のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●主に身を避ける人:詩篇64篇

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詩篇 64篇
指揮者のために。ダビデの賛歌。
1,神よ私が嘆くとき私の声を聞いてください。敵の脅かしから私のいのちを守ってください。
2,どうか私をかくまってください。悪を行う者どものはかりごとから不法を行う者どもの騒ぎから。
3,彼らはその舌を剣のように研ぎ澄まし苦いことばの矢を放っています。
4,全き人に向けて彼らは隠れた所から射掛け不意に矢を射て何も恐れません。
5,彼らは悪事に凝っています。示し合わせてひそかに罠をかけ「だれが見破ることができよう」と言っています。
6,彼らは不正を企み「企んだ策略がうまくいった」と言っています。人の内なる思いと心とは底が知れません。
7,しかし神が彼らに矢を射掛けられるので彼らは不意に傷つきます。
8,彼らは自らの舌につまずきました。彼らを見る者はみな頭を振って嘲ります。
9,こうしてすべての人は恐れ神のみわざを告げ知らせそのなさったことを悟ります。
10,正しい人は主にあって喜び主に身を避けます。心の直ぐな人はみな誇ることができます。

 

  この世にあっては、どんな人にも敵、悪を行う者、不法を行う者がいます。それらの者は、私たちを脅かし、いのちを狙っていることがあります。また、彼らの口には苦いことばがあり、剣のように研ぎ澄まして、矢のように私たちの心に刺さってきます。

  私たちがどんなに警戒していても、その苦いことばが不意に、またひそかにやって来ます。その悪事は底知れず、その悪事の方が私たちよりも勝り、信仰者の心は挫かれます。

  それが、この世に置かれた信仰者の宿命かも知れません。なぜなら、その敵の背後には、その悪をもたらし支配する悪魔の存在があるからです。

 

  しかし、私たちは失望することはありません。なぜなら、私たちの神が私たちに代わって彼らに報復されるからです。私たちには神がおられるのです。この罪の世にあって、私たちは苦しみます。しかし、いつも神に「御国が来ますように」と祈るように、神の国は、今、この世にあっても私たちのいる場所に実現することを体験できるのです。

 

  神の国とは、やがて訪れる完成された新しい国ですが、同時にその神の王国は、神の完全な支配のことでもありますから、この世においても、また私たちの置かれている状況が、たとえ地獄であったとしても、神が共におられるなら、そこは既に神の国なのです。

  その中でダビデは断言します。

10節

「正しい人は主にあって喜び

主に身を避けます。

心のすぐな人はみな  

誇ることができます。」

 

  今日の詩篇で、ダビデは信仰者について三つの言い方で表現しています。

第一に4節。「全き人」

第二に10節前半「正しい人」

第三に10節後半「心の直ぐな人」

 

これらの言葉は全て、この詩篇の冒頭に出てきた悪者たちに対応しています。

1節「敵」

2節「悪を行う者ども」

同節「不法を行う者ども」

 

  では、具体的にどんな人が「全き人、正しい人、心の直ぐな人」なのでしょうか。それは10節にあるように、どんなときにも「主にあって喜び、主に身を避ける」人ではないでしょうか。

  私たちは、もともとこの世の者であり、この世の常識、この世の支配者である悪魔の下にありました。ですから、私たち自身が神の敵であり、悪を行う者どもであり、不法を行う者どもだったのです。しかし、今、この世から救われて、主にあって全き人、正しい人、心の直ぐな人とされたのです。

  ここに神の恵みの偉大さを知らなければなりません。私たちは、本来ならば神の敵として、さばきを受けなければなりませんでした。しかし、今、不思議な神のご計画の中で神の民、主の弟子とされたのです。

  その大きな恵みに立つならば、いつも主にあって喜び、自分で復讐せずに、ただ主に身を避ける者として歩むことができるのです。それが全き人、正しい人、心の直ぐな人の生き方です。

  今日も、ぜひ主にあって喜び、主がどうして私を、そしてあなたを選んでくださったのか。その憐れみを覚えようではありませんか。そのとき、その思い、その信仰から来る感謝こそ、主に身を避けることなのだと知らされるからです。

 

"味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。
主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。"
詩篇 34篇8~9節