日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

◎ 2019年11月3日 礼拝説教

説教題 「割礼は祝福のしるし」         
聖書箇所 創世記17章1節~27節
 
序論
 私たちは使徒信条でいつも告白しています。「公同の教会を信じます」と。それは教派を超えた目に見えないキリストのからだなる教会を意識して、その大きなからだに繋がっていることを信じますという意味です。それは、イエス・キリストの贖いを信じるという契約に立っているということです。その十字架で犠牲になって死んでよみがえられたキリストの傷跡をいつも見ているか。その傷がなぜつけられ、どうしてそれが私たちのしるしなのか。そのことをいつも思い起こして神の救いの約束に生きているか。そのキリストご自身を神のしるしとして信じているか。それがキリスト教会であるという証しです。
 その公同の教会を現在の世界規模で考えた場合、単純計算ですが世界の人口は約77億人だそうなので、その33%の人がクリスチャンだと言われています。つまり25億人以上の大きな家族がそこにあり、その源流を今、私たちは聖書から学んでいるわけです。神様はアブラハムに満天の星空を仰がせて、あなたの子孫は、そのように数えきれないほどになると約束されました。しかも、すべての民族があなたのゆえに祝福されると言われました。それが、現在、キリスト教会という姿で実現しつつあります。今、私たちは、このアブラハムに与えられた神の祝福の只中に置かれているのです。
 今日の説教題は「割礼は祝福のしるし」とつけました。それは、そのしるしが現代を生きる私たちに繋がっている祝福であるということです。アブラハムへの祝福が今私たちに及んでいる。そのことを、神はしるしを通して心に刻まれる。今日もみことばによって、深く心に刻まれたいと思います。
 
1.  神は祝福の主である1~8、15~21
前回から13年が過ぎた日の出来事が今日の箇所です。前回までで86歳だったと16章16節に書かれています。そして、今日の17章1節には「99歳になったとき」と記されています。ということは、契約の動物を真っ二つに切り裂いたあの契約から13年以上もたっているのに、その間に、特に進展はなかったということです。強いてあげるなら、アブラムとサライは自分の方法で子をもうけてしまった。女奴隷ハガルによってイシュマエルという男の子が生まれました。それは妻サライがもともと不妊の女だったのに、更に高齢者になって益々出産は無理だと思ったからでした。
 だから99歳になったアブラムにとって子孫が増えるということについては不可能であるという確信がさらに強まったと思います。
 アブラムは17節でこう言います。しかも心の声です。
アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
 彼は子どもができることについては全く信じてはいませんでした。
 15章6節で「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれていました。この時点でアブラムは神様から義と認められました。それは別な言い方をすると救われたということです。それは、彼が主を信じたからです。しかし、その「信じた」ということは、神様のことをすべて理解したから信じたのではなくて、全部を理解できないから信じたのだと、そのときお話した記憶があります。
 そうです。アブラムの信仰というのは、神様に対する信頼であって、神様のおっしゃることを受け入れながらも、まだまだ理解には至っていない状態です。この不完全さが、ある意味、私たちの信仰の父として、逆に慰められます。ここでアブラムが完ぺきな信仰者であったら、きっと私たちは達成できない自分自身にがっかっりすると思うのです。しかし、主は、アブラムを信仰の父として選び、その不完全さの中にある者の葛藤をリアルに伝えているのです。
 だから、主はそのような素直に信じ切れないアブラムに対して、改めて自己紹介します。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
 ここで「わたしは全能の神である(エルシャダイ)」と、ご自身こそが何でもできる者であることを宣言されます。そして、あのノアのように「全き者であれ」いう励まし。大洪水を免れたあの先祖ノアのごとく、ただひたすら神に向かう生き方。失敗しても、足りない者だとしても、だからこそ全能の主により頼む謙虚さ。ここに全き信仰があります。そして、あえて「あなたの子孫を」とは言わずに、「あなたをおびただしくふやそう」と励ますのです。ここが真の神様の粋なところです。一見、今までと同じような言葉に思えますが、少し表現を変えて、アブラムがより励まされるように工夫されています。
 するとアブラムはどうしたか。3節。「アブラムは、ひれ伏した」とあります。
ここもさっと読み過ごしてしまうところですが、原語の表現が実に面白いです。直訳するとこうなります。「そして落ちた。アブラムは主の顔の上に」落ちるとか倒れるという言葉をひれ伏すと訳していますが、原語のままで受け取るとアブラムは「エルシャダイ」と名乗って臨在される主の前に、いや主の顔の上に倒れたわけです。主がそのくらいアブラムの近くまで降りて来られているということです。あのゲツセマネの園でイエス様が逮捕される場面をご存じでしょうか。兵士たちがイエス様のことを確認したときに、イエス様は「それはわたしだ」と言われて、群衆がみな倒れたという場面です。このとき、「わたしだ」という言葉は「ヤハウェ」(わたしはある)という聖なる神のお名前を宣言したと同じことです。聖なる神の臨在の前に彼らはみな倒れたと言える場面でした。おそらくアブラムもエルシャダイなる主の前に、その全能の主の臨在に触れて倒れたのではないでしょうか。ひれ伏すとはそういうことですね。宗教的な儀式としてひれ伏すのではなく、神様がどれほどきよくて近寄りがたいお方か。しかし、そのお方が近づいてくださっていることへの畏れと感動。ここに私たちは倒れるほかないわけです。それがひれ伏すということ。つまり礼拝の基本がここにあるのです。
 そこでアブラムは新しい名前をいただきます。そして、今度は妻のサライにも名前が与えられ、その使命が語られます。アブラムにはアブラハムという名前。サライはサラになります。そして、彼女によって男の子を与えようと言われます。それは、アブラムにあなたをおびただしくふやそうと言われたことを、妻によって成し遂げられる共同作業であることをはっきりと伝えたのです。
 今日の箇所における契約のことばの特徴は、「永遠」という言葉です。アブラハムへのことばとしては、7~8節です。
「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
 そしてサラに対しては19節です。
「すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」
 神様は、アブラハム夫婦を通して生まれるものを永遠に祝福すると約束されました。しかもサラから生まれるイサクの子孫によってです。この永遠ということばは、聖書において特別な意味を持っています。それは、あのダビデにも言われたダビデへの祝福の言葉の中でも言われていました。「あなたの王国はとこしえまでも続く」と。それはまさしく、メシア預言であり、それは救い主によって起こる神の王国。今、新約時代に生きる私たちにとっては、キリストの王国、天の御国のことであることが明白です。
 その大きな救いの計画を主は、アブラハムに告げられたのです。それは、神の愛と真実に基づくみことばによる約束だったのです。
 
