●創世記 16章
1,アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
2,サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
3,アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷であるエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
4,彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。
5,サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
6,アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
7,主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。
8,そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」
9,主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
10,また、主の使いは彼女に言った。「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。」
11,さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたは身ごもって男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。
12,彼は、野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」
13,そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。
14,それゆえ、その井戸はベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。
15,ハガルはアブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。
16,ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
《メッセージ》
アブラム(のちにアブラハム)の妻サライ(のちにサラ)は、自分が不妊の女であり、夫アブラムに子を産めないことを諦め、自分の方法で子を残そうとします。
この方法は当時では当たり前に行われていた常識でしたが、神様の御心ではありませんでした。つまり、アブラムもサライも主に信頼して待たなければならなかったのです。
そのため、新たな問題を生むことになります。それは、主人であるサライのために男の子をみごもったハガルが、自分の主人であるサライを主人として見られなくなったことです。ハガルは女性として、子を産めないサライを蔑むからです。
アブラムの子を宿し生むことができることは、ハガルの心に住む闇に火をつけてしまう結果となったのでした。
罪が罪を生むように、神への背きから決して良いものを得ることができません。
サライの神への反抗とハガルのサライへの反抗は、アブラム一家に影を落とすことになり、そもそも奴隷であるハガルに女主人サライが怒りを燃やし、ハガルは砂漠の中に逃げてしまうのです。
そのような、罪に満ちた状況でありましたが、なんと神様はそのようなハガルを憐れまれます。そして、ハガルから生まれる子を祝福すると約束されたのです。
確かにこの後、生まれるイシュマエルはイスラエル人たちを困らせる存在となりますが、大切なことは人の罪の世界を見捨てず、ご自身の忍耐と憐れみをもって臨まれる主の姿です。
このアブラハムの時代から2000年後に、このハガルに憐れみをかけられた主なる神ご自身が人の姿をとって来てくださいました。しかも、このハガルのように虐げられ、脅されて、荒野のようなこの罪の世に来られたのです。
ハガルはある意味自業自得でした。彼女の負った苦しみは自分の罪ゆえのことであり、それは自分自身の罪の悲惨でしたが、主は罪も穢れもないにも関わらず、人間の罪の悲惨をその身に負われたのです。
しかし、その打ち傷によって、私たち信じる者たちは癒され、罪が赦されました。その打たれた傷によって私たちは癒やされたとペテロがイザヤ書のみことばを引用して語った通りです。
今日、ご自身は傷つかれても私たち罪人のことを愛して、憐れみを注ぎ続けてくださった主に心を合わせましょう。その打たれた傷によって、私たちが癒されている恵みを味わいましょう。
《祈り》
主よ
あなたの大きな憐れみを感謝します。
この罪人である私に目をとめてくださり、
無限の愛をもって、自らを十字架にかけられて、その苦しみを通ってくださいました。
今日も、あなたを愛します。
どうか、そのお苦しみの僅かでも私が味わい、その苦しみを味わうことによって、あなたが私をどれほど愛しておられるのかを、さらに教えてください。
主の御名によって祈ります。
アーメン。