のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

受難節 第20日 木曜日

●マタイの福音書 6章25~34節

"ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。


空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。


あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。


なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。


今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。


これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。


まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。"

《メッセージ》

どんな人でも心配なことはあります。自分の将来についてや、離れて暮らす家族のことや、社会的な不安から経済への不安な方もおられるでしょう。

 

しかし、聖書は明日のことは思い煩うなと言います。これは、将来設計や予定を立てるなと言うことではありません。煩うくらいなら、明日のことは考えずに、今日一日、精一杯生きなさいということです。

 

しかも、神の国と神の義を求めて生きるのです。それは、心配なことを神様にお任せするということです。神の国を求めるというのは、神様の王国こそ心配なことのない世界であるので、その神様のご支配が今、私に起こることを願うのです。

 

そうすれば、さっきまで心配で仕方なかった、将来のこと、家族のこと、経済的な不安も、一見、悪化の一途を辿っているように見えても、そこに神様が介入されることによって、確かな一歩へと変えられていくと言うことなのです。

 

だから、野の花や空の鳥のように、そこに生かされていることを喜び、そこに置かれている恵みに感謝して生きるようにされます。

 

人間的な力で繁栄を得たとしても、それは、神様が与えてくださる栄光に比べるならば、塵芥です。

パウロも、神を知っていることの素晴らしさのゆえに、自分自身の博学や、これまでの華々しい学者としての知識も糞土のようだと言っています。

 

それは、神を知ることこそ、あらゆる知識に優る知であり、神に知られていることを悟ることこそ、何よりも豊かな神の知の恵みに生きることだからです。

 

もし、今日、私たちが、全知全能の神に知られている恵みに気づくなら、もう明日のことは心配しません。自分の家族のこと、健康のこと、経済的なことも、全部、神様の御手の中で賛美に変わるのです。

 

あなたのことをあなたよりもよくご存知のお方がおられます。そのお方にあなたの全てを委ねて今日も生かされてまいりましょう。

 

受難節は、何も苦しいことをあえて味合うことだけが目的ではありません。今、苦しいことの中にある人が、その苦しみから脱出することも大切です。なぜなら、そのために御子キリストが苦しみの道を通られたからです。

 

主イエスの歩まれた苦しみの道、十字架の歩みを、そのようなかたちでも今日覚えようではありませんか。

 

《祈り》

御手の中で

全ては変わる賛美に

我が行く道を導きたまえ

あなたの御手の中を

御手の中で

全ては変わる感謝に

我が行く道に現したまえ

あなたの御手のわざを

(賛美歌より)