詩篇 100篇
感謝の賛歌。
1,全地よ主に向かって喜びの声をあげよ。
2,喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3,知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。
4,感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5,主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまでその真実は代々に至る。
詩篇にはよく「大庭」という場所が歌われています。それは、この詩篇100篇では「その大庭」つまり、主の門から入って広がるその場所。その世界です。
それは、恐らく神の国、または天の御国だと言って良いでしょう。
さて、質問です。その入り口は主の門だと言われていましたが、その中の大庭は何と言う大庭なのでしょうか。
それは、詩篇96篇8節を見るとわかります。
"御名の栄光を主に帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ。"詩篇 96篇8節
正解は「主の大庭」です。そこには、カトリックの庭もプロテスタントの庭も、ギリシャ正教の庭もルター派の庭もカルヴァン派の庭も聖公会の庭もメソジストの庭もブレザレンの庭もメノナイトの庭もありません。
では、その主の大庭に入れるのは誰なのでしょう。
それは、教派ではなく、純粋に罪を悔い改めて福音を信じる人であり、その人たちが集まる教会です。福音と言っても色々な福音ではなく、この救いに関する福音は一つだけです。
それは、イエス様の十字架の死とよみがえりが私のためであると信じることです。私のためとは、私の代わりに神から罰を受けてくださったことを信じることであり、同時にその十字架に私自身も一緒にかけられたことを信じることでもあります。
そしてイエス様が死からよみがえられたように、信じる私たちもそのイエス様とともに生まれ変わり、新しくされることを信じることです。
この福音の真理にカトリックもプロテスタントもその他多くの教派に属しているかどうかは関係ありません。私たちが救われるべき基準はあくまでキリストに対する信仰であり、どこの教会、どこの教派に属することとは関係ありません。
教会に属することは、あくまで信じて救われた者としての礼拝の場であり、同じ信仰を持つ仲間たちとの交わりの場です。だから、救われた人がこの世において神を愛し、隣人を愛するための天国の出先機関として教会があるのです。
それは主の大庭の出張所だと言うことです。だから、それぞれが信仰を持ち救われた過程で導かれた教会、教派があるのです。
ですから、主の大庭に入る条件はその教派にいることとは全く無関係です。
もし、その教派や教会がその福音から外れているならば、はっきりと教えてあげた方が良いでしょう。そうでないと、みんな本当の主の庭に入ることはできません。
その教会、教派に属していることで救われているなどと安心してはならないのです。あくまで、私たちが救われるのはイエス様を信じる信仰によってであって、その信仰も主が与えてくださっておられることを受け取りたいです。
信仰が行いの一つのように救いのための条件となってはなりません。それはあくまで神様からの恵みであって、私たちの功績ではないからです。
あらためて、神様の前にへりくだって、そもそも罪の中にあって悲惨な状態であった者を御子イエス様を与えるほどに愛してくださって、私たちが受けるべき神様のさばきを受けてくださった恵みに触れましょう。
ここに愛があると言われている、十字架の上に宥めのささげものとなってくださった神の小羊に栄光と誉れと賛美をささげてまいりましょう。
そこに示された神様の愛に触れ続けていきましょう。その喜びをもって、主の門から入り主の大庭で安らごうではありませんか。