2.  神は聖なるお方(しるしの主)9~14、22~27
そこで主は、永遠の救いの祝福に預かるアブラハムに一つ責任を与えます。それが、割礼をするということです。割礼というのは男性の生殖器の皮を切り取るという、現代人にとっては愚かに思える儀式ではないでしょうか。10~11節を読みます。
「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」
どうして、このことをするように神様はおっしゃったのか。それは、このアブラハムの文脈では、あの動物を切り裂いた契約の儀式と繋がってきます。あの儀式自体は当時の契約方法であったことがわかっています。その方法を利用して、アブラハムの中に神との契約を行ったという自覚が起きました。しかし、そもそも、どうして神様はそのようなしるしを伴う儀式をなさるのでしょうか。儀式をしたほうが厳かだからでしょうか。
それは、そもそもアブラハムが恐れていたことが発端でした。また、今回の割礼も、その前にアブラハムの、あの女奴隷ハガルによって子をもうけるという早まった決断があってのことでした。それは人の弱さと関係していることです。つまり、私たち人間の弱さは、実感として五感によって得る情報で安心したり、意識付けする生き物であるということです。だから耳から聴くだけでは忘れやすいというのがあります。
喉元過ぎれば熱さ忘れるということわざがありますが、その通りではないでしょうか。言葉だけでは忘れてしまい、また覚えていても単に記憶に残っている程度で、そこにある意味やメッセージへの感動も薄れやすいものです。神様のことばは確かですから、そのことばだけで十分であるはずなのに、しるしをもって契約とするのは、私たちの弱さに神様の方が降りてきてくださって、そのレベルでもいいよという神のへりくだりがあってのことだということです。
ですから、このしるしを行う理由の一つは、忘れやすい人間の弱さへの配慮ということができます。だから、この割礼によって、アブラハムはあの切り裂かれた動物による契約の儀式が、この割礼によって心とからだに刻まれるのです。その傷跡を見るたびに、あのときの契約を思い起こして、神がこんな小さく弱く罪深い者を愛して恵みを与えておられるという信仰の原点に立ち返ることができるのです。
それがアブラハムだけでなく、その家族、しもべたちもみんな割礼を受けて、その祝福の恵みに預かります。
 そしてもう一つ、この割礼には意味があります。記憶に残すというところでは同じですが、この包皮を切り取る意味には、単にあの動物を切り裂いた儀式を思い出すだけでなく、その印自体が神の一方的な罪の赦しという恵みを受けている客観的な証しであるという意味です。それは、11節で切り捨てなさいと言われ、14節では切り捨てられていない無割礼の男は、その民から断ち切られなければならないとあるように、包皮を切り捨てることは罪穢れを切り捨てて、神の民と一つとされることを伝えています。それは罪の解決なしに神に近づくことはできないからです。だから包皮を切り捨てると繰り返されていることばから、単に表面的な儀式以上の、罪からのきよめ、罪を切り捨てて神の者とされたという罪の赦しのためのプロセスもこの割礼を通して確認できるということです。それは、割礼にその力があるのではなく、あくまでこの印を通して、その神の言葉である、愛と恵みの契約を思い起こし、感謝に溢れる信仰を持ち続けることを目指しているのです。
 
