のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

余計な出費の痛みに見る罪の精算の恵み

先日、旧宅から新居へ引っ越しをしましたが、それでも多くのゴミが残っていました。結果的にそれは業者に頼んで、ほぼ処分したのですが、引越し後にも関わらず、そのゴミの量は2トントラック2台分もあったのです。

 

実はゴミとは言い難い新品の物も多くあり、新居へ運びきれなかった多くの物品の山でした。いくつかをリサイクル業者へ持って行きましたが二足三文で、そんなに期待していたほどの金額では引き取ってもらえませんでした。

 

結局、ゴミ屋敷でも片付けてくれる業者に来てもらうしかなかったということです。

 

ただ、その金額が顎が落ちるほどの金額で、他にも相見積もりすれば、まだ安いところはあったのでしょうが、私も引越しだけでかなり疲れており、それで済むならば仕方ないこととして受け入れるほかありませんでした。

 

今回のこの片付けに多額の費用が発生し負担したことを通して、私たちの罪の問題と重なることを思わされました。

 

私たち夫婦だけの生活で4LDKの牧師館に住み、この6年間で知らないうちに増えていったゴミの山は、まさにいつの間にか、様々な罪を溜め込み、手のつけようがなくなっている私たちの姿であると言うことです。

 

いつも神様の前に出て悔い改めて罪の精算をしていないと、ある時に、その罪が膨らんで、大きな損失を経験してしまい、挙げ句の果ては、神のさばきに会うのです。それはお金の問題ではなく、払い切れない途方もない罪の負債となってしまうということです。

 

しかし、今回の費用はほぼ、退職金と同額であり、それは神様からの助け舟があったことでゴミをすべて廃棄できたと言えます。それはまさに私たちの罪の精算を御子の血潮によって支払ってくださった救いのようです。多額の費用を支払うことは、たとえ退職金を充てたとは言え、大きな痛みがあります。

 

それは御子が代わって私たちの罪を負って死なれたことと同じです。御子が罪を負ってくださったので私たちのさばきは免れたものの、御子の血が流された以上、私たちがそのことを思う時に痛みを覚えるように、私も多くのゴミを自分で片付けずに済んだ分、大変楽ができたのですが、その代償は大きかったと言わざるを得ないのです。

 

このことを通して、神による贖いの業がどれほどの恵みであり、そこにある神の痛みをあらためて考えることができました。決して自慢できる話ではなく、隠して置きたいほどに恥ずかしいことですが、そこにも神の御心が示されていたのです。

ただ、ただ、私たちの主なる神にのみ栄光がありますように。

 

"キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。"
テモテへの手紙 第一 2章6節