のりさん牧師のブログ

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2022年10月9日 白石教会礼拝

説教題 「平和を願い、それぞれの道へ」
聖書箇所 創世記33章12節~17節
 
 
序論
 今、ともに読み進めている創世記のヤコブの歩みの中で、ヤコブは兄エサウとの争いから逃げずに、向き合うことを選び取りました。そのためには、20年の歳月と物理的な距離も必要でした。しかも、その長い年月の中で、ヤコブ自身が神様と出会い、神様によって造り変えられていく必要がありました。自分の罪深さに、伯父さんのラバンを通して気づかされ、そのような者に関わってくださる神様の憐みに打たれたのです。神様との格闘で腿の関節が打たれたというのは、ヤコブの心が、神の愛によって打たれたとも言えるのではないでしょうか。
 
 しかし、そのように神様からいただいた大きな憐みの恵みは、今度はエサウに対して用いられて、エサウとの和解、つまり平和づくりに繋がっていきました。それは、まさに先ずヤコブと神様との和解がもたらした人と人との間に実現した神様の平和です。ですから、私たちも、神の子どもとされたという大きな恵みによって、その平和を多くの方々に与えることができる。そのことを前回までのところで学びました。
今日の箇所は、その続きです。奇蹟的に感動的な再会を果たしたヤコブと、ヤコブを受け入れたエサウのその後の姿を今日は追って行きます。
 
 
1.さあ、旅を続けて行こう
 12節~14節を読みましょう。
エサウが、『さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう』と言うと、ヤコブは彼に言った。『あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。』」
 
 ここでエサウは、一緒に自分の町に行こうと弟ヤコブを誘います。昔は憎かったが今は、過去の罪を赦し、涙の再会を果たしたからです。日本の時代劇であれば、こんな劇的で奇蹟的、感動的な再会を果たしたならば、もうここで一件落着です。「このあと二人は幸せに暮らしたとさ」と、そのドラマは終わるでしょう。
 
 でも、このときのヤコブの様子は、エサウほどの高揚感はありません。あの放蕩息子のお話を彷彿させるような感動的な再会の場面だったにも関わらず、ヤコブの様子が少し消極的に見えます。兄エサウが「さあ、旅を続けて行こう」と意気揚々に誘ってくれてはいるけれども、行きたくなさそうな空気が伝わってきます。ヤコブは決して一緒に行かないとは言ってはいない。きちんと「あなたのところ、セイルへまいります」とは言っている。その中で精いっぱいの言葉を選んで、エサウの申し出をあからさまに拒否しないように努力しているのが伝わってきます。
 
 やはり、ヤコブは、エサウが暮らしているセイルに立ち寄っているよりも、先を目指したかったようです。それには、いくつかの理由が考えられます。まずは、老いている父イサク、母リベカに早く会いたかったのかも知れないということです。または、石を枕にして寝ていたときに神様にお会いした、その場所ルズ(のちにベテルと命名)と呼ばれるその地に行って、早くその場所で神様を礼拝したかったからとも言えます。
 
 しかし、今日のお話の後半から次回の箇所を先回りして見ると、先を目指したかったにしては、寄り道していることに違和感を覚えます。確かに、ラバンと別れてから、目指すは故郷であったわけですが、この後の歩みを見ると、先を目指していただけではない、他の理由があったのかも知れないことがわかります。
それは、やはり、もしエサウと行動を共にして、そこに滞在することになったときに、どのようなリスクがあるか、ヤコブは考えていたと推察できます。エサウとの平和を考えていくときに、この感動的な再会も、今は良いかもしれないが、また、時間が過ぎていく中で、一緒に行動することが必ずしも良いとは言えないのではないか。
 
 それでヤコブの心は揺れていたのです。確かに兄エサウとの和解は感謝なことでした。でも、その平和がこの後も永続的に続いていくためには、一緒にいては良くないのではないか。そう思ったのではないでしょうか。しかし、せっかく嬉しそうに、感動してヤコブを受け入れてくれているエサウの気持ちを逆なでしたくない。そういう思いから、エサウに失礼にならないように、関係が壊れないように言葉を選び、配慮したのではないでしょうか。
 
 私たちも、このヤコブの姿勢に学ぶことができます。人との和解、関係づくりをするときに、丁寧な言葉遣いは大切です。平和づくりを言葉遣いから始めることは重要な実践ではないでしょうか。
 イエス様も、人との関係づくりにおいて、その声のかけかたやタイミングを大切になさっておられました。あのサマリヤの女との場面では、ユダヤ人からは嫌われていた上に、何度も男性を取り換えるような生活を繰り返していた女性に対してイエス様は、その罪を真っ先に指摘せずに、おっしゃった最初の言葉は「わたしに水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)でした。しかし、そのあとの彼女とのやり取りを見ていると、その女性の罪を主はよくご存じで、上手に言葉のキャッチボールをして、最終的に、サマリヤの女の方の渇きを自覚させていくのがよく分かります。
 
 イエス様は、相手との距離を見極めることと、どのような言葉をかけていくのかという事に関しても、絶妙なお方です。でも、そのことは、イエス様だからできるのであって私たちにはできないことでしょうか。福音書を通して主が歩まれた様子が記録され、主が語られた言葉が残されているのは、その教えに聴き従うだけではなく、そのように生きることに、弟子である私たちのこの地上で救われ、ここに置かれている意味があるからです。ですから、主の関係づくりにおける言葉遣いをも私たちは主イエスから学ぶのです。
 
 ヤコブが、ここでエサウに対して丁寧な言葉を選んだことは、やはり、これまでの神様との交わりの中で与えられた賜物でしょう。私たちも、同様に主イエスと一つとされたその平和の恵みを、まさに神の子どもとして、その言葉遣いをもっても実現できるのです。
 
 
2.エサウはセイルへ、ヤコブはスコテへ
 このあとエサウは、16節に「その日、セイルに帰って行った」とあるように、ヤコブを残して帰って行きました。エサウは、きっとヤコブが自分に付いて来ると思っていたでしょう。でも、「ヤコブはスコテへ移って行き」と17節にあるように、ためらわず故郷へのルートに戻っています。このあとのエサウのことを考えると気の毒な気持ちになります。きっと、セイルと言う町に帰って、弟家族が来るから歓迎会しようなどと言って用意しているにも関わらず、ヤコブは来ない。その様子を思うと可哀そうな気もしますが、この選択はヤコブにとって、最高の方法ではないけれども、このときできる最良の平和づくりであったと評価できます。
 
 最終的に、ヤコブが取った行動は和解したエサウと同じ道に行かず、別な道を進んでいったということです。ここで、この33章のヤコブの行動をおさらいすると、ヤコブエサウとの平和づくりのために、三つのことを行ったことが見えてきます。
 
 一つは、先週の箇所の33章3節でヤコブが「七回も地に伏しておじぎをした」ことや、6節、7節でも、ヤコブの女奴隷や子どもたち、そして妻のレアもラケルも「ていねいにおじぎをした」ことです。ここにヤコブエサウへの態度、姿勢においてへりくだって、その姿勢を通して平和づくりをしています。この短いところに「おじぎをした」(ひれ伏した)と4回も書かれています。
私たちも、いくら言葉遣いが丁寧でも態度が偉そうだったら伝わらないでしょう。山上の教えや御霊の実の中に「柔和」という言葉がありますが、この柔和こそ、へりくだった人の姿勢を表わしています。元来、ギリシア・ヘレニズム文化の中で、柔和という姿勢は「ぺこぺこしている、へつらっている、おもねる」という意味もあって、良い品性には数えられていなかったものです。
しかしイエス様の山上の教えでは、貧しい人、悲しい人、飢え渇く人という、人間の常識では絶対に幸いだなんて言えない状態の一つとして数えられています。しかし、そういう者が神の国にふさわしいのです。柔和な人が地を受け継ぐとイエス様は言われました。
 
 そして、二つ目は、今まで述べて来たように「言葉遣い」における平和づくりです。態度、姿勢が伴う丁寧な言葉遣いが平和を育てます。柔和な態度と丁寧な言葉はセットです。
では、三つ目は何でしょうか。それは、「ヤコブがスコテへ移って行った」ということから判るように、あえて違う道を行くことを選んだのです。それは、エサウとの平和な関係を維持するためです。ここが、私たち「平和をつくる者」にとって、どのような一歩を踏み出すのかというチャレンジだと思います。
 
 平和をつくる者は平和を祈るだけではなく、実際に実現していくために行動する者だからです。白石教会の信仰告白に「平和づくり」という項目があるのをご存知でしょうか。いずれ、このテーマでも教理説教をする予定ですが、今日のところはヤコブの行動として注目します。
白石教会の告白はこうです。
「平和は、神の御心です。神は、平和な世界を創造されました。神の平和は、イエス・キリストにおいて完全に現されています。私たちは、争いの絶えない時代にあって、キリストに従い、聖霊に導かれて平和と和解の道をたどり、正義をなし、非暴力を実践します。」
 
 だから、私たちは現在まで続いているロシアのウクライナ軍事侵攻を悲しみ、一日も早く終わるように祈っています。しかし、その現実に何をもって、平和の実現ができるのか。非常に難しく思います。
 
 それは、平和のために、せっかく国境を設けて、他の国との距離をとっていても国際連合という組織を設けても、そこに本当の平和はないからです。それは簡単にその決めごとを破る者が現れるからです。私たちは信仰告白で「神の平和は、イエス・キリストにおいて完全に現されています」と告白していますが、神様が遣わしてくださった、その神の平和そのものであるキリストをこの世、つまり私たち人間は受け入れず、彼を殺したとおりです。
 
 ここに、この地上における平和実現のジレンマを見ます。つまり、私たちがこの地上で、いくら非暴力を訴え、非戦を唱えても、この世の悪は増大し、真の平和をつくろうとする働きを脅かしているということです。このどこに解決があると言うのでしょうか。ウクライナへのロシア軍の蛮行も、私たちには止められないのではないか。そんなあきらめのような気持すら起こって来ます。
 
 
結び
 では、「剣を取る者は皆剣によって滅びる」と言われたイエス様のみことばは空しいことばだったのでしょうか。それは、理想に過ぎないのでしょうか。
そうではありません。もし、主が十字架に架けられて殺され、そのまま墓の中で腐り、朽ち果ててしまわれたのならば、そのような失望で終っても仕方ないでしょう。
 しかし、主は、墓からよみがえられたのです。そして今も生きて、ご自分の名のゆえに、世界の民を一つにしようと働いておられるのです。今日、向谷聖子姉が洗礼を受けられたのは、キリストが今も生きて、神の国を建て上げておられる証拠です。そこに真の平和が始まっているからです。
 
 今日、これから賛美する讃美歌21-393「心を一つに」は、決して単なる理想を掲げただけの賛美歌ではありません。かつてアブラハムの子孫によって諸国の民が祝福を受けるという救いの契約が、その子孫としてお生まれになったイエス・キリストによって成し遂げられると聖書に書いてあるからです。
 
 目指すべきは、平和のための唯一の道であるキリストを受け入れること。このお方が、私の罪のため、あなたの罪のためにいのちをささげてくださった、その罪の贖いを受け入れる。それはそこに真の神の平和が始まるからです。一人ひとり、そのキリストの福音に生きるならば、その一人ひとりの神との平和が、主にあって一体とされます。それを教会と言います。そうです。教会が真の平和を証しする前線基地なのです。
使徒パウロは、コロサイ教会の信徒たちにこう言いました。
 コロサイ3:15「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」
 
 キリストは平和の君として、私たちのところに来てくださいました。そのイエス・キリストご自身が真の平和として、私たちに与えられました。それは、そのキリストを信じて、私の心にあなたの心に、また相互の間に真の平和が訪れるためです。そのようにキリストの平和を持つ人たちで地が満ちることこそ、真の平和の実現です。
 
 そのために、私たちキリスト教会はこのお方を宣べ伝えます。それで今日、神様の導きの中、一人の姉妹がイエス・キリストと結び合わされて洗礼を受けました。
 まさに、このことが平和をつくること、平和の実現への一歩なのです。平和を願い、それぞれの道に行っていた者たちが、唯一の道であるキリストに結び合わせられ一体となる。ここに真のシャロームがあるからです。