のりさん牧師のブログ

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テモテへの手紙第一6章

「満ち足りる心を伴う敬虔」

 当時の教会には奴隷と言う立場のキリスト者と、奴隷の主人という立場のキリスト者がいた。また、裕福な者も貧しい者もいた。また、間違った教えを説く偽教師も出入りしていた。そこには、私たちが置かれている教会にも共通する課題が見えてくる。パウロは、それらの人々の中にあって何を教えているだろうか。
 パウロは、奴隷制についてその良し悪しを語らない。しかし、認めているのでもない。大切なことは、今、置かれている立場の中でキリスト者としてどのように行動するかである。現代で言えば職場の上司と自分の関係に置き換えられるのではないだろうか。大切なことは、相手を尊敬し(1)、軽くみない(2)ということである。
 「違った教え」を説く偽教師の告発と金銭を愛することへの警告が3~10節に記される。ここでの問題は、誤った教えだけでなく、信仰を利得の手段として考えていることである。その違った教えの中心は、高慢から来ることばの争いなど(4)であり、教会に紛争をもたらすものである(5)。
 奴隷のように仕えるにしても、貧しかったとしても大切なことは、自分自身が、「何一つこの世に持って来なかった」(7)ことの自覚であり、ただ「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」(15)であるお方によって与えられた恵みによって立たされているという確信である。そこに「満ち足りる心」(6)が生じ、その心が「敬虔」な生き方となり、信仰の戦いにおいても勇敢に戦い、永遠のいのちの獲得(12)に至るのである。「知性」(5)も「金銭」も大切なものであることは誰もが認める。しかし、愛するべきものではない(10)。
 キリスト者が熱心に求めるべきものは、「愚かで有害な多くの欲」(9)を満たすことではなく、「正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和」(11)である。そのことが「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置く」(17)ことだからである。
   主イエスご自身が「人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」(18)歩まれたことを覚えよう。