)。
3 礼拝時間の短縮と礼拝中の飛沫を防ぐために讃美歌の曲数を減らす等の工夫を行っております。
4 「密」を避けるため小礼拝室と集会室での礼拝も可能です。
5 礼拝の前後に換気を行っております。また24時間換気システムも常時稼働しております。
※1礼拝のライブ配信は、当教会Facebookページ、ブログに、毎週、その都度アップされるYoutubeのURLから限定公開しております。
※2手指消毒用アルコールの設置、予備の不織布マスクも用意しております。また講壇にはアクリル板を設置し、会衆と説教者間の飛沫防止対策を行っております。礼拝用机は毎回礼拝後にアルコール消毒を行っております。席も、通常3人掛けのところ2人掛けにしてソーシャルディスタンスをはかっております。
※3現在、コロナ対策のため、平日の集会はお休みしております。牧師はなるべく教会に居るようにしておりますが、御用の方は、先にお電話(011-862-4968)いただければ幸いです。

聖霊を欺く罪

"ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、
妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。
売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。
若者たちは立ち上がって彼のからだを包み、運び出して葬った。
さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。
そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」
すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入って来た若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。"
使徒の働き 5章1~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 エルサレムにおける聖霊降臨後、ペテロの説教によっていきなり三千人もの人々が罪を悔い改め、イエスを信じ弟子とされました。

 そのあとも、その弟子たちが集まって神を礼拝していることで、多くの人たちが救われ、群れに加えられていきました。

 それは全て聖霊なる神のみわざでした。使徒たちも益々、日々聖霊に満たされて、イエスの復活を大胆に、力強く証ししました。

 そのような目覚ましい聖霊の働きが顕著な初代教会にあって、大変悲しい事件が起こったのです。それはせっかくイエス様を信じて主の弟子とされたはずの人たちが、罪を犯したことでいのちを落とすという出来事です。

 罪を犯したことで命をとられるならば、私は既にこの世にいないと思います。ではなぜアナニアとサッピラは死ななければならなかったのでしょうか。

 それは、聖霊を欺いたからだと言えます。

 アナニアとサッピラは、自分の土地を売って得た金を全て主に献金したと言いながら、実は一部を懐に入れていたのです。このことの問題点は、全て献げたと偽ったことです。なぜ偽ったのでしょうか。それは、自分たちが信仰深いということをアピールするためでしょう。

 献金という礼拝行為を利用して、栄光を神に帰すのではなく、自分のためであるところに、この偽りの罪の重さがあります。

 神に献金するとは、神に私自身を献げるということです。それは聖書の促しであり、聖霊の満たしを見える形で表す礼拝です。それは人の目を欺いただけでなく、神を欺いたことなのです。

 それは神を侮る行為です。神がその偽りを見抜けないとでも思ったのでしょうか。それは実は神を全く意識していない不信仰な罪でもあります。

 しかし、それにしても、それで罪を悔い改める機会もなく死ぬというのは恐ろしいですね。それで、教会全体とそれを聞いた全ての人々の間に恐れが生じたのです。

 つまり、それは生まれたばかりの教会、その弟子集団にとっても大きな出来事だったことを聖書は伝えています。

 この出来事はある意味、始まって間もないキリスト教会にとって警告となったことは間違いないことです。神のきよさをあらためて考えさせられることです。神が罪を嫌う聖なる方であることを、思い知らされるのです。

 私たちも、このきよい神様の子どもとされた恵みの意味、その重さを知るべきでしょう。本来ならば、きよい神の前に滅んでもおかしくない存在でありながら、神が与えてくださった御子キリストの十字架の死と復活によって、それを信じることで罪が赦されました。

 その罪は神の御子のいのちを要求するほどに汚れたものだったということでしょう。その恵みの大きさを今朝もう一度覚えたいと思います。

 初代教会の兄弟姉妹は、大変ショッキングな出来事を通して直に神のきよさを思い知らされましたが、それは現代を生きる私たちが同じ失敗をしないための反面教師として用いられました。この教訓はとても重い。

 恵み、赦し、神の憐れみ、神の愛だけを取り上げてきよさを見ないでいる現代教会への警告でもあるのではないでしょうか。確かに罪を悔い改めないままでいるならばさばきがあると強調しすればカルトになる可能性があります。しかし、そもそも罪には本来神のさばきがあることも、神の愛を信じるのと同じように信じなければいけないのです。

 あらためて、きよい神様の救いにあるキリストが受けた十字架の死の意味を覚えてまいりましょう。

 

"神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。"
コリント人への手紙 第二 5章21節


"私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。"
コリント人への手紙 第二 6章1節

"思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。"
ガラテヤ人への手紙 6章7~8節

"しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」"
マルコの福音書 3章29節


"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネ福音書 3章16節


 

復活の証人として

"使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。"
使徒の働き 4章33節

 使徒たちは、キリストの復活の証人として、そのキリストの復活を「大きな力をもって証し」しました。

「大きな力」とは、この「使徒の働き」の文脈で見ると、彼ら自身の力ではなく聖霊の力でしょう。

 その聖霊の助けにより、使徒たちは主イエスの復活の目撃者として、「力強く証し(新改訳第三版)」したのです。

そして「神の恵みが一同に豊かに注がれた(聖書協会共同訳)」ました。

 現代のキリストの教会である私たちも聖霊の力をいただいてキリストの復活を力強く語っていくべきことを教えられます。

その名を信じる信仰のゆえに

"この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。
さて兄弟たち。あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています。
しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。
ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。
このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。
モーセはこう言いました。『あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。
その預言者に聞き従わない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。』
また、サムエルをはじめ、彼に続いて語った預言者たちもみな、今の時について告げ知らせました。
あなたがたは預言者たちの子であり、契約の子です。この契約は、神がアブラハムに『あなたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたものです。
神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。」"
使徒の働き 3章11~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 足を癒された男性は、足だけでなく、その魂も癒されました。彼の踊るようにして立ち上がり、飛び跳ねながら宮に入っていく姿は、罪を赦され、天の御国へ入れられる姿だったのです。

 ペテロは、そのことが起こったのは、神がお遣わしになったしもべイエスの名を信じる信仰によることを証しします。

 それは今ペテロの話を聞いている人々、すなわち神殿にいる全てのユダヤ人に対するメッセージです。

 それでアブラハムに神が約束された救いの広がりが、まずユダヤ人にもたらされていると告げているのです。

 アブラハムにすれば、この事実を見ないで約束だけを信じて地上での生涯を終えたわけですが、その約2000年後に、神は御子キリストをそのアブラハムの子孫として生まれさせ、その子孫たちによって殺されることを通して救いを成就したのです。

 ここに神の知恵があります。人々はアブラハムの子孫でありながら、アブラハムの子孫、ダビデ王家の子孫として来られた真のメシアを受け入れず殺したのですが、神はその暴力をもご自分の恵みのみわざに取り込み、人々の救いとしたからです。

 だから、神が遣わしたメシアであるイエスを殺した人々なのに、むしろ、そういう神に逆らう罪から救うことができるのです。

 その人々の中には私もあなたも入っています。いや自分はユダヤ人ではないと言うかも知れませんが、これまで神を知らず、神に逆らって生きてきたことからは逃げることはできません。

 全ての人は神から離れてしまっているので、神からの栄誉を受けることができなくなっているのです。しかし、その呪いをイエスが受けてくださることで、そのイエスを信じることによって、その罪を赦し、神との和解する道を備えられたのです。

 ペテロはそのことをまずユダヤ人に向けて語ったのでした。

 だから、今はユダヤ人だけでなく、全ての人に、この悔い改めが語られ、キリストの救いを受け取ることが求められているのです。それは、全ての人が救われて神の子どもとされることを神が待ち望んでいるからです。

 今日、あらためてこの大いなる救いがあなたに訪れている恵みを受け取りましょう。そして、その恵みをもたらした主イエスの御名にある神の栄光をほめたたえて歩もうではありませんか。