のりさん牧師のブログ

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「自分自身のうちに塩気を」マルコ9章38〜50節

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マルコの福音書 9章38~50節

38ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
39しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
40わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
41まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。
42また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。
43もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
45もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
47もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
48ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
49人はみな、火によって塩気をつけられます。
50塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」"

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1.仲間、味方をどう見極めるか (序論)

  キリスト者にとって仲間とはどういう人たちでしょう。味方とはだれのことでしょう。

  いつも行動を共にしている人たちが仲間でしょうか。同じ教会、同じ教派だったら仲間でしょうか。

  若き使徒ヨハネは、自分たちとは一緒に行動していない人たちに対して、イエスの名によって悪霊を追い出すことをしてやめさせようとしたと言っています。それは、自分たちについて来なかったことが、その理由でした。

  しかしイエスの答えは違っていました。それをやめさせてはいけないし、イエスに反対しないならば味方だと言うのです。でも、このことはキリスト教の真似事をしていることを肯定しなさいと言っているのではなく、キリスト教会が何をもってキリスト教会なのか。キリスト者が何をもってキリスト者なのかの見きわめる基準を示しているのです。

 

2.躓かせる〜私たちの物差し

  もしイエスのことばに反対せずに、喜んで受け入れている人がいるなら、その人を躓かせるならば、その人はその躓かせるものをもぎ取った方が、全部地獄に入るよりマシだとイエスは教えています。これは、ユダヤ的な比喩です。

  そこから、イエスはご自分に好意的な者を躓かせることへの警告を続けます。そのくらい魂の獲得に対して、へりくだって臨むべきであり、細心の注意を払って献身することをイエスは弟子たちに告げたのです。

  それは、私たちの弱さとして、つい自分のスケールで物事を判断し、自分の物差しで、自分の味方かどうかを決めてしまう癖があるからです。それは、ある意味、自分はさておき、相手に塩気を求めるようなものです。

  自分がどれほどの者かは横に置いて、相手の不備や至らなさを指摘して、まだまだだとか、自分たちの仲間でないとか、勝手に判断します。しかし、判断するのは主です。私たちは私たちの物差しで勝手に人を測って、勝手に善し悪しを決めてはならないのです。

  主イエスは仰せられました。

「50あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい」

  塩気は人に求めるものではないのです。まず自分自身のうちに保たなければならないからです。自分が塩気を失っていることを棚に上げて、他人をさばいてはならないのです。

  一人ひとりが、各々の塩気を保つことで互いの平和が生まれるからです。

  では、何によって塩気を保てば良いのでしょうか。

 

3.塩気は神のことばによって(結論)

  それは、神のことばである聖書であり、神のことばとして来られた主イエスご自身に聴くと言っても良いでしょう。

  ヨハネは自分勝手に、イエスの名で悪霊を追い出している人をやめさせようとしました。それは、十二弟子という看板が仲間の決め手になっていたからです。しかし、他人にケチをつける前に、まずヨハネ自身がイエスに尋ねるべきでした。自分で判断せずにイエスのことばに聞くべきでした。

  そのヨハネは、イエスの十字架と復活の後、聖霊を受けて、イエスご自身が神のことばであったことを証言し、このお方を信じる者には神の子どもとされる特権が与えられるという、とてつもなく大きな神の恵みを宣言しました(ヨハネ1:1〜12)。しかも、新約聖書の中で福音書を一つ、書簡を三つ、そして最後に、聖書の締めくくりとして黙示録を書き上げ、まさに神のことばを完成させました。

  その中で誰が神の国に入るのか、神から啓示を受けて、こう書き遺しています。

 

「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」
ヨハネの黙示録 21章7~8節

この勝利を得る者とはだれなのか。それについてもヨハネは手紙の中でこう言っています。

 

「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
ヨハネの手紙 第一 5章4~5節

 

4.看板ではなく (適用)

  神の国には、西方教会東方教会カトリックとかプロテスタントとか、ルター派カルヴァン派聖公会、ウェスレー、メソジスト、福音派聖霊派、バプテスト、メノナイト、ブレザレンなどの看板はありません。 

  それらの教派、教団に属していることが、神の国の国民としての決め手にはならないからです。大切なことは、イエスを神の御子と信じていることです。それは、御子が贖いの子羊であることを信じ、その方を愛し、そのことばに聞き従うことを願う生き方のことです。しかも、その証印は私たちの行いではなく、神がくださる聖霊によるのです。

 

"このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。"
エペソ人への手紙 1章13~14節

  今日、私たちはまず自分自身を点検しましょう。自分のうちに塩気があるのかどうか。その塩気を保つことで、他に惑わされることなく神の塩気に立ち続けられるのです。

  この地上には、キリスト教会に似て非なるものが満ちています。どれが仲間か味方か、聖書を通して識別する力を、その塩気を身につけましょう。そして、その塩気が薄まらないように日々、聖書に聞き、神に祈り、神との交わりのときを聖霊の助けによって充実させていこうではありませんか。

 

 "私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。"
ピリピ人への手紙 1章9~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会