結論
 このことは、現代の教会に繋がっていることです。割礼が私たちにとっての洗礼であるということは、パウロの手紙から知ることができます。
コロサイ2章11~12節
 「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」

 今、私たちは自分のからだを傷つけて割礼をする必要はありません。割礼はあくまで、今の教会の時代にあって、キリストに結ばれるひな形に過ぎません。
 それは、今は主を信じた者は聖霊が与えられて、聖霊が印となるからです。それをキリストの割礼を受けたとパウロは言います。肉のからだを脱ぎ捨てというのは、直接的には包皮を切り捨てることを意味しています。その本当の意味は、罪深い古い自分を切り捨てて、キリストと一つになることです。
 そのために信じた人は、現代では洗礼を受けます。これもしるしの一つですが、罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主として信じた人は、水によって洗礼を受けて、新しい契約に入れられたことを公に表すためです。それはアブラハムが動物を切り裂いた儀式を行ったことと似ています。そこから救いの恵みの契約がスタートします。でもそれだけだと、せっかくの嬉しい神様との約束を忘れる弱さを私たちは持っているので、神様はもう一つ印を与えてくださいました。それが聖餐式です。今日、これから行いますが、洗礼と違って聖餐式は繰り返し行うものです。 
 パンと葡萄酒によって、キリストが私の代わりに切り裂かれて、切り捨てられたことを思い起こすしるしです。これがまさに割礼の意味と重なります。
 繰り返し、主の恵みを思い起こします。アブラハムは、割礼の傷を見るたびに、おそらくあの切り裂かれた動物の間を主だけが通ったことを思い出したでしょう。23節
「そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。」
 23節から25節までに「切り捨てた」と3度も繰り返されています。ここに、この割礼の強調点があるということです。それは、すなわち、それが意味することを読者である私たちも思い起こし、その傷を見て神を益々愛するようになるためです。
 割礼ではその傷が自分自身でしたが、今は、神の御子キリストがあなたの身代わりにその傷を持って、今もなお父なる神の右に立ち、とりなしておられるのです。今、私たちはその十字架につけられた主の傷跡を見て、神を愛するのです。
 聖餐式で読まれるみことばに「みからだをわきまえないで」とあります。それは、その十字架の意味を理解せず、信じない人ということです。だから、罪を犯したとしても、悔い改めて聖餐に預かりましょうと勧めるのです。大事なことは主の傷跡の意味を知って、信じて洗礼を受け聖餐に預かることです。
 今日も主は、ご自身のみからだの傷を示して我に従えと招いています。ぜひ、今朝もみからだをわきまえて、主の十字架の傷を仰ぎ見て、信仰をもって聖餐に預かり、キリストの十字架の恵みを心に刻みたいと思います。