のりさん牧師のブログ

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「情欲の問題」コリント人への手紙 第一7章1〜9節

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1,さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、
2,淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
3,夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
4,妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
5,互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。
6,以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。
7,私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
8,結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。
9,しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。

 

 

  主イエスは言われました。

"しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。"
マタイの福音書 5章28節

  情欲は人を支配して、姦淫を犯させます。主イエスは、女性を見て心の中で情欲を抱くだけで、それは既に姦淫の罪を犯していると断言されます。これは、人にとってかなり痛いところを触れられていると私は思います。よく若い人に対して情欲の問題を取り上げることがありますが、老若男女問わず、主イエスは情欲についての弱さをあえて取り上げているのです。詩篇119篇9節で「どのようにして若い人は自分の道を清く保つでしょうか。あなたのおことばどおりに道を守ることです」と言われていますが、それは全ての人の課題でもあります。

  それは、全ての人にまず罪の自覚を持たせることが必要であるからです。その罪に私たちを向き合わせて、罪からの解放が必要な存在であるということを気づかせるためなのです。だからこそ主イエスはその罪を負って十字架にかかり死んでくださった。その身代わりの死を通して、私たちの全ての罪を贖われるためだったからです。だから、イエスを信じる者は、その罪の報酬としての死で終わらず、永遠のいのちが与えられるのです。

  ではキリストを信じて救われた人は、もう情欲の問題は解決できたのかというと、そうではありません。確かにキリストが十字架にかかり罪を負って死なれた。それで信じた私たちは、もうその罪によって滅びることはなくなりました。だから、罪に囚われて歩む必要はなくなりました。更にキリストを信じることで与えられた聖霊によって、御霊の賜物として自制も与えられていますから、救われる以前よりも御霊の助けによって自制力が増していることも確かでしょう。しかし、私たちクリスチャンはその御霊の賜物によって完成されるときを願いつつも、まだ途上であり、工事中のお互い様でもあります。その工事中の私たちの完成に向かっていくための心得をパウロは語っているのです。

  この心得を疎かにしているなら、たとえクリスチャンだとしても、サタンの誘惑に負けることもあるからです。

 それでパウロはこう言っています。5節後半。

「これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。」

  私たちは完成を目指している工事中の人間です。ですから、それぞれ工事中の人間として注意を怠ることは大変危険です。工事中の家でも道路でも、必ずその現場には、工事標識が置かれ、周囲もバリケードで覆われます。それを解かれるのは完成してからです。

 それと同じように、私たちも工事中であることを自覚して、霊的なバリケードを必要としているのです。

  それでパウロは情欲をコントロールするためには結婚しなさいと勧めます。これは結婚の目的が情欲をコントロールするためのものとして限定しているわけではありません。あくまで、情欲を抱きやすい人に対するバリケードとしての結婚の一側面を言っているのです。

  それは私たちが自分自身を守るために必要な施策だからです。だからパウロ自身もこのことを命令とはせずに譲歩だと言っています。

「6,以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。」

  ですから、結婚の本来の目的ではありませんから、結婚したからと言って情欲そのものがなくなるわけではないということです。あくまで、その起きてくる情欲を、結婚関係の中でコントロールしていくということです。性欲そのものは決して罪ではありません。それは祝福です。食欲もそうですが、人間が生きるために神様が備えてくださったものだからです。ただし、罪が入ってから私たち人間はその欲をコントロールすることが難しくなってしまいました。その性欲が一人歩きしてしまうと情欲として、制御から外れたものとなってしまうのです。

  それで夫婦は、時には信仰を持っているお互いとして、祈りに専念して、神との関係を優先して、夫婦として一つになることから離れることも勧められています。そうしないと、その結婚そのものが単に情欲のコントロールのためなのか、それ以上に相手を愛しているからこそ、神にあって祝福されているお互いとして、相手との結婚関係の素晴らしさを確認することができるからです。そういう意味で、神を中心とした結婚として捉え直していくならば、サタンの誘惑に勝つことができます。

  単に情欲をコントロールすることに任せた結婚関係ではなく、神を愛し、互いに愛し合う祝福を確認するために離れ、また一つになることで、情欲ありきの結婚生活ではなく、神の祝福に満ちた愛の関係にある結婚生活にされていくのです。

  パウロ自身は単身者であったようですので、自分のように独身の賜物がある人なら、つまり自制の賜物が既に備わっている人ならば、独身でいることを勧めています。

7,私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

8,結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。
9,しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。

  ここでまたパウロは繰り返して、結婚によるコントロールの意義について語ります。それほど情欲の問題は、私たちの一生の課題でもあるからでしょう。だからこそ、常に覚えて起きたいのは、これらの罪を背負ってイエス・キリストが十字架にかかり死なれた事実です。その事実を信仰を持って、もう一度確認しましょう。

"キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。"
ガラテヤ人への手紙 5章24~25節

  私たちはキリストから目が離れるとき、罪の誘惑に陥りやすい弱い者です。だからこそ、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離してはならないのです。そのキリストご自身を仰ぎ、そのキリストのことばに聴き続けるならば、必ず私たちは御霊のご支配に覆われて、御霊によって進むことができます。

パウロはこうも言います。

"ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、
また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、
真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。"
エペソ人への手紙 4章21~24節

  新しい人を着せられた私たちは、日々「人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を」脱ぎ捨てたのです。それは、その情欲そのものが偶像礼拝だからです。

  "ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。"コロサイ人への手紙 3章5節

  私たちは求めるものはもはや、肉欲ではなく、キリストがその身を以て示された神の義であり、そのお方に信頼する信仰であり、その十字架に示された神の愛であり、その愛に満ち溢れた神の平和なのです。

  "あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。"
テモテへの手紙 第二 2章22節

 ここで、大切なのは「きよい心で主を呼び求める人たちとともに」です。私たちは一人では大変弱いです。だからこそ、神様は私たちに教会を与えて、一緒に義と信仰と愛と平和を求める仲間を与えてくださいました。

  そこには、ともに弱さをもった工事中の人たちが集まってきます。そこで、ともに神のことばに触れ、ともに神の霊に満たされることによって、間違いなくあなたは昨日までのあなたではなく、キリストに似せられた新しいあなたに建てあげられるからです。

  

"ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。"
ヤコブの手紙 1章21節
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