のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

キリストの招き

"すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。"
マタイの福音書 11章28節

教会の屋外掲示板に見る聖書のことばで、今朝の「みことばの光」の箇所にあるこの聖句は最も多く使われているのではないでしょうか。

それは、神の御子であり救い主であるお方ご自身のことばであり、そのお方が招いていることばだからです。

 

このみことばには、私たちこの世を歩む者たちの現状が語られています。

それは「疲れている」私たちであり「重荷を負っている」私たちであるということです。では何に疲れているのでしょうか。またどんな重荷を負っているのでしょうか。

 

「私は疲れてなんかいないし重荷など負っていない」という方がおられるかも知れません。しかし、イエス・キリストが言われていることばは真実を見抜いています。それは「すべて」ということばにあるように、例外なくあなたのことも私のことも含んでいて、その私たちの現実の姿を指摘しているからです。

 

 私たちはみんなこの世に置かれて生きています。この世とは人間の罪により歪められた罪の世界であり、すべて罪の呪いの中にある世界という意味です。聖書によれば、かつて神様によって造られたこの世界は「大変良かった」世界でした。しかし、人類の祖先であるアダムとエバは神に背き、神の言葉よりも自分たちの言葉を優先して堕落しました。

 

その時、神様はアダムにこう言われました。「大地はあなたのゆえにのろわれる」(創世記3:17)

それ以来、この被造世界は私たち人間に対して牙をむき、苦痛を与えるものとなったのでした。つまり、私たちにとって生きづらい世界となり、死が始まって、この死という恐怖が私たちを支配し、生まれた時から死ぬためにある人生となってしまったのです。

 

だから、この世界で生きようとするとき、私たちは疲れるのです。お金を稼ごうとすればするほど、お金は去って行き、得ても得ても満たされないのです。人を愛そうとは思うが、そこに利己的なものしか見出せず、また自らにも限界を覚え、人を真実に愛せない現実に疲れ果てます。人が自分を理解してくれず、愛してくれないことに悲しみを覚えます。

 

つまり人生そのものが私たちの重荷であり、正しく生きようとしてもそう出来ない罪の現実にもぶち当たるのです。人生お先真っ暗とはよく言ったものです。

 

だから、そのような私たちだからこそ、神様が造られたときの本来の人間としての生き方に戻し、神不在の人生ではなく、神がともにおられ、永遠までその祝福に与れるようにと、イエス様が来てくださったのです。神様と私たちの間に横たわっている「罪」という大きな淵をキリストはその血潮をもって架け橋となられたからです。

 

それが十字架の死による罪の贖いであり、復活により現された罪と死からの勝利です。罪を悔い改め、このキリストの救いの業が私のためであったと受け入れるときに、私たちは罪赦されて神の子どもとされ、それまでの罪の呪いは消え去り、キリストによる本当の休息を味わうのです。

 

「わたしがあなたがたを休ませてあげます」とは、そういうことなのです。あなたもぜひ、あなたのために死んでよみがえったキリストの招きに応えて、神の子どもとなって、この罪の世にあっても、真の休息を得て、神様への感謝と喜びに満たされた人生をともに歩ませていただこうではありませんか。