のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「何ということをしたのか」創世記12章10~13章4

序論
 CS活動ってご存知でしょうか。教会学校のことではありません。これはカスタマーサティスファクションと言って、現代では多くの企業が取り組んでいる顧客満足運動のことです。一昔前にはお客様は神様ですというフレーズが流行っていましたが、企業がお客様に対してサービスを向上させて満足してもらうことです。そうすることで他の企業との差別化を図って、お客様を確保できるということです。
 これだけ技術が進んで、最新技術などの部分での競争は頭打ちの時代ですから、どうやって自分の会社にお客様を留めさせられるかは企業の死活問題です。そこでお客様に満足していただいて、他社への乗換えを阻止することに各企業が躍起になっているのです。それで窓口応対や電話応対から始まり、訪問するときのマナーの向上など、お客様が不快にならないように気をつける。そういうことの積み重ねでお客様に満足していただくのです。
 私が働いていたときに、会社でCS研修会というのがありました。私は電話工事をしていましたので、工事のためにお客様宅へ伺う際のマナーなどを学ぶわけです。あるCS研修で、講師の先生からこういう問題が出されました。「CS活動とはどういう活動ですか。」多くの人が「お客様に満足していただく活動」とか「お客様を満足させる活動」と答えました。正解は何でしょう。
 それは、「お客様が満足する活動」でした。先ほどの二つの答えと何が違うでしょう。それは、「お客様」が主語になっているかどうかだったのです。そこで講師の先生が言いたかったことは、自分が自分がという姿勢ではなく、常にお客様が主であることを意識するということです。そうしないと、色々な場面で誰を主に思っているかが出てしまうと言うのです。つまり、そういう意識がお客様が満足することに繋がるということです。
 このことは、私たちの信仰の歩みにも通じるなと思わされます。私たちはイエス様を信じてクリスチャンになりました。ですから、神様が主です。いつも神様が主であるとして歩むものとされました。しかし、油断していると神様が主ではなく、自分が主語の生き方になっていることに気づかされます。いつのまにか、私が神様を満足させる。主語が入れ替わって、ついつい全てのことは神様に尋ねないで私が決める。私が選ぶ。そうなってしまうことがないでしょうか。
 今日、お読みしたところでもアブラムは、神様にではなく自分で判断して進み失敗してしまったことが書かれています。先週、せっかく神様から祝福をいただいたのに、神様からの約束を聞いて嬉しかったはずなのに、どうしてしまったのでしょうか。今日は、このアブラムの失敗から私たちの信仰の歩みについてみことばに聞いていきたいと思います。
 
1.アブラムの不真実と失敗
 前回、アブラムは主によって「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われて、「お告げになったとおりでかけ」ました。2~3節を読みます。
「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
 また7節を見ると、「そのころ、主がアブラムに現れ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える』と仰せられた。」と書いてあります。
 これが主のアブラムに対する約束でした。アブラムは75歳でしたが、妻のサライと甥のロトを連れ、多くの財産やしもべたちとともにカナンの地を目指して出発したのでした。そして、その行った先々で祭壇を築き、主を礼拝したのです。7節にも8節にも「主のために」という言葉が繰り返されています。それからなおも進んでネゲブのほうへと旅を続けたのです。
 ここまでは順風満帆の気持ちでいたのだと思います。神様から、とても大きな約束が与えられて、それが大きな希望となって75歳のアブラムの気持ちを高揚させたのではないでしょうか。その高揚したアブラムの気持ちが9節の「アブラムはなおも進んで」という説明に表れています。
 しかし、事件はここから始まります。10節をお読みします。
「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。」
 アブラムが向ったネゲブは、エルサレムから見て南側地域です。その名が「乾燥」という意味であり、現在ではイスラエルによって緑化が進んでいるそうですが、実は、昔も乾燥はしていたかも知れませんが、森や町があったことがわっています。ですから、アブラムはネゲブのどこか住みやすい場所に落ち着こうとしたのでしょう。ところが、ネゲブ地方は飢饉に見舞われてしまい、アブラム一行は窮地に立たされました。
 こういうときこそ、どうしますか。これまでのアブラムであれば、その行ったところで「主のために」祭壇を築いて礼拝しました。8節には「主の御名によって祈った」と書かれています。ここでも、そうするかなと思ったら、何もせずにどうしたと書いていますか。
「アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。」
 アブラムはエジプトに下って行った。ここがアブラムのとった行動の大きな分岐点かなと思わされます。ここで単なる、上り下りの話をしているのではないのです。確かにカナンの地を上と考えるならばエジプトへ行くのは下りかも知れません。でもそれ以上に主に対するアブラムの信仰が下り坂であることを表わしているのではないでしょうか。
 やはり、このピンチのとき。いや、それ以前に、今までどおり着いたところで祭壇を築いて礼拝すべきだったのではないでしょうか。でも、なぜかアブラムは何もしなかった。なぜでしょう。今まであんなに優等生だったのに、いつの間にか神様が主語ではなく、自分が主語の生き方になってしまっているのです。
 でも、こういうことって、私たちにもあることではないでしょうか。調子よくものごとが進み、神様を賛美し感謝して生活しているうちに、その順風満帆がかえって不信仰を生み出してしまうのです。
 私が自営業をしていたときのことですが、会社員のときから、悩みつつ祈って自営業を始めたわけですが、神様に助けられ、支えられながらスタートしました。同じ仕事をするなら自営業の方が、収入が高いので、将来献身することや子どもたちの必要にも答えて上げられると判断したからです。そういう思いで始まった自営業でしたが、始まってみると思ったよりも高い収入で、しかも土日祝祭日休みで、申し分なしの日々が続きました。私も、教会の奉仕にも参加できて、毎日感謝して生活していました。ところが、あとからわかったことでしたが、そういう生活が続く中で、あまり祈らなくなっている自分がいたのです。高い買い物をするにしても、以前は祈ってから買っていたのに、お金があることが当たり前になり、感謝も忘れて、もしくは形式的に感謝して、どんどんほしい物を買ってしまう。そういう生き方になっていったのです。まさに自分自身が主語の行き方です。そのうち、収入が減り始めてきた頃には、形式的な祈りもなく、自分の頭で、どうしようかと考えていたことを思い出します。
 アブラムも、きっとそのような状態だったのではないでしょうか。だから、飢饉だということで、安易にエジプト行きを決断し「下って行った」のだと思います。
 そして、アブラムはエジプトが近づくにつれて、また別な心配が起きてきました。それは、妻のサライのことで自分が殺されないかという不安でした。11~12節。
「 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。」
サライはとてつもなく美しい女性でした。それで、そういう妻を持った夫である自分のいのちが狙われることを恐れたのです。13節のアブラムの言葉は、実に利己的になってしまったアブラムの様子がよく表わされています。
「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
 ここに「私」「私」「私」と三回も「私」が出てきます。もはや妻のことよりも自分のこと。自分のいのちを心配しながら、妻を利用して利益すら得ようとしているようにも聞こえます。しかも、偽りを僅かな真理で包むおにぎりのように、一見普通のおにぎりに見せて、中の具がチョコレートのようなものです。異母兄妹という事実は本当。でも夫婦だということは隠している。食べたら何だこりゃです。
 結局、アブラムは色々と自分の頭で考えて策を練りましたが、どうなったでしょう。14~15節を読みましょう。
「アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。」
 サライは、アブラムの意思とは関係なく、パロの主権によってパロのものとされてしまいました。アブラムはエジプトに着く前に策を練って先手を打ったはずでしたが、いとも簡単にパロに主導権を取られてしまったのです。
 神様から信仰が離れていくと、色々な意味で不安が増えていきます。自分の不安をなくすために考えて次の手、自分のいのちを守るために考えて次の一手を打っても、それは何の役にも立ちません。不安は募るばかり。また新たな不安が襲ってきます。なぜならば、神様との関係性を失って、自分が主人になっているからです。
 ここに、神様不在の信仰生活がどれほど不安に満ちているか。主との繋がりを失った私たちの歩みがどれほど、その悪循環を生み出し、泥沼に落ちていくか。そのことを、このアブラムの失敗によって学ぶことができます。アブラムはどのように、主との関係を回復できたのでしょうか。
 
2.主の真実と訓練
 16~17節を読みましょう。
「パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」
 この一連のアブラムの失敗でまず被害を被ったのはサライを奪ったパロとその家族でした。ここがこの箇所の不思議な場面だと私は思います。てっきり、このあとアブラムに更なる不幸がおとずれると思いきや、災いはエジプトのパロの上に下されたのです。つまり、ここで主がこの事件に介入されたということです。「主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」と書かれているとおりです。
 主が介入されたので、結果的にアブラムはもうそれ以上罪を重ねなくて済むことになりました。そして、パロの口を通してアブラムを叱られ、目を覚ますように導かれたのです。18~19節。
「そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。『あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。』」
 パロはアブラムに開口一番。「何ということをしたのか。」原語のヘブル語的にもまさに「何だこりゃ、あんた」です。このパロの言葉は、もちろんパロ自身の本心であり、率直な気持ちが現れている言葉です。それほど、パロの受けたダメージは大きかったことがわかる言葉です。しかし、それだけでなく、神様はパロの言葉を通してアブラムの霊的な目が開かれるようになさったのではないかと思うのです。
 それが13章1節の行動に表れ、その結果として13章の3~4節によって証明されているのです。13章1~4節をお読みします。
「それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」
 このあとのアブラムの行動を見るときに、アブラムは失敗を経験したエジプトを出て、ネゲブに上ったと記されています。その上った先には何があるでしょうか。それは、12章8節でかつて「主のために」祭壇を築いて、主の御名によって祈った、あの想い出深い場所です。そこはアブラムにとって聖なる場所でした。その礼拝の場へと上って行くアブラムはどこで、そのように切り替わったと思いますか。どの場面でアブラムは自分の間違い。自分の的外れな姿勢に気づかされ方向転換したのでしょう。
 それは、この18~19節のパロの言葉ではないでしょうか。しかも、パロ自身も、そのダメージの原因がアブラムにあって、その不真実のせいでパロ自身が被害にあったと訴えているのです。
 アブラムのこの不真実は、もともとはパロに対してではありませんでした。ことの発端は、主に対して不真実な態度をとっていたところから始まっているのです。神様への不信仰が神様との関係に溝を生み、神様との関係の悪化が、更に隣人との関係悪化を生み出すのです。
 さきほど、私は以前電話工事の仕事をしていたと言いました。その電話工事の仕事は、ある意味、電話やインターネットを利用して、人と人を繋ぐ仕事です。私もそういう意味で、その仕事にやりがいと誇りを感じて従事していました。ところが、電話が普及して、インターネットが広がって、本当に人間同士が上手く繋がっているでしょうか。FacebookやLINE、インスタグラムなど私も使っていますが、本当に人間同士がそこで正しく繋がっているでしょうか。私はそうではないと思います。毎日、どれだけの人が電話を通じて詐欺にあっているでしょうか。毎日、どれだけの人が匿名の心無い誹謗中傷で傷つき、名誉を損なわれているでしょうか。毎日、どれだけの人が有害サイトの奴隷になっているでしょうか。
 決して、そういうものでは人間は正しく繋がれないのです。なぜでしょうか。それは、それを利用する一人ひとりがまず神様と繋がる必要があるからです。私たち人間は神様に造られた被造物です。そして、神様から命を与えられた人格的存在です。しかも、聖書には、神は人をご自身のかたちに似せて造られたと書いてあります。また、最初の人アダムは、鼻から息を吹き込まれて生きる者となったと聖書は言います。だから神様と繋がっていることが、つまり生きているということであり、すべての幸せにとって重要なことなのです。
 アブラムの主への不真実がパロとの関係によって表面化したということです。ここで主が介入されたことで、妻サライは難を逃れて、夫アブラムのもとに帰ることになりました。20節を読みましょう。
「パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。」
 パロは、もうアブラムと関わるのはこりごりだと言わんばかりに、サライだけでなく、アブラムに渡した多くの家畜や奴隷もすべて、アブラムに関わったすべてのものを送り出させました。更なる災いを恐れて、丁重に送り出したのです。恐らくパロの気持ちはアブラムの追放だったでしょう。しかし、露骨に追放ではまた災いを受ける可能性があります。それで、部下たちに命じて送り出させたのです。
 結局、アブラムは財産を増やしてカナンの地に戻ることになりました。ネゲブの地が飢饉だったことから始まった事件でしたが、最後はそういう困難の中にあっても、飢えに苦しむどころか財産が増えてカナンの地に戻ることになった。
それだけ観ると、今日のお話は、結果オーライで失敗を恐れずどんどん進もうということになります。しかし、それは真実ではありません。アブラムがしたことだから私たちも同じようにしても良いという話ではありません。信仰の父アブラハム(アブラム)がしたことを学ぶのではなく、主がアブラムに何をしてくださったか。主がアブラムをどのように扱われたかを学ぶ必要があるのです。そして、それに対して、アブラムがどうしたかを観ることによって、この出来事を主は、何のためにどのように用いられたかを知ることができるのです。
 

結び
 今日の箇所から学ぶことは、三つあります。
 まず一つ目は、私たちは順風満帆のときこそ注意せよということです。神様との関係の中で、恵みの立場を忘れずに覚えていきたいものです。私たちも、アブラハムの祝福を相続するものとされています。それは、私にその価値があるから、何かの功績によっていただいてあるものではないのです。それは、ただイエス様の十字架と復活の恵みのゆえです。その契約に与っている恵みに感謝していきたいです。
 また二つ目は、そういう自分の不信仰のゆえに泥沼化しているときに、介入してくださる主の恵みの御業を見逃すなです。私たちが道に外れてしまい、墓穴を掘るような歩みに陥っているときに、主は必ず介入してくださり、様々な方法で教えてくださいます。その機会を十分に生かして悔い改めたいと思うのです。その方法は様々です。今日の箇所のように、アブラムがパロの言葉によって心が切り替わったように、クリスチャンではない人の言葉を通して知らされることもあるかも知れません。ただし、その裏づけとなるのは神のことばである聖書です。聖書から外れているかどうかの検証は当然必要です。
 三つ目は、その失敗を無駄にしないで、主との愛の関係を深めるために生かせです。アブラムは確かに失敗しました。しかし、それがわかった時点で、方向転換して。つまり悔い改めて、祭壇がある場所へ上っていきました。そして、そこで主の御名によって祈ったのです。新改訳2017では「主の御名を呼び求めた」となっています。それは、12章8節も同じ言葉です。つまり、アブラムは主を呼び求めて、主との関係を回復したということです。私たちも、起こしてしまった失敗は失敗として、主の前に悔い改めて、主の御名を呼び求める者でありたいと思います。
 今週も、私たちの毎日の歩みがまさに失敗の連続かも知れません。しかし、そういう自分を認めて主に祈りましょう。私たちの祭壇である十字架に戻り、失敗を通して訓練し、学ばせてくださっておられる主の御心に耳を傾けていきたいと思います。