のりさん牧師のブログ

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「真の福音に立つ」ガラテヤ人への手紙 1章4~9節

"キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。


私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。


しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。


私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。"

 昨今、福音という言葉が一人歩きしているようです。それは、イエス・キリストがもたらした福音ではなく、そのほかのことを福音と置き換えてしまっている動きがキリスト教界に入ってきているからです。

 

 たとえば、平和運動、福祉活動など、社会的福音を強調するあまり、本来の罪の赦したる福音。滅びからの救いたる福音を疎かにしていると言うことです。

 

 もし、この本来の福音抜きにして、社会的福音のみが一人歩きするならば、そこには、実体のない理想だけがあるだけで、そこに向かうエネルギーは神ではない他の思想や哲学に置き換えられてしまうでしょう。しかし、そうなれば本来聖霊によってもたらされる平和ではなく、ヒューマニズムによる平和であり、それは必ず行き詰まります。なぜなら、それは張子の虎と同じだからです。

 真の平和は、まず私たち人間と神様との和解なしにはあり得ません。人間的な努力や工夫では真の平和は起こらないのです。かたちだけ平和になろうとしても、そもそもの私たちのうちにある罪が解決しなければ、それはガソリンを失った自動車のように、力尽きて倒れるでしょう。

 それは、もはや「ほかの福音」を作っていることであり、明らかに聖書の言う平和ではないのです。

 聖書では平和のことをシャロームと言います。これはヘブル語ですが、平安とも訳せる言葉で、イスラエルでは挨拶にも使われるくらいポピュラーな言葉です。

 このシャロームは、まさに神による平和な状態。罪を赦され、契約にある安定した関係を表します。前提がそこにあるからこそ、私たちの間にもそこを土台とした安定が生まれるのです。

 私たち人間は神から離れてしまい罪の状態にあるかたちで生まれてきます。しかし、神はそれで良しとはせずに、そこに御子を送り、その罪の状態に終止符を打つべく、聖なるご自身の義を罪のない人イエスの上に審判をくだし、私たちの身代わりとされたのです。そして、その死をもって私たちへのさばきとしてくださり、真の信仰者としても全うし、それを信じる者たちを神の子どもとする「救い」を与えられたのです。

 そして、最後まで信仰を全うしたイエスをよみがえらせて、そのイエスを信じる者たちをも、その復活に与らせてくださるという真の信仰者としての栄光をも聖霊によって証印を押して認めてくださいました。

 これこそ福音です。この福音なしに社会的福音もありません。

 今日、あらためてこの福音にまず立つことを決断しようではありませんか。主の十字架の贖いを蔑ろにしてはなりません。この木にかかられたお方こそ、私たちの罪を取り除く神の子羊だからです。

 この子羊に栄光、尊厳、力があり、この子羊こそ平和の君として、やがて来られる王の王、主の主、永遠の神なのです。このお方の前にひれ伏し、崇め、新しいいのちをもって、今日もともに礼拝をおささげしましょう。

"彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」
すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。"
ヨハネの黙示録 5章12~14節
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