のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

黙想:主の家に住む幸い

"一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。"
詩篇 27篇4節

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この詩篇古代イスラエル王国の王となった「ダビデによる」と標題がついている。そのダビデ王が一つのことを願ったという。

 

その願いというのは、一生涯、主の家に住むことである。それは、ただひたすら、唯一の神である主で想いをいっぱいにすること。

 

私たちは様々な雑念に支配されやすい。雑念が私たちの神となっていることの多いものである。その中で、心配ごとがミルフィーユのように、それぞれの雑念の隙間に入り込んでくる。

 

そこには不安しかない。もしくは、現実逃避して問題を見て見ぬふりをするかも知れない。それでは、真の意味で不安はなくならず、実は雑念に挟まっている心配というエネルギーが増幅して、しまいには自分自身が壊れていくことになる。

 

しかし、そこに神である主を置き、主に目を注ぎ、主を想うなら、あなたの神は雑念でも心配ごとでもなく、あなたを愛し、日々生きる力をくださる主だけにされる。

 

そのとき、私たちははっきりと分かる。これまで、何をしてもスッキリしない。何をやっても不安でいっぱいだったが、その原因であった心の隙間が主によって埋められることを。

 

そう。私たちの不安は、実は神不在とイコールなのだ。ダビデ王は、彼の人生の中で、多くの不安を覚える時期を過ごすが、ダビデにとって、どんなときでも、どんな場所にいても、彼にとって主に目を留め、主のことだけを思い巡らす時こそ真に生きているいのちの平安を味わったのである。

 

ダビデは、彼の詩篇でこのような詩篇も残している。

 

"主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。"
詩篇 23篇3節

そう。主は私たちを殺すのではなく、生かすお方。罪ではなく、義の道に導かれるお方。このお方があなたの神であるならば、もう恐れることはない。

 

敵の前にあっても、そこで食事ができるほどの余裕と平安を与えてくれる。

 

だから、今朝私たちもダビデのように願い、祈りたい。

 

"私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。"
詩篇 23篇5~